台風直後の上野駅から大潟町へタクシーに乗る その2。

2025年9月4日(木曜日)

さて昨日の続きです。昭和40年代、父の急な入院で急遽帰省することになる。秋だったのか、大きな台風が去ったばかりの上野駅は全面運休。意を決して駅前に並ぶタクシーに声を掛け、直江津まで行ける車を探し乗車した。本日はその続きになります。

道中記憶のあるエピソードは夕暮れの大宮からだった。大宮が近づくと運転手は駅に寄っても良いですか、と聞いた。こんな日の駅には足が無くなった人が大勢いる、もし良ければ相乗りは構わないかという。
車中色々話ながら来たが運転手の人柄については不安を否めなかった。災害時だ、一先ずいいですよと言うと車は駅に着き運転手は降りて行った。激しく雨が降るなか二人の中年女性を連れて戻ると私が助手席に移り三人の相乗りになった。

車中のことは詳しく覚えていないが、かなり走って相客の二人は雨の中を18号線沿いで降りた。私は再び後部座席に移動しウトウトした。

何度もうたた寝をくりかえしながら高崎市に入った。深夜の街で、碓氷峠の状況を聞いてみます、と言って車は電話ボックスの脇に停まった。雨のボックスでなにやら話す運転手。間もなく戻ると、110番で聴いてきました、峠は大丈夫のようです、と言った。

深夜際限なく曲がる雨の峠は怖くて眠られなかった。そもそもすれ違う車も無く暗い峠は不気味だった。
なんとか峠を越えると今度は千曲川の安否確認だった。小諸と上田でそれぞれ電話あるいは無線を使って道路状況を尋ねたように思う。
長野市を越えたあたりから夜が明け道路沿いに泥をかぶった水田や果樹園が続いた。

まんじりともしないまま上越市に入ると目がしゃんとしてきた。直江津駅近くの18号線は一部冠水し、迂回しながら浜線に向かうと港町の佐渡汽船周辺も水浸しだった。そこを慎重に越え一晩かかけたタクシー帰郷が終わった。

家に到着すると3万何千円が掛かっていた。運転手は相乗りをしたので3万円でいいと言い、母から残りを出してもらい、礼を述べて別れた。

上野駅で燃料と距離を計算したうえ乗車を引き受け、大宮で困っているであろう客を拾い、峠や川の状況を確かめながら当地まで無事運んでくれた運転手さん。不安を払拭出来ないまま乗車したのが途中から責任感のある人だ、と印象が変わった。

見舞った父はイレウス管が挿入され回復に向かい手術を免れたが退院まで代診を続けた。

あたかも台風を追うように一晩走ったタクシー帰郷。50数年経ったが二度と無いことだろう。

仕事場のブットレアに来ていたキアゲハ。
アゲハ類はこの花が大好き。
去ってはまた戻る。

今朝方の雷雨 その昔、台風直後の上野駅から大潟町へタクシーに乗る。

2025年9月3日(水曜日)

深夜の寝床で激しい雷鳴で目覚めた。音はゴロゴロ、ゴロゴロと遠く近く鳴り続けた。ウトウトしているといつもと違い恐怖感はなく壮快な打楽器のようだった。同じことが早朝にもあって似た感覚で聴いた。その後目覚めたのは激しく降る雨音で、ザーザー、ザーザーひっきりなしの土砂降りだった。

仕事が始まると直江津に近いスタッフが出勤の模様を興奮気に話してくれた。激しい雨中、家まわりから国道を含め相当に深い水を跳ね分けながら走り、とても怖い思いをしたということ。朝寝坊の私が知らないだけで、外はそんなに酷かったのかとびっくりした。

昼のテレビニュースで上越市、とくに直江津一帯の豪雨被害の状況が大きく取り上げられ、あらためてその凄さを知った。氾濫と違っていずれの映像もあふれ流れる水が澄んでいることで何故か余計に恐ろしく感じた。

