明け暮れ 我が家 お出かけ

景勝を通して描かれる謙信 民守党でいいのでは。

2016年3月27日(日曜日)

小説や戯曲に於いて、エピソードごとに人物の個性を
その通りに表現することは重要なことだ。
その点で真田丸は見ていておもしろい。
(但しある女性の役どころがよくわからないのだが、、、)

毎回めまぐるしく襲い来る難題への対応で波乱の連続。
その中で人物たちは複雑に立ち回りながら、結果とし
てそれぞれの個性が見事に一貫している。

今年の大河ドラマは文字通り「ドラマ」あるいは「芝居」
の要素が濃く興味深い。

本日、信繁が上杉の人質として春日山城に入った。
そこで信繁、景勝、兼続の三人が一挙に深く描かれた。
三者は文字通り三様に振る舞いながら切迫した問題を
乗り越えていく。
その中で特に景勝が体現している上杉謙信像がこれほ
ど丁寧に演じられるとは思ってもみなかった。

劇中、景勝の心情が強く民に向かっている事が強調され、
非常に新鮮だった。

“民の安心なくして国作りは無い”
“民の暮らしを守り民の心を支える”

景勝はこのような主旨を述べ、信繁は感化されていく。
兄との今後の乖離も景勝の薫陶が動機の一つになるのか。

第一義
↑謙信を育てた春日山は林泉寺の山門にかかる
「第一義」の額。

 

ところで本日民進党が発足した。
調査によれば不支持が支持を大きく上回る。

当然であろう、政権時代の民主党は瞬く間に権勢に
おぼれ、ついには官に操縦されるが如く衰弱した。

だが党名は変わろうと本来の立場は不変であろう。
地元としては景勝の言葉のように「民守」を肝に銘じ、
惰することなく懸命に働いてもらいたいと思う。

冷たいと寒いの続き 思い出の木古内、北海道新幹線の開業。

2016年3月26日(土曜日)

昨日は「冷たい」と「寒い」を考えた。

違いを自分の外部と内部の感覚の区別で想定してみた。
人の体に触れて「冷たい」と言うが「寒い」とは言わない。

そんなことから外部の感覚が冷たい、内部の感覚は寒いと
仮定してみた。
しかしどう見ても自分の額や頬を「冷たい」と感じる。
それを冷たいは他者の感覚を自分に置き換えて感じる、
というのはまわりくどく、相当無理がありそうだった。

ならば本日「冷たい」は身体の知覚で「寒い」は心や精神
のものなのか?
あるいは「冷たい」は表面的かつ物理な反応で、
「寒い」はやや深部的、あるいはやや抽象的な反応なのか?
冬の風に手足や頬は冷たく感じる。
一方冬の外出で「おお寒い!」と言い、「おお冷たい」とは言
わない。

あるいは、
低温の風呂に入った途端「冷たく」感じ、すぐに「寒く」なり、
手足が「冷たく」なっている。
「冷たい」は外部に対する即時的な反応、続いて深部が
「寒い」と感じ、最後に「冷たくて寒い」への対応を考える?

ということで、
冷たいは本能的かつ反射的→古い脳幹、大脳基底核の反応。
寒いは深部的また情動的→少し進んで大脳辺縁系?
それらへの対応→新しい大脳皮質の出番。
と我田引水を試みて、自信はないが一応終わることにした。

最後に「冷たい言葉」や「冷たい人」は深い印象がある。
しかしそれらには恐れや攻撃を司る原始的な古い脳(脳幹、
大脳基底核)が反応しているのかも、、、。

こうなると無理を否めません。
結果的に「冷たい」より「寒い」が難しく感じられました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

img148
北海道は道南、木古内(きこない)の叔父さんの牧草地で。
1954年、中学一年の夏休みに中三の姉と小六の弟と
三人で行った。

直江津から乗った私たちの席は京大の医学生さんと一緒
だった。
その人には車酔いした弟を介抱してもらって助かった。

朝出発して夜に青森、青函連絡船で泊まり、翌朝函館着。
青函連絡船は親戚の上等航海士の世話で船員用の個室
ベッドだった。
非常に興奮して眠れず、一晩中デッキや船内を歩き回った。

秋田の夕陽、五稜郭の海洋大博覧会、江差線沿線のスルメ
の匂い、トラピストのバター飴、牧草地の土器、震えながら
泳いだ海、、、。

なにより叔父さんが自分の口に手を入れて吐くのを見た時、
この仕事は大変なのだと思った。

北海道新幹線が本日開業した。
北海道最初の駅が人口5千人に届かない木古内になって
いる。

ギザギザした西頸城(糸魚川市)の山へのあこがれ。

2016年3月8日(火曜日)

以下の写真は柿崎、大潟、など頸北地区の海
岸部から西を見た山々の一部です。

同地の西方と言えば先ず妙高山、火打山、焼山
の連山と手前の南葉山の大きな山塊が目に入り
ます。

しかしそれらの更に右、つまり南葉山の裾をより
西方に目を移すと遠くに写真のようなギザギザし
た山並みが見えるのです。

 

