花頭窓、二十三夜塔、庚申塔、社寺

11月24日のお茶会 会場100年料亭「宇喜世」の多彩な窓。

2019年10月15日(火曜日)

何かと催事が多い今秋、来る11月24日(日曜日)は、上越市仲町3丁目の宇喜世(うきよ)で茶道の席持ちが予定されている。
当日は二席で、一席は山口宗好先生のお濃茶。他を小生宗玄が薄茶を差し上げることになっている。

大きな会場のため、昨日の祝日に主催のフカミ美術店主とともに床の間の掛け物を持参して具合を確かめ、待合や本席、そして水屋の様子などを下見させて頂いた。

 

 

当日の「越後 城下町髙田茶会」のちらし。

以下当日の案内です。
●会場:宇喜世(うきよ) 電話 025-524-2217
●期日時間:11月24日(日曜日)
●時間は午前9時20分~14時まで50分~60分おきに6席が設けられる。
●参加費用お一人6000千円  濃茶、薄茶2席の席料およびお食事券付き
●お問い合わせ:フカミ美術 電話 025-522-1815
長野県からのお客様の予定もあり緊張を禁じ得ません。

江戸末期に創建され、100年料亭と言われる国登録有形文化財「宇喜世」。今日見られる主な様式に明治大正時代の贅が尽くされている。

 

この広間を仕切って薄茶席を設けます。

 

 

向かって左の脇床に立派な花頭窓があった。

 

右にも脇床があり幅の広い花頭窓が設えられていた。

 

 

さらに拡げたような広間の窓。

 

 

案内して頂いた離れの一室に丸枠の飾り障子。
流れの上に蔦が下りている意匠。
以前この部屋に入ったことがある。

東側に庭を見る花頭窓。

 

 

ある部屋で見た繊細な細工が施された障子窓。

 

 

この部屋の天井にカゴ目を瓢箪形?に縁取った大きな明かり障子があった。
畳の一角に炉が切られているので茶室であろう、何とも手の混んだ設え。

部屋ごとに異なった灯り採りや窓が見られ、いずれも極めて贅沢に作ってある。入ったのは一部だけだったが、ほかの部屋でも面白い窓をみることができるにちがいない。機会があればまた見たいと思う。

主として禅寺から広まった花頭窓は宗派を越えて広がり、茶室や城郭、神社あるいは書院、さらに料理屋や住宅などへと一般化したという。宇喜世は何度も来ているが、花頭窓には気がつかなかった。年取って新たに見えるものがあるのは、嬉しいことだ。

下見を終えてフカミ美術さんで茶を飲みながら懐かしい写真を見せて頂き、くったくない話に興じた。
宜しければどうか晩秋の城下町茶会にお越し下さい、心よりお待ち致してます。

柿崎区は猿毛(さるげ)の庚申塔。

2019年9月7日(土曜日)

上越市髙田で34,7℃を記録して暑かった本日土曜日。秋のせいか、気のせいか8月の似たような日よりやや涼しく感じた。
不思議なことに影が長くなってくるとどこかへ出かけたくなる。午後やや遅く柿崎区は猿毛(さるげ)へ庚申塔の探索に行った。目指す石塔はネットで見ていたもので、はっきりと猿が彫り出された立派なものだった。見当たらない場合を考え、人に尋ねるべく写真をプリントして行った。

一通り猿毛から城野越(じょうのこし)まで走って回ったが見あたらなかった。猿毛に戻りコンバインを手入れしていた青年に写真を見てもらうと、先の二股を城野越へ上らず、下の道を水野の方に行くとありますよ、ということだった。

道は容易で、遠くはない所にあこがれの石塔があった。

 

道路より4,5メートルほど高い所に三つの石像がある。
真ん中が目的の庚申塔。

 

形の良い石にバランスよく各部が彫り出されている。

 

最上部左右に日月の文様。向かって左が月でしょう。

 

怒髪の青面金剛が丁寧に彫られている。定番どおり六臂のうち上方の右手に宝剣、左手に法輪が見られる。

 

足許に三猿が別々に配置されている。
丸みに影が付くほど良く彫られ、一般のよりも仕草の表情がよく分かる。
金剛の法衣の裾にも表情。

 