当地頸北地域で近隣の水害をj直接目にすることは滅多に無い。ところで昭和40年代のある日父が腸閉塞症状で緊急入院した。一般に腸閉塞は重病、急遽当地実家へ駆けつけなければならなくなった。
当日は台風が去ったばかりだが雨風は続き、夕刻の上野駅ではほとんどの列車が運休になっていた。意を決して駅前に並ぶタクシーに、どうしても直江津方面まで帰らなければならない、出してくれないかと聞いて回った。

何台も断られた後、ある運転手が燃料と距離を計算し、待つ事しばし、行きましょうと言ってくれた。サイフには2万円ほどあり、足りなければ家に着いてから助けてもらうつもりで乗車した。

さて大変申し分けありません、時間が来ました。
続きは明日掲載するつもりです、どうか宜しくお願い致します。

厳しい残暑のなか頸城野の稲刈り。

2025年9月2日(火曜日)

9月になっても酷い残暑が続いています。このところ当地域の最高気温が35度前後で推移、本日の髙田は36、3℃で、在宅訪問時の暑さは大変でした。

気象庁は1日、今夏三ヶ月の全国平均気温は平年より2.36度高く、統計のある1898年以降で最も暑かったと発表しました。異常で特別な暑さだったということになります。

今夏はコロナも多く拙医院でも毎日のように、日によっては何人も診ました。5類になりかつ軽症化しているとはいえ高齢者では症状が長引く方もいて重症化を心配しました。夏の発熱感染症は消耗がきついのでこの先まだ油断は出来ません。

暑さ寒さも彼岸までと言われます。これまで暑さが遠のいたと感じるとお彼岸だった事がよくありました。今年は9月いっぱい暑いという報道がありますので本当に参ります。

そんな猛暑でしたが近隣の田では稲刈りが始まっています。刈り入れは朝露を避けるようですので日中暑さの中でも果敢に行われるのですね。

以下は昨日の頸城野です。

 

 

10年前にくらべると機械は大型化しかなりの処理が自動化されているようです。また運転席はしっかり囲われエアコンが効いていると聞きました。

中にはエアコン無しのコンバインや上掲のように手作業で草刈りのような仕事をする方も見られました。

多機能、自動化するコンバインの操作法などを聞くと高齢者にはもう現場は無理という気がしました。

一方米の買い取り価格が今年も飛躍的に上がるようです。儲かる農業として従事者の若返りが生じるならそれはそれで良い面かもしれません。でも高騰しすぎて消費者の米離れが広がらなければという生産者の正直な心配も聞きました。

どんな分野も常に平坦という事ではないのですね。

ほくほく線のポストカードで。

2025年8月29日(金曜日)

昨日に引き続きやや過ごしやすかった本日。気温は髙田で32,9度ということ、気温は普段とそう変わらなかったのに過ごしやすいとは不思議なことでした。
皆さまにも同じような感想が聞けたのは、陽が短くなり日射しが斜めになたことがあるのでしょうか。

さて前回8月26日の当欄でほくほく線のポストカードとお客さまの事を載せました。すると翌日東京からブログの写真を観たら急に「鉄心?」が動いて訪ねたくなりましたと仰る。

ある意味ご常連の方で、2018年5月に催した塩﨑貞夫「桜のレクイエム展」を機に来館され、以来よく当館を訪ねて来られます。亡き塩﨑氏と交流があり氏と同様独自の茶心をお持ちで、茶や懐かしい「桜のレクイエム展」などの話を楽しくご一緒しました。

話変わって、過日掲載しましたほくほく線の写真ですが、実は樹下美術館ではそのほかに以下の特急「はくたか」を含めて4種のポストカードを販売しています。

春の普通列車。

 

