楽しめた第20回卯の花音楽祭。

2024年7月16日(火曜日)

近頃珍しくブログを中3日空けてしまいました。13、14日と一泊で旧友夫婦に会うために出かけ、15日は頸城区希望館で「第20回卯の花音楽祭」に出かけたため慌ただしさほかもあり、休ませて頂きました。

本日は20回目となった卯の花音楽祭です。海の日の祭日午後、雨は上がり会場ホールはほぼ満席でした。不肖親族として来賓席が指定され、お隣は音楽研究と地域の音楽振興なかんずく作之助研究に長年尽力された元上教大教授後藤丹先生でした。新潟市から駆けつけられた先生はかっての病を越えられて全くお変わりなく元気で嬉しい限りでした。

始まると大潟町小学校の9人の児童たちが列を作り場内を「夏は来ぬ」をアカペラで歌いながら入場し、ステージで「いま、地球(ふるさと)は美しい」を歌いました。子ども達の歌声は自然で爽やか、良いオープニングでした。
以下大潟区のオカリナアンサンブルのスタンド・アローンのアンサンブル、吉川区のコーラス「ゆりかご」の夜明けのうたの情感、頸城区の合唱団「火曜会」の信長貴富作曲の二曲は一種ドビュッシー風でリリカル、大潟町中学校吹奏楽部の「秘技Ⅱ」は難解だったが懸命な演奏から宗教的な神秘性が深く伝わり、大潟区のシニアコーラス「さざなみ」の「青田川のうた」は後藤丹先生の作曲で何とも爽やかな親しみにあふれ、前半の最後は大潟区のコーラスおおがたによる作之助作曲「漁業の歌」のヨナ抜き調は在りし日の地域を彷彿とさせました。

帰路の芙容の花
一日花だがその日を明るく彩っている。

休憩を挟んで後半はアンサンブル・オビリーによる弦楽四重奏のゲスト演奏、最後は卯の花合唱団による作之助の「吉野山」と「夏は来ぬ」でした。

地域にいると弦楽四重奏を聴く機会は少なく、バッハとモーツアルトのほかタイトルに「愛」が付く四曲のメドレー、サウンド・オブ・ミュージックメドレー、ラストは夏は来ぬでした。クラシックの演奏家はしばしばその楽しみと裾野を広げる貴い役目を負っていますが、それを遺憾なく発揮される熱演でした。

最後は混声四部合唱の「卯の花合唱団」による作之助作曲「吉野山」」および「夏は来ぬ」の演奏でした。前半でコーラスおおがたが歌った「漁業の歌」は在りし日の漁村の姿で、吉野山は南朝の吉野山における王朝の悲しみです。慌ただしい現代のひととき、佐佐木信綱の詩と作之助の曲によってやまと心に触れたひとときでした。

3時間余、児童を含めて4回の「夏は来ぬ」を聞きましたがみな素晴らしかったです。特にアンサンブル・オビリーの演奏、わけても後藤丹先生編曲の『夏は来ぬ」を歌うために生まれている卯の花合唱団のコーラスは涙がこぼれそうになるほど素晴らしかったのです。

エンディングで高らかに終わる夏はきぬの曲調はドボルザークの「新世界より」の「家路」とダブりました。「夏は来ぬ」は5番まである故自在な変化が可能で、一生懸命演奏される限り何度でも聴ける文字通りの名曲だとしみじみ感じました。

それにしても入場料無しでこれだけ楽しめる音楽会は本当に貴重です。

そういえば前日夕刻は新幹線「上越妙高」駅でキンコンカンと鳴る駅メロ「夏は来ぬ」を聴いてきたばかりでした。

梅雨の晴れ間。

2024年7月12日(金曜日)

しっかり降ってはまた上がる。梅雨の晴れ間でチョウやツバメはつかの間の陽光に当たりながら活発に動き、空は澄んで雲が面白い。

潟町のブッドレアにアゲハが来る。
アゲハはブッドレアが大好き。

なぜこんなに造形的なのだろう。

午後の往診の道で。
山で積乱雲になれない雲。

この空がまだ続くならば今年は長梅雨ではないだろうか。今のところ作物には良いらしい。

「二貫寺の森」へ、オオウバユリを見に初めて行った。

2024年7月11日(木曜日)

