明け暮れ 我が家 お出かけ

陶齋最初のお弟子さん、志賀重人氏のお茶碗で、そして豊かな昔の写真。

2010年5月20日(木曜日)

 午前中は田植え盛りの静かな雨。それが昼には上がり、落ち着いた光が窓から差した。その逆光を肴に母の日に届いた鶴屋八幡の棹ものをお相伴して抹茶を飲んだ。御菓子にはもうアジサイの色が付いていた。

  

志賀さんのお茶碗で 
 お茶碗は陶齋(齋藤三郎)のお弟子さん、志賀重人さんの昔の作。陶齋ゆずりのおだやかな器だ。半年前たまたま上越市の道具屋さんで見つけた。え!と驚

くほど安価で、非常に幸せを感じた

 そこで思った、一般に品質が良くて価格が安ければ作品はもっと動くのではないかと。売れれば作家の作業は回転しさらに優作も期待できる。しかしこの時代、相変わらず法外な値札によって多くの展示会は冷え切っている。これほど作家、来場者ともに不幸なものはない。買い手に手が出るまで安くして頂ければどれほどファンは有り難いことか。価格次第でつらい時代であっても双方が幸せになれると思うのだが、、、。多くの場合不幸が続いていて残念だ。

 

 さて気をとり直して、、、。お茶碗の作者、志賀氏は戦後高田で作陶を始めて間もない時期の陶齋に師事した。熱心な修行を終えると京都へ赴き、後にオーストラリアに招かれて同国で長く陶芸を指導された。

 

後谷の筍狩り 
高田市(現上越市)後谷(うしろだに)の一行:濱谷浩氏撮影と考えられる。
実際はもっと大きいサイズです。 

 

 掲げた写真は陶齋、志賀氏ともに写る貴重な一枚だ。二代陶齋・齋藤尚明氏からお借りしたアルバムに後谷・筍狩と記されていた。今からおよそ60年前、季節は5月初旬だろうか。右端にリュックを背負った若き陶齋が休み、左端で荷を負った志賀さんが笑っている。
 右の姉さんかぶりの女性は写真家・濱谷浩氏夫人朝(あさ)さんと思われ、撮影者は濱谷氏にちがいない。

 

  国敗れて山河あり。若き日の一行にこれ以上ない角度で遅い午後の春陽が注ぎ、陶齋は正面からそれを受けている。貧しい時代だったのに人々のなんと生き生きしていることか。文化がそうさせていたと思いたい。映画も凌ぐ素晴らしい写真だと思う。

 

 志賀氏からは、樹下美術館開館に際して貴重な資料やご助言を頂き感謝に堪えない。

セロニアス・モンク  ストレート・ノー・チェーサー、そしてニカ男爵夫人

2010年5月15日(土曜日)

 昨晩このノートを書くつもりが時間が無くて今日になってしまった。昨日、夕食の後でたまたまWOWOWをみると、帽子をかぶった大男の黒人がピアノを弾いていた。セロニアス・モンクだった。

 1960年代中頃のモンクカルテットのヨーロッパ公演を中心に撮ったドキュメント映画だった。病で映画を禁じられていた自分の高校時代、禁を破って見に行った唯一の映画が「真夏の夜のジャズ」だった。全てよかったが、モンクのソロ「Blue Monk」の不思議な和音と彼の風貌に強い印象を受けた。

演奏するモンク

  セロニアス・モンクの演奏は非常に独特だ。テンションコード、風変わりな間に突然の強打、意表を突くメロディ、不意なトレモロ。これらで聞く者を興奮やファンタジーへと自在にいざなう。多くのミュージシャンたちからも敬愛されながら1980年代後半、惜しくも64才で亡くなっている。

 

 ところで1962年正月、上京して初めて聞いたジャズの演奏会がホレス・シルバーの東京公演だった。その時、力強いリズムで深くきらめくような「ニカの夢(Nica's Dream)」が演奏された。