夕暮れの「はくたか」。

白鳥と「はくたか」。

あらためて写真を見ますと、わざわざ撮影地点を見に出かけたお客さまにとって場所の同定が可能だったのだと思われました。さらに掲載した電車写真に旅情を促され、翌日早速ほくほく線で来館された東京のお客さにもびっくりした次第です。

いつか「はくたか」を含めた頸城野を行くほくほく線電車の写真展を行ってみたいと思いました。

気に入って頂いたほくほく線電車の写真。

2025年8月26日(火曜日)

樹下美術館ではほんの小規模ながら物販を行っています。常時一定の売り上げがあるものに恥ずかしながら私が撮影した写真の絵はがきがあります。

本日お見えのお客さまの一人が妻に以下の話をしたそうです。
“娘が館長の写真絵はがきが好きで、特にほくほく線のものを気に入っていた。以前、数枚購入した電車の葉書の場所を一緒に探しに行ったことがあり、それらしい場所を見つけることが出来て嬉しかった”と。

特にこの写真がお好きだったようです。
2014年9月撮影。

夕食時に聞いたのですが有り難くも嬉しい話でした。
上掲のものに似た状況の電車、あるいはもっと旅情のある場面を撮りたいと夕暮れ時によく通いました。しかし時刻、空と雲、乗客の影などこれ以上のものは撮れませんでした。

当時沿線で撮っていると近づく電車が音を鳴らしてくれるようになり、余計に喜んで出かけていました。今は無き特急「はくたか号」は格好良くて夢中になりました。

拙い写真ですがいつか「はくたか号」を交えた頸城平野の高架を通過するほくほく線電車の写真展を行ってみたいと思っています。

さて雨が遠のき再び乾燥しきっていた当地。午後パラパラと来て夜にはかなり降り始めました。お米にはもう要らないかも知れませんが庭には有り難い雨です。出来れば朝までしっかり降って欲しいところです。

今年初めての赤倉CC 仕事上の最年長になっている。

2025年8月24日(日曜日)

再び雨が遠のいて暑い日が続くようになった。本日はあるご夫婦から声が掛かりゴルフをした。上手なお二人には手も足も出なかったが平地より数度は気温が低い久し振りの赤倉を満喫した。

コース傍らの白樺。

ここの景観がお勧めというアングル。

過日近所の理髪店に行ったところ、店主から「玄(ふかし)ちゃんが上越医師会で最年長の開業医だって聞いたよ」と仰った。思ってもみなかったことにびっくりである。
※ふかしちゃん:幼少から床屋さんではそう呼ばれています。

この話はよく来店られる医師から聞いたということ。私より一つ上だという髙田のA医師が少々前に閉院されたためそうなったらしい。病院勤務医はみな私より若いし、施設勤務医の中には私より年上の方がお一人はおられる。だがA先生がお止めになったならたしかに開業では私が一番年長かもしれない?にわかに信じられなかった。

本日赤倉を一緒した同業ご夫婦もそのことを知っておられ、知らぬは本人ばかりなりのような話だった。

能力や疾病など色々な年の取り方があるが、こんなこともあるのかと不意打ちをくらったような気持だった。
しかし確かならそれも良しとしよう。年などどうでも良い、健康を維持し、皆さまが来て下さる限り“やろうじゃないか”と妙に元気が出て来た。なによりも来院してくださる皆さまに深い感謝の念が湧くのを覚えた。

そう言えば最近励ましを仰る方が増えているような気がしていた。私よりも先に知っておられたのかも知れない。

今年前半の「お声」から 刈り入れ前の田んぼの雀。

2025年8月20日(水曜日)

19年前の開館時から続けている各テーブルのメッセージ「お声」。今年も前半の5ヶ月が終わりまとめました。
120筆ほどの全ては今週中にホームページに載せますが、本日はその中からランダムに19筆を掲載致しました。