中段の左手で合掌するショケラの髪を掴んでいる。
右手は何を持っているのだろう。
これまで見たショケラの中では最も明瞭に彫られていた。
※ショケラ:半裸の女人といわれ、諸説あるようだが意味はよく分からない。

 

向かって左の石像の右上に日輪、左側に弓のようなもの、右手が剣を掴んでいるように見え、顔もいかつそうだったため、これも庚申塔ではないかと思った。中央の石塔とは風化の程度が全く異なり、両者にかなりの時代差を感じた。

もう一度全体を眺めてみると、やはり立派だ。

 

左に張った格好良い石は原石そのままなのか、削ってこしらえたものか。中央に向かって全体を深く削り、本尊と三猿を浮き出させるなど手がこんでいる。周囲の雲のような起伏のあしらいも上品で、沢山見ているわけではないが、近隣の中では出色の塔ではないかと思った。こんなに見応えのある石塔を彫った石工(いしく)とは何時の時代の何処の人だろう。依頼した猿毛の住民ともども立派なことだ。
石の種類は今後の課題。ブラタモリで見るタモリは誠に詳しい。

 

周囲は田畑で、お年寄りがネギの畝を整えていた。
石像背後の大杉が枯れてしまったことを残念そうに何度も口にされた。

 

合掌する石仏。頭部の様子から馬頭観音かもしれない。
庚申塔の青面金剛と異なり柔和な表情だった。

 

猿毛集落の様子。
一年に6度、かって庚申の夜に行われていた「庚申さま」の集い。
それを3年続けたら村人は石塔を建てて供養した。
いつまで続いたものか、せせらぎの音がする村落には今も素朴さが漂う。

 

猿毛からさらに上がる城野越。
路傍で見つけた一輪のタカサゴユリはかって民家から種が飛んだものか。

良い午後だった。

今夕の夕焼け 齋藤尚明氏のひねり鎬(しのぎ)文茶碗 孝厳寺の花頭窓と菱窓。

2019年9月5日(木曜日)

何日も雨模様の日がつづき、昨夜などは寒くて閉口した。
それが本日はほぼ晴れとなり、暑さが戻り、高い空に賑やかなすじ雲が見られた。
夕刻は東の米山から西は権現岳まで空一杯に茜が拡がった。

 

頸城野に四方立つ茜の雲見れば旅の空かと思う夕暮れ

一昨日好評のうちに陶齋親子展が終了し、本日午後齋藤尚明氏を訪ねお借りした鎬(しのぎ)の大壺をお返しした。その折、展示室で見た鎬をひねった抹茶茶碗に眼が止まり、それを求めた。
鎬(しのぎ):器の側面に溝状にほどこした文様。面取りは平板だが鎬は凹みを有している。ちなみに“鎬を削る”のしのぎは刀の上部に横に彫られている溝の部分を指し、ここを削るほど激しくやり合う意味になるという(尚明氏)。

 

胴や口の造形と高い高台の面白みが眼を引く。
深く削ぐため厚みが必要で少々重くなっている。
彫りを浅く全体を薄く軽く、一回り大きくすれば数段良くなりそう。

これを原型に、鎬を増減させたり、全体に辰砂や呉須を掛け凹凸を強調したり、高台にバリエーションを加えればさらに色々楽しめそうだ。

 

尚明氏宅への道中、寺町1丁目の孝巌寺を覗いたら何本もサルスベリが咲いていて美しかった。

 

以下の写真は今年6月の同寺です。窓に惹かれて撮りました。

左右の花頭窓には飾りの桟(さん)があしらわれ変化が面白い。
正面上の堂々とした菱窓も鮮やかで格調が感じられる。

樹下美術館のノートから記載とイラスト 庚申塔その20,板倉区から上石さん親子。

2019年5月3日(金曜日)

樹下美術館館内に5冊のノートが置かれていて、皆様にはご自由に感想やラストなどを記して頂いています。
今期すでに沢山記載されていましたので、本日はごく一部ですが紹介させて頂きました。

●展示について
・静かな空気の中で美しいものを拝見いたしました。有り難うございました-東京都Mさん。

・春間近に当館を拝見出来てようやく長い冬の開けるのを感じられます。辰砂のやわらかな色合いが心を落ち着かせてくれました。「粉雪が舞う」、雪国の深い心と迫力を体感出来ましたー上越市Yさん。