モンクを聞くニカ 
動くニカ夫人を初めて見た。

 曲のタイトルにあるニカは白人。ニューヨークで苦しむ数多くの黒人ミュージシャンたちのパトロンとして強力な支援を続けた女性だ。フランスの男爵夫人でしかもロスチャイルド家の人だという。多くのミュージシャンのなかでチャーリー・パーカーとともに彼女から最も手厚いバックアップを受けたモンク。ニカの庇護のもと彼らは新たな音楽の開拓者として歴史に名を刻まれるまでになる。

 

 同夜の映画で何度かニカ夫人を見ることが出来た。てきぱきと知的で魅力的な人だった。お金の使い方によって世界を革新する文化の創造が出来ることを体現した希な人にちがいない。本当に素晴らしいと思う。

 

 この映画「セロニアスモンク ストレート・ノー・チェーサー(モンク作曲の曲名でもある)」の総指揮はピアニストの前歴があるクリント・イーストウッドだということも知った。

  テレビを見ている間、椅子で寝ていた妻が「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」だったかの所で「いいわね」と言って目覚めたが、すぐまた寝てしまった。

 余談ながら、ホレスシルバーの時もそうだったが、昔のジャズ公演は演奏者も聴衆も男性はスーツが基本だった。今では想像も出来ないが、60年代、ダークスーツをキメる黒人の演奏は本当に格好良かった。この映画でもモンクの服装を母親のようにニカが誉める場面があった。
 

 ※1:ちなみにホレスシルバーの時の私は学生服で行った。当時学生はそれで十分OKだった。

 ※2:その昔、日本のジャズ界(モダンジャズ)にニカほどではないにしても、一種パトロン的な女性がいたようだ。その人はある石油会社社長のお嬢さん。ホレス・シルバーの来日に際して、彼女がメンバーたちを東京観光に誘い、食事をもてなす写真付きの記事を当時のスウイングジャーナル(だったと思う)で見たことがある。

 

 

母と美術館へ、そして95年の人生は長いか短いか。

2010年5月1日(土曜日)

 

 

館内で 

かって家にあった物を不思議そうに見る母。

  

 予報が当たり朝からサツキ晴れとなった。仕事の後、今年初めてのと美術館へ。展示を見終わってカフェに座ると、これが最後かねとつぶやいた。幸せを感じている言葉だから、「また来よう」で十分なのだろう。

 

紅茶

 

 それから「95まで生きるとは思わなかった」と続く。「95年は長かった?短かった?」と尋ねてみる。いつものように「短かった」が答だ。多くのお年寄り(多分私も、、、)は同じように答えるだろう。しかし「長ーかったです」という言葉も聞いたことがある。沢山ご苦労をされた方の言葉だったように思う。

 

庭 

 お茶の後、外へ出て盛りのヤマザクラを見る。10本ほどの桜は以前雑木林だった敷地に自生していた。その後、庭の花にやる肥やしが桜にも効いて前よりも元気になった。ヤマザクラの花色は多様で味わい深い。野に里に馴染むのでソメイヨシノよりもずっと和める。

 

 随分ご機嫌斜めだった春が、一気に新緑へと急ぎはじめた。

 

いつまでも

2010年4月25日(日曜日)

  いつまでも

 赤い夕陽の海を歩いた。砂浜にハートマークが残されていた。良く出来ていて二人の思いが伝わる。
きっと波にさらわれてしまうことでしょう、よかったらまた来てこしらえてください。通りすがりの私まで幸せな気持ちになりました。 


パットブーンの砂に書いたラブレター

 

※ 結局今日は三つも記事を書いた。

急行能登のトイレにアールデコ

2010年4月25日(日曜日)

本日夜中、金沢から急行「能登」で直江津に帰ってきた。金沢を22:29に発ち上野に早朝に着くいわゆる夜行列車だ。今年3月、廃止となって多くの鉄道ファンが最終運転に集った。なのにまだ走っていて驚いた。週末や行楽シーズンに臨時で走るそうだ。
寒い夜、人気のないホームで急行を待っていると、学生時代に戻っていく錯覚を覚えた。

