明け暮れ 我が家 お出かけ

12月、イルミネーションとマジック

2010年12月3日(金曜日)

 ちょっと待って、と叫んでも暦は聞いてくれない。そっけなくさっさと行ってしまうので走って追いつくより仕方がない。今、昨夕のことを3日午前0時過ぎに書かせていただいています。

 

イルミネーション 樹下美術館のイルミネーション

 さて先週末から樹下美術館でもクリスマスイルミネーションを点けた。4年目になり痛んだ部分もあって少々追加した。静かな所のせいか暗くなると止まって見てくださる車もあると聞いた。来年はもう少し足してみようかなと思った。
 ブロガー「シャッターチャンスは今」さんには小生の写真よりもずっときれいに紹介頂き感謝しています。

 KAZさん
KAZさん

 ところで昨夕刻、ある納会があった。幹事の知り合いということで今大活躍のMagician KAZさんがゲストでこられた。各テーブルを回って楽しいマジックを見せてくださった。それぞれ趣向を変えて文字どおりあっと驚くパフォーマンスを披露された。

 

 ルックスも表情も良く手もきれいで手品は非常に魅力的だった。来る12月17日(金)にはデュオセレッソで世界的なジャグリングのパフォーマーたちを交えて氏がプロデュースするショウがある。クリスマスに相応しい楽しいステージが目に浮かぶ。

 きっと彼は世代を超えて愛されることだろう。膨らむ期待と楽しい時間を有り難うございました。

 

祖母の姉の嫁ぎ先を訪ねた  そして野口孝治のこと

2010年11月25日(木曜日)

午後の休診日、上越市頸城区森本の遠い親戚S宅を訪ねた。祖母トワの姉タイの嫁ぎ先で、ご当主とははとこ同志、これまでは門前へ伺っただけだった。今日お庭を公開されると聞いて訪問した。ありし日の地主のお宅で、豪勢な屋敷構えに驚かされた。

祖母姉妹の実家は旧津有村(現上越市新保古新田)の開田地主だった。姉妹の兄で明治5年生まれの孝治(こうじ)は生涯を高田平野の用水保全や野尻湖の貯水と発電事業などに捧げている。また護憲の犬養毅を敬愛して大正時代に立憲国民党から出て衆議院議員を務めたこともあった。

孝治は高田学校(現高田高等学校)を出て福沢諭吉が健在していた慶應義塾理財科へ進んでいる。その人生は諭吉と犬飼の思想を実直に反映したものといわれ、孝治の自室には二人の写真が掲げられていたという。ちなみに孝治の長男は高田市議会議長を、甥の小山元一(かずもと)は初代上越市長を務めた。

 

門からの道
門から母屋へ続く通路
母屋正面
母屋
築山の道
濠(ほり)に沿って築山の道
東から見る家
築山から母屋の東側を見る
手水
手水と庭下駄
濠とモミジ
周囲にめぐらされた濠(ほり)

さて祖母の実家やほかの姉妹たちの嫁ぎ先も家が大きい。トワは医家の我が家に嫁ぐと木造二階建ての病棟のほかに10数部屋を有する住居が建った。本日尋ねた姉の嫁ぎ先が建って数年後の竣工は、姉に負けられない意識もあったのだろう。我が家の仏間は60畳(現在30畳)だった。

昭和28年、小生の小学6年時に亡くなったトワの通夜はその仏間で行われた。普段寡黙な父が座布団をくるんで背負い、赤城の子守歌を酔って歌って踊った。私は驚いて見ていたが、父には特別な日だったにちがいない。

 

実は祖父母は大きな家などで莫大な借財を作っていた。貸し主は祖父の叔母が嫁いでいた酒蔵だった。返済は医師になっていた父の肩に重くのしかかった。現金を求めて満州へ渡ることになる父。志していた大学での学問からの転換はまことに不本意なことだったろう。

