冬晴れの野尻湖 中勘助の詩碑。
日中よく晴れた本日日曜日、午前8時半過ぎに家を出て野尻湖へ行った。なぜ野尻湖かというと、確固たる理由もないが、昨年12月から読み始めた中勘助の小説「銀の匙」が野尻湖で書かれた事を知った事があった。
作年12月に一度野尻湖行きを試みたが、途中寄り道して失敗、その日は断念していた。あれから一月余り、雪は無く本日の空は快晴、冬の野尻湖は如何ばかりかと車を駆った次第。
柏原駅からオレンジ色の川中島バスに乗ると、ここにあったグラウンドが終点だった。いつも泊まった藤屋旅館まで歩いて2,3分の懐かしい所なので寄り道した。
(調べましたところ、現在は信濃町公民館の野尻湖支館ということです)
たまたま寄ったにも拘わらず、一角になんとまあ中勘助の立派な詩碑があり、驚きかつ嬉しかった。「銀の匙」は興味深く、既に二回読了し三回目を読み始めた所。すっかり虜になってしまい、この先ずっと愛読しようと決めている本。
その著者に対して、野尻湖の人びとは碑をこしらえ顕彰していることに感動した。
「銀の匙」前篇は明治44年と45年の夏に、野尻湖にある枇杷島の神社に籠もって執筆されている。小説は明治中期に於ける繊細多感な幼少から思春期にいたる私的な生活史の形で著されている。
弱くて驚くほど繊細なこどもとして、特に伯母の庇護のもと大切に育てられる主人公。明治中期頃の子どもの世界が何ともあどけなく美しく展開する。
雨が降っているだけで、あるいは海の波音を聞くだけで悲しくなって泣くような、主人公のあまりのこまやかさ。これは普通の子では無い、もしかしたらまれに見る美少年だったのではないか、と確かな理由もなく想像した。
成長するに従い背が伸び、抜きんでて強くなるのだが、スマートで外国人のようになった、という話がある。老年の写真などは俳優を思わせる渋さが垣間見られている。
大人も放っとかない美しいこども、、、(本人はただの一言も言わないのだが)。静かで敏感なうえ黙っていてもモテた男性を一人二人知っている。だが不思議な事に彼らの奥底は悲しげで孤独そうに見えるのである。
氏の本はまだ「銀の匙」一冊だが、読みながらこの人はそのような人間の極みだったのではないか、と感じている次第。
野尻湖の詩文も寂しい内容で、中氏らしくて良かった。
中氏と「銀の匙」と野尻湖のことが書かれている。
碑は昭和48年、公民館完成を記念して建立されたという。
詩は野尻湖の執筆後、十数年経って再訪した時のもの。ホホジロの声を聴くと昔が懐かしい。過去も今もこの先もまた自分は一人、ずっと一人のままであろう、というようなことが謳われている。短い詩の中で、ひとりという文言が四回も続いて現れる。
湖畔に向かった。
当時の面影はないが、本日の藤屋旅館。
松の木は往時のままのような気がする。すぐ前が湖と桟橋。
藤屋さんに一泊し、信州味噌の味噌汁に野沢菜漬けとワカサギのテンプラを食べた。ここで出される家と違う食べもがとても楽しみだった。
湖でボートを漕いだり、あるじのモーターボートに乗せてもらったりして帰る。1年に一回、高校生のころまで野尻湖行きが続いた。
小学時代、皆で柏原駅まで歩いたことがあった。道すがらある看板を見た姉が
「あっ、この家〝王子売ります〟って書いてある」と言った。
玉子が王子と書かれていたのだ。
私は何とかそれが分かったので、一生懸命笑った。
長野県の人は黒姫を背負った野尻湖と言い、新潟県の人は妙高を背負った野尻湖という。気持ちは良く分かり、野尻湖はまれに見る風光明媚な所だと思う。
中勘助が訪れた明治末の野尻湖は訪ねる人も無かったらしい。中氏は一種放浪の途中でやって来て気に入り、島に籠もって本を仕上げたという。
※書き始めは日曜日でしたが、終了が日付けをまたいでいました。
申し分けありません、文面上日曜日掲載と致しましたので御了承下さい。
穏やかな日中、クリスマスローズの葉切り。
本日日中うす曇りで穏やかなまま過ぎた。
雪が無いのでいつも庭が丸見えである。見るたびに庭の仕事がありそうで落ち着かない。
予報は2月も雪が少ない見通しを伝えている。そこで懸案のクリスマスローズの葉を切ってみた。
切り終えた葉っぱの山。
あと半分以上残っているが、残りはそのまま様子を見ることに。
現れた花芽や蕾はこざっぱりした感じ。開館前に花が開くのではないだろうか。
暖冬とはいえ、このさき何度か雪が降ることだろう。
あまり降られるようならその時は袋を掛けてやりたい。