 独楽吟
岡本信弘編 グラフ社 2010年1月発行

 車中、妻は読みかけの本を膝に置いて眠ってしまった。その本を取って読ませてもらった。橘曙覧(たちばなあけみ)の「独楽吟(どくらくぎん)」という本だった。曙覧は正岡子規も憧憬したという江戸後期の歌人と知った。とても良く、52首の短歌は疲れているはずの頭に吸い込まれるように入ってきた。

急行能登
ミッドセンチュリー風の急行能登

灯り
アールデコ調の灯り。放射状の線は影。

 さてこの度、能登のトイレで楽しい発見をした。何気なく見上げた灯りがアールデコ調。侘びしい夜行列車の片隅にこんなデザインがあろうとは。そういえば能登のフロントビューや洗面所の灯りにはミッドセンチュリーの面影が漂う。乗り物のデザインは練りに練ってあるはずだから、列車はちょっとした美術館だ。

金沢で婚礼

2010年4月25日(日曜日)

    昨日午後金沢で身内の結婚式があった。温かで心こもった婚礼だった。年をふるにつれ永い縁の貴さをいっそう感じる。私などよりよほどしっかりした新郎新婦を見て希望を新たにさせてもらった。

 

手を重ねて 
手を重ねて。
  
デザートが始まる 
  デザートが始まる。

 

 最近の習い性で今回も観光なしの日帰り。丁度良い電車がなくて22:29発の臨時急行・「能登」で帰る予定にしてあった。到着まで随分と時間あるので妻と映画を見た。 「ビクトリア女王 世紀の愛」を途中から。ストーリーはともかくシューベルトの音楽に時代のリアリティを感じ、服装とファブリックやテーブルウェアに目が行った。映画館に入るのは、むかし子どもたちと見た「ペンギンズ・メモリー 幸福物語」以来およそ25年振りだった。

 ※文中ペンギンズ・メモリー 幸福物語は修正しました。

 

  見終わってまだ時間があったのでクリームあんみつを食べて一息ついた。

 

 金沢駅から懐かしい急行に乗って、日付をまたいで夜中過ぎに直江津駅に着いた。能登は代替わりしたのか車内は昔よりもきれいになっていた。家に帰って95才の母の寝息にひと安心。

 

  車中のトイレで楽しい発見をした。日が明けたら写真を載せてみたい。  (4月25日夜更け)

海にも休息

2010年4月15日(木曜日)

 仕事休みの夕刻、海へ行った。冬の荒々しさを脱ぎつつある海でカモメが行き交っていた。ゆっくり立つ波の色が深く清潔だった。

 

海
痛々しいほど荒れた海が落ち着き始めた。

 

 長かった大荒れの冬。海は海岸の砂からゴミまでを飲み込んでは吐くことを繰り返していた。また強い波浪には自身の撹拌もあるのだろう。ごーごーと三日三晩荒波を打ち続け、少し休んでまた繰り返す。それを今年は4ヶ月余、、、。

 

 今ようやく浄化や再生の激しい作用を終えて、海に安堵の気配だった。

 

 以前少し似たことに触れたが、海に睡眠を思わせる役割を想像してしまう。環境のつむぎ直し、浄化、生成。同じ作用が我々にも及ぶことがありそうだ。森もよく似ている。

 間もなく穏当な春が来るはず。森は冬や夜間は眠っているように見えるが、海は昼夜休み無しだった。これからあの春の曲のようにゆっくり休むのだろう。海と森は季節的にも連携して役割を担っているようだ。

花鳥の時節

2010年4月11日(日曜日)

雨がちの一日だったが、春が根付いてきた感じになった。知り合いが席を持つということで妻は高田の花見会場の茶会へ行ってきた。

 

茶席に大勢外人さんが混じったという。観光バスで乗りつけるらしい。報道などを見ると近年ますます花見客が増えているようだ。「百万人、、、」のコピーも効いているように思われる。

「百万人観桜会」は奥ゆかしい上越にしては思い切った謳い文句だ。名付けばかりが先行して結果につながらないことが多い中で、希有な例ではないだろうか。だれが考えた文句だろう。