・ここにこのような方がおられたのか。今はもうそういう気持ちでいっぱいです-Yさん。

●カフェと庭について
・樹下美術館のカフェと庭のデッキと植物はとてもすばらしくて、ステキです。庭に出ると妖精の世界にタイムスリップしたみたいで、気持ちが良いです。ここに来ると気持ちが良くて、1日いてもいごごちがいいです-長岡市Yさん。

ほか当館のカフェでプロポーズされ、三回目の結婚記念日に来館された、と記された方もおられました。
沢山お書き頂いているノートから、樹下美術館と皆様のさまざまな関わりを見ることが出来、張り合いを感じます。

●次はノートにお書き頂いた皆様のイラストを掲載させていただきました。

 

生き生きしたキャラクターですね、6年生になる春休みのSさん。

 

迫力ある庭の山桜が描かれていました。

 

 


80才をお過ぎの方の絵です。
私も見た事があります。「松が峰の桜満開でした」と書かれていました。

 

生きているような猫は、美術系大学ほやほやの一年生Sさん。

 

マイセンのカップ&ソーサーがレトロなおしゃれにぴったり。

 

赤ちゃんから美系の方まで、どなたがお描きになったものでも、みな楽しませて頂いています。
来館されたお客様もきっと喜んでご覧になっていることでしょう、どうかまた沢山お描き下さい。

さて本日は開館からほぼ終日美術館にいた。皆様にご挨拶をしたり、庭いじりをして幸せだった。
昼前、思いも掛けず板倉区福王子から上石さんが親子でお見えになった。
庚申塔に興味を持ち始めたばかりの昨年11月中旬、県内最古の庚申塔といわれる石塔を見るべく板倉を訪ねた。
福王子が目指す場所。しかし不慣れな地域で人に尋ねながらの探訪となった。
その時偶然お合いし、十二神社へ案内した下さった方が上石さんでした。
父が石塔や地域に詳しいということで、現場からお父様に電話してくださった。

お父様は歯科を受診中だったが、目指す庚申塔のほか、隣接する公民館敷地の石仏の事も伝えられた。
お陰で十二神社で懸案の庚申塔のほか、公民館でさらに一体の庚申塔と二十三夜塔まで見ることが出来、感激した。

その後、お父様から御地の石仏や神社関連の縁起などについての研究資料を幾つもお届け頂いた。
特に庚申塔に関係した詳細な記述は分かりやすく、当時混乱していた頭を随分整理することが出来た。
頂いたお手紙に来年樹下美術館を訪ねたい、と記されていた。
そして本日、清々しく晴れた祝日、お二人がお見えになった。
午前から美術館に居てよかった。初めてお父様にお目に掛かった。

カフェの上石さん親子。

温かく丁寧なものごし、控えめで知的な方たち。
お父様から、記述や文献の貴重さ、福王子の由来、地域に根ざした尼寺、平塚神社分霊碑、ご子息から拙ブログを読んで下さっていたことなど、、、。
短い時間だったが昔から知っている人に出合ったような、安心で心楽しいひとときだった。
本日は遠くから樹下美術館をお訪ねいただき、本当に有り難うございました。

昨日,十日町は松之山の百体庚申塔と松代は洞泉寺の庚申塔を訪ねた(庚申塔その19) 仕事して良かった平成の最終日。

2019年4月30日(火曜日)

このノートのカテゴリに「花頭窓、二十三夜塔、庚申塔、社寺」がある。
そもそもは昨年6月上旬、上越市は黒井の大慈院で見た火頭窓の感激から発し→上越市浦川原は顕聖寺の二十三夜塔への興味→10月魚沼行きで見聞した庚申塔という順序で対象が拡がり、新たにカテゴリが出来た経緯がある。

庚申塔は近隣の板倉区、浦川原区、三和区、柿崎区、大潟区、頸城区、髙田公園を訪ね、さらに東京都目黒区さらに京都と奈良でも訪ねた。
その後雪と寒さのため、今年は3月3日を最期にひと休みしていた。

昨日、日曜日は何とかお天気が持ったため、午後かねて念願の十日町松之山は黒倉の百体庚申塔を観に出かけた。
途中松代は室野の路傍で予定に無い庚申塔に出会った。庚申塔探訪には思いがけない遭遇があることも楽しさの一つ。

合掌し、弓、矢、宝剣、宝輪を持った青面金剛(しょうめんこんごう)の石塔。

 

