花頭窓、二十三夜塔、庚申塔、社寺
午後の板倉行き。
土曜日、曇りがちの午後板倉区へ出向いた。
以前見残した庚申塔に出会えるかと思って行った。途中に母が健在だった頃、よくお世話になったいたくら桜園のある曽根田から関田方面へ向かった。
さくら園に近づくと見える田中の社。当時とても気に入ってよく撮った。
15年近く経ってそのままは嬉しい。
さくら園の近くお宅の庭に咲く秋明菊を飽かず眺めたのが懐かしい。
山道に入って出合ったオヤマボクチ。
この花を見ると得をしたような気がする。
※後日追加:鮮やかな花の色、葉の形状などからオヤマボクチでは無さそうです。アザミの種類でしょうか。
下関田に二基の庚申塔。重量感のある文字塔だった。
写真は文字が判然としませんが、近づくと分かります。
農山村を走って出合う庚申塔には
時空を一気に越えて100年、200年前の人々と出会ったような旅情を感じる。
近くの六地蔵。赤い帽子と黄色の前掛けが可愛い。
地元の皆様の心が温かい。
やや進んで背の高い庚申塔。
強く深掘りされた文字、頭の輪。
2019年1月2日のブログに掲載した同区の庚申塔によく似ている。
モデルがいたのかと思わせる自然な表情。
みな大切にされてることがよく分かる。
秋風のそば畑。
光ケ原高原は何十年ぶり。以前の道はもっと怖かったよう気がする。
紅葉の季節に再訪してみたい。
去る日曜日午後の柏崎行き その2市立博物館から木村茶道美術館へ。
去る7月19日日曜日の柏崎行きの続きです。
前回は大潟区犀潟の圓蔵寺の大日如来像と作者の石工高橋一廣を考察した冊子を、さらに海辺の青海川駅の様子を綴らせて頂いた。
梅雨の合間の貴重な晴天のもと、半日足らずの隣市の探訪は楽しかった。
大橋と海を見る旧街道の高い所に、円形の出羽三山参拝の供養塔{巡拝碑)があった。
最も信仰厚い湯殿山を真ん中に左羽黒山、右に月山。
一帯の随所に西国や秩父そして出羽三山の巡拝供養の石塔が見られる。
青海川駅のすぐ手前の青海神社下に大正元年と読める庚申塔があった。
庚申行事としては遅い時代くまで行われていた模様で感心した。
14時半すぎに柏崎市博物館へ。
ショップを見ると小生の絵はがきが販売されていた。
古い統治、農魚業と生活、町と村、信仰と祭、鉱業(石油)、地質、戦争(大戦、鯨波戦争)、地震災害、生態系、現代の文化・芸術とスポーツなど、風土とその歴史が網羅され興味尽きなかった。
生活史や信仰では、米山を東西に挟む上越市柿崎地域との往来に納得し、格調高く展示された木喰仏は特に心うばわれた。
明治期の火災で閻魔堂内から救出された閻魔様。
館内ではこの像のみ撮影が許されている。
庚申塔は生活の安堵の証しのように感じる。大規模な凶作や災害のもとでは講は維持出来なかったに違い無い。
そんなことから塔とその周辺の風景を眺めるとき、ひと事ながらほっとするのを覚えるのである。
当日最終の目的は木村茶道美術館でお茶を飲むことだった。
15時45分ころ赤坂山の駐車場に入った。
コロナの世相で果たして開館と呈茶はどうなっているのか、遅い時刻でもあり気がかりだった。
相変わらず手入れの良い壮大な庭を急いで美術館へ上がると、受付の方が4時半まで大丈夫です、と仰った。
待合に正岡子規の短冊が掛けられている。
夏帽や不起とはされて濠に落つ
(夏帽やふきとばされて濠に落つ)
夏の流動する大気がよまれていた。
庭に面した竹の長椅子に座る間もなく、最後の席が始まった。
もったいないことに、私一人のために裏千家の方がお点前をされた。
席主さんの説明では、コロナのために南北の戸を十分に開け放ち、小人数ずつ分けて座り、マスクをしてのお点前を続けているという。
私どもも今週末、呈茶の予定があるのでとても参考になった。
穏やかなお点前で美味しいお茶とお菓子を頂いた。
手付の竹筒花入れに、矢筈薄(やはずすすき)、白花秋海棠(しろばなしゅうかいどう)、金水引(自信がありません)が涼しかった。
向こうの菓子器は現在同館で展示中の神山清子作の信楽。
神山さんは同市に縁があったとお聞きした。
茶杓は宗旦作銘「弁慶」、黒中棗(満田道志作)、茶碗は三代道入(ノンコウ)の黒楽平茶碗。
ふと訪ねてノンコウのお茶碗で服すとは!