およそ小雨模様の本日、晴れ間も見えた午後、姥百合の状況を大潟水と森公園に電話して尋ねた。すると、現在1カ所で確認されていますが、「二貫寺の森」では何カ所かでつぼみがみられているようです、という返事。
二貫寺の森は初めて聞く名前だった。さっそく調べてみるとおおよその場所が解った。上真砂の交差点の東、(株)コスゲに隣接する森一帯がそうだった。着くと駐車場と管理棟(施錠されていた)があり、如何にも湿り気の多そうなフラットな場所で、植物と樹木が濃密に茂っていた。

管理棟

薄暗い森を、ここなら姥百合(オオウバユリ)があるかも知れない、と歩き始めた。

間もなく現れるツリーハウス。

ガマズミの赤い実がきれいだ。

気持ち良いくらい茂るシダ。

スマホの歩数で3000歩ほど歩き、10本前後のオオウバユリを見た。

背の高さに違いはあるが大潟水と森公園の電話どおり眼前にする事が出来た。おそらく先端のつぼみに見える部分は更に伸び、そこにいくつもの花を着けるものと思われる。

姿は崇高で、うす暗い湿地の中に繁茂する無数の植物を代表するかの如く真っ直ぐに堂々と伸びていた。
開花はいつ頃なのだろう。まず1週間おきくらいに来ては眺めてみたい。

以上が一回目の二貫寺の森歩きでした。初めて歩く湿った場所は何が出てくるのか少しく緊張するが、随所でひらひらするハグロトンボに心なごまされた。

ハグロトンボ

普通であればこのような場所は荒れ果てて一歩も踏み入れることが出来ないのだが、珍しい事にここはクズやクサギの繁茂も全く見られず、かって読んだ閉鎖林を想像させる望ましい森林環境が保全されている印象を受けて驚いた。

二つの河川による永年の作用でこのように豊かな自然が形成されたとある。しかし関係者の維持管理努力は並大抵ではなかったのでは。「公園」と名付けられていないのも良いと思った。

笠原文右衞門(大川:だいせん)の墓碑移転などのニュース。

2024年7月10日(水曜日)

昨日のこと館内のノートに以下のような記載がありました。
“2年ほど前から館長のブログを読んでいる。遡って見いていると2016年5月に自分たちの墓の記事があって驚いた。今回先祖の墓や碑の仕舞いに当地を訪ねたが、それも終わりほっとし,念願の樹下美術館を訪ねた”という主旨が書かれていました。

墓と勝海舟が揮毫したという墓碑は幕末から維新期、当地域の文化、教育、基盤構築に大貢献をされた笠原文右衞門(大川:だいせん)のもので、大潟区蜘蛛カ池(くもがいけ)の瑞天寺にあります。
現地で寺院西につづく小高い観音山を登ると中腹にレンガ塀がほどこされ広い階段が付いた立派な墓所へと出ます。かって一度訪れたことがありましたが、二度目の2016年はさらに歳月を重ね、傷みが進行している様子を残念に思い,、三十三観音や他の墓碑などと共にに記載していました。

昨日の上越タイムス一面。

新聞によれば、地元の「郷土史友の会おおがた(小山將会長)はじめ有志の方々とも相談され、墓は近隣の寺に、墓碑は山を下りた瑞天寺境内に移設されということでした。
当館を訪問されたご遺族の慶子さんはシンガポール在住ということ、遠くで長年心配され今日を迎えてほっとされたにちがいありません。遠路本当にご苦労様でした。当館にもお寄り下さり誠に有り難うございました。

笠原大川は近郷近在の若者を教育し、あるいは新堀川掘削に成功し一帯の農業用水路を確立されました。不肖筆者の高祖父・玄作は大川に勧められ江戸で蘭学を学ぶことができました。
また大川の残した資料には、玄作が蛮社の獄事件で幕府に追われる高野長英を匿っている嫌疑があるので二人で出てくるよう促す役人からの緊迫した文書が残っているなど、私どもと浅からぬ縁がありました。