ほかに二十三夜塔と地蔵尊および馬頭観音が並ぶ。

 

上った石段途中に庚申の文字塔があった。

石段を上りきると曹洞宗の寺院「洞泉寺」だった。

 

堂々たる大寺の境内には雪が残っていた。
室町時代初期から続くらしい曹洞宗の名刹だった。

 

境内の指定文化材、大ケヤキの足許に石仏群。
衣服やショールをまとったようにほぼ全身苔に包まれている。

 

洞泉寺を後にして進むと、星峠の棚田へ至る道標があり、そちらに寄り道した。

 

連休とあって棚田のビューポイントは混雑していた。

これだけ人が集まっても観光商売をせず、棚田を維持出来るのは農業に強いプライドがあるからだろう。ほかに棚田独特の大規模な営農方法もあるのだろうか。

その後、黒倉集落で道を尋ね、100体庚申塔の駐車場へ着いた。
到着するまでの山あい谷あいに拡がる棚田群の多くが、良く手入れされていることに大変驚いた。山間では荒れて放棄された水田をよく見ているので余計だった。

 

百庚申塔の近くに雪が残っていた。

 

駐車場に車を駐め石段を上ると、わずかに小高い場所に庚申塔群が広がっている。
向かって左下に黒倉から上ってきた道路が通っている。

 

多くは庚申塔と彫られた自然石の文字塔だが、所々に青面金剛を彫り出した仏像塔も見られた。やや南に小さなお堂が建っていた。

 

二体ならんだ青面金剛の庚申塔。

この像に寄ってみた。

 

合掌し、他の4臂で弓矢、宝剣、法輪を持っている。
上方左右に丸い日月紋様が見える。

足許に約束通りの見ざる言わざる聞かざるの三猿(さんえん)と、二鶏(にけい)とおぼしき部分が覗えた。
とても素朴なデザインだった。

向かって右の青面金剛像。
左右二体は様式と姿が似ている。同じ石工(いしく)あるいは師弟の制作なのか。

お堂を覗くと、全体の本尊と思われる青面金剛像が安置されていた。
六臂(ろっぴ・六つの手)であるが、合掌せず左手にショケラ(半裸の女人)と考えられる小さな像を握っている。他の五臂で弓矢、宝剣、槍?と法輪を持っていた。

 

愛らしいショケラの髪を掴んでいる。何故ショケラなのか、定説はない。
男だけの集まりが基本だった庚申待ち行事。当時のこと、女で身を滅ぼさ
ないようにと、いさめを込めたものか。

猿は見当たらなかったが二鶏が彫られていた。

夕刻から夜明けまで経念仏、食事、茶話、時には歌舞あるいは飲酒や囲碁将棋、さらに一休みもあったという60日ごとの庚申の集い。
お開きとなる邪鬼が去る夜明けを告げる鶏は、猿とともに庚申塔定番シンボルの一つ。

数えてみなかったが100体もの庚申塔が集められている場所など全国的に極めて希ではないだろうか。明治時代前半のころ、篤志家の発案で当地に100体を造り、ここに集めたという。悪事を謹み、先祖を供養し、豊作と地域・家内の安全を願った庚申信仰。篤志に賛同した他地域からの寄進もあったという。
当時の農村の暮らしは、今読んでいる「生きづらい明治社会(松沢裕作著 岩波書店2018年12月5日第三刷発行」にも詳しい。
辛く大変だった明治の農村。
いま庚申塔に出会うと、少しほっとする。

ところで100庚申の駐車場と、園内はきれいに管理されていて気持ち良く、黒倉の人々の丁寧なもてなしの心が伝わってきた。
昨年掘川紀夫さんに大地の芸術祭に連れて行ってもらったが、このたび見覚えある場所を何カ所か通過して懐かしかった。

さて十連休中の本日は平成最期の日。意識した訳では無かったが、予め案内を配り開院した。30名近い受診者があり、入院が必要な方も来られ、開けて良かったと思った。
樹下美術館の昼は、17台の駐車場が珍しく満車になっていた。

本日をもって御退位される両陛下のご健康を心からお祈りしたい。

上越市大潟区は潟町一区の火防地蔵尊。

2019年4月23日(火曜日)