夏のお席で黒味のお道具は心引き締まり涼やかだった。お道具組みは表千家のお仕事ということ、感心しました。
5時間に満たない柏崎。西の一部を巡っただけですが、海、山、博物、お茶とお菓子など沢山頂きました。
去る日曜日午後の柏崎行き その1大潟区圓蔵寺から青海川。
過日、ある方から新潟県石仏の会上越支部で発行された「石工の系譜-梅沢光廣とその弟子ー」という冊子をお借りしました。
石仏石塔は、ふとしたことから十三夜塔と庚申塔に少々の興味を抱き、散策がてら漫然と周辺を見ていただけでした。
それでもたまに貴重な資料をお持ち下さる方がいて、恐縮しながら有り難いことと感謝しています。
冊子の冒頭に当地大潟区は犀潟の圓蔵寺境内に安置されている大日如来の素晴らしさから、制作者である石工(いしく)とその系譜が丹念にまとめられていました。
冊子を見始めたばかりでしたが、圓蔵寺(えんぞうじ)は美術館から数分の場所。お天気の良い7月19日日曜日昼過ぎ、最初に訪ねました。
清々しい圓蔵時
境内の手前から無縫塔、大日如来座像、宝篋印塔(ほうきょういんとう)
丸みを帯び先が尖った無縫塔また卵塔はかっての住職の墓碑。
宝篋印塔は仏舎利や貴重な経典を収めたもの、あるいは墓碑など。
上品な光背を背負った大日如来様。生き生きとして端整な表情が素晴らしい。
冊子において、この石仏は柿崎区黒岩の石工・高橋一廣による1886年(明治19年)の造立であることが確認されています。柿崎、刈羽から離れた大潟区犀潟の一廣作品は大変珍しいという。かっての優れた石工は高い教養と技術を身に付けていたことが述べられていました。
さてこの日、久し振りに柏崎市立博物館を訪ねることにしていました。数年、庚申塔探訪や天神様祭によって同市を訪ねる機会が増えていたため、「まとめ」的に博物館が浮んでいました。
柏崎は地形に起伏の変化があり、海岸の岩や赤坂山周辺の赤い土などを見ただけで心が弾み、社寺や石仏石塔が随所に見られるのも嬉しいのです。
当日は珍くよく晴れ、本日は一応前半として途中の風景を載せてみました。
米山インターで国道へ降り、米山大橋を青海川へ下りて行きました。
柏崎はマリンスポーツが盛んです。この日も青く穏やかな海を楽しむ様子がうかがえました。
昭和50年代後半、私たちは30フィート級のヨットを所有し、同市に出来たばかりのマリーナに係留していましたので、ヨットは大変懐かしいのです。
以下は日本海に一番近い駅、青海川駅の様子です。
米山大橋の直下はサケが遡上する谷根川(たんねがわ)。
採魚と孵化・放流場があり、「さけます展示施設」を見て回りました。
色々道草をしてしまい、時間が残り少なくなりました。このあと急いで柏崎市立博物館へと急ぎました。
次回にこの続きを記したいと思います。
本日樹下美術館へご来館の皆様、有り難うございました。
感覚的な寺院・松代の長命寺 何故?を考え、自分たちにも克つ。
昨日土曜日の外出の続きで、頸城区の公園や自然センターの後、十日町は松代に向かった。
これまで松代、松之山は何度も行っているが、この度だけは、いささか遠く感じた。浦川原が思ったよりも奥があり、大島区が広いためであろう。だが遠ければその分旅情がつのるので、問題なしだった。
〝橋を渡ってお参りする〟訪ねたのは松代の長命寺。
確かに、確かに、橋を渡る。正面に山門。
渡るとすぐ、実に甘い香りがした。満開のユキヤナギがあり、それでは?と妻の話。鼻を近づけるとしっかり匂っている。
仁王像がある立派な山門をくぐると、本堂には青地の卍が二つ掲げられている。青い地色には何か由緒があるのだろうか、清々しい。境内に雰囲気の異なる作りの庭が所々設えられ変化に眼を奪われる。
白衣観音の板碑。
日清・日露戦争および太平洋戦争の戦没者追悼と刻まれていた。
仏舎利、あるいは供養塔と言われる十三重塔(じゅうさんじゅうのとう)。
ほかに千手観音像やすっきりした宝篋印塔(ほうきょういんとう)あるいは立派な無縫塔などの石仏・石塔があり、仏性あらたかな雰囲気に浸れる。
コロナの犠牲者の慰霊と無事な収束を祈って鐘を叩かせてもらった。
当寺は曹洞宗らしく山を背負い、豊富な清水が境内を巡っている。
ひと周りした後、出口へと歩むと清水を用いた手水があり、あらためて手を浄めて退出した。
観音様の手前に花。ああ、これはコショウノキに違いない。
そばへ行って匂いをかぐとほのかに甘い香りを放っている。
石仏や庭・建物を観て、水音や鐘の音を聴き、
行き帰りに花の香りを嗅ぐ。とても感覚的な寺院だと思った。
樹下美術館も長命寺のように色々と心がけなければならない。
秋、大銀杏の黄葉を楽しみに再訪したい。
およそ四時間近くの外出。お天気に恵まれ無事に帰宅した。