勤務地の満鉄病院に佐賀県古枝(ふるえだ)村出身の看護婦・母がいた。
母によると、少々ふけた独身医師が病院にいたという。ある日、どうして結婚しないのかと尋ねると、
「僕には親の大きな借金があるから」と父が言ったらしい。

 

本日の見学は庭だけだった。是非とも屋内も拝見してみたい。外観を一見するだに貴重であり、調査や保護、利用を検討すべきではないかと思った。

ウサギのマシュマロとワイマールのトリオ

2010年11月24日(水曜日)

 はや11月も下旬、普段干支を忘れている私に来年はうさぎですよ、と妻。カフェのほうじ茶でお世話になっている上越市稲田の川崎園さんからウサギのマシュマロを頂きました。愛らしく元気のいいピンクのウサギさんです。大阪市内・柏屋さんのお製だそうです。

 ウサギのマシュマロと
ウサギのマシュマロとワイマールのトリオ(カップ、ソーサ、ケーキ皿)

 

 御菓子を1920年~30年ころのドイツワイマール窯のトリオの皿に載せました。ワイマールは第一次世界大戦を敗戦したドイツが、1919年に民主的なワイマール憲法を発布した東部ドイツ(旧東ドイツ)の町です。人口はたった6万人だそうですが、ゲーテやシラーを生み、若きバッハが10年間も滞在した美しい町だということです。 

 花がらのトリオ アールデコ調の手描きによる花がらトリオ

 

ワイマール窯のスタンプ 
waimar(ドイツ読みヴァイマール)の窯印

理想を掲げた憲法もナチスの出現を許し、およそ15年で終焉を迎えました。
食器の明るい花模様から憲法が現した往時の希望が伝わり貴重に思われます。
 

樹下美術館は当食器も含め、来年も引き続きアンティークをお出ししたいと考えています。

 
 

晴れて月の出番かな

2010年11月19日(金曜日)

「大根なんてまだ可愛くて、白菜の顔も小さいんです」
荒天が続いていた先日の話。畑は縮んでいたらしい。

 

それが本当に久しぶり、今日は一日中雲一つなく思いっきり晴れた。
「助かります、あずき取りをしましたわ」と農家の方。

 

「朝、霜が降ったすけボートも仕舞いましたわ」は釣り好きの人。
彼の今年の海は終わったらしい。

  尾神岳の昼の月
午後尾神岳に月が登っていて

 

月 夜はこうこうとしていた

 

 天高し昼も夜もなく月を撮る

年とともに早くなる時間とは

2010年11月18日(木曜日)

 年とって感じることの一つに時間が早く経つことがある。ひと月前に来られた患者さんを一週間ほど前のように感じたり、11月初旬から中旬過ぎまでなどあっという間だった。猛スピードのため何かと積み残しも少なくない。

 

 加齢と時間のスピード化はいくつか要因が重なっているように思われる。
 一つとして、作業や思考に対する集中や関心の度合いが以前よりもあっさりしていることもあろう。若い頃は物事にいっそう集中し、沢山の事が気になり、絶えず何事かを深刻に考えて過ごしたように思う。毎日は今より濃く長かったにちがいない。

 

 2つめは年と共に作業や思考の効率が下がっているのだろう。同じ作業に以前の数倍も時間が掛かったりする。時間対効果が落ちていることを、時間が早く過ぎると実感して過ごしているかに見える。

 

  ところで小学校時代の登校で、よく時計屋さんの先輩宅へ寄って一緒に通学した。彼が出てくるまで店先の時計を眺めた。正面の時計の振り子と長針を見ながら1分間の感覚を覚えようとした。おかげで一分当てのような遊びは得意になった。

 

 時間当てと言えば中学生の頃の父に思い出がある。ストップウオッチにもなる時計を用いて父と1分当てをしたが全く勝てなかった。何度やっても父はピタピタと当てた。どうして分かるのか、執拗に訊いた。白状した父はある種ずるをしていたのだ。
 最初にお互い試しの一分をしようと父は言い、それからが本番だった。父は試しの一分間に自分の脈をこっそり計ったのだ。その後は前で両手を組むような動作などをすれば脈は簡単に計れる。さすが親は色々なことが出来ると感心した。

