拙(歌、句、文)

渚のリューボ

2009年11月22日(日曜日)

 連休のなか日。在宅で重症の方を抱えているので外出は近くだけ。それでも小康を見て携帯持参で海へ赴いた。  

 

 晴天の海で一体の老いた流木にまた出会った。この流木は先週の日曜日,波打ち際で見ていた。それが今日は砂山の上の方に横たわっている。あれからさらに海が荒れて、上へと押しやられたのだろう。

 

先週の写真 

 

 実はこの流木を見たのは今回が初めてではなかった。今年の三月頃、荒天続きの後にちょうどこの辺りで見た。それがいつしか居なくなり、半年以上も経ってまた現れた。とても不思議に思ったが、再会を喜ぶことにした。

 

今日の様子 

 

 春と比べてやや色あせているが、さして傷みもなく言うならば元気そうだ。ぐるっと回って眺めると、ただの流木とは思えなくなってくる。心なしか暖まっているようでもあり、海を懐かしむ風でもあった。さて今度はいつまで居るのだろう、試しにリューボと名付けてみた。  

 

 追加です:今夜、天地人が終わりました。欠かさず見ていた訳ではありませんが、最後のシーンはうるうるとしました。  峠で景明の位牌に「越後じゃ、我らのふる里じゃ」と言う兼続。直江家の終わりをお船に告げる兼続。ドラマと分かっていても、すがすがしさに涙が出ました。一応ファンにさせてもらった景虎も今は懐かしく、ゆかりの鮫ケ尾城跡は間もなく雪に覆われることでしょう。

シオン(紫苑)

2009年10月5日(月曜日)

 仕事場の裏庭にシオン(紫苑)が沢山咲いている。背が高く、ゆうに2メートルに届くのもある。シオンは最も背が高い草花の一つではないだろうか。もしかしたらセイタカアワダチソウよりも。

 

 シオンは沢山花を付けるのにどこか寂しげに見える。それでもわずかな風にゆっくりと揺れる様は、それはそれで秋の風情だ。

 

 背高の紫苑が刻む秋の時 大き時計の振り子にも似て  sousi

 

続・帰るつばめは

2009年9月12日(土曜日)

   帰るつばめは 木の葉のお舟ね ♪  

 

 7月30日のブログで「帰るつばめは」を書かせて頂いた。あれからふた月あまり、あたりからツバメの姿が消えつつある。おおかた南方へ渡ったのだろうか。

 

 さよならも告げず、ツバメは静かに旅立つらしい。春に戻る決心があるから、あえて別れをしないのかな。野性の決心は掟ほどに固いのかもしれない。

 

 ところで、ツバメに興味を抱いたのは7月の末ころ、上越市大潟区内のある集落への往診からだった。近くの水田で何十羽というツバメが、飽かず田の上を行き来していた。

 

 何度か訪れているうちに、次のようなことに興味を惹かれた。

①夏のある時期、ツバメは群れをなして水田の一角で飛翔を続けることがある。その場所に隣接してよく枝豆が植えられている。

②そこではツバメはホバリングをして空中で止まり、稲に付いているイネミドリムシを補食しているようだ。

③飛翔中、若鶏(ヒナ又は子)たちは時々農道(地面)に降りて休む。

④若鳥たちは自らも捕食をしているようだが、時々親から空中で給餌も受ける。

 

    

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全体で4,50羽が飛んでいた。 イネミドリムシに食害された稲
   
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イネミドリムシを捕っていると思われる。 ムシをくわえた?
   
路上で休み、親たちを見ている若鳥 餌をせがむがダメ、しばらくしてまた飛び立つ。
   
空中の給餌

1羽の親を複数の子が追うことも。

 

 ツバメはもっぱら飛んでいる虫を食べると思っていた。それが集団で稲に付いた虫をも捕っている様子に驚かされた。

 

 また、ツバメはめったに地上に降りないと聞いていた。しか集団飛行は辛いのか、若鳥(多分)たちは、路上に降りては休み、また飛び立つことを繰り返した。
さらに車にはねられたのだろう、路上で亡くなっている若いツバメを二回見た。ツバメは歩行が苦手だという。実際歩き方はかなりたどたどしかった。

 

 集団飛行は親たちによる若鳥(子ども)への給餌とともに、捕食と飛翔の訓練にも見えた。秋の渡りに備えて懸命に自立を促しているように見えた。

 

 集団には多くの子が含まれているようだった。渡りも子らを中心に行われるのではないだろうか(大変だろうな)。そして来年戻ってくる時は、この子達が主力になるかもしれない。