美しい自然と寺院を巡った。春は人間だけをのけ者にして、ほか全てに光を注いでいた。
何もいま無理して希望や誇りを求める気はしない。事態はそんな軽いものではないのではないか。
新型コロナウイルスにうちひしがれながら、ひたすら何故?を繰り返し、突き詰めた方が光が刺すような気がする。
〝自粛ばかりでは駄目なのだ〟
よく分からないが、〝ウイルスに克つ〟と同時に、なにがしか〝これまでの自分たちにも克つ〟のでなければ本当の収束にはならない、と考えている。
年末~大晦日に上京し鎌倉を訪ねた-その3。
二泊の旅行にも拘わらず長々と書いている年末の東京鎌倉旅行記は今回で終了です。
さて31日朝、前日の雨は上がり、夜半からの風で鎌倉の雲が吹き払われ、空と海は真っ青。まさかの富士山が岬の向こうに姿を現していた。激しく立つ白波も冬の風情として文句なしだった。
これ以上何を望もう、喜んで七里ヶ浜の歩道を歩いた。
(午前8時35分頃の海)
真白き富士の嶺、緑の江ノ島、そしてそして真っ青な相模灘。
常緑樹の江ノ島は冬でも緑色なのだ。
年を経ても長い休みは取れない身分。貴重な時間で色々見たいので、いつものようにタクシーを頼った。
本日のドライバーさんは年配の紳士。さあ行きましょうの一声で出発した。
よく分からないながら、北へのぼり東をかすめて終了のコースになるようだった。
長谷寺から始まった。
清々しい花頭窓が連なる大きな観音堂。
正月に向けた華やかな五色幕が風に揺れる。
十一面観音菩薩像はあまりに近く(実はかなり距離があるのだが)、大きさと輝きに圧倒された。
拝観した観音ミュージアムのパンフレットから。
館内のほっそりした幼顔の十一面観音を中心に33体の観音を拝観。
揃って大きな円板に浮き彫られた掛け仏は誠に優美だった。
いにしえの仏師の技と心に比べ現代造形の技と心はいかなるものであろう、といつも思案する。
それについては進化をせずただ変化(私にはまだ十分に理解できないと言う意味で)を模索するだけの残念をやはり払拭できない。
これは行き着くところ作り手だけの話ではなく、観る者ともに日常の苦楽が全く異なってしまったからなのかと、考えている。
飽くことなき経済活動が金にならない芸術活動を抹殺してしまった?結局幸福の総体はゼロッサムゲーム?そんなことで終わてしまう話ではないと思うのだが、どうだろうか。
大仏様の高徳院へと回る。
日本晴れの大仏様。
建造物だと分かっているけれども、何故これほど落ち着いていられるのか教えて欲しいほど。
続いて海蔵寺。
鎌倉の寺院には岩窟が多くて驚く。
それによって神仏の神秘性がより伝わる。
神仏混淆、寺院の鳥居も自然に感じられるようになるから不思議。
同寺の庫裏であろう、数寄屋作りが誠に清々しい。
私共の雪国ではこのような建物はまず成立しない。
さらに訪ね進んだ浄智寺の門にも正月飾り。
日本晴れといい、すっかり新年のおもむき。
花はまだ先だが、手入れされた梅林は目を引き、是非再訪したい。
広大な境内で巨大な伽藍に圧倒される建長寺。
青空を写す滑らかな池の庭で一息。
寺巡りをしていても中々僧に出遭えない。
日円覚寺ではじめて僧侶のお姿を見ることが出来て嬉しかった。
(折角のお寺、若い僧が通り過ぎるだけで十分、私たちの前にもっと現れて欲しい)
最後に念願の丸窓が見られる明月院へ。
正面に台杉が何株も植栽されている。
たまたまお会いした庭師さんは良い感じの人だった。
あこがれの丸い窓。
この時期、火鉢に鉄瓶が掛かる情景は何ともご馳走。
路地を脇へ入ると生け垣に餌台が設えてあり、雀が沢山来ている。
明月院を最後に午後二時近く寺巡りは終了した。
運転手さんとは駅でお別れ。座席が心配だった復路の横須賀線は1000円の追加料金でグリーン車に座わることが出来、ひと安心だった。
一泊二日の鎌倉は雨と晴れそれぞれに趣きがあった。多様な庚申塔を目にし、随所で江ノ電を見た。急ぎ足だったがそれぞれ特有の表情をした歴史的社寺を巡ることが出来たが、もう少し鎌倉時代を勉強しようと思った。
狭い路地や辻はみな奥ゆかしく、美味しそうなお菓子を求め、絶品のてんざるを頂けたのも幸運だった。何より青々とした相模湾の彼方に現れた富士山は貴重な冥土の土産になった。
前日妻に七里ヶ浜の遭難の話をしたら、初めて知ったと表情が暗くなった。一日経って空が晴れるとそれも和らいだやに見えた。
花の少ない季節だったが随所で椿や山茶花に蝋梅、珍しく地に下ろしたシクラメン、開花した水仙も見た。また紅葉が遅いため今もモミジがみられると聞いたが、なるほどと思われる樹があった。
照葉樹林帯の同地では、カシノキ、クスノキ、タブノキ、ヤブツバキが生き生きと育ち、シイの類もあるに違い無い。道沿いの柑橘類や木守の柿も印象に残った。