 

 さて3つ目として、5年ほど前のある日、何十年ぶりに暗黙の一分を試した。60秒を数えてみると1分16秒も経っていて愕然とした。その時の時間は自覚よりも1,26倍早く過ぎていたことになる。

 

 古いランプ
仕事場のトイレのそばにある古いランプ
昔の時間は如何ばかりだったのだろう。

 

  もう一つ追加してみたい。私たちは何処かへ出掛ける場合、行きより帰りを早く感じる。知らない所への往復ではなおさらだ。もしかしたら人生も似ていて、半分を過ぎた頃から往路と異なる経験であっても、いつか来た道を歩むような現象が起きているのかもしれない。

 

 昔より時は早く過ぎる。しかし仕事では以前よりも時間を掛けてゆっくり皆様と接するようになった。

 

 今夜センチュリーイカヤさんでヴァイオリン永峰高志氏、チェロ桑田歩氏、ピアノ大須賀恵里さんのコンサートがあった。晩秋のコンサート~ロマン派の甘きささやき~だった。魂を根こそぎさらわれるような大きな感動を覚えた。

(下段の9行を修正しました。11月18日 午後10時ころ)

西国の人 6 大潟の小さくて大きな宝 祝大潟商工会50周年

2010年11月13日(土曜日)

 西国の人5で書かせていただいたように、本日何とか無事に大潟商工会50周年記念式典で講演を済ませた。演題は「大潟の小さくて大きな宝」とさせていただいた。

 

 自分が親の後を継いで上越市大潟区に帰ったのは昭和50年の初夏だった。昼夜なく鳴り続ける電話、日曜日も平日もない診療。患者さんにまみれ地域医療の実践経験もなく精一杯のつもりでも皆さんにはご迷惑をお掛けしたと思っている。

 

 本日午後の大潟商工会50周年記念式典。地元への恩返しのつもりでお話をした。思えば35年前33才の若さで地元に帰った時に、ある種落ち武者の寂しさを禁じ得なかった。そんな自分を密かに勇気づけ頑張れと知らしめた石碑が町内にあった。

 

世界にはばたけ 新潟県上越市大潟小学校の貴重な100周年記念碑文

 

「世界にはばたけ」と刻まれた石碑。昭和48年に建立された大潟小学校創立100周年の記念碑だ。ああ、小さな故郷の町にこんなにおおらかな文言が掲げられている、自分も頑張ろうと元気づけられた。

 

 今日の講演では「西国の人5」までの概要の後、碑文「世界にはばたけ」を写真とともにお話しさせていただいた。

 

 会場
会場1

式典2 
 会場2

 現在石碑は場所を移され校内にひっそりと立っている。碑文のことを知らない先生もおられ、また今日初めて知ったという皆様も大勢いらした。
 碑文多しといえども、これほど立派でひらけたものがある小学校はざらに無いのではないか。スケール感のある教育エッセンスといえるだろう。

 

 現在いずこも地域は追い込まれ、存亡を賭けて頑張らざるを得ない。そんな中大潟商工会の生き生きしたホームページと、皆様の懸命なご努力を目にするにつけ頑張れ大潟!と叫びたかった。上越市へ合併して5年、ますますその思いがつのる。いま身を伏せて耐えてはいても心と意識を広くし、明日への希望へとなんとかつなげたい。

  

 平成の一億円のふるさと創生事業を学童の海外ステイに使っていた旧大潟町。多くの中学生がこの制度で海外を経験した。そのことは今でも生きていると確信している。
 地域振興は重要だ。しかし一過性のイベントで濁しているようでは真の振興にはななるまい。

 