ご不満など必ずあろうと思いますが、ご好意だけお書き頂いているようで恐縮してます。
スタッフともども注意を怠りなく維持発展を続けたいと思っています。

それでは皆さまの「お声」からです。
2025年3月15日~7月31日分です。

・冬期間休館されていて淋しかったです。久しぶりにお邪魔させて頂いて、やっぱり最高です。この時間は私にとって必要な時間です。カップも素敵でよね。こちらに寄らせて頂くのを楽しみに、また日々の生活を頑張ります。(ボールペンも素敵ですね)

・また来てしまいました。季節が変わると庭と遠くの景色が変わり新鮮です。紅茶が香りよくおいしかったです。心をこめて入れてくださっているのが伝わります。ときおりメニューにないケーキがあるのがいいですね。さすが揃えてくださった本がおもしろいです。スリップウェア、柳、浜田、河井、バーナード・リーチが出てくるのがおもしろいです。すごい人達のおかげで今の豊かさを感じ、日本の美にますます興味をひかれます。

・友達と一緒に。ベーグルもケーキも美味でした。景色良し、味良し、全てが芸術的でした。またうかがいます。

・男性像、すばらしかったです。自分の心と重なり絵の前から動くことができなくなりました。もっとはやくこちらの美術館と出会えていればと思いました。

・こちらのお店のことは、友人から聞いて知ってはおりましたが、今日やっと来ることが出来ました。母の介護から解放されて、久しぶりの自分のためだけの時間です。クリスマスローズの清潔な白色、サツキのやさしいピンク色、グラスのお水はほんのりレモン香、全てが「ぜいたく」な時間でした。元気を出して家に帰れそうです。お母さん、少し優しくできそうよ。連れて来てくださった友人に感謝、ありがとう。みんなに全てに感謝。

・看護学生の時からここが好きで良く利用させていただいていましたが、今春から晴れて看護師となり、またここに来ることができました。

・初めて来店しました。ベーグルとてもおいしかったです。カップも色々な種類があり迷いました。友人とも今度来てみたいと思います。

・2年ぶりに母を連れて伺いました。母はいろいろなことに対する興味がうすれて行く日々ですが「樹下美術館」と「斉藤三郎さんのお茶道具」というキーワードに興味を示し伺うことができました。うれしく思いました。おだやかに過ごさせていただき感謝しております。先生、奥様とお話できましたことも大変うれしかったです。ありがとうございました。

・お茶道具とても素敵でした。香合が欲しくなってしまいました。カフェのお茶とケーキもとても美味しかったです。ごちそうさまでした。また来たいです。

・イギリスからきました。今じょうえつしではたらいています。はじめてじゅかびじゅつかんにきました。うつくしいにわを見ながら、おいしいベーグルセットをたべました。しあわせでした。イギリスしゅっしんなのでイギリスのカップでこうちゃをのんでうれしくなりました。いいけいけんでした。ありがとうございました。

・初めて家族で来ました。天気がよく過ごしやすかったです。お茶の道具や油絵など、じっくり楽しむことができました。また来たいなと思います。

・手入れされている芝にラベンダーが、とてもキレイですね。いやされました。

・母からの誘いで、父と三人で来ました。絵やお茶道具などの展示品も初めて見たものばかりで、貴重な体験になりました。カフェでは、お抹茶セットを注文し、上生菓子のよもぎまんじゅうも、春を感じることのできるすてきなものでした。雰囲気(景色や音楽など)は、落ち着きのある感じでリラックスできました。今年の春から、社会人としての生活が始まり、荒正たしい毎日でしたが、ここで心も身体も、ゆっくり休めることができ、とても貴重な時間を過ごすことができました。家族とも、懐かしい思い出話で盛り上がり、かけがえのない時間でした。連れてきてくれた母に感謝すると共に、人との出会いや一緒に過ごす時間を大切にしたいと思います。また、ぜひ足を運びたいと思います。ありがとうございました。

・ドライカレーとチョコのケーキ、ブラックコーヒーがおいしかったです。絵を描くのも楽しかったです。みかんといちごが好きだから、いっぱい食べれてうれしかったし、おいしかったです。また来たいです。今年、高校受験だから、午後から勉強です。がんばります!