多くの社寺で手入れ良く維持されている梅林は大変に印象深く、機会があればぜひとも花を見たいと念願している。
最後の明月院は花の時期ではないにも拘わらず、人を迎える温かさが伝わり楽しい場所だった。
いつもながら長々となりまことに申し訳けありません。
年末~大晦日に上京し鎌倉を訪ねた-その2。
12月30日今にも降り出しそうな朝、いざ鎌倉へ。
横須賀線の混みようなどはさっぱり分からないので、早めに新橋から東京駅へ移動した。雨が降りそうな空だが晴れても降っても、私にとって休みは貴重であり、傘は鎌倉で買うことにした。
30日7:40頃の東銀座。
高層ビルの現代からおよそ一時間半、中世・近世が残るはずの鎌倉へ。
皆様ならとうに訪ねられている鎌倉。しかし私は過去にある病院の医師探し、ある人の住居探しで行った二回だけ、観光とは無縁だった。それでこの度は大仏様も鶴岡八幡宮も新参、まことに初々しい気持ちで電車に乗った。
この日鎌倉到着が早すぎて西口駅前の喫茶店でひと休み、高まる気持ちを静めた。
お茶を飲みながら店主に予定カ所を見てもらい、およそ道順を決め、コンビニで傘を買った。
多く回りたいので駅前からタクシーに乗った。若いドライバーさんはとても真面目な感じの新潟県出身者で幸運だった。そういえば昨夜の中華飯店の若いスタッフも新潟県出身だと言っていた。
私の予定表では先ず庚申塔巡りの地味なカ所ばかり。やや面食らった感じの運転手さんは勉強になりますと言って、営業所やスマホとやり取りし、さらには通りすがりの石塔まで探してくれた。
最初に訪ねた御霊神社(ごりょうじんじゃ)は鳥居すれすれに江ノ電が通過する撮影スポットだった。
同神社は12基の庚申塔が安置され、雨のなか静かに佇み心が弾んだ。
幼な顔の青面金剛が彫られている屋根付き石塔が目に付いた。一般に見ざる言わざる聞かざるの三猿(さんえん)はそれぞれほぼ決まったポーズをしているが、ここでは踊っていると案内に記されている。
踏んづけられた邪鬼?の下に明瞭ではないが、扇を片手に三猿が踊っているように見える。
本石塔建立までの三年間、講中の衆にとって年6回の庚申待ちはことのほか楽しかったことが窺われる。
本尊の青面金剛はしばしば半裸の女人と言われるショケラの髪を左手で掴むが、
合掌するいかつい男の髪を右手で掴んでいるように見えた。
左手は羂索を手にしている。
。
続いては材木座の五所神社。
16基もの塔が安置され、バリエーションに富み大変面白かった。
三猿は足を曲げ両端は向き合うことが多い。
ここでは、ハイ、ポーズと言われて、足を伸ばしこちらを向く表情が愛らしかった。
江戸時代の石工(いしく)ののびやかさが伝わる。
本尊として青面金剛の像や文字が無く猿の像に庚申供養塔の文字が彫られている。
相模灘の国だけに、一見猿に波があしらわれているように見える。
ほかにも波をイメージさせる紋様を見た。
駒形と呼ばれる先が尖った様式の石塔が三つ並んでいる。
下に三猿、それぞれに「庚申塔」「庚申供養塔」「猿田彦大神」と異なる塔銘が彫られている。
御霊神社も当社もそれまで分散していた石塔を、後に集めて保存したという。
庚申信仰が盛んだった江戸期を中心に、13世紀のものまであるという事だったがどれか判然としなかった。
内容によって鎌倉市文化財の指定をうけているものもあり、行政の優れた姿勢がしのばれる。
庚申塔の列に並んでいた三面の像には摩利支天(まりしてん)と説明書き掲げられていた。自在な神通力を有する天部の一つとされ、武士達の守護神として好まれたという。乗っている猪ともにマス(塊)として非常に迫力があり素晴らしかった。
あなたには摩利支天が付いているかもしれない、と妻が妙なことを言った。
さて私たちがウロウロと石塔を観て回っているあいだ、地元の氏子衆と思われる方たちが境内掃除と新年への仕度をされていた。
ちょうど昼食時間となり出前をまとめる声が聞こえてくる。
カツ丼、天丼、天ざるそばの三つが叫ばれ、長老がまとめようとしている様子だった。
注文が一回りすると、
「オレ天丼止めてカツ丼にするわ」などと訂正が入った。
すると合計の数もうまく合わないようで、ついに、
「アンタ惚けて来たんじゃないの」
「オレは惚けていないよ」
「いやいや惚けていないというのが惚けた証拠」
「大体オレにさせるのが無理なんだよ」と声が行き交い、まるで落語を聞いているような風になった。
可笑しさをこらえながら、大晦日が迫り一生懸命境内を清める方達に心和むのを覚えた。
庚申塔とは関係の無い寺へも回った。
同寺は正月三ケ日の「初えびす」を前に華やかな設えが施されていた。