懐かしい認知症の人と家族の会の方々 北信からのお二人。

2024年7月8日(月曜日)

本日昼、上越の「財団法人 認知症の人と家族の会」から23名の方が来館された。前日柿崎区上下浜温泉に一泊されお寄りになった。かって2002年、この方々には大島画廊でボタニカルアートの初個展を行った際お手伝い頂き売上金の一部を寄付させてもらった。

その時の同じお顔数人の方とお会いしとても懐かしかった。当時は介護保険が始まって3年目、様々な機軸が生まれ「痴呆」が「認知」症」へと公式に呼び名が変わった時期に当たっていた。

年一度の公式な慰安行。
明るさの中に連帯と強さが
感じられる。

帰路につく方達。

カフェのほか陶芸室のテーブルでもお茶とケーキでくつろいで頂いた。介護や支援の事情は変遷を重ねるがこの方達が行っている根底は一貫し、情報量の多さも特筆すべきことだと思う。

皆さまがお帰りのころ長野県は北信からお二人お見えになった。過日一度訪館され、今回友人を誘われた模様。
お話すると石州流茶道をされ、昨日は上越市板倉区で行われた「ゑしんの里茶会」に出られたと仰った。前回、当館窓口で茶会のチラシをご覧になっての参加、私達の後同じ席に座られたとは。熱心に展示もご覧になり閉館までお茶をされたとお聞きした。
過日私たちの須坂行きなど長野県なかんずく北信と上越の近さをあらためて認識した。

大雨と酷暑の趣き、家に籠もるという人が多い中、活発に動かれる方がいらして頼もしく思われる日だった。

ゑしんの里記念館の茶会。

2024年7月7日(日曜日)

本日日曜日は梅雨の晴れ間となり、妙高連峰がよく見える板倉区は「ゑしんの里記念館」で茶会があった。裏千家茶道宗米先生お社中、宗季さんの薄茶席と煎茶道の方円流宗園先生お社中の紅茶席が持たれた。

薄茶の宗季さんは妻の友人で長年互いに往き来している。このたび初の席主を務められ緊張されたことと思う。一方でご準備、本番と心砕きながらその時間を一心に楽しまれたのではないかと想像している。

お心入れの楽しいお道具組み。
お棚はかって私も使った
ことがありとても懐かしかった。

「水」をテーマに地元作家さんの陶芸作品を取り入れ、滝、波、清水、蟹、水面、水鳥など清涼なイメージが随所に配され、清々しいお席だった。チェンバロを弾き英語堪能な人がどこから見てもお茶人の佇まいになられ、ご努力の年月を思わないわけにはいかなかった。

紅茶席のしつらえ。

ウエッジウッドのカップ&ソーサーに丁寧に淹れられた紅茶は美味しく、注がれる水音は涼しかった。時にはこのような趣向も有り難いと思った。

窓外の妙高連峰と周囲の池。

建てられて後荒れてくる施設を時に目にする。しかしここは広大にも拘わらず館の内外とも良く手が入り、炎天の日にあって気持ち良く過ごす事が出来た。

お席持ちの先生方、お点前の社中の皆さま、清々しい気持になって帰りました。本当にご馳走さまでした。

汗をかきかき夏の大潟水と森公園、新たな出会い。

2024年7月6日(土曜日)

7月第一週の土曜日。何も予定が無い日の午後は大潟水と森公園か大池いこいの森公園に足が向く。行くまでお目当てがあるわけではないが、行けば新たな出会いや興味深い再会がある。

自生するオカトラノオ。

同じくヒヨドリ草。

ジャノメチョウとドクダミ。

数年ぶりのコムクドリ。

冬は雪、夏は亜熱帯。

マムシグサの実。
次第に赤くなる。
(ヒロハテンナンショウを訂正)

 

賑やかなホタルブクロ。

湿地に黒いアゲハが一頭
すでに来ていた。

目の前を横切った
明らかにモンキアゲハ。

モンキアゲハは上掲のように印象的な飛翔を目にして驚くだけだったがこの度はちゃんと撮った。この蝶を見るのはいつもこのゾーンだった。調べるてみると通り道が決まっているらしい。

眼前に降りた。
日本最大のアゲハだという。

二頭いて並んで吸水
左の個体にも前翅に隠れて白斑がある。
色あい違いは春型と夏型?又は雄と雌?