ほかに本日は2メートルばかりのカエデを一本、50㎝のヒュウガミズキ二本植えた。
明日は晴れの予報。
カエデをもう一本、小さなツツジの苗4本を植え、猛烈な勢いで芝生に進出している青々とした雑草に手を付けてみるつもり。
冬の半分が終わる昨今の卓上 気になる新型肺炎。
暦上の冬が半分過ぎた。
春は待ち遠しいが長くお世話になった人が去ることがあり、一概に楽しみばかりとは言えない。
雪が少ないとはいえこの時期、昔のドカ雪が思い出されやはり冬の本番というイメージがある。
そんな折、卓上にのぼった二三の食べ物を載せてみました。
お世話になりました、と訪ねて来られた方から頂戴したお菓子「福ハ内」。
節分向けのお菓子。一つ二つ食べてしまった写真です。
パッケージは豆撒きで用いる枡、お菓子はお福豆のイメージだという。桃山だがコーヒーにも合って美味しく頂きました。
上越を気に入っていると仰っていたご家族の皆様。どうかお元気でいて下さい、またお会いできることを楽しみにしています。
かって往診をした農家の奥さんが作っているという月餅。
本格的なお菓子をどうやって作るのでしょう。
色々な腕前を有している方がいるものだ、と感心しました。
越の雪というお菓子。
雪という字がつくと一段と上等な感じになる。
樹下美術館うらの土手付近の庭で採れたフキノトウ。
どなたかに採られたのか、小さいものばかりでした。
毎年頂いているギンナンとのテンプラは良い香りがしました。
シラスが入ったサラダ。
シラスは春が旬らしいのですが、それとは関係無くよく食べます。
中国の新型肺炎(武漢肺炎)の報道が止まりません。春節の大移動、医療従事者の感染、海外の発症例、厄介なコロナウイルス、確実な治療法が無いなど、目に見えない相手だけに緊張します。
一方みている範囲のインフルエンザは大人の罹患者が多くなっている印象があります。まず自分が用心しなければと思っているところです。
雪の無い冬 柏崎の原惣右衛門工房と刈羽の吉田隆介氏の花入れ 良い作品と作者。
1月の下旬になったもののさっぱり雪が降らない、一体どうしたことだろう。
雪がないのは当地だけではなく全国的な現象らしい。80、90才の人に訊いても、こんなのは初めてだと仰る。
在宅訪問や往診は楽だが、何か騙されている気がしてしっくりしない。
さて1月上旬に二回柏崎刈羽に行き、天神様めぐりをした。行程で鋳物の原惣右衞門工房と陶芸家・吉田隆介宅を訪ねて天神様飾りを楽しんだ。
そのおり作品を拝見したがいずれも魅力的だった。その中から以下の作品を購入させて貰った。
原惣右衞門工房の鋭い四角錐の鋳物花入れ。
長くこの手の花入れを探していた。
ざっくりした風合いが何とも言えず、一輪の花と大変相性が良い。
陶芸家吉田隆介氏のうねりをもって尖った花入れ。
赤く散らした斑点が楽しく、サザンカや冬枝と映え合っている。
ヒマワリやダリアなど大きな花も受つけそうだ。
いずれも偉ぶらず、周囲を和ませ相手を生かす作品であり、案の定花をいれると良い風情を醸し出した。
私の拙い経験から、作家と作品について以下のように思うことがある。
〝およそ良い作品を作る人は偉ぶらず、人を幸福にしようと一生懸命だ。良くない作品の人は偉そうにしたがり、作品よりも自分が前に出てどこか品が無い〟
作品と人柄は互いに似ている。
ところで今年の樹下美術館は毎月第四日曜日に、隣の家の四畳半の間でお茶のお点前をして皆様に呈茶のサービスを予定しています。
1回8名様まで、午後2席を考えているところです。宜しかったらお気軽にお立ち寄り下さい。本日掲載しました花入れも掛けたいと思っている次第です。
実業之日本社の創業者増田義一のパネル展を観てきた。
昨日一昨日と書かせて頂いた「下北半島の風」はネット検索で探した本でした。
著者は上越市出身の第三回芥川賞作家・小田嶽夫、挿絵の倉石隆は上越市出身で樹下美術館の常設展示作家でした。さらに届いて初めて実業之日本社発行だと知りました。
ところで本が届いた後、実業之日本社の創業者増田義一は上越市板倉区出身で、現在上越市ミュゼ雪小町で氏の生誕150年パネル展示会が行われていることを知ります。みな上越市出身者の本、そしてパネル展。四つもラッキーが重なり、さっそく19日日曜日に増田義一展を観に行きました。
以下当日の飛ばし飛ばしの概要です。
誠実で勤勉な人柄からのこと、会社設立のいきさつ、関わった人々、家族などが詳しく紹介されていた。