女性を乗せた車夫がまさに出ようとするところだった。
次は八雲神社。
比較的こじんまりした境内に三基の庚申塔がみられた。
右端の青面金剛は右手に人の髪を握っている。握られているのは五所神社と同じように男の形をしていた。
右端の像で青面金剛は右手に人の髪を握っている。
その人は下方の三猿に比べれば明瞭で、もしかしたら太った女性かもしれない。
続いてもののふを偲ぶ高い五輪塔があった来迎寺、さらに参道の角に庚申塔があった覚園(がくおん)寺を、それぞれ巡り鎌倉宮へ向かった。
あちこちがツルツルしている鎌倉宮は村上社の身代わり様。
主君を逃すため身代わりとなり、敵に自分を討たせた忠臣として祀られている。
参拝者は病の場所を撫で、身代わりになってもらう願掛けがあるらしい。
この旅に持参した小説「銀の匙」の文中、明治時代の幼い主人公が伯母と一騎打ちをして遊ぶ場面がある。討ち取られる際に「縄は赦せ、首斬れ」というセリフを吐くのを思い出した。
鎌倉宮を終了し午後一時すぎ、調べておいたそば処「宮前」で昼食を摂った。
上手く席が空いたところで、運転手さんと三人、天ざるを食べた。
蕎麦もさることながらテンプラの美味しかったこと、特にシイタケには驚いた。
運転手さんお勧めの瑞泉寺。
奥にかの偉大な国師、夢窓疎石が造園した庭がある。
余計な足し算はしないという禅の庭。国師は足し算どころか引き算として岩壁をえぐり、重要な公案に応答している。静けさに秘められた禅の異常な強さを感じないわけにはいかない。この寺の入り口にも一基庚申塔があった。
鶴岡八幡宮に向かうに当たり、ほど近い小町3の上生和菓子の店「美鈴」に寄った。鎌倉一と呼び声高いお菓子屋さんは小さな路地に入り、さらに小さな角を曲がった小さな店だった。親しみやすいおかみさんの応対で花びら餅などの正月菓子を求めた。
込められた心がしっかりと伝わる菓子。
初釜が近いのでとても忙しそうだった。
この日最後の鶴岡八幡宮へ詣でた。
2010年に歴史的な大銀杏が倒伏し、ヒコバエから生えたという若木が人の背丈の三倍ほどに育っている。
イチョウは生長が遅いというが、10年も経てば木らしくなってくるものだと感心した。
慎ましくても正直者がちゃんと生きられる世の中になって欲しい、と高い拝殿で心込めて祈った。
さて予定した鎌倉の初日が何とか終わった。
ホテルから七里ヶ浜の海岸は近い。
期待した夕焼けは無かったが、初めて見る江ノ島の影を懐かしく感じた。
この日多くをタクシーを頼んだとは言え九つの社寺、二つの店舗を回り沢山歩いた。
庚申塔にえびす様。本日は庶民文化を伝える史跡を交えて巡ってみた次第です。
そこはご承知の方ばかりと思いますが、次回に北鎌倉などの2日目を載せさせてください。
年末~大晦日に上京し鎌倉を訪ねた-その1。
2020年1月1日、二回目の記載です。
実は昨年12月29日に快晴の朝、さいがた駅からほくほく線に乗り上京、東京と鎌倉へ行きました。
29日は東京でゴッホ展を観た後、2,3の社寺を回り、いつものようにお台場の海を見て都内で一泊。翌朝鎌倉へ行き、一泊し2日に亘って観光、31日夕刻に帰宅の行程を予定して出かけたという訳です。
人生そう後がありません。押し詰まったこの時期、思い立ったら吉日、ゴッホ展を口実に敢えて出掛けました。以下に短い旅の顛末を何回かに分けて記載してみたいと思います。
12月29日日曜日、ほくほく線さいがた駅8時10分発の電車がやって来る。
ほくほく線の車窓から。
山間に入ってすぐ霧がかかり、松代駅は濃霧に陽が当たる幻想的な眺め。
列はさらに右方に続き、見えませんがその先も右に折れて続いていたのです。
あまりの列におじけ付いて早々にゴッホ展を諦め予定変更。埋め合わせに上掲の写真に見える赤い建物、寛永寺は清水観音堂を訪ねた。
京都の清水寺と同じ懸崖の舞台が設えてある。
高さ30㎝くらいの小さな獅子がお金の投入をじっと待っている。
お金を入れると右の箱からおみくじを取って取り出し口へ運ぶ。ユーモラスな動きをするので試すと小吉だった。
今年孫達が何人も受験や進学をするのでお守りを沢山求めた。
梅のつぼみはまだ小さく堅そうにしていた。
SNS用?のプラカードが置いてあり、念のため写真を撮ってみる。
天神様を出ると間口の狭い寿司屋さんがあり、釣られるように入って昼食とした。
東銀座のホテルにチェックインをして休む間もなく外出。
少し歩くとカプセルホテル。懐かしくも維持されているのが嬉しい。
昭和47年竣工のホテルの事は前々日のBS1テレビで再放映されていた。
若き日の病院アルバイトの往復で、出来たばかりの建物前の高速道を何年も走った。アスベストや老朽化が問題となっているが、世界遺産登録まで関係する存否議論が続いている。