 地域の根底を支え、かつ若者を育てはばたかせることこそ振興ではないだろうか。貴重な税は思慮深く使うべきだ。本日は私なりに日頃の思いをお話しさせて頂き感謝を禁じ得なかった。会場の皆さんの聡明な力感に触れて思いを新たにさせて頂いた。二次会三次会のお付き合いをして嬉しい夕べだった。

 

 ※「西国の人 1~5」は「世界にはばたけ」の碑文に繋げたい一心で続けてみました。お読み頂いた方に感謝申し上げます。

西国の人 5 大潟商工会50周年の記念講演

2010年11月12日(金曜日)

10月6日、ノートに西国の人を綴りはじめて4回まで来た。昔から在宅患者さんの急変などを考えてあまり遠くへ出ない生活が続いている。それで遠方から来た人や遠くへ出掛けてきた人の話を聞く癖がついた。今回のノートの三人もそのような中からのものだった。

記させて頂いた西国人4人のうち三人が広島県にルーツを持たれていた。ノーベル化学賞の受賞者・根岸英一さんは満州の生まれで西国のご出身と言えなくもない。いずれの方にも外に出る果敢な挑戦者の印象が共通していた。

 

思えば学生時代の知人友人も鹿児島、宮崎、高知、広島、兵庫、大阪、愛知、静岡など東海から西の出身者が多かった。彼らは一様に元気だった。

私の拙い経験によると、当地新潟では課題の取り組みに際し、何かと人間関係にエネルギーを費やす。一方西国人たちはリーダーを決めると一丸となって課題に直面し、人間関係はその過程や結果によって構築されたり、再構築される印象を受けた。このような気風が今日も維持されていれば、と遠くから望んでいる。

 

いま社会は閉塞し、萎縮・衰退の危惧が随所に漂う。そんな折々に心を広くして前に出る西国人を思い出す。
ところで明日午後、大潟商工会創立50周年記念式典がある。まことに恥ずかしながら小生が記念講演をすることになった。

 

実は大潟区に昭和48年建立の石碑がひっそりと存在している。単純かつおおらかな碑文で、当地へ帰った昭和50年以来その言葉に勇気づけられた。明日の講演では西国の人を話し、その碑文と希望へ繋げることが出来ればと、思っている。

 海上の虹
いつか見た海上の虹

西国の人 4 早よ出んかい

2010年11月8日(月曜日)

 10年振りにお会いしたM先生はお変わりなく元気だった。長身の先生は教養人の穏やかさの中に信念の骨格をにじませる人だ。また人をとても大切にされる姿勢は、故郷を遠く離れた人ならではなのか。このあたりに広島県出身者は自分くらいしかいなかったとも仰った。温かい西国から一人雪降る越後へ、寂しい夜も悔しい昼もあったことだろう。

 

 当夜、芝居の同窓会はせっかくの大参集にもかかわらず、ある人間のせいで方向も見えない散漫な時間となった。それでM先生に広島県人のことや、新潟県の田舎にある旧吉川高等学校に赴任された訳などを耳を澄ましてお聞きした。

 

 ご自分が広島におられた50年も前の当時は、学校を出て家に居ると「まだ居たんか、早よ出んかい」、と言われたという。出るのは国内ばかりではない、明治から第二次大戦まで、西国の人達、特に広島県民の海外移住は沖縄、熊本、福岡などを離して断然トップだ。彼らはアメリカ(ハワイやロスアンジェルス)、ブラジル、カナダ、ペルー、アルゼンチンそのほか広く世界へ飛び出している。

 

 そして当日驚いたことに、「実は私はハワイ生まれなのです」と先生は仰った。太平洋戦争前夜、ご一家は渡ったハワイから故国へ戻る決断をされたという。帰国後の終戦まぎわ、故郷・広島で被爆を体験をされ、後に広島大学をお出になると1000キロを一飛びして当地に赴任された。