暗い木立の中にキビタキ。
カメラを向けると飛び立った。

芝生の広場で沢山のネジバナ。

暑くて面倒でも、行けば何かに出会え、次の楽しみも生まれる場所、自然公園。大潟区の大潟水と森公園や頸城区の大池いこいの森公園はそんな場所だと思う。
この度は汗を掻き掻き、特に数年ぶりのコムクドリ、まさかのモンキアゲハとキビタキの後ろ姿、賑やかなネジバナなどを目にした。
望遠レンズを着けずに歩いたがちゃんと撮るために次回は装着して行きたい。

夕ご飯の茄子の煮浸し。

妙好人の話 カニ。

2024年7月4日(木曜日)

昨日の当欄で丁度良い梅雨と書き、最後に世相などを愚痴った。愚痴りは万人のものであろうと思われる。良くあれ、良くしたいの裏返しが愚痴で、そう頻繁でなければ悪いことでもなかろうと弁護している。
それにしても去る青年、どうか調子が上向きますよう心から祈っています。

本日木曜は身勝手ながら休みの日。新潟から書家で良寛研究家の小島正芳さんが来館された。不明な自分は先生にお会いするととても楽しい。本日は良寛の実家の凄まじい困難、出家と修行、浄土真宗が盛んな北陸地方における「全てを阿弥陀に任せる」「妙好人」の話が特に興味深かった。「阿弥陀が代わりに悩んでくれる」という概念が普通にあるらしいのだ。
いわく言い難い禅を英文で海外に紹介した大仏教学者、大哲学者の鈴木大拙によって宗派が異なる「妙好人」の概念が確認されたところも宗教の混淆性というような面が現れて非常に面白かった。

有名な「天上大風」では何度も質問させて頂いた。先生とお会いするといくら質問しても足りない。今秋11月3日予定の先生の講演会を沢山の皆さまとお聴きできること、今から期待したい。

ブリキのおもちゃのようなサワガニ。

閉館近くお客さまが引けたあと芝生でゴルフボールを打った。すると小さなカニと出会った。毎年のように今ごろ庭のどこかに出てくる。カサカサと横歩きする沢ガニを嫌いな人はまずいないのでは。どんなに愚痴りたい時でも愛嬌あるカニを見れば忘れることが出来そうだ。少なくとも彼らのいるところにはほどよい水分があり麗しい。何処かに「カニ神社」があってもおかしくない気がする。

本日カフェの丸テーブルにまた楽しいイラストがあった。

あたかも「梅雨どきの幸せ」

アマガエルはまるで目の前のものを見ながら描いたようだ。宜しければまたお描きください。

今のところちょうど良い梅雨 胃腸に悪い世界。

2024年7月3日(水曜日)

梅雨に降られ出水する地域があるが当地は降っては晴れるを繰り返し、田畑や庭に都合の良い空模様が続いている。農家の方が今のところ良い具合で、出穂を促す「穂肥え」という作業の時期だと仰った。色々な段取りがあるものだと聴く度に思う。

本日昼、青々とした水田。
雨雲が山へ退いている風。

 日陰を作る大きな枝を伐採。
明るくなった庭。

かって枝の伐採は主に風通しを考えて行っていた。今年はそれもあるがあらためて花の陽当たりを考えるようになった。奥の方にあった花も色々掘って前に出してやっている。

話変わって本日外来に来られた若い方が最近胃腸が調子悪いと仰り、近頃のニュースや動画が恐ろしい事や荒々しい事ばかりで気持が落ち込むとも述べられた。まさにその通りですねと彼をしっかり見て全同意した。
終わらぬ戦争、絶えない陰惨な事件、狭く荒々しい自己主張、長い間肝心な政治や選挙からも真心が伝わらない。

しばらくSNSはじめニュースや動画などは観ないようにしましょう、私もそうしますとはっきりお伝えして薬をお出しした。

飛躍的に生活は便利になっているが、僭越を許して頂ければ、主だった世界は自画自賛ばかり、外見重視、内実希薄、胡散臭くて恥ずかしい。庭や生きものに余計眼が行くようになり、身近な人や美術館や診療所に見える人に安堵を覚えるようになっている。

眼が良く見えるようになってから不思議な事に匂いまで敏感になった。

梅雨時の花修行?