大きさと高さを争おうという建築物のなか、機能とと形態で挑み、50年以上に亘り大都会のシンボルの一つとして生き続ける生活空間。作者黒川紀章にあらためて畏敬の念をおぼえる。
その後浜離宮を右に見ながら環状二号線に沿った歩道を築地橋を越えてかなり歩いたところで、タクシーを拾った。
いつものお台場へ、砂浜の大半が大がかりな工事中でやや寂しい。
オリンピックに関係しているのだろうか。
お台場へ近づくと見えてくる観覧車がいつも気になっていた。本日乗ってみようということになり、砂浜を後にして歩き出した。大きなものというのは、遠くから見えてはいるが中々到着しない。道筋の要領も得ずタクシーの世話でようやくバレットタウンという所に着いた。
着いても何処なのかさっぱり見当が付かなかった「パレットタウン」。
ああ生まれて初めて乗った観覧車の何と楽しかったことか。
宝石をちりばめたような夜景だった。
観覧車の後は近くの駅でゆりかもめに乗って汐留駅で降りた。
迷路のような汐留の夜道もまるで遊園地のよう。
ここでもいっとき迷った。
ホテルに帰る道すがら巨大なビルの一階にあった中華飯店で夕食を摂った。
ジャスミン茶で長歩きの疲れが和らいだ。
食事を終えた道すがら再び迷い、カレッタ汐留のイルミネーションを路上から見下ろして楽しませて貰った。
東銀座や隣の汐留は昔から縁の薄い所。そこに巨大タワー群が林立し、広い交差点の歩道は複雑な高架構造になっている。見えていた目印がすぐにビルの陰になり、似たような風景が微妙にずれる。そのうえ次々に現れる交差点は直角に交わっているとは限らない。少々苦労はしたがスマホにも助けられ無事ホテルに戻れた。
患者さん達にご迷惑をおかけするかもしれない年末旅行。お陰様で一日目を楽しく過ごさせてもらい感謝に堪えない。普段馴れない1万歩数千歩の歩行、疲労した足を休めているとすぐに眠りについた。
翌朝8時に新橋→東京駅→横須賀線で鎌倉に向かう予定になっている。
続く30、31日の行程はまた後に掲載させてください。
さる12月29日の渋野選手の記事は出発前に予定投稿させて頂きました。
〝今年もどうか宜しくお願い申し上げます〟
去る日曜日の柏崎行き。
私の庚申塔探訪は言葉は悪いが、近郊ドライブの「眼なぐさみ」、あるいは一種気まぐれとして、細々と続いている。
先々で出合った石塔周辺の自然や社寺あるいは集落の印象などから、そこの風土や暮らしぶり、あるいは昔人の願いなどを思ったり、気づかされたりして楽しむという風で、研究などの上等なものでは全くない。
さて昭和41年発行の「越後の庚申信仰」には以下の丸い庚申塔が掲載されている。
越後の庚申信仰:尾身榮一 大竹信雄 共著 庚申懇話会 昭和41年10月28日発行
「越後の庚申信仰」にある写真。
何かとても可愛い印象。
下の基壇から上へ、構成している各部分のバランスが良い。
青面金剛が円形の石に掘り出されている一見和やかな石像だ。様々な様式がある中で、本尊が円いふち取りに収まるのは珍しく、是非とも見たいと念願していた。
くだんの本には柏崎市四谷2とあり、実は今年1月妻と車で周辺を巡ったものの見つからなかった。
このたびは去る11月3日日曜日、新潟市に用事があり、途中再度の柏崎行きを試みた。
目的の同市四谷の通りは隅々まで家が建つ。村落の庚申塔ならば集落の境や社寺の門前などでよく見るが、街中ではよほど目立つ場所か、所番地が明瞭でない限り中々見つけ難い。
この日も道を変えながら色々回ったが、駄目だった。最後に近くの柏崎警察署で聞いてみて、駄目なら諦めようと決めた所で、とある庭から婦人が出てこられた。
その方にお声を掛け、本の写真を見てもらい、近くにありませんか、と尋ねた。
「庚申塔ですね、多分あそこでしょう」
「え、あるのですか!」
「すぐそこですよ、主人は今出ていますが、この方面の専門家です」
ああ、こんなことがあるのだろうか、偶々遭った人のお身内が探しあぐねていたものの専門家とは。
女性は私たちがその前に立っている「三忠呉服店」の女主人だった。
利発そうなその方は道を挟んだ向かいの路地に入って行かれ、私は後に付いた。30メートルほど歩くと、傍らに以下のような石仏・石塔が突然固まって現れ、大変驚いた。
本当にすぐ近くだった。
右の奥まった場所(白矢印)に、ああ、ひっそりと円形の石塔が見える。
そこには庚申塔に石仏、墓碑、、、。
昔人の真摯な魂が宿るここはパワースポットでは。
三猿はデザイン化され、金剛の顔は横にらみ風に見え、どこかユーモラス。
本よりも一段と白カビが生え、持物などはっきりしない。
見える二臂のうち左手はショケラ、右手は羂索?あるいは剣を握っているようだ。