上越市は大潟区潟町の西端、旧国道沿いに地蔵尊のお堂がある。
数年掛けてお堂と門が改築されて大変きれいになった。本日4月23日は祭礼に当っていた。
薄明かりが残る夕食前に寄り、食後暗くなって再び訪ねた。

 

夕刻の火防地蔵を門前から見る。
ここの地蔵には門があり、それも立派に改築された。
瓦も下見板も壁も提灯もみな新しくなっている。
地蔵を守っている小さな地域が良くも立派にしたもの、と熱意に驚かされる。

 

門をくぐり日が暮れたお堂へ。

 

地蔵尊。
帽子、前掛け、袈裟衣ほか全てが新調されている。
初めてまじまじとお顔を見たが、笑みを浮かべ、大変良い表情。
花も新鮮でお地蔵様は何とも晴れがましく映った。

 

お賽銭を上げると当番の方が見えて、お札を頂いた。

 

当地蔵尊は1700年代中頃に発する言い伝えがあり、仏は柿崎区は猿毛山中の石工がこしらえたという。
かって地蔵が大火を知らせたと言われ、火防地蔵尊と呼ばれている。地域はまた地蔵町とも称される。
お合いした当番の方は、火の用心とともにお地蔵さんは顔も良いのでみんなが大事にしている、と仰った。
なるほどである。
近くの西念寺さんが読経されていると聞いた。
一体の仏が地域を幸せにしていると感じられ、9月23日には秋の祭礼がある。

大潟区潟町の旧国道沿いにあと二カ所、六地蔵が祀られている。

髙田公園、春の庚申塔(庚申塔その18)、根上がり松。

2019年3月3日(日曜日)

今冬あこがれていた髙田公園内の庚申塔を見たのは1月下旬だった。
小林古径美術館の宮崎館長にお聞きしたその石塔は、意外にも良い場所にあった。新雪があった日で、場所を聞いた髙田育ちの妻が果敢に先導した。

 

雪の日の庚申塚(塔)参り。池にかかった橋を渡った後小高い場所へと向かう。

 

それから一ヶ月少々の本日、所用で通りがかり気になって寄ってみた。公園は雪も消え、春陽のもと大勢の人が思い思いに憩っていた。

 

訪れる人も無く、静かに佇む石塔。

 

蓮弁風の台座、三猿。合掌する青面金剛は残りの4臂で弓矢、斧、剣を握っている。
上方左右に日月紋様が彫り出され、なかなかの格調。

たまたま下を二人の女性が通りかかり、上がってこられた。これは何ですか、と訊かれ、簡単にお話すると、知らなかった、面白いですね、と仰った。

ところで、むかし猿の檻があった場所の背後に築山がある。通ると、かなり見事な根上がり松が見えたので近づいてみた。

 


複雑な根上がりを見せる赤松。

根上がり松は土が自然に流出して根が現れるものと、庭園で意図的に土を盛って育て、順次土を除きながら仕立てる二通りがある。
果たしてこの松はどちらだろう。山のテッペンにあり、かなり傾斜が急なので自然に現れた印象を受けた。幹が微妙に反り、バランスを取っているようも見える。

本日公園の帰りに、芝生の肥料を50キロも買い美術館の庭に撒いた。例年晩秋に行っていたのを、今年は春先に試みている。まだ半分ほど撒いたところだが、今年は回数を増やし、よりきれいな芝生になるよう関わってみたい。

冬の連休は急ぎ足で京都と奈良へ その3(庚申塔その17)八坂と奈良町の庚申堂。

2019年2月13日(水曜日)

庚申信仰、あるいは庚申行事に興味を持ったのが昨年6月。
このノートにカテゴリーまで設けて気ままに地元周辺を見聞していた。その中で、庚申信仰と関係行事が盛んだったのは地方であり、長く政治文化の中心だった京都、奈良には何故か少ない、という事を知った。

そこへこの度の京都、奈良行き。調べで、京都および奈良市内に庚申堂、あるいは庚申信仰に関係する社寺があることが分かった。いずれも訪問予定の範囲に収まっているので是非もなく訪れた。

以下は去る10日日中の京都は右京区の猿田彦神社と、東山は金剛寺の八坂庚申堂、そして夕刻の奈良市の奈良町庚申堂の様子です。

 

 