1869年(明治2月年)10月21日生まれの増田義一は、幼少から親が心配するほど勉強が好きだった。12才!で糸魚川市内の小学校で代用教員になるも、若くして両親を亡くし苦学する。20才で髙田新聞社に勤めると政治に関心をもち立憲改進党に入党。
髙田新聞の勤めを終え上京し、東京専門学校(現早稲田大学)に入り、大隈重信の門下生となったことから人生が大きく開けていく。学校卒業後、読売新聞社に入社、この間、髙田早苗、渋沢栄一、岩崎弥太郎など著名な政財界人の知己と信用を得る。
明治30年、読売新聞時代に参画した大日本実業学会を実業之日本社とし、その主宰となる。〝実業〟という言葉の斬新な概念は人々に受け入れられ、出版の工夫と相俟って読者は拡大する。
当時神とまで呼ばれた国際的な思想家・新渡戸稲造を顧問に迎えた増田義一。
大隈、渋沢、岩崎ら財界の要人の寄稿は多大な力があった。さらに書店に対し委託返品制度を導入し、売れ残りの節約に貢献、発行部数は飛躍した。また地方の青年を対象に新たな意識と道を開くため、書籍による通信講座を開設。
堅い書物のほか、女性と青少年に向けた雑誌「婦人世界」「日本少年」は人気となった。
1915年(大正5年)4月の雑誌「日本少年」
大正ロマンの気風によって繊細な少年が描かれている。
実業家であるとともに清廉潔白な政治家として衆議院に8回当選し衆議院副議長も果たしている。
家族とともに。
こどもたちには主体性を重んじ平和な家庭を築いていた。
1946年(昭和21年)45年間の社長生活にピリオドを打ち、1949年79才で亡くなった。平成になり社名は「実業之日本社」から「実業の日本社」になり、生活向け、青少年向けにも注力し今日に到っている。
このたびの「下北半島の風」は創作少年少女小説シリーズであり、巻末に以下に要約した出版主旨が記されていた。
〝優れた文学作品は、たった一つの生涯の生き方を考えさせ、人の成長に役立つ。過去の名作に加え、現在活躍している作家の優れた作品も取り上げて届けたい〟
函付きのハードカバー「下北半島の風」は品物としても良い本でした。
2017年11月に樹下美術館が発行した「樹下美術館の倉石隆」と「樹下美術館の齋藤三郎」が並んでいた。日焼けもせずに頑張っているのを見て有り難いと思った。
貴重な展示を有り難うございました。撮影OKと言うことも助かりました。
本日午後の在宅回りのお宅で黄色の花を見た。蝋梅(ロウバイ)だった。
「下北半島の風」 著者,挿画家,出版者みな上越出身者の本その2。
会津戦争に負け、故郷を離れた武士の子と兄弟たちが辿った厳しい運命。敗残と新時代、身分を失い不安定な一家は二つの荒波に翻弄されます。もみくちゃにされながら学問を諦めない五郎と苦労を重ねる兄たちでした。
〝もう一人の兄五三郎が生活に加わったものの、下北の開墾は困難を極めた。五三郎の計らいで、五郎は近隣で学問所を開いている人の許へ通うことになった。
時は明治4年、7月に廃藩置県が発布され、下北の藩領は新たな青森県に組み入れられた。現地に在位していた藩主は華族として東京へ去り、主従の心情を失った会津の人々は心の拠り所を失う。
せっかく友達になった友人から、自分は会津に帰ると打ち明けられる。
廃藩置県後人々はぞくぞく会津に帰郷しはじめる。
開墾地にまた冬が来る。
とどまった四人にふとんは無く、夜はゴザとムシロにくるまって寝た。五郎の勉強通いは続いたが、裸足なので凍る道の苦痛に耐えかね、途中で農家に助けを求めることもあった。だが履き物を貸してくれる人も、それを買う金も無かった。ワラ仕事に専念する家族の中で、辛抱強い太一郎の兄嫁の存在だけが一筋のともしびに感じられた。
ある日五三郎兄が、五郎のために学問修業が出来る県庁の給仕職を探してくる。一同は泣いて喜び、精一杯身仕度を整えると、わずかな餞別を懐に五郎は勇躍青森へと発った。
県庁で骨身を削って働く五郎。仕事ぶりは認められ、大参事(県知事?)の家の書生になった。給与が貰える生活で五郎の向学心はますますつのった。
ある日ドイツの軍艦が青森に寄港した。
歓迎会と見学会でドイツの軍人と親しくなった五郎は密航を思いつく。
だが決行を前に軍艦は出港してしまう。
またある日、地租改正のため中央から役人の一行が来県した。五郎はその要人に同行のうえ上京したいと願い出る。東京の引受人などを訊かれると、一行と縁もゆかりもない14才の少年は同行を許された。
青森の後、盛岡、福島の調査を経て一行は東京を目指す。その間の五郎は随行の書記について学習する。