本尊はやや稚拙だが、このように変わった庚申塔を彫り上げた石工(いしく)は
一体どんな人だったのだろう。
若い人なのか、こんなに丸く円を切ったり彫ったり、素晴らしい。
あたりを見ると、石塔群の先に遺構があり、尼寺の跡だという。案内された方も尼寺の往時を知っておられ、後からお二人の女性(お店のお客さんということ)が加わり、ひとしきり尼さん(安寿さん)の話になった。
小生の近くにもかって尼寺があり、早春に涅槃図の前で説話を聞き、撒かれたダンゴを木の枝に刺して持ち帰ると、長火鉢であぶって食べた。柏崎の尼寺の跡で昔を偲ぶとは、この日は色々お土産が付く。
尼寺跡。
石塔群には多数の庚申塔があり、地蔵菩薩のほか僧侶のものと思われる先端が尖った丸い墓碑(卵塔、無縫塔というらしい)が数多く見られ、二十三夜塔もしっかり認められた。
青面金剛と二十三夜塔。
路地を挟んだ向こうにお堂があり、以下のように地蔵尊が三体安置されていた。
真ん中の像は中越沖地震で倒壊し、後に継ぎ合わせて復元されている。
痛ましい姿だが地元の方達の温かい信心が伝わる。
脇の二体はほかから運ばれたものとお聞きした。
新しい花が日射しを受けて幸せな光景だった。
お尋ねした方のお店「三忠呉服店」
後日の調べでご主人は元柏崎市博物館館長さんだった。
奥様は地域の故事風習に触れる活動をリードされておられる。
あこがれの庚申塔を探すに、これ以上ない家の人に尋ねたことになる。
こんな幸運があろうとは。
さて柏崎市では、古来大晦日から1月下旬まで学問の神様である天神様の掛け軸や人形を祀る習わしがある。また9年前から地震による中断を挟んで「天神街道 天神さまめぐり」が行われている。お店はその幹事をされているらしく、市内30カ所の参加店舗・家庭の中で要のひとつとして展示をされる。
ところでこの日、嬉しい事に、最初に名刺をお渡しすると、“樹下美術館なら私たちは良く行きますよ、とても気に入っています”と仰って頂いた。樹下美術館にはドナルド・キーンセンターや木村茶道美術館、地域活動のグループの方々ほか、柏崎の皆様にお寄り頂いていて、普段から感謝に堪えない。
同市は、庚申塔はじめ道祖神から風神まで石塔が多い。市のもとはといえば柏崎長勝と能「柏崎」の物語、桑名藩領としての歴史、貞心尼の足跡、幾本もの谷筋ごとの文化と産物、、米山信仰、番神岬の日蓮、由緒ある寺々、焔魔堂、随所の木喰仏保存、魅力的な綾子舞や大和舞、そして越後ちぢみの商いによって輩出された趣味家、文人に名コレクターなど、文化は鮮やかで深く、一方でポンツーンを連ねた海辺のハーバーは清々しい。
このたび思ってもみない出会いのお陰で余計柏崎が好きになった。来る1月には天神さまめぐりをするため、是非とも伺わせていただきたい。
(そういえば、私のところでも昭和20年代のある時まで、父が正月に天神様の軸を掛けた淡い記憶があります)
思えば2007年6月10日に樹下美術館が開館してほぼひと月余、中越沖地震に見舞われた。館内で台に立てかけた皿が一枚倒れたものの無傷で済んだ。しかしお客様として開館早々お尋ね頂いた柏崎市のあるコレクターさんが、まともに被災され悲しいお手紙を受け取った。
地震の際、直後から柏崎市医師会長とコンタクトを取り、夜間に同市米山の避難所を巡回したことも今は懐かしい。
いずれにしても民家、社寺の損壊、あまたある石塔石仏の倒壊などは如何ばかりだったか。まだ課題が残るかもしれないが、よくも立ち直ったと、あらためて感心させられる。
追加:当館の開館直後、同市の湿原の展開に合わせ、拙生の植物画の絵はがきをショップで販売させて、と博物館から申し出を受けた。大変恐縮し、お願いすると沢山売って頂いた。
御地の皆様、これからもどうか宜しくお願い致します。
ついつい長くなりました。
去る週末の谷根、野田行き 秋冬の楽しみ。
柏崎市は石仏、石塔が良くみられ、街中のほか特に周辺部に多く残されているように思われる。主に庚申塔の探訪に、今年は1月中に三度柏崎へ出かけた。
その後温かくなり樹下美術館が開館すると一旦小休止、このたび秋深まるとまたぞろ車を走らせるようになった。
去る11月2日土曜午後は柏崎市の谷根(たんね)と野田へ、翌3日日曜日に柏崎市内へ行ってみた。
2日午後の谷根と野田行きは直ぐに日が暮れ、翌3日は新潟市への途中で市街の四谷へ寄った。
以下は2日の柏崎行のひとこまです。
谷根は霊峰米山の真裏にあたり、谷根川に沿って集落がある。
奥まった場所のイメージはあるが案外近く、あっという間に到着する。
路傍の一群の石仏の中に庚申塔(左・文字塔、右青面金剛の石仏塔)。
事物として下の二臂は弓と羂索、上の右臂は鎌ですが、左は分かりません。