・細い道をくねくねと走り、素敵な美術館に辿りつきました。お庭を見ながらケーキをいただき、娘と作品について語りました。美術・デザインの道へ進学する娘をこれからたくさん応援しようと思います。ありがとうございました。

・いつも館長さんのブログを読ませていただき感動をいただいています。今年の展示も素晴らしいです。

・毎日が忙しい日々を過ごしているので、ここへ来ると心がホッとします。ありがとうございました。

・帰省最終日、初めて寄らせていただきました。これから香川県に帰ります。思いもよらず、楽しい思い出ができました。ありがとうございました。

・こんにちは。ドライカレーセットをいただきました。ラベンダーすてきですね。いつも心が落ちつきます。ありがとうございます。オルゴールもいいですネ。

・久しぶりに訪問しました。倉石さんの絵も以前と変わっており、お茶道具も見られてよかったです。晴れていたのでお庭が映えてきれいです。また来ます。館長さんの絵ももっと見たいです。鳥も飛んでいてよいですね。

 

裏の水田に来る雀たち。

刈り取りを控えたお米は汁状でとても甘いそうです。もう40年近く前の夏、毎年のように弱っている雀の雛を育てました。いわゆる夏子で生きるのに精一杯な雛たちでした。
飼育が進むと室内で水浴びや砂浴びを自然に行い、朝は寝ている私の髪の毛を引っ張って外に出してと訴えました。以来雀には特別なシンパシーを覚えるようになりました。

田圃に群がる雀は収量を害すると思われますが、害虫を食べることから益鳥とも呼ばれるようです。またこの数十年数を半分以下に激減させていることからも、田圃での食餌をどうか勘弁してやってください。私からも「真に申し分けありません」と謝らせてもらいたい気持でいます。

週末の上京 小5の築地と叔母の周辺そして「横浜事件」。

2025年8月17日(日曜日)

親族の見舞いで出た妻と東京駅で落ち合い海と隅田川が見える豊洲のホテルに一泊してきた。子ども達に会うためだった。約一年ぶりだがより元気に現れた。
子ども達の元気は安心だったが果たして年取る私達のほうはどのように見えたかが問題。

本日午前はホテルから近い築地へ行った。

懐かしいかちどき橋。

そして築地本願寺。

丁度法話が行われていて聴いた。
三蔵法師と孫悟空の逸話だった。

昭和28年、小学5年生の夏、東京から一番末の叔母が訪ねて来て、帰りに姉私弟の3人を連れて上京してくれた。長時間の汽車の旅はウトウトしては目が覚めるを繰り返し、東京(多分新橋駅)へ着いた。

車中、次々と募金箱を抱えた傷痍軍人がやってきたし、大宮駅の機関車庫の大きなレンガの建物は爆撃を受けて大崩れしたまま残っていた。

築地で幼稚園を営んでいた別の叔母のところで数日世話になった。幼稚園への道すがら乾いた川底に幾つも浮浪者が住むという小屋があり、橋(もしかしたら数寄屋橋)の欄干にそのような人達が寝ていた。落ちないかと心配すると叔母は「目をつむっているだけだから大丈夫」だと言った。

道すがら少し飛んでいる叔母は「ルンペン」や「パンパン」という言葉を教えてくれ、「エヘヘ、私共産党に入っちゃった」と言った。
泊めてくれた三番目の叔母は築地界隈の窪地のような所で、コンクリート壁に囲まれた、小さな中庭のある幼稚園を営んでいた。
この人のご主人は戦争中特高警察に捕まり終戦直前まで「横浜事件」と呼ばれる大規模なでっちあげ事件で長期にわたり激しい拷問を受けた。最後は瀕死状態で釈放され間もなく亡くなっている。