2024年6月30日(日曜日)

しっかり降り、時に止む。一日中そんな時間が続いた本日日曜日。薄暗い空の下で三種類の白い花が咲いている。ポツポツ咲き始めた鉄砲百合、モサモサと白い房を付け下げるカシワバアジサイ、ヒョイヒョイと白い円錐が下向くオカトラノオ。

鉄砲百合。

柏葉アジサイ。

 

オカトラノオ。

6月は本日で終わり、梅雨が本格化している。この時期の白い花はしばしば雨に降り込められる。特に鉄砲百合の優雅な花が,、この先連日の雨に打たれ、次第に傷んでいく様子は痛々しい。今年痛めつけられても翌年また同じ時期に咲きまた傷む、、、。

美しい貴婦人はかって何かあって罪滅ぼしでもしているのだろうか。それとも自ら高みに上がるためあえて雨に身を任せ“花修行“と言うべきことを厭わず行っているのか。

花に宗教など考えられないが、同じ生きものとしてそれは人間だけのものとも言い難く見える時がある。

本日郷土の偉人前島密を顕彰する会の皆さまが来館。

2024年6月29日(土曜日)

去る5月23日、郷土の偉人 前島密を顕彰する会からお二人が、当館(当院)に保存されている前島密の扁額にまつわる話を、この先皆で伺いたいと来館されていた。
その後予定を調整し、本日土曜日昼前、市議の滝沢一成氏を会長に前島密記念館館長利根川文男氏と会員ご一行10名様が約束どおりやってこられた。
私の説明は午後予定で、皆さんは午前中から扁額が附与されるきっかけとなる明治時代からの音楽家小山作之助夫人まつ子さんが晩年疎開で住んだ家(作之助の生家)と作之助の墓碑、されに扁額が掲げられたいた大潟区の当医院などを回って来られ、樹下美術館で昼食まで摂って頂いていた。

話のテーマは当家に何故密翁の扁額があり、それに関係する前島家から小山作之助の後妻として嫁いだまつ子さんと作之助の弟で医師の小生祖父杉田直次郎の開業など、扁額に関わる縁についてだった。

扁額「正眀堂」は明治42年初秋に前島密が書いたもので、「正しく見るところ」の意味が込められている。大潟区潟町の現在地で開業した直次郎のために揮毫されたもので、医療機関にはぴったりの三文字だった。
まつ子さんは前島家のご息女の家庭教師として入り、後年まで家族同様に暮らされた縁から同家の養子格とされていた。

もとはと言えばまつ子さんは秋田県の生まれで、若くして両親、兄弟に死別、天涯孤独のまま一人上京し前島家でご息女の面倒を見ながら家庭教師兼女子大学通学をするようになった才媛の人。

扁額「「正眀堂」
真摯さと美しさが滲む。

直次郎の待合室にあった屏風。
南摩羽峰の筆による。
その上の欄間に扁額が掛かっていた。
屏風は別所で撮影。

南摩羽峰(綱紀)は幕末の福島藩士で学者、文人。戊辰戦争で負け、越後高田藩で謹慎させられていた。屏風は当時のものと考えられる。明治になり綱紀は新政府の太政官を経て東京大学教授になっている。

晩年のまつ子夫人。
小山作之助還暦祝いで。

才媛まつ子さんが書いた
「杉田医院」看板。

看板も扁額前後に直次郎のために書かれたものであろう。私が開業するまで古い医院の玄関に掛かっていた。汚れを落とそうと迂闊にも雑巾で拭いたところ文字が半分溶け落ちてしまった。

ちなみに晩年(昭和15年)の直次郎(前列左)、その隣祖母トワの兄・野口孝治元衆議院議委員(立憲国民党)、その右祖母トワら。
父母は孝治の後ろにいる。トワが抱いているのは誕生したばかりの姉。祖母は12人も子供を産みげんなりしています。