3ヶ月後東京の土を踏む五郎。一回目の東京は捕虜として、今は学問をするために来たのだった。わずかの間に街の様子は一変していた。
紹介先の書生として令嬢の人力車に付き、走ってお伴する五郎。
しかし東京といえども満足できる勉強機会になかなか恵まれない。
ある日保証人になってやるから、後に陸軍幼年学校となる初年生募集の試験を受けてみないか、と勧める人がいた。武士の子なら良いではないか、という言葉に五郎は喜んで受験する。初めての制度のため合否発表は伸びた。
合格発表を待つ間、保釈が決定した兄太一郎と二年振りに再会する。
厳しい運命を越え兄弟はみな無事であることが確かめられる。
太一郎兄は他人の罪を自ら背負い、最後の判決を待つことになっていた。兄が身を寄せる家のあるじも同藩人だった。楽では無い暮らしぶりに、五郎はあらためて会津出身者の苦労を知る。
時は正月、世話になっている家の事情で拠り所を失った五郎は宛を探して東京を歩き回る。頼みにしたかっての名家で、五郎が有するわずかな金銭を担保にかろうじて居場所が確保された。頼られる人も苦しかったのだ。
試験結果はなかなか知らされない。
居場所を探す五郎のまぶたに浮かんだ下北半島の釜臥山(かまぶせやま)。
苦しい生活の中で見た山と桃の花が思い出され、帰りたいと五郎は思った。
居場所を探し歩いた冬が終わった三月末、ついに試験結果が通知された。
合格。十数名の入学者なのかで、数え年15才の五郎が最も若かった。
辛酸の日々を支えた青森県庁の要人や東京へ同行を許した役人、なにより父、兄たちから歓声が上がった。自害した母と姉妹たちが見たらどんなに喜んだことだう。
学校の先生は全てフランス人で授業はフランス語、食事は洋食だった。勉学と練兵に必死で付いていく五郎。強い誇りに苦労し、失いつつあった人間の誇りに気づかされ、入学時にビリだった成績が徐々に上がっていった。
数年のうちにフランス式の学業教練はドイツ人を交えた日本中心の内容に変わっていく。
幕末からくすぶっていた征韓論が次第に大きな議論となった。征韓論は抑えられ、その先頭に立たされた西郷隆盛が下野すると薩摩出身の政府要人たちが従い、地元の旧藩士とともに熊本城に攻め入り、ついに西南戦争が起った。
この戦のため、学校の士官学生は見習士官として大阪、名古屋、東京の守護に当ったが、いたずらに動揺することは厳しく禁じられた。
だが兄の四郎は故郷会津を攻めた薩摩を討つと言って討伐隊に加わり、刑期を終えていた一太郎兄も薩摩への恨みを口にした。明治9年のことだった。
五郎より上の士官学生の一部が九州へ行き、幼年兵も勇み立つ。一方出兵で士官学生が減ると幼年学校からの進級試験が行われ五郎は合格した。
征韓論で西郷と対立した薩摩出身の内務郷・大久保利通が、
征韓主義者の一派によって暗殺される。
五郎には、かって自分たちの故郷を蹂躙した薩摩を見返そうとする兄たちの気持ちが理解できた。しかし現実には、新体制のもとで上下なく接する薩摩・土佐の優れた人たちがいることを評価していた〟
物語の主な部分はここで終わります。著者は添え書きとして以下のことを記していました。
その後の五郎は明治33年に中佐として北京の公使館付武官となります。任務中、中国人による義和団事件が起こりました。中国を租借していたドイツ、ロシア、フランス、イギリスなど外国を排斥し武力攻撃する事件です。
12カ国が集まる公使館区域は激しい攻撃の的になり、当然日本も対象です。五郎は冷静に振る舞い、長く中国人に親しみ心情を理解していた五郎は事件の解決に努力します。沈着な五郎のリードもあり混迷した事件が解決すると、諸国から感謝称賛されました。
五郎の姓は柴。大正8年に柴五郎は大将になっています。
兄四郎はサンフランシスコ商業学校からフィラデルフィア大学に進み、帰国すると農商務大臣秘書官を経て衆議院議員になりました。
兄太一郎の経歴に下北郡長の記載がありました。
最後の最後、長兄太一郎の一行に涙がこぼれました。辛かった下北半島に帰ったのですね。
なんと立派な人でしょう、これは一方で太一郎の物語かもしれないと思いました。
五三郎は郷里に帰り父と暮らし、「辰のまぼろし」を著しました。
場面の情感が豊かに表現された香り高い倉石隆の版画による挿絵は効果的で印象に残りました。
さて昨夜午前0時近く、救急車が必要な往診をしましたが、本日は何も無く、一歩も外出をしていません。これから歯磨き粉(チューブ)を買いに行こうと思います。
「下北半島の風」,著者・挿画家・出版者みな上越市出身者の本その1。