 椿と桜

  今日の仕事場の桜と椿です。この写真に花の密を吸う鳥が写っています、お分かりでしょうか。

 100411花とヒヨドリ

 以前に書いたヒヨドリだと思われます。このようにホバリングをして蜜を吸う動作はカラスやハトには出来ないことでしょう。メジロは出来るようですがスズメはどうでしょう。非常にエネルギーの要る飛翔法だそうです。餌づけの人慣れといい、体が大きいのに案外器用で驚かされます。

  雨の日、ご来館いただいた皆様に感謝申し上げます。ちょうどお見えになったナイスブロガーのきむぶーさん、お世話になっているはるみさんご一行様、有り難うございました。

古い窓に椿

2010年4月9日(金曜日)

仕事場に古い家が付いていて、大正時代の中頃に建ったと聞いている。海辺の季節風に吹かれ吹かれて90年、建て付けはかなり狂いがきている。

二階にトイレへ行く廊下があって窓がある。その窓から今盛りの椿がいい具合に見える。気のせいか古い窓と椿はしっくり合っている。大正ロマンの人、竹久夢二は椿を好んであしらい、昭和ロマン?の陶齋もまた好んだ。

出窓の椿
出窓の椿。右に吊り手洗い器の掛け手が下がっている。

ところで窓は縦横120×75㎝ほどの小さな出窓で、手水として使われていた。左に手ぬぐい掛けがあり、右に吊り手洗い器の掛け具が架かっている。

 

ともに木製だが、手ぬぐい掛けなどは器用な職人さんの仕事ぶりが伺われる。何かの端材で「いっちょう上がり!」と言ってさっと作ったように見える。手ぬぐいを通す横板がヤジロベエのようにぶらぶら動くようにしてある。

 

両方とも忘れられた盲腸のように黙って付いている。椿もまた黙って咲いている。

手ぬぐい掛け
手ぬぐい掛け
手洗い器掛け
吊り手洗い器を掛ける手

ポルトガルの四月

2010年4月2日(金曜日)

四月とはいえどうしてこうも寒いのだろう。すぐれない気象は三月からずっとで、2月のほうがまだ良かったくらいだ。

さてそれはそれ、四月というとエキゾチックな曲「ポルトガルの四月」を思い出す。この曲は自分の高校時代のある時期、よくラジオから聞こえた(学校時代には突然何かが流行り出すことがあった)。懐かしげな曲調は忘れがたい教師の思い出に結びついている。

高校の二年間、英語教師A先生の許へ隔週でリーダーを習いに通った。やや小柄で知的な人だった(そして美しかった)。冒険小説から始まったテキストは最後にジョージ・ケナン(冷戦時の駐ソ連アメリカ大使)の「Power Polytics」へと進んだ。肺を病んで半年休学の後、下の学年と一緒のなじめない学校生活。そんな当時、先生の所へ通えたことは今でも宝物のように大切に思っている。

”熱狂(enthusiasum)は何も解決しません、サミットも同じです。優れた外交官による粘り強い交渉努力が必要なのです”。安保闘争で当地の高校まで熱くなり始めたころの先生の言葉だ。ああそんな見方もあるんだ、何てクールな先生だろうと衝撃を受けた。バークレーの大学院留学歴があると後で聞いた。

決まった隔週の夕食後、寺町の下宿から本町通りを横切って北城町にある教師の家まで歩く。その往き帰りの夜、 飽かず「ポルトガルの四月」を口笛吹いた。ある縁によって通っていたのは自分一人だった。

当然ながら50年前の私に今の自分など何一つ想像出来ない。毎日先生の所へ通うことを考えて、予習をして口笛吹いて歩いた。病は治癒しつつあったが体育も映画も禁止のまま。英語通いは密かな幸せだった。

曲はコインブラというポルトガル有数の古都を歌ったものらしい。当時のラジオでは器楽演奏だったが、ユーチューブを探したらフリオ・イグレシャスの歌があった。風景も彼の歌も素晴らしい。

 

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