本日のご一行とともに。

皆さまの中にお二人、高校時代の同級生が居て64年ぶりということ、あっと驚きとても嬉しかった。

夜になって上掲関連写真を皆さまに届けるべくプリントした。近くお届けするつもり。
熱心に前島翁を研究し、顕彰され、何よりそれを楽しんでおられるのを目の当たりにし、奇しくも大昔の級友と出会い、ご一同から元気を頂き、畏敬と感謝を禁じ得ない。

しっかり準備もせず臨み脱線ばかりして反省しています。

以前一部の写真を掲載したことがありました。

後日追加です:樹下美術館の常設展示画家倉石隆夫人・翠さんは小山作之助のお孫さんの一人。小学生のころ夏休みの宿題の絵をまつ子さんに描いてもらって提出したという。返された絵の裏には担任によって「上手すぎて、上手すぎて」と評が書いてあったらしい。

食べ物が美味しい季節。

2024年6月28日(金曜日)

本日しっかり曇った日。一日中仕事場にいて少々肌寒さを感じていた。しかし終えて玄関をあけると蒸し暑い。美術館の庭で小一時間来年の為に草花に施肥をした。

一昨日から一泊で病院にいたため数日運動というものを全くしてない。それだけなのに足もとに弱さを感じていた。暮れるまでの小時間、しゃがんだり立ったり精一杯歩いた。

本日一日特別な事も無く、夕食を掲載しました。

患者さんで料理や菓子づくりがとても上手な人がいる。上掲の押し寿司はご自宅の笹を使われ、今年はそれがとても大きくてしっかりしているということだった。梅雨時の笹を用いた料理は美味しくてきれいだ。

サラダ。

サバの料理。
トマトソースかけムニエル。

今年も半分が過ぎ,もうじき合歓の花が咲く。良くなった眼でしっかり見ておきたい。

白内障を手術して 倉石隆を大評価される村上市のお客様。

2024年6月27日(木曜日)

本日左眼白内障の一泊入院手術を受けて帰ってきた。去る12日に右を終えていたので両眼無事済んだ事になる。デリケートな場所なので安定まで気を付けなければならないと念を押された。

それにしても良く見える。
帰宅の車中で思った。“今までぼんやりしか見えないので、脇見も振らず前を見て運転をしていた。しかし今度はよそ見に気を付けなければならない”と。

そしてもう一つ、鏡を見て思った。“ああ自分はこんな顔をしていたのか”とひどくがっかりした。たるみやシワがくっきり、ヒゲはもっと丁寧に剃らなければならない、いや色々服装も気を付けよう”と真剣に思った。

本、新聞、パソコン、スマホ、、、眼を細めなくても拡大鏡の世話も要らずありありと見えるのは何よりだ。ブログの制作画面もしかりで、誤字脱字、変換ミスなど長年皆さまにお掛けした恥ずかしいご迷惑も減りそうである。

昨日手術後の病室から見た雲。
(眼帯のまま撮りました)

本日樹下美術館のナツツバキ。

この年でこんなに良く見えてバチが当たりそうであるが、早くも自らの老残を目の当たりにした。もっとご不自由な人もいらっしゃるのだから、あらためて親に幸運を感謝しなければと思う。
二度の手術をされた先生、様々で真摯なスタッフの皆さん、大変お世話になりました、感謝しています。

 

私の留守中村上市からいらしたお客様。倉石隆を大評価され、ご自分も持っておられると聞きしました。嬉しい限りです。

本日髙田から中高の同級A君夫婦が見えた。年取ると何度お会いしても初めて会うようで楽しい。

患者さんたちには大変ご迷惑をお掛けし申し分けありませんでした。良く見えるようになりましたのでまた頑張ります。

同じ百合で姥(うば)と乙女。

2024年6月25日(火曜日)

去る日のことあるお二人と庭を歩いた。まず南の庭の少々日陰で姥百合(うばゆり)の苗を観た。昨年2年目だったが花が咲かず、今年に期待しているところ。やや陽当たりに問題があるやに思い、先日被っているカエデの枝を一部切った。