樹下美術館は倉石隆の絵画と齋藤三郎の陶芸作品の展示施設です。乏しい予算の中から、何とか一点でも優れた作品を加えたいといつも考えています。
齋藤三郎はかなり多作でしたので、ポツりポツリと入りますが、倉石隆氏は中々集まりません。そんななか過去に、どうぞ、と申され、思ってもみない良い作品をお寄せ頂く方がありました。本当に助かり有り難く思いました。
お二人の作品をネットでも探しますが、希にオークションや古書検索で見つかることがありますので、この方面も続けている次第です。
先日のこと偶々1972年(昭和47年)5月5日実業之日本社発行の本「下北半島の風」が手に入りました。
幸運な事に作者は小田嶽夫、挿絵が倉石隆で、発行者は実業之日本社ではありませんか。いずれも上越市出身者で、こんなに嬉しいことはありません。
現在上越市では実業之日本社社長、増田義一氏に関するパネル展が催されていています。昨日休診の午後、つぶさに観てきました。本日は「下北半島の風」から倉石隆氏の挿絵をピックアップし、拙いあらすじを交えて以下ご紹介をこころみました。
主人公は実在の人物で、会津藩の要職・柴佐多蔵の末っ子の五男・五郎。五郎には5人の兄弟と6人の姉妹がいました。物語は薩摩・土佐主力の新政府軍が若松城下に迫る会津戦争前夜から始まります。
正装して家を後にする五郎。
白虎隊の年令に達していない五郎は小刀を差して正装させられると、大叔父がいる遠方に預けられる。見送った母、姉妹たちとは永遠の別れになるとも知らず出発する五郎。行った先は避難する人でごった返していた。
五郎が去った後容赦ない攻撃に晒された会津の城下は火に包まれ、明治元年9月22日降伏開城した。20名の白虎隊は飯盛山で悲壮な最期を遂げる。
五郎を預かった大叔父から、残った母と姉妹すべてが自害しことが告げられる。
武家の子弟なら潔く諦めろと諭されるが、五郎は気を失う。
さらに捕縛を逃れるため髪を落とし、百姓の姿になるように言われる。
まだ一帯に危険があるため大叔父の家を出て、兄と従者でさらに山から山へ野宿同然の逃避が続き、季節は冬に向かった。
四郎は生きながらえ、家族の安否の確認に寄ったのだ。うす着の五郎を見てこれを着るよう、四郎は白無垢を差し出す。四郎出兵に際し母が持たせたものだった。
何かと親族を頼る暮らしとなり、山の物を採って路上で売る五郎。
通りで出合った四郎兄に武士の子らしくない、とたしなめる。
五郎が本当にしたかったことはただ一つ、勉強だった。
明治2年、新政府の方針で会津藩士は捕虜として東京か越後髙田藩へ護送され、謹慎生活を送ることになる。戦で足を負傷している者太一郎兄の看護人として五郎は江戸行きに加わる。梅雨の中、100人余りの一行は10日ほどで東京に到着し、幕府の食料庫で土間暮らしが始った。
東京滞在中、五郎の向学心を知っている太一郎は修学先を探すが、先々でおよそ下男扱いをされ、時には見世者の辱めを受ける。
時は新体制への移行期、藩として消滅した会津は政府から示めされた下北半島を領地とする道を選ぶ。但し各自ほかへの分散も許可されていた。
太一郎兄と父は下北半島へ移り住むことに決め、他の兄弟を残して海路品川沖から発った。
下北に到着した五郎達が見た海を渡るムクドリの群。
下北半島に上陸後、商家や寺の世話になりながら移動する生活を送る。
この行程中兄が結婚し、辛抱強い兄嫁はその後の生活で大切な人となった。
目的地の田名部で畳も便所もない家の生活が待っていた。しかも一帯の食糧難解決を担わされた兄が預かり金の持ち逃げに遭い、自ら罪を背負って囚われの身となってしまう。五郎ら残された三人で、北国の飢えと寒さに直面する。
凍った川から交替をしながら水を担ぐ。
配給の玄米が絶えると海藻やワラビの根、さらに雑草で飢えを凌いだ。
漁師が見殺しにした犬を食べ、死人をを出さずにかろうじて冬を越えた。
一家三人は開墾のためさらに雑木林の原野へと移動した。ワラとムシロを敷いた小屋では川を風呂替わりにした。
春を迎え、開墾地の桃の花はきれいだった。配給されたスキやクワはワラビ採りに役立ったものの、肝心の作物は採れず、海藻の粥が続き、たまに他家から貰うヒエ粥がご馳走だった。
少々長くなりましたので、次回に続きを掲載させて頂きます。
今は冬?秋?春? Star Dustの口笛。
風がフーフー、雨がビチャビチャ。そんな空に向かって冬なら冬らしくと、誰かが叱っている。雪も星空も見えない今夜は冬?まだ秋?もう春?
