明け暮れ 我が家 お出かけ

希望

2011年3月15日(火曜日)

  二回にわたって当ノートで弟の安否を尋ねさせていただきました。ウェブや携帯には様々な安否確認サイトがあり、出来る限りをしました。そこで多くの方たちが弟を心配して下さっていることも知りました。

 

 ようやく今夜になって無事を知らせる短い記事が見つかった、という連絡が入り始め、それを見ることが出来ました。

 

 当ノートに書いたばかりに皆様にご心配をお掛けしてしまい、申し分けなく思います。今日の情報が出たのも皆様のおかげと感謝しています。

 

今日は早くやすみ、いずれ本人達の声が聞けることを待ちたいと思います。

 

 知らせは避難所に提供された衛星携帯電話→twitter→GoogleのPerson Finderを経由していました。

 

感謝に堪えません。

壊滅の南三陸町・志津川(しずがわ) 弟は

2011年3月12日(土曜日)

 弟が居る南三陸町について、テロップやウェブで「病院以外、町が消えた。」「孤立した避難場所に火の手が迫っている」、「警察署も三階まで水没した」という情報が心配で眠れなかった。

 

 現在12日午後8時半をすぎた。弟の家族は八方手を尽くしたが安否が分からない。普段明るい一家なのに、一声も無い。山の家に集ってトランプをしているのならいいが、、、。夫婦で町へ出ていて、子どもたちは下校途中だった、などきわどい場面も考えられる。通信インフラのダメージもあろうが、一家のだんまりが心配される。

 

 弟・杉田徹・敦子夫婦と家族安否をご存じの方がいらっしゃいましたら、ご一報頂ければ有り難く存じます。

支度 
 夜更けから今度は当地で何度も続いた震度3~5。念のため土間に避難の支度をした。

 

※前回の拙記事「巨大地震 志津川は」はすでに200近い検索閲覧がある。一つの記事が一日でこんなに検索されて読まれるのは初めてだ。「志津川」と「地震」で検索されているようだ。志津川のご親族や美しい町を心配されている方が、いかに沢山いらっしゃるか分かった。 

巨大地震 南三陸町・志津川(しずがわ)は

2011年3月12日(土曜日)

 3月12日深夜を回った。昨日午後に起きた東北・太平洋沿岸地震は最大級の災害となった。私の弟一家は宮城県南三陸町の志津川に住んでいる。

 

 場所は1960年チリ地震で甚大な津波災害に襲われた場所であるため非常に心配される。通信が途絶していて連絡がつかない。家はやや山間だが市街地へ通学する姪達や地震の直接被災も心配される。

 

 凄惨な気仙沼、大船渡、、、、。志津川が壊滅というtwitterも見られた。ほとんど報道されてない南三陸町がとても気になる。 

 

弟・杉田徹(昭和18年生まれ)・敦子夫婦の安否をご存じの方がいらっしゃいましたら、ご一報頂ければ助かります。

大変な思いをされている志津川小学校の皆様、小5・杉田のばら、小1・春風(はるか)姉妹のことをご存知でしたら教えてください。

 

 

標識の教訓

2011年3月6日(日曜日)

 2日に今年の開館をした樹下美術館が迎えた週末、土曜日はいつも以上に賑わったらしい。

 ご来館下さった皆様、お楽しみ頂けたでしょうか、昨日は留守をして申し分けありませんでした。

 

 今夕刻、新潟の個展会場に顔を出した。上越市から、何組か医師会の皆様にお越し頂いていた。120キロの遠路を本当に有り難うございました。また顔なじみのKさん、お帰りはどこかお寄りになりましたか、お母さま共々有り難うございました。

 

 ある大学の先生が私に絵を習いたいと名刺を置いてくださっていた。しかし自身いまだ苦しむばかり、お教え出来る立場から遠い。樹下美術館を訪ねたいと仰ったいうことで、大変光栄に思った。

 10年前の上越の個展でも教室を開いて、と何人かの方に言われた。恥ずかしくてとても出来ない。しかし、多くの方が草花を描くことに興味をお持ちになっていることが分かって嬉しかった。