山之内庚申と呼ばれる平安時代の創建になる猿田彦神社。
訪問日はやや閑散としていたが、庚申の縁日はとても賑わうという。猿田彦神社は私の地元ではまず見ることが無く、リアルな猿のお迎えは嬉しかった。さすがは京都、京洛3大庚申の一つとして古式漂う神社だった。

ところで、
猿は庚申(こうしん)の民間信仰で重要な位置にある。関係としては、まずその名から申(さる)として直結。また国造り神話における尊(みこと)を天上から地上へと導いた猿田彦の道しるべ、および農耕と生産の司としての意義。さらに人の身中にあって悪事の元凶とされる三尸(さんし:三匹の虫)を制止する青面金剛(しょうめんこんごう)の働きを手助けする存在(見ざる、言わざる、聞かざるを以て)などであろう。

しかし、神道から発した猿が何時、何処でどのように道教の三尸説と、さらに仏教の青面金剛と交わり、一大信仰と行事に結び付いたか私にはよく分からない。事実は、60日に一度集う守庚申、のちの庚申待ち行事は平安時代の貴族、僧侶から鎌倉の武士へ、そして広く江戸期の庶民、さらに明治、大正へと、長きに亘り継続されている。
信仰の内容は現世利益、先祖供養、地域存立、娯楽に親睦など多義的である。そのなかで猿田彦神、猿、青面金剛のそれぞれは、存在理由を最大限に発揮し、時代と地勢にストーリーを合わせながら、人々を引きつける力(特に地方の農漁村において)を有していたのは本当のようだ。

何かくどくなってしまいましたが、以下今日の京都、奈良の庚申堂は幸福そうだった。

まず八坂庚申堂。


平安時代の創建という庚申堂。門前に庚申尊の石塔。
上部に三猿(さんえん)があしらわれ、日本最初と読める刻文がある。貫禄十分な碑だった。

 

 

 

 

 


くくり猿を買い、願い事を記入して奉納する。みな率直で愛らしい。
“欲を捨てると願いが叶う”とは、上手く考えられているフレーズ。

猿田彦神社は庚申日以外は閑散なようだが、八坂庚申堂は地の利を活かして大賑わいしていた。着物の若い女性が沢山いて、彼女たちから中国語が聞こえてくる。しかし言われるほどの大声は控えられているように映った。庚申信仰の三尸思想は元々中国の道教に由来しているのと春節でもあり、人気になるのだろう。

当日午後遅く、前記した本願寺伝導院を最後に、京都を発って奈良へ向かった。
以下はその日、夕食までの時間に出かけた奈良庚申堂と奈良市奈良町の様子。

 


暮れる通りを人力車が通った。

 


奈良庚申堂にて。一帯は元興寺の伽藍だった地域。
町の庚申信仰は、奈良時代の元興寺における天武天皇と青面金剛逸話に発しているようだ。

三猿が水飲みの水盤を支えている。本尊という青面金剛は良く見えなかった。

 


軒下に仏を記した提灯。庚申さん、青面金剛、吉祥天女、地蔵菩薩が左右に並ぶ。
青面金剛と地蔵菩薩は分かるが、なぜ吉祥天女なのだろう。

 


すっかり暮れ、月が上っている。屋根の猿が凍る空を見上げていた。

以下は奈良町の一角。
下町の風情が漂い、町の明かりが寒さを和らげてくれる。

 


身代わり猿(京都ではくくり猿)を軒下に吊すのが奈良町の流儀らしく、とても良かった。
そういえば京都の八坂庚申付近でも、そこここに軒下のくくり猿を目にした。

 


街角の吉祥堂の看板。ここは奈良町資料館でもある。大きな身代わり猿が下がっている。


脇からみた資料館。吉祥天女が冴えている。ここは店舗でもあり、猿の人形ほか土産を売っている。
資料館のホームページに吉祥天女と奈良町の関わりが出ていた。
宴の振る舞いに吉祥天女が関係して奇跡が起きる話は、どこか庚申待ちに於けるご馳走とそのご利益を思わせた。いにしえの貴族版庚申さん?に繋がる話なのか。

来る時は道に迷ったが、帰りはスムースにホテルに戻れた。
以下はその時の町並み。

 


軒下の魔除け。

 

 


酒蔵、漢方薬店、カフェ、レストランの明かりが暖かい。

 