ヘンリー・マンシーニの「Star Dust(星くず)」。
その昔、忙しい青年が恋人を訪ねたのはいつも少し遅い夕方
恋人は短い坂道の下の部屋でトントンと野菜を刻んでいる
遠くから口笛が聞こえてくるとコツコツコツと靴音が近づく
Star Dust、彼女は坂道の部屋でいつも彼の口笛を待った。
上京したばかりの私はStar Dustの曲が好きだったが、どうしてもある部分が覚えられなかった。くだんの彼に教えてと言うと、そのうち覚えるよ、というばかりだった。
年上の二人を勝手に友達みたいに思っていたその人から、ネクタイの仕方とヒゲの剃り方を教わった。そのうちみな遠くなり、5年ほど前その人はふとしたことから亡くなったと聞かされた。
写真の摂り方見え方 減量しなければ。
恐縮です、昨日のお汁粉の写真のことで追加させていただきました。
日頃写真、特に食べ物写真では遠近など違えて撮り、主旨にそった方を選んだりトリミングをしたりしてお出ししています。
それが昨日の汁粉で接近したものを掲載しましたところ、近すぎてお椀一杯、ともすればこぼれそうなほど量が多く見える写真になってしまいました。
これではせっかく減食をお伝えするのに良くありませんので、本日以下二枚目に遠目のものをお載せして、あるかもしれない誤解にお応えしようと思った次第です(汗)。
少し遠目の写真です。実際はこんな感じでした。
昨日のより少なく見えませんか(汗)。
写真の見え方はともかく、実は本日、入浴時の体重が1,7キロ増えていました(汗)。冬特有のオーバーカロリーと運動不足が原因です。
さっそく食事を減らし、階段昇降を増やして解消しようと思います。私のためですが、そうしないと、太ってはいけない患者さんまで安心して太ってしまうという事があるのです。
汗だくのページになってしまいました。
前日の過食を翌日の小食で調整。
1月13日成人の日、本日二回目の記載です。食事のみの話題で恐縮です。
昨日柏崎行きの食事は普段よりかなりオーバーになっていました。昼に銭形のみそカツ定食をぺろりと食べ、夕食は大潟区でピザとパスタを十分に食べましたので、本日は調整しなければなりませんでした。それで以下の食事になった訳です。
朝食を抜いて昼に小さなモチ一つのお汁粉と以下のおかずを食べました。
アズキは妻の友人からの頂き物。箸は過日の鎌倉で求めたものです。
とても使いやすい箸でした。
昨日の柏崎行きで三忠呉服店のの奥様から頂戴した副食。
大根漬けに昆布巻き、およびニシンの山椒漬けを美味しく頂きました。
この日の夕食は少しばかり果物を食べてお終い。以前にも書きましたが、前日過食した場合、翌日は調整し、二日間の平均が略々普段の一日分程度になるように心がけている次第です。
過食の翌日を軽めの食事で済ませると、お腹が休まり、眠気を催さず、疲れが取れるので良いと思っています。
今年二度目の柏崎刈羽、みな良い人ばかりだった。
現在柏崎、刈羽で1月下旬まで続けられている天神様めぐり。
先週日曜日に六カ所を訪問した後で、もう一回という心残りがあった。そこで昨日趣味の良いコレクターであるA氏を誘い、妻と共に再度柏崎へ出掛けた。
天神様めぐりは初めてと仰るA氏のために、先週私たちが回った先を中心に以下のようにお訪ねした。
同工房の一部。
さすが金属造形。道具の種類と数に於いて陶芸の工房とは著しく様子が異なる。
隣りの室内で、あるじが静かに原型作りをされている気配だった。
続いて初めてお訪ねした中浜の熊木氏宅で。
寄せ木人形を手に取らせて頂いた。人が持った途端、人形が生きているよう感じた。
柏崎の場合天神様の両脇、あるいは下段左右に警護する随身(白矢印)が飾られる。
随身(随臣)はしばしば地元で別に焼かれた人形(大久保焼き)が用いられるているらしい。
A氏は仏像に詳しい。地蔵、観音ともその気品から、
京都に於ける作〝みやこ造り〟であろうと仰った。
丁度昼食時間となり、休憩をかねて食事をした。