姥百合は大潟水と森公園に数カ所自生していると聞いている。しかし実際には開花前だったり後で花を観たことが無い。かってある人に苗をもらったが絶えてしまい、一昨年ネットで一苗購入して植えた。

一方別の場所に今春同じくネットの苗を2本並べて植えたが、ふた月経つのにただじっとしているだけである。

3年目の苗。
葉の数だけは倍になったが、
花芽の気配が無い。

 上掲2枚は今年の苗。

さて当館には齋藤三郎の姥百合作品が3点ある。

現在展示中の齋藤三郎の
姥百合の鉄絵皿。

上掲2点は
当館収蔵の齋藤三郎作
「姥百合の圖」

姥百合に関して今年庭が駄目なら大潟水と森公園で観なくてはならない。もう数週間すれば開花時期、そろそろ長い花芯を伸ばすのではないだろうか。

次は乙女百合。
何故これを挙げたかと言えばお分かりのように姥百合の後だったからで、案内したお二人は花が終わり『乙女百合」の札が付いている茎だけを見て「今度は乙女」と声を出して笑われた。

開花していた頃の乙女百合。

齋藤三郎の百合にはほかに笹百合と思われる染め付け皿が1点あり、乙女百合は無い。どこかにあるかも知れないが氏の場合一種貫禄と野趣満点の姥百合を特に好まれたのかも知れない。

それにしても同じ「百合」で「姥」と「乙女」とは。前者に同情したくなるが、図鑑で見る姥百合のスケール感と貫禄は一見の価値がありそうだ。今期は是非大潟水と森公園で花を観なくては。公園に電話をして状況を確認をしないと今年も見損なうかも知れない。

※かって10年ほど前、燕温泉から赤倉に向かう道で左の谷間遠く姥百合が咲いているのを一度だけ目にしたことがある。

雨の日曜日、北海道の話、車の昔話。

2024年6月23日(日曜日)

よく雨が降った日曜日、午後は美術館でお顔馴染みの二人からそれぞれ北海道旅行(還暦祝い)の話と昔話などを聴いてくつろいだ。運河の街のお菓子やガラスの店、エスコンフィールドの楽しさなど北海道は外国の話のようだった。幸せにも夫婦でイタリア貴族のコスプレをされ、写真で初めて見るご主人の男前ぶりに驚かされた。

雨に濡れるアオハダの木。
雨の日の木肌が美しい。

もう一人のご主人は私が髙田に下宿していた中高時代、ご近所のとある集合住宅で過ごされたことがあったという。鮮明に記憶している大きく頑丈な住宅で、同級生の女子も住んでいた。
こちらは車の話だった。多分昭和30年前後、バス以外まだ自動車というものに乗る機会が無かったころ、学童たちは自動車に乗りたくて仕方が無かった。
そんな時代ご主人の身内がタクシーで退院することになったという。当日子供たちも病院へ行き、皆で一緒に退院の車に乗ったという。退院記念日が自動車記念日だったと言う出来事であろう。

ちなみに私の自動車記念日は小学校の帰り道、念願かなってあるアイスキャンディー屋さんの小さな丸い窓がある一種不思議な車に乗せてもらった。車は速く走ったが床に大きな穴が空いていて怖かったことの方を覚えいる。

後年床に穴が空いている車にもう1回乗った。昭和50年代初めのころ、ある二次会の帰りに代行を頼んだ。雪が降り始めた夜、後を走る代行の車がスリップして動けなくなり、頼まれて私はその車に移ってハンドルを握った。二人のスタッフが押して無事脱出したが代行の車の床、ペダルの手前に穴が空いていて雪の道が見えた。
晴れやかにも身内の退院日に皆と初めて乗った黒塗りであろう車に比べれば、私のは惨めなものであり、“さすが髙田育ち”の一語に尽きる。こちらのご主人も本物の侍の如き男前の人。

閉館して静かになった庭。
カフェのガラス越しです。

梅雨入りは例年より遅いと聞いている。晴れ間の庭はどんなだろう。

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