 大学の卒業に際し、日本では珍しい高等学校の醸造科が旧吉川高等学校に設置されると聞いて、即決されたと聞いた。当夜のM先生は、明らかに果敢で独特な広島県人のほぼ全てを備えて座っておられたことになる。幸せな時間だった。

 

 気の大きさ、果敢さ、何が西国人を、そして広島県民をそうさせるのだろう。広島に関してはその昔、瀬戸内海ばかりでなく、海さえあれば国外へも出て行ったいわゆる海賊・村上水軍の気風が残っているのでは、と先生は仰った。

 

 「まだ居たんか、早よ出んかい」はM先生にお聞きした言葉だ。そしてこのたびノーベル化学賞の受賞者、根岸英一先生は「若者よもっと海外へ出よ」と強調された。
 さらに日本のノーベル賞受賞者18人のほとんどが東海以西、西国の人だとあらためて知って、ある種愕然とした。

 海と鳥

 拙ノートは西国の人 3 の続きです。いずれ5へ続けてみようと思います。

いくつかのささやかな文化

2010年11月3日(水曜日)

 時に風雨時に陽がさす不安定なお天気だった。ヒマがあれば海が見たくなる自分、午後の雁子浜で佐渡汽船を見た。

 

 二日余り続いた強風の余波が残る海上を遠ざかる汽船の果敢さに感心した。西風は追い風のはずで、航行はより不安定なことだろう。色々あろうがずっとずっと頑張れ佐渡汽船。

 佐渡汽船 
 果敢な佐渡汽船

 

 午後から寄った樹下美術館。荒れ模様の日にもかかわらずお客さんたちがこられていた。中に、テーブルの紙ナフキンで素敵な細工を残された方がいらして、スタッフに見せてもらった。初めて目にしたがにわかに信じられない出来映えだった。

バレー 動き、表情,,,素晴らしいです

 

 それから昔一緒にお茶の稽古に通ったAさんにもお目に掛かった。俳句をなさっていて、カフェで魅力的な句を聞かせて頂いた。お仕事に趣味に、昔の仲間が頑張っていることはとても嬉しい。こんな再会が出来るのも美術館を営むことの果報にちがいない。

 

 良い文化の日だった。

台風予報の東京へ

2010年11月1日(月曜日)

 年に一回、学生時代の同級生三人が夫婦して集まる会が一昨日東京であった。もう十数年続いていて、上越でも三度集まった。

 

 今回は台風が接近しつつあった東京へ。土曜午後、直江津駅に着くと予定の特急は運休。後発するほくほく線の各駅停車まで待って、何とか予定の時刻に間に合った。ほくほく線のⅠ時間半は、日頃敬愛している上越の先輩と思いもかけずご一緒して、あっという間だった。

 

 一年に一回の会合、年取っていく私たち。シェフ岸本直人氏の料理を4時間堪能した。みなで何を話したか大方忘れたが、高知出身のAは兵隊と虎のことなどを、静岡県のBはショパンは天才など、私は新潟県・頸城平野の水田の素晴らしさを話した。

 関連する隣のデセール(デザート)専門店のパティシエ森田一頼氏は新潟県のご出身だった。森田氏ともお会い出来て、ご活躍をお祈りした。

友人 ワインを選ぶB

 夜更けて河岸をを変えた。臭い物が好きだという友人はさらに粕とりブランデーからマールを選んだ。それから一年に一本、恒例になったダビドフの葉巻を楽しんで日曜深夜のビルを眺めた。

深夜のバー 
マール、グラッパから選ぶ
3シガーセラー 
甘い香りのシガーセラー
   

  ごたんの小児科 
ごたんの小児科

 翌日曜日午後は新装なった根津美術館で宗時代の青磁を満喫した。その後皆と別れて、五反野に開業した息子のクリニックを訪ねた。愛らしい診療所を見て胸がいっぱいになった。夕食は彼ら夫婦と一緒の貴重な時間だった。

 

 台風もさして影響なく、何かと重かった頭が軽くなった週末だった。

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