7時から宿で夕食。老舗ホテルはビーフシチューが似合う。昼食を摂らなかったのでゆっくり噛みしめて食べた。

庚申堂と古い町並み、、、。しっくり安心の取り合わせだった。

京都奈良で三カ所の庚申堂を参拝した。小ぶりながらいずれも参内できる境内と堂を有している。普段地元で庚申塔の石塔ばかりを目にしているため、規模の大きな庚申堂と神社を訪れ、信仰の原型と歴史の深さに触れて満足だった。

再三の冗長をお許しください、次は最終回、奈良の寺にします。

冬の連休は急ぎ足で京都と奈良へ その2 京の窓めぐり、深く優しい詩仙堂。

2019年2月12日(火曜日)

午前9時にタクシーさんと待ち合わせてホテルを出発。窓から窓へ忙しい京都見物となった。

西本願寺からスタートした。本当はここで遠目にでも、映画「利休にたずねよ」で聚楽第として撮られた飛雲閣を見ることが出来ればと思ったが、そもそも普段の公開はなく、さらに修復中とあって叶わなかった。
しかし壮大な境内で華麗な唐破風門を見て、転輪蔵の花頭窓を見ることが出来た。

 


転輪蔵。中に赤い回転式の書架があるという。どんなものだろう、一度は目にしたい。

西本願寺を辞して金閣寺へ。

 


鹿苑寺金閣。私の中で銀閣寺と共に元から花頭窓の寺として漠然とあった。
輝かしいのに静かに見えるのは不思議だ。黄金が邪悪を跳ね返しているからか。

 


実は金閣寺はこのようにごった返していました。

 

次は大徳寺。大徳寺内の各塔頭は公開日など特別な日以外は参内出来ないが、門と玄関は眺める事が出来る。

 


大徳寺仏殿の花頭窓。

大徳寺塔頭の光臨院の外部。

 


大徳寺塔頭、梅がほころびかけていた光臨院の唐門。客待に設えられた花頭窓が爽やか。

 


光臨院の広く明るい花頭窓。

他に三玄院など、いつか公開日に訪ねて禅味茶味の院内を拝観したい。

続いて東山は銀閣寺へ。

 


道すがら見たおそば屋さんの二階が花頭窓。

 


金閣ほどではなかったが賑わっていた銀閣寺。庭は頑張っているものの、建物は大丈夫だろうか、やはり古い。いずれ全面修復が必要では、と心配した。新しい銀閣というのもイメージしづらいが。

 


休憩所の花頭窓の前を次々に人が通り過ぎる。

銀閣寺を出て哲学の道を眺めた。

 


春を待ちきれない人達が歩いたり憩ったり。

 


銀閣寺近傍で見た半円の窓。わずかに裾が広がっていてこれも花頭窓か。

詩仙堂へ。
昭和43年早春の夕、大学を卒業した生徒全員が京都に集まった。私は前泊して嵯峨野を巡り、最後に詩仙堂を訪ねた。バスを降りた道中、着物を着た二人の女性と出会った。就職が決まり、京都で着物を着たくて東京から持参したと、晴れやかに話をされた。時代は巡り、いま大勢の外国の人がレンタルで着物を着て、楽しそうに歩いている。

 

 


詩仙堂の上品な窓を眺めるのは、このたびの目的の一つ。
庭は思ったよりずっときれいに手入れされていた。季節は違うが、昔はもっと草木が茂っていた印象がある。


非常に複雑な屋根の構成そして窓。庭の静寂と建造の複雑が対比的。

 


堂内に架かっていた「関」の一文字。関は禅の重要な概念の一つで、悟りのために越えなければならない境地の関門。
茶席でもよく関の掛け軸が架かる。この額も“ここにたやすく入るな”という喝を表している。

 


時を知らせる巡照板(じゅんしょうばん)は禅寺で用いられる鳴り物の一つ。
「生死事大」は「光陰可惜」が続く禅語。生死は頭脳・感覚ある者の絶対命題であろう。仏道を歩む者はなおさらであり、寸暇を惜しんで修業せよ、と告げている。禅であればさらに作務を行い座れ、と取れる。

病院時代に再訪したので、この度三度目だった。寒さもあろうが、場所の空気が深く染みこむ気がした。

 


ししおどしが響く詩仙堂は自然と座る人が多い。

深くて優しい詩仙堂から近傍の野仏庵へ。

 