 

道で休んだ可愛いツバメの子たち

ちゃんと南国へ渡っただろうか 

春には戻って来て、今度は親になるんだ

けなげなツバメの旅、木の葉のお舟、、、

 

※農家の方のお話では「枝豆を植えた近くの田にはイネミドリ虫が発生することがある。ただし、枝豆自体には付かないようだ」ということでした。「ツバメが来てるとはねえー」と感心して仰った。その後、イネは優しい消毒をされ、ツバメは立ち去った。

子安の月。

2009年9月6日(日曜日)

         

この子らと何時かまた見ん清水の 

子安の塔に架かる月をば sousi

 

 

 前回、最後に京都へ行ったのは20年以上も前と書かせていただいた。その時の京都の夕刻、皆で清水寺へ行った。舞台を南に下がった子安の塔の辺りは静かで、冬の月が昇っていた。拙い歌はその折りのものです(恥ずかしい)。

 

 晴れ日が続いたので、今夕2時間ほど美術館の庭に水を遣った。雲間から月が出て、なぜか京都を思い出した。先日頂いたお茶のせいだろうか?

 

 時々子どもたちは元気な顔を見せにやってくる。子の無事を祈る親心は昔も今も変わりがない。

毎年ながら日暮れが早くなってきた。 

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今夜の月

 

シーグラスが素晴らしい器に

2009年6月25日(木曜日)

 

 Img_8659_2   

 

 今年5月17日のブログは「小さな竹の橋で」だった。当日の集まりは新潟県村上市。同じ新潟県でも上越市から村上までゆうに150キロはある。

 

 実は当日、早めに家を出たので時間が余った。それで村上の手前を左折して海へ行った。遠くでシーグラスを探すのも悪くない。初めての海はひと気なく、暮れる渚にはびっしりと砂利が上がっていた。砂利こそシーグラスの眠る場所。しかし意外にグラスは少なかった。30分ほど歩いて大小10ヶほど見つかった。

 

ー同夜、千葉の同級生Sとのやりとりでー
私「で、奥さんは何か趣味を」
S「大潮の日にな、海岸を歩いて色々と云々」
私「それビーチコーミング?」
S「おー、それそれ!」
私「シーグラスで蝋燭立てなど作るとか」
S「それそれ!」

 

 何という引き合いだろう。私は先ほど集めたグラスをポケットから取り出すと、よかったら奥さんに、と全てSに渡した。

 

 そして昨日6月24日。奥さんが集められたシーグラスをあしらったキャンドルホルダーがSから届いた。貴重な赤を二つも入れた繊細な器だった。

 

 私のイニシャルもS。学生時代、席もテニスも音楽も一緒だったS。しかし村上のやりとりほどピッタリ話が決まったことがあっただろうか。年を取ることは悪くない、頂いた蝋燭の灯りを見ながら思った。
奥様、本当に有り難うございました。

景虎の鮫ケ尾城

2009年4月12日(日曜日)

 今夜の天地人で景虎ともお別れ。終焉の地・鮫ケ尾城は何度も車で付近を通過しているが、現地を訪ねたことがなかった。にわかファンでもこれではいけないと、午後思い立って鮫ケ尾城へ向かった。40分ほどで着いた駐車場には随分車が多かった。夕暮れ時なのに本丸への坂道を行き交う人は絶えない。

 

 花期を惜しんでカタクリが延々と続く。途中、道を外れた暗がりに景虎清水という小さな井戸があった。またこの山中には白いカタクリがよく見られると聞いていたので、花を見ながら登った。

 

 はあはあと急な登りを約30分。孤立感ただよう山頂に本丸跡とその向こう下に米倉跡があった。急峻な山頂のため両方ともに小さく感じる。しかし小ささが、かえって物語のリアリティとイメージを浮上させて、胸が熱くなった。背後は深い谷と山々、、、。ここに追い詰められたら誰でも観念せざる得ないのでは、と思った。故郷を遙かに、景虎の無念はいかばかりだったか。

 

 そして今夜の天地人。景虎も華姫も哀れで、妻の前でうるうるしていた。両人が最後を過ごした場面は、夕方見た本丸跡の雰囲気に合っていた。死を前に強まる絆と浄化。最後、景虎にいいセリフがあって二人の御館の乱は何とか終った。しかし脚本家と演出家は苦労したのではないか。草場の陰で景虎はどう見ただろう。

 

 私が初めて御館の乱を知ったのは、高校時代の地域史の本からだった。一帯で繰り返された両軍の焼き討ちの凄まじさに慄然とした覚えがある。

 