本日再訪した三忠呉服店の天神様。
こちらの随身は木製であり、いざことあれば駆け出付けれるよう片足を下ろして構えている。
ちなみにこの随身は木造りということでした。
このたびの天神様めぐりでは三忠呉服店様にとてもお世話になりました。
本日最後の天神後は、前回と同じ同市宮川の陶芸家・吉田隆介氏宅だった。
温かみのある白磁が目に優しい。
玄関の懐かしいマユ玉。
陶芸の興味深い甘辛話を沢山して頂き、とても為になった。
さて同行のA氏の趣味の良さは別格。
天神様巡りを終え、柏崎市内のcoil4(コイルフォー)という店を案内してもらった。
洗う、用いる、磨く、愛玩する。嘗てある人が大切にした品には、新たで独特な美しさが漂うようになる。物は大切にされた分だけ美しく変わり得る、、、人と交わり終えた品が到達する第二の価値が美?それを見い出し生かすのは私たち次第?不思議な世界がこの店にあった。
家の余計なもの全てを取り払い、この車輌一つ置いて暮らしてみたい。
何気ない物が放つ強烈な引力。店にファンが付いているのも頷ける。
あるじはまだ若く、本当に独特の店だった。
同行のお二人様、本日はご苦労さまでした。
原工房は温かくこまやかに接して頂いた奥様、道に出てお迎え頂いた熊木家の皆様、お声が良く清々しい極楽地の副住職様、偶々A氏のお兄様と幼なじみだったことが分かり、とても喜ばれた三忠呉服店の奥様、芸術家とファンの意義ある関係を真剣に訴えられた吉田隆介様、使い晒した品の静かな美しさを見せて下さったコイルフォーのあるじ様。訪問先の皆様は良い人ばかり。有り難うございました、とても感謝しています。
樹下美術館のヤブコウジ。
連日の庭です。
樹下美術館の庭の少なくとも四カ所の木の下に、ヤブコウジが集まっています。
今年は雪が無いので真っ赤な実が丸見えで、例年よりも目を引きます。
葉の色は緑色と茶っぽいものの二通りがあるようです。
新しいものと年数が経っているものの違いでしょうか。
以下拙歌です
取る年の浮かぬ心を慰むる木の根に赤きやぶこうじかな
こじつけです→木の根=木の音=拍子木=ことの始まり
2001年に描いた拙絵(B5)。
葉で苦労したが出来上がりは良かった、とメモにありました。
ヤブコウジは以下のような見所があると勝手に思っている次第です。
・実が大きい ・実が艶やか ・赤色が鮮やか ・チビなのに樹木 ・チビなのに常緑樹 ・丈夫である ・良く増えるetc。
縁起が良いとされるのはこのような事からでしょうか。
小雪の冬、クリスマスローズの古葉をいつ切るか。
新しい年が一週間過ぎた。
樹下美術館周辺に雪は無く、初雪として終日積雪が残った日も思い出せない。雪に代わって毎日のように雨が降り、まるで冬の梅雨の様相になっている。
昨日クリスマスローズの事を書きましたが、毎年古い葉を何時切るかで悩みます。早めに切って花芽や蕾に日光を当てる、という助言や記事によく出合います。
但し路地植えの当庭では、積雪に対して丈夫な葉が芽や蕾を覆い、雪で傷むのを守っているように見えるのです。それでこの先、蕾や開花の様子と雪の具合を見て、よしとばかり切る方法を取っている次第です(十分な自信はありません、、、)。
本日見た蕾。
開館まであとふた月少々、あまり早く咲きすぎても困るのです。
この気象下、多少の庭いじりが出来るので助かりますが、異常な暖かさはやはり気持ちが悪い。
冬の梅雨などあろうはずはありませんし、全てはいずれやって来る〝寒波〟次第なのでしょう。
白鳥とクリスマスローズ。
当地の朝日池は日本で数少ないハクガンの飛来地で毎年その貴重な姿を楽しみにしている。
今年は11月13日という異常に早い時期、一羽がマガンに混じって飛んでいるのを目にしただけだった。昨日の外来で、20羽くらいが来ているようです、と詳しい方から聞いた。
上越市東から柿崎区、大潟区、頸城区、南西の三和区まで、広いエリアで20羽の鳥を探すのは容易ではない。雪が少ないので上越市中心部まで行っているかも知れない。