 

 標識 
 

 新潟の帰り道、ある標識が鮮やかに眼に入った。忙しさを増した在宅医療、開館した美術館、未完成の図録二冊、半分以上残している新潟の作品展、ほかに抱えているいくつかの課題、、、。暗示的な標識は目を止める必然があったにちがいない。

お天気に愚痴 雪と静寂

2011年3月4日(金曜日)

  在宅医療では、冬が終わるころから悪化される方がやや増える。本日の往診は特に先を急ぎたかったが、たびたび視界を遮る猛烈な降雪に見舞われた。

 

昨日情緒などと言いながら、「いやな雪だな」「ひどい降りですね」「今頃こんなに降らなくてもいいのに」などと、看護師さんやおうちの方たちと愚痴った。

 

 それが効いたか、一回りして帰路につく頃、雪がパタッと止んだ。しかし空は鉛色、まだ降るらしい。

 

 夕食中に急患の電話があった。意識混濁ということで再び降り始めた雪の中を伺った。容態は比較的軽く、なんとか病院さんのお世話にならずに済んだ。帰りに雪が途切れていた。

 

 雨風と違って雪は音もなく降る。そして夜、音が無かったはずの雪が止んだ時に訪れる静寂は深い。月や星が出るとさらに澄みわたる。静けさは聴覚だけでなく視覚も関係していることが分かる。風花がちらりほらりと見える時も静けさが増す。

潟町分校の同級会

2011年2月26日(土曜日)

 夕刻から同級会がありました。「潟町分校同級会」、分校は小1から小3まで通った学校。人生は幾つか原点や節がありますが、分校はその一つかもしれません。今夕20人ほどで集まると、何て安心なのだろうと感じました。

 

 10年前なら少しく身構えたのに、今やみな見事にこなれて清水のようだった。誰彼ない言葉のあちこちに、ああなるほど、確かに、やはり、と60年分のしずくがきらきらと光っていました。

 

 戦時よりも食べ物が乏しかったかもしれない私たちの幼年時代、昭和23年の一年生。記念写真はみな枯れ木のように手足が細く、まぶしいせいもありますが、ほとんどが空腹で眉間にしわ寄せて写っています。 

 

同級会の通知旧潟町村(現上越市大潟区):潟町小学校分校の同級会の お知らせ
 

 亡くなってしまったY君、Uさん、小さい時に私の家で絵を描いたことがありましたね。そして幻灯を見せてくれたS君、ひどく先生に叱られたK君、今夜私は6月にT君と米山登山をする約束をしましたよ。T君はシラネアオイの場所を知っていると言ったので決めました。苦手な登山ですが、無事山頂に立ったなら海辺の潟町を眺めて君たちの名前をそっと呼んでみたいと思っています。

旅情の日曜日

2011年2月13日(日曜日)

プログラム見出し

  夕刻、直江津のセンチュリーイカヤさんの音楽会へ行った。
 前半は五郎部俊明さんのテノールで大須賀恵理さんのピアノ伴奏。食後のN響奏者による弦楽5重奏はコントラバスが入っていた。

 

 五郎部さんはイタリア歌曲を中心に美声と溢れる声量で場内を圧倒した。

 

 弦楽アンサンブルによるウインナーワルツは春を伝えてこまやか、かつ重厚だった。礼装した奏者は格好もよく、19世紀かくやありなん、旅情満点の熱演だった。帰るとテレビにN響オーケストラ、今見たばかりのお顔が見えていた。 

  チョコレート  

  

 

 

 

 

午後、最近では貴重となったチョコレートが届いた。ルブランの画像の前で記念撮影を。

 

 
 さんざんな予報が出ていた週末、寒かったがさほど降らなかった。

 久しぶりの青空に雲  拙誕生日と旧奉天市(現瀋陽市)

2011年2月1日(火曜日)