この像では、青面(しょうめん)金剛に脇侍として二体の童子が小さく配されている。
※掲載時、金剛の脇侍に菩薩と記しましたが、調べますと「二童子」ということ
でしたので、訂正しました。
二童子は青面金剛像の庚申塔で、三猿、鶏と並び約束事の一つということ。
宝珠や香合を持つらしいのですが、この像では今や判然としません。
二童子が掘り出された像はそう多く無いようです。
もう一基の青面金剛になる庚申塔。
合唱する手を中心に弓矢と宝剣?および掴んだヘビが円弧を描いて配されている。
(荒ぶる青面金剛は時としてヘビを掴む)
いずれも本尊の下に三猿が彫られている。
村落に真言宗豊山派の慈眼寺がある。拙家の宗派でもあり親近感からお参りに寄った。
境内の右・弘法大師碑と左・宝篋印塔(ほうきょういんとう)。
慈眼寺門前の二十三夜塔。
その昔谷すじのある夜、二十三夜の月は如何ばかりだったか。
集った女性達は勤行し、四方山話に花を咲かせ、世を徹して過ごした事だろう。
谷根を少々奥へ進むと米山の登山口がある。そこに4基の石塔が並んでいる。
馬頭観音の頭上に馬の顔がシンボルとして彫られている。
村落を守護するとともに、大切な牛馬を供養する意味が附されている。
雨乞い三尊と呼ばれている三体仏が並んでいる。
“今に夕立がくるやら~”と甚句に歌われた米山は雨が多い所といえる。
それでも雨乞いをしなければならないほど甚大な干ばつ被害があったことが窺われる。
谷根からもう一本東の鵜川の川筋に野田集落があり、そこにも寄らなければならない。日は短く早々に谷根を後にした。
野田で称名寺を目指した。寺の手前に焔魔堂(えんまどう)がある。
焔魔堂の左手に二十三夜塔と庚申の文字塔。
男性中心の庚申待ち、女性の二十三夜の月待ちは、ともに村落維持に重要で、
ひとときの娯楽でもあった。
しばしば二つの塔は並んで建っていて微笑ましい。
石塔は先人への供養であり、生存の証しあるいは感謝の記しであろう。
手を掛けて生活の痕跡を残した昔人の心ばえが偲ばれる。
焔魔堂の先、小高い杉木立の中に浄土宗称名寺(しょうみょうじ)がある。
向拝の天井。
枡目の中に四弁花を連ねた紋様が整然と彫られている。
優雅な窓を設えた欄間障子。
称名寺は安政4年(1857年)再建とある。
野田の石材屋さん。その昔石工(いしく)と呼ばれていた家かもしれない。
一帯は石仏石塔が多く、石工が大活躍していたことが偲ばれる。
名工ともなると各地から声が掛かったようだ。
秋の山里を巡ると気持ちが和む。
以前も暇があるとそうしていたが、今は寺や庚申塔などが眼に入るようになった。そられの眺めにはふる里やいにしえの生活、および昔人の願いが偲ばれ、そこはかとない懐かしさや共感が去来する。
秋冬の気象は良くないが、里や鳥、荒海や雲など、この季節ならではの趣きに触れる事が出来、それなりに楽しめると思う。
翌日3日、柏崎市四谷のことは後日記載させて頂きます。
南アに破れたラグビー 上越市浦川原区の円重寺。
ラグビーワールドカップの予選リーグを通過した歴史的な日本代表チーム。今ほど準々決勝の勝ち抜き戦で南アフリカに敗れた。
前半日本は互角以上に闘うかに見えた。しかし後半、南アは選手交替を早めに行い、力と反応性で完全に優位に立ち、流れに乗って日本に圧勝した。
南アチームの圧力は日本の前進を阻み、華麗なスピードを完全に封じた。彼らはあたかも野性の魂を有するライオンのようであり、日本人に同じような事が出来るか、一つの課題だと思った。
更なる進化には時間がかかろうが、ただ一つ、ラグビーの裾野を拡げることは、確実な一歩にちがいない。その意味でも日本開催には大きな意義があった。
日本は敗退したが、私自身かってない興味を覚えた。今後の南アほか他の試合も観てみたい。
ところで昨夕、山際に掛かった霧をみたくて浦川原区へ向かい、その折、華岡山円重寺という寺院を見つけ境内を歩かせてもらった。(華岡山は“かこうざん”と読むのだろうか)
寺標に華岡山 円重寺とある。
このような坂道があると入ってみたくなる。
鐘楼(左)の隣に見える白壁の建物は納骨堂らしい。
(居あわせた檀家の方にお聞きしました)
花頭窓が二つ見えて心なごんだ。
台風後にも拘わらず、手入れされた境内は爽やかだった。
見知らぬ寺に迷い込み、予期せぬ風情と花頭窓に出合った。
近い場所ながら、いっとき小さな旅をした気分だった。
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- 講演会「良寛さんに学ぶ」が無事終了した。
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