忙しい幼稚園の叔母に代わって一緒に上京した叔母が神宮球場や読売新聞の子供音楽会などに連れて行ってくれた。銀ブラしようと誘われた銀座は随所に進駐軍が闊歩し、道端にはテント屋台が並んでいた。

屋台では樟脳を挟んだセルロイド製の小さな舟がタライの水の上をスイスイ走っていたり、きれいなボンボン売りが沢山見られた。私達は買って欲しいのを必死に我慢した。

上掲のかちどき橋と築地本願寺は幼稚園の従兄弟と行った。一緒に近所のお風呂屋さんに行ったのも懐かしい。

近くに大きな病院(現聖路加国際病院)があり当時は米軍に接収されていた。叔母はそこへ通う看護婦さんたちの子供を大勢預かっていて、彼女らが病院の免税店から買ってきてくれたラッキーストライクのタバコに火をつける時に機嫌の良い表情を見せた。

叔母はメガネを掛け女優さんのようにきれいな人だった。因みに拷問の犠牲になったご主人は早稲田大学卒の壮健なラガーマンだったが釈放時は両膝が挫滅し見る影もなく衰弱していたという。

戦後長きにわたって事件の真相究明と被告人の名誉回復の裁判がおこなわれた。
平成20年4月、ようやく横浜地裁は特高警察による拷問を認定し、反政府活動の証拠は存在せず、特高警察による思い込みや暴力的捜査から始まった警察、検察、裁判所の故意、過失は重大と結論づけ、冤罪であったことを認めた

昨今スパイ防止法を掲げる政党や政治傾向が生まれている。戦争準備は平和な時代に密かに進行し、いざ戦争が近づくと人は狂う。スパイ防止法は政治的冤罪事件の根っ子を隠している。

※父の兄弟姉妹で成人したのは11人。男性4人、女性7人でした。上記で私達を東京に連れて行ってくれた叔母は7番目の末っ子で幼稚園の叔母は3女でした。

昭和100年、太平洋戦争80年の声無き声を思って。

2025年8月15日(金曜日)

この年と今年8月15日は昭和100年、および太平洋戦争80年+満州事変の敗戦記念日に当たっている。
毎年この時期が近づくと気持が自然と落ちてくる。戦争で亡くなった何百万人の方とそのご家族の無念に満ちた「声無き声」が夏空にこだましているような気がするのである。

遠い異国で戦死、餓死、病死された数知れない無念の声と最後の一息に込込められた恨悔を思うと胸が潰れそうになる。

彼らに英霊としてのお「礼」や「鎮魂」「追悼」の言葉だけで良いのだろうか。幸福や明るさに賭けて出兵しながら「未熟な作戦のもとで満足な食糧や兵器も与えられず、ひたすら死ぬまで闘え、死ねなかったら自決せよ」と命令され続ける。
生き残った者同士は殲烈な敵砲火の前にせめての抜刀突撃を行い全滅。戦争は結果が全てであろう。

送り出した国と国民は「真に申し訳けありませんでした」と長くいつまでも「詫びる」べきであろう。
少なくても「天国でどうしていらっしゃいますか」と声を掛けるのも彼らの慰めになろう。忘れられているのが一番つらいと想像される。

国と戦争に関係する者はあらためて幼弱な優越欲求や無知粗暴を諫め、敵対する国であっても勇気をもってその懐に飛び込み粘り強く外交を維維継続してもらいたい。
世界は一様に臆病になっている。強い者は争いも避けるが臆病者は暴発する。
吠えてるだけなら獸や動物の域を越えない。

国家観という言葉があるようだがそれ以前に「国家は存続するかぎり国民の幸福を保証し戦争回避を最大の責務とする体系」であってもらいたいと思う。うるさく言う人のそれは政治的世界の一用語にしか写らない。