本日午後仕事休みの木曜日、ハンドルを握って周辺を探した。だが白鳥の群を見たもののハクガンには出遭えなかった。
それでしばし白鳥たちを眺めて過ごした。
向こうに送電線の鉄塔。以前、これに衝突したり引っかからなければ良いが、と心配したが、そのような事例がなく過ぎている。鉄塔と送電線が比較的少ないのも当地域に飛来する一因になっているかもしれない。
白鳥は雁よりも人に対して鷹揚なところがあり、5,60メートルならそーっと見ることができる。
前回正月を中心に冬の生活に見られる華やかな色彩のことを書いたが、この鳥はひたすら白一色を誇っている。
寒く広い田で一心不乱に食餌するコハクチョウの群。見ていると向こうが主人公で狭い車中の私が異邦人になっている気がしてくる。
時々4、5羽の鳥が集まり、首を伸ばしてクワクワと羽ばたきながら鳴き合う。但し周囲の鳥たちは全く関心を示さず平然としているので不思議である。
鳴き合った後で一羽の鳥がほかの一羽をを突っついたり追っかけたりするのを何度か見た。調べてみたが、鳴き合いといい、何が起こっているのか分からない。
さて夕刻の庭でクリスマスローズの手入れをした。毎年成長が止まったようなのが何株かある。今年もそれらを掘りおこし、新たな場所で土を作り直して植え替えた。今年は異常に温かく、まだ積雪らしいものに出遭っていない。そのせいもあり、以下のように蕾を膨らませたり、開いているものが見られている。
クリスマスローズを庭に植えて25年ほどが経った。
毎年美術館は冬休みを終えると3月15日にその年の開館を迎える。クリスマスローズは、寒さが残る開館後の庭を温めてくれる貴重な花なので、精一杯大切にしている次第。
昔の冬の色 正月の客疲れ 冬鳥に虹。
本日かなりお年の女性が鮮やかな紅白たて縞のマフラーを着けて来られた。
良い色ですね、と言うと、若い時のものです、昔は今より色が華やかでしたね、と仰った。
確かに昔の冬から春は、正月を中心にさまざまに華やかな色が付いていたイメージがある。
先日の鎌倉そして柏崎の天神様めぐりでも歴史の中の正月色といえばいいのか、鮮やかな色を目にした。
以下は柏崎の天神様めぐりです。
以下は先日、柏崎市のあるお宅で拝見したお手玉など。
ほおずきお手玉。
上掲のものは、いずれも古着で作られていた。昔からそうしたのだろう。
昔の手まり。
美しい手まり(Wikipediaから)。
芯に乾燥もち草などが詰めてあり実際に突けたらしい。こどもの頃
女の子が熱心にゴムまりを突いた。同級生のM君は男だが上手かった。
小生も姉妹に混じって板一枚の羽子板で遊んだ(Wikipediaから)。
描いてみた追い羽根。
左のはゆっくり近くへ飛び、右のは早く遠くへ飛ぶ。
室内では主に左の羽根を、屋外では右のもので遊んだ。
コタツのみかん、カンテン料理、染めたギンナン遊び、鮮やかなビー玉、ガラスのおはじき、おひな様、マユ玉、たこ揚げ、双六、メンコ(私の所ではパッチ)etc、また紙風船もこの時期だったのか?。正月とは言わず、冬から早春まで、目にするもの、遊ぶものにはきれいな色が付いていた。
色とりどりのものに囲まれて幼少を過ごした人達が続々ノーベル賞を取っている。スマホとゲームで遊んだこどもたちの答えは数十年先には現れよう。結果の善し悪しは少なくとも頭脳の柔軟さによって左右されるに違いない。
さて本日見えた方が、
「正月の客疲れです。洗濯ものがまだ終わりません」、とぐったりした表情で仰った。70を過ぎた親には智恵を出しあって少し休ませてやる方法を考えた方が良いと思う。
本日予報通り夕刻から夜に掛けてひどい嵐になった。
午後施設訪問後の水田に白鳥と雁がいて、遠くの群に虹がかかった。
風は明日にも止むようだが、まだまだゴーゴーと音がうるさい。
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