 

景虎の清水はつとに悲しけれ 今はの水もここで汲みたか

 

 

 

景虎の無念を今に鮫ケ尾城 白きかたくり姫とあい咲く

(もっと真っ白な花もあるようです/思い→無念に後日直しました。)

 

山頂まで続くかたくり

 

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山頂(本丸跡)から。はるか左が御館だと思います。

敵中をよくここまでたどり着けたと感心します。関川を遡ったのか山道を辿ったのでしょうか。

※感想①せっかくの名所、景虎清水はもっと手入れをすればいいと思った。

※感想②鮫ケ尾城は春日山城よりもピュアな物語性がある。短時間の訪問だったが手頃に感じた。少し本気で取り組めば、さらに多くの人を魅了しよう。

 あちこちの天地人のノボリは現場を軽くしていた。少なくするか、早目に取り去った方が良いのではと思った。

 

 

春暮れて

2009年4月9日(木曜日)

 随分と日が長くなってきた。夕暮れにホームセンターでタイツリソウとツボサンゴを求めた。安くても威勢の良い芽で、花を想像しながら丁寧に植えた。庭のあちこちでノコンギクが猛烈に増え、ほかの花を飲み込む勢い。余分を取り去って庭のへりに移した。

 

 もう何日も雨が降らないため最後に水まきをした。これだけで7時をとうに回った。きれいな月が昇り庭を照らしていた。月明かりを頼りに見失ったスコップを探したが見つからなかった。

 

 ためしに月と自分の月影を撮ってみた。帰って影法師の液晶モニターを妻や母に見せると、二人とも見えると言ってくれた。

 

 今夜は小望月の14夜ということ、明るい月だった。明日晴れれば望月の十五夜満月が見られる。14夜と聞いて写真を見ると、月の左下がわずかに欠けているように見えた。

 

今夕の月 

春暮れて芝生に月の影法師   sousi

 近くを流れる上越市大潟区の新堀川(しんぼりがわ)で桜が見頃となっていた。訪れる人はわずかで、海風が川を渡る静かなたたずまい。

飲み込み。そしてシーグラス。

2009年2月11日(水曜日)

  休日だったが午後に往診があった。比較的安定していた脳梗塞の方。しかし数日来ほとんど飲食をしなくなったという連絡。ご本人はまだお若い。よく聞けば飲み込み障害のためひどくむせた日の恐怖感が引きがねと考えられた。早めに専門的なリハビリを受ける事にして点滴をした。

  ところで日本は技術大国であり、とりわけ微細なテクノロジーに優れている。一方、飲み込み障害の裾野は広く深刻な課題だ。これには口腔、咽頭・喉頭、食道などの極めて複雑なメカニズムが関係している。ナノテクノロジーを進化させている今、飲み込みを補助するコンパクトな装置を願ってやまない。

 やや穏やかな昼間だったので、近くの海に寄った。昨年7月、浜辺でシーグラスと貝を拾い、秋には海に戻そうと書いた。しかしそれが子どもたちや孫に喜ばれて、シーグラスはそのまま我が家にとどまった。その後、私が一番気に入ってしまい、暇をみては海へ行くようになった。

はや10月

2008年10月2日(木曜日)

 刈り入れ前の暑さが効いて頸城野の田は良い米が獲れたようです。頂いた新米の美味しかったこと。10月2日、美術館から見る庭はキキョウも終わり、野紺菊(ノコンギク)がところどころで色を深めていました。また、厳しい夏を越えた糸薄(イトススキ)と矢筈薄(ヤハズススキ)はしっかりと座を守っています。地味な庭ですが今月末くらいから10株ほどのササリンドウが咲くと思われます。恥かしくも拙句を付けました。

 


矢筈薄:暮れる空に飛び立ちそうでした

暮れる陽を矢筈薄が打ち射たり    sousi

 


野紺菊:路傍の花ながら色がみやびです

野紺菊所を問わぬ花の色     sousi

 


近くへ出ると妙高連峰が暮れていきました

秋暮れて三郎も見た妙高山(悲しい三郎景虎のことを思いました)   sousi

暑中のお見舞い、そして小さな旅人たち

2008年7月19日(土曜日)

小さな旅人たち:小石とシーグラス

暑中お見舞い申し上げます
先日の夕刻、大潟の浜を散歩しました
大きな海が作り出した可愛いものたちを拾って帰りました
キズつけ合わないようにみな丸く小さくなっています
夏が終わりましたらまた海へ返しに行ってみます
そしたら今度はどこへ行くのでしょう
長い旅をしているのですね

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