注意深く為政者を観察し戦争の芽はどんな小さなものでも摘み取り続けたい。それは選挙と共に戦死者に応える重要な義務であろう。

今もし幸福な生活があっても、「これでいいですか」と常に声無き声と応答し続けたい。

本日昼の頸城平野。

お盆14日は柏崎市の木村茶道美術館へ。

2025年8月14日(木曜日)

本日午前はそよ風吹く懐かしい空。これが昼過ぎから相当にきつい暑さになった。そんなお盆の14日、妻の兄上と柏崎市の木村茶道美術館をご一緒した。

今年初めての美術館は涼しく第一展示室の茶碗展を席入り前に観た。28点の名碗はみな素晴らしかった。4番目に谷本光生さんの伊賀が現れてとても懐かしかった。昭和60年の新潟三越で初めて求めた茶道具が氏の茶入だった。

谷本氏自身が会場におられ、私が求めると傍に付きっきりで箱に入れ真田紐を結び名札をつけて下さった。このときまだ茶を習っていなかったが、やろうと決めた買い物になった。

加藤唐九郎の志野茶碗。

若尾利貞の鼠志野。

席が始まりました。

宗旦の竹一重切り花入。銘「ヨゴレ判官」
花はハツユキソウ、ワレモコウ、イトススキ。

釜は大西定林の「瓢形霰文
(ひょうけいあられもん」
古鏡の蓋が付いている。

 

素晴らしかった笹文の絵唐津水指。
お点前は江戸千家さんでした。

左に次客さんのお茶碗「御本三島暦手」
(ごほんみしまこよみで)
その胴に書かれた縦縞が暦らしい。
風情がよくてジロジロ見てしまいました。
拙主客は右の長入「赤楽馬盥(ばだらい)」茶碗。
夏の夢を思わせて素晴らしかった。

拝見。
宗旦の茶杓「弁慶」が見える。
気温が上がった昼に涼しいお道具組みだった。

床脇にひっそり紫陽花蒔絵茶箱。
(江戸末期)

最上屋さんお製のお菓子「宇治の里」を口にして南山園お詰めの抹茶「瑞宝」を美味しく頂いた。
ご一緒された方は茶席は初めてと仰ったが席の風情と館長さんの話を喜んで下さり、良い昼だった。

夕刻、理髪店に行った。あるじは、夕日が西に戻り始めましたねと仰った。暑い暑いと言っている間に暦が進み、知らず年かさを増やしているようだ。

来たる10月25日(土)は小島正芳先生の講演会「佐渡島の金山と良寛の母の愛」。

2025年8月12日(火曜日)

2020年以来4回目となる全国良寛会会長・小島正芳先生の講演会が来たる10月25日(土)樹下美術館で開催されます。

演題は「佐渡島の金山と良寛の母の愛」です。
母のふる里佐渡相川の橘屋と出雲崎橘屋は分家、本家の間柄でした。両家とも地元の名家でした。本家の出雲崎に嫁いだ分家の母おのぶは7人の子をもうけ良寛は長男でした。絶え間ない出雲崎での権力争いに巻き込まれる良寛は18才で出家し、岡山県の円通寺で長い禅修行に入ります。一方おのぶは天明大飢饉の年に47才で亡くなっています。

生涯母と佐渡を慕ったという良寛ですが母との間にどのような物語があったのでしょうか。小島先生のお話がとても待たれます。

このたび小島先生から以下の様な便りを頂きました。

「笑顔」と書かれたお手紙。

左手に錫杖(しゃくじょう)、右手に「鉢の子」を持った良寛さん。起き上がりこぼし人形のようです。是非見てみたいですね。
絵の部分を使って簡易なお知らせバナーにしました。

演題「佐渡島の金山と良寛の母の愛」
開催日時:10月25日(土)午後2時より
参加費:お大人お一人さま1000円
小中校生100円

どうか振るってご参加ください

お申し込みは樹下美術館お電話 025-530-4155または樹下美術館窓口でどうぞ。

昨日から雨がしっかり降り続きました。ひとまず十分だったのではないでしょうか。

お盆休みに入って。

2025年8月12日(火曜日)