下地窓の外腰掛けは大きな石仏と隣り合わせ。野仏庵はかってのある事業家の庵。門をくぐり少々急な路地を上る。


御抹茶を飲んで一息ついた。

ここがこの度で最も北に当たる。
再度下って禅林寺(永観堂)へ。

 


唐破風門とずらりと並ぶ花頭窓にうっとり。

 


禅林寺境内のお堂。左右の丸窓がのどか。
モミジの名所ということ、変化に富んだ広大な境内を再訪したい。

 

さらに近くの南禅寺へ。

 


講堂側面の花頭窓。

 


三門といい南禅寺は何でも大きい。


三門の左右にある山廊の花頭窓。

湯豆腐も食べずに時は過ぎる。

法観寺まで来た。

 


法観寺は八坂の塔前で尺八を吹く人。


陣笠を被ったワンちゃんと一緒。尺八はとても良い音色で、妻はおひねりを渡しに行った。

最後に失念していた本願寺伝導院に寄ってもらった。

 


サラセン様式が加味されているというかなり奇抜な建物。

 


三階部分の拡大。花頭窓の原型を思わせる窓を見ることが出来た。

ついに奈良行きの時間が近づき、京都駅でタクシーとお別れした。我がまま勝手な駆け足を助けて頂いた運転手さんに感謝を禁じ得ない。
何十回と訪京する人がいるけれど私は七度目で、みな駆け足。機会があったら禅林寺と南禅寺でゆっくり過ごし、大徳寺は芳春院、光臨院などの公開日に是非再訪したいと思った。

さてこの日ほかに、庚申関係の山之内猿田彦神社、八坂庚申堂を廻った。その模様を奈良の庚申堂と併せて次回記載させて頂きたいと思います。

とりとめなく非常に長々となりました。

冬の連休は急ぎ足で京都と奈良へ その1 宵の八坂や中華など。

2019年2月12日(火曜日)

平成31年が明けた正月、新年の計に京都、奈良行きの計画が何となく上っていた。
急だったが切符と宿が取れて、去る2月9日午後、上越妙高駅を発って出かけてきた。予報どおりの寒波で寒かったが、奈良京都に一泊ずつした。

初日夕刻に京都駅に近いホテルに到着したものの、チェックインカウンターは何筋も長蛇の列。中国の春節に相当する時期で、大変な混雑だった。
列に並ぶヒマがもったいなく、クロークにカバンを預けて宵の街へ出かけた。宿から近い八坂神社→八坂庚申堂はこの度の目的地の一つだった。

30数年前の大晦日に、子ども達と夜の八坂神社を訪ねた折の煌々たる提灯と渦巻く人出が脳裡に残っている。この日も若者を中心に賑やかだった。

 

 

 

帰路の食べ物屋さんの二階の窓。所変われば窓変わる?窓を見るのも目的の一つ。

 

八坂神社からの帰路、入ってみた細い路地。両側にひっそっりと割烹が並ぶ。

 

その静かな路地に「静」の張り出し。お静かに、ということなのだろう、徹底している。いつかこの通りの店に入ってみたい。一見さんで大丈夫だろうか。

京都で中華というのも変かもしれないが、7時に四条河原町の店を予約していた。初めてなので見つけるのに少々迷ったが、良い散歩だった。

 

冬の夜の祇園花見小路。

四条河原町のビルの五階が店。京都の人達が普段使いされている雰囲気の店だった。片隅に座り、空いたお腹を満たした。
京都だからと言って、おばんざいや京料理への執着は全く無い。京都で中華を食べてみたい、それだけのことだったが、期待以上に爽やかな料理で、美味しく頂いた。

 

好物のピータン。これまで食べた中で一番美味しかった。

 

滑らかな口当たりと香り良い水餃子に熱い紹興酒を少々。

 

白湯のおそばに豆板醤を溶いた。

 

中華なのに店はずっとジャズが流れている。
帰りのレジでは誰が歌うのか「My One And Only Love」が聞こえていた。

お目当ての一つ八坂庚申堂を明日に持ち越しにして、ホテルに戻ると、チェックインカウンターはすっかり空いていた。

 

※2月9日と11日の記事は、出かける前に二日分を予約投稿したものです。実際には出かけていて、ややこしくなってしまいました。大変申し分けありません。

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