 正月にわずか穏やかな日があったが、晴天を思い出せないほど悪天候の1月。今朝の新潟日報紙で上越市の1月の日照時間合計が1922年以来の統計史上、最低と報じられていた。歴史的暗さの1月が終わった。

 

 その空が本日小生の誕生日に、久しぶりの晴れ間を見せた。青空に軽々と浮ぶ雲などどれほど見てなかったことだろう。2月は荒天に混じって、うっとりするような良いお天気が現れる。あす日中は今日より晴れるらしい。

 

雲 
青空と綿のような雲、久しぶりでした。
 

 恥ずかしながら私が生まれたのは1942年。場所は旧満州奉天市(現中国瀋陽市)だった。父が満鉄病院の医師だったこともあって写真の病院で生まれたらしい。

 

 奉天医院
絵葉書「南満洲鉄道株式会社地方営造物絵葉書帖」より『奉天医院』
(「植鉄 失われた時を求めて」より)

 

 当地は大陸性気候のため冬は寒いがよく晴れるという。手足の細い私はあっという間に生まれたと聞いた。その日もきっと良いお天気だったのだろう。病院の産科は素晴らしかった、と看護師だった母が言っていた。

 

 ところで父は満州を語りたがらなかった。父とは別に、自分も年とるにつれ生誕地への郷愁は薄らいだ。お互いの国が仲良くできればといつも思っている。

湯気 そして冬の下宿のやかん

2011年1月26日(水曜日)

湯気 
  お風呂、吐く息、台所,,,それらの湯気。雪を心配する毎日の中で湯気は心温まる。

 

 その昔の中学の一部と高校時代は高田(現上越市)に下宿をした。寺町にある小さなお宅の二階の6畳間、弟と一緒の時期もあった。昭和30年代前半の下宿の冬は、コタツも無く火鉢一つだった。しかし吐く息が真っ白になる冷え切った部屋でも炭をおこすと温かくなった。

 

 その部屋の火鉢にやかんを掛けるか、どうかで弟と争ったことがある。弟は掛けないほうが暖まると言い、わたしはどちらも同じだから掛けたいと言った。

 

 正直今でもどちらなのかよくわからない。しかし喉や肺が弱かった私は少しでも蒸気が欲しくて、生半可な物理の法則まで持ち出してやかんを掛けた。

 

 冬になると懐かしい下宿の火鉢とやかんを思い出す。毎年夏にやって来る弟は覚えているだろうか。今度会ったら聞いてみよう。今では微妙に弟の言うとおりだったような気がしないでもない。

こころのすがた 自然 そして波間に宝珠?

2011年1月23日(日曜日)

 テレビを見るのはいつも偶然、しかしどこかで一つはいい番組をやっていて感心する。本日午後「こころのすがた」というのがあった。進行の宮崎哲弥氏に応えるゲストの養老孟司氏の話を興味深く聞いた。

 

 番組の最後に「心とは」と訪ねられた養老氏が「自然に対して開くもの」と答えられた。あまりに明快、しかも驚いたことに人に対して開くとは仰らなかった。厳しい言葉だと思った。人も自然の如くあるなら、と含んでおられたのか。

 

 当ノートのアバウト(プロフィール?)に自分のことを「山河は緑、人また山河」を思っています、と書いている。書いて以来、何かずっと気恥ずかしかった。しかし今日、養老氏の言葉を聞いて救われる思いがした。

 

 今日の海
今日の海

 
 沿岸の大潟区の雪はわずかとなった。午後からまた海へ。自分は海辺で育ったのでどんな海でも飽きない。ずっと昔、好きが高じて外洋ヨットで舳倉島(へぐらじま)往復や佐渡海峡横断、そして佐渡一周などのレースに参加させてもらった。クルーはみな超勇敢、個性十分でいい人達だった。

 

  先日、葛飾北斎の波に影響を与えた宮彫り師・波の伊八を取り上げた番組があった。荒波の間に浮かぶ宝珠(宝・幸せ)を彫った作品は強いインパクトがあった。これは真実の表象だろう。しかし、いつしか自分も年寄りの冷や水を考える年になっているのも事実だ。

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