昨日から私の医院は夏休み。10日の日曜日から数えますと6連休です。かって休みと自ら決めてはみたものの、その間には急患がいくつもあり、とても休みとは言えない時期が長く続きました。70才代後半から年も取り患者さんが減りましたので正月と春の連休は思い切って旅行に出るようになりました。

昨日は盆入りの前日です。部屋を掃除し、幾つか書類を書いた後開館している美術館に寄りました。丸テーブルの例のスケッチブックを見ますと最後のページまで描かれていました。新たに用意しなければなりませんので急遽スーパーへ行き、この度は試しに5色のマーカーも求めました。

スーパーのお盆の花。

店先は色とりどりで、お正月よりも華やかに感じました。
店を出て久し振りにゴルフの練習場へ行きました。劇的に飛ばなくなっていますので“少しでも正確に”が課題です。
案外振れましたのでとうとう300球も打ってしまいました。今月中にコンペがありますが果たしてどうなるのでしょう。

10月25日2時より全国良寛会会長さん、小島正芳先生の講演会「佐渡島の金山と良寛の母の愛」のお知らせを明日掲載致します。

昨日はよく雨が降りました。

お礼のランチ会。

2025年8月9日(土曜日)

去る7月13日(日)にフカミ美術主催の「ゑしんの里茶会」が催されました。その際二席のうち一席を樹下美術館で席持ちをしました。妻と私だけでは何も出来ませんので妻が稽古に通う有沢宗香先生はじめお社中9名さまのお助けを受けました。

前日の道具入れ、会場作りに加え宗香先生から不肖私の点前のおさらいをして頂きました。翌日は7回もの席の受付および水屋とお点前を万全に抑えて頂きお陰様で無事に終わりました。

本日はお世話になった皆さま、および主催のフカミ美術さんと髙田郊外の「プロヴァンスの12ヶ月」でランチをご一緒しました。

 


全員の方から短い挨拶も頂き、簡潔かつ人柄滲むお話に、またまた感心させられた次第です。

フカミ美術さんからバラを二輪頂きました。

 

今夕は満月、良い一日でした。

明日夕方は満月。

2025年8月8日(金曜日)

雨をもらった庭は生気を取り戻している。しかし芝生の壁際の一部など例年焼けたような感じとなる場所が数カ所ある。本日はそんなところに撒水した。

ひんやりした井戸水の撒水は癖になりそうで、今日も夕食後に出て芝生の一部に遣った。

終わってふと見るとまん丸の月。

 

調べると明日夕方が満月だった。


昔は生活の一部にもなっていた
グレンミラー楽団「ムーンライト・セレナーデ」

スタート時間を遅らせてもらったゴルフ。

2025年8月7日(木曜日)

本日木曜の休診日。日頃庭を手伝ってくださるK氏と米山水源カントリークラブを一緒した。天気は昨夜から本日午前までかなりの降水が見込まれていた。
8時21分のスタートに会わせて起床するとじゃんじゃん降っている。スタート時間を遅らせて貰えれば雨に遭う時間を少なく出来そうだった。念のためゴルフ場に電話をすると1時間少々後にしてくれた。

 9時30分ころ、スタート前のコース。
雨仕度をしたが、小降りに変わっている。

 

 

1ホール回ると晴れて来た。

 

K氏が写真を撮りましょうと言った。

48-52で丁度100。二ヶ月ぶりにしてはまあまあのラウンド、K氏は98だった。
大げさではなく、いつ最後のゴルフになるかもしれない年令になっている。明らかに歩くのも遅くなった。不思議な事だが気持の通りに足が早く動かない。
写真を撮りましょうは面はゆかったが記念に撮ってもらった。氏とは何十回ラウンドしただろう。

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