1
昨年3月2日の写真。

これまで何度か西頸城方面へ用事やゴルフで足を
運んだ事があります。
しかし写真のような特徴ある山々を目の当たりにした
ことはありませんでした。

遠くからよく分かるのに、近づくとどこにあるのか分か
らない。

いずれにしても西頸城地域の遠いギザギザは子供の
ころから不思議で、魅惑的な眺めでした。

ところで2月28日に記載しましたシャルマン火打スキー
へ行った時初めて権現岳を目の当たりにしました。
当地から西頸城地域に入ると最初に出会う大きな山
です。
冒頭の写真で右端に写っている山が権現岳ではない
かなと思いました。

2
さる5日、二回目のスキー場訪問で間近に見た権現岳の
山塊(鉾ケ岳と繋がっています)。
大変に存在感のある山でした。

 

3
5日のスキー場の後、早川の上流で念願のギザギザ山
と出会いました。
とてもエキゾチックで、冒頭の写真にあった山の一つでは
と思い、感激しました。

調べてみますと正面が烏帽子岳でその右が前烏帽子岳、
左肩に掛かった小さなトンガリは阿弥陀山というのでしょう
か(自信がありりません)。

 

4
さらに上った焼山温泉の背後の山。
妙高山を小ぶりにしたような山容ですが、前掲の
烏帽子岳、前烏帽子岳と左奥の小さな阿弥陀山?
がこのように見えていたのでしょうか。
あたりには尖った山がいくつもありました。

さて短時間車に乗っての山見物でした。
しかし漠然とあこがれていたギザギザ山の一部と
思われる所へ行くことが出来ました。
糸魚川市には東西二つの海谷(うみたに)山塊が
あり、今回見たのは東の一角だったようです。

山に詳しい人なら直ちに全て分かる事でしょう。
何も知らない私はいつかもっとよく見える場所に
行ってみたいと思いました。

新潟焼山の緊迫感 水文字など能生谷早川谷の民家の違い。

2016年3月6日(日曜日)

昨日は、午後から出かけた糸魚川市は能生川
を遡って着いたシャルマン火打スキー場と、
リフト終点の眺めなどを書かせて頂いた。

その後能生ICへ戻り高速道路を糸魚川で降り、
国道8号を梶屋敷まで走り、早川沿いを上った。
行った先の焼山温泉付近から見た焼山は眼
前に迫りもくもくたる噴気の動きが見てとれた。

 

4
焼山温泉付近で見た噴気に活火山の緊迫感が
あった。
(ズームレンズで撮りさらにトリミングして拡大し
ています)

 

5
上の写真を撮った温泉付近の民家。
大棟の合わせの下部にある「和」に似た文字は
「水」の崩し字。丸囲いは拡大です。

6
この家は「水」とそのまま書かれている。
7部分の拡大です。

8
堂々とした大棟の先に同じく「水」とあった。

9

 

さて焼山が近い早川谷で見た民家の「水」文字
は興味深かった。
もともと防火祈願の現れとされるようだが、早川
では目の前にある焼山の安全も祈っているよう
に感じられた。

一方で「水」を書くのは関西に多い習わしのよう
だ。
一帯に及んだ関西文化の一つとみることが出
来るかもしれない。

 

民家で言えば能生谷の古い家も特徴的だった。

10
寄せ棟風?の妻側に台形の設えがあり、
明かり取りか風通しか、小窓が切られている。

11
同じく能生谷で見た小窓の設え。
二軒とも複雑な構造だが、なかなかの格調だっ
た。

上記いずれの民家も屋根の下に茅葺きをその
まま残していると思われる。
同じ茅葺き屋根でも川一筋違えば様式が異
なっていることは文化のあり方として大変に
興味深かった。

いずれの川も以前走ったことがある。
しかし当時何を見たていたのか、山も家もほと
んど記憶がない。

最後ですがもう一つ、長く自分の興味を引いて
いた西頸城のギザギザした山並みについて次
の機会に書かせていただければと思います。

二回目の能生谷 シャルマン火打スキー場へ。

2016年3月5日(土曜日)

去る2月28日日曜日に能生川沿いに運転して
シャル
マン火打スキー場へ行った。

一応目的めいたものがあり、
1噴気を強めていると言われる焼山を見たいこと。
2当地の沿岸から見られる西頸城地方のギザギ
ザした山を間近に見たいこと。
3あるいは民家や石垣を見たいなどだった。

前回は日曜日のため早くスキー場のリフトが終了、
期待した肝心の山々を見ることができなかった。
そこで本日午後もう一度車を走らせた。
何日も経たない再訪だったが、楽しい午後だった。

 

1
ゴミ集積場にもなっている堂々たるお堂。
先日は気がつかなかった。
小見のお堂のバス停といい、不思議な文化だ。

二回目にして入場したスキー場は本当に良かった。

 

2
コース最高点は1000メートルを少し越える。

 

3
リフト終点の向こうの大パノラマ。写真正面が火打山、
右方に焼山。写真にはないが左に大毛無山山頂、ほ
か名を知らぬ沢山の峰が見えて本当に素晴らしい。

4
ズームで撮った焼山の噴気。

5

6

7
何度も転びながら降りてきた女性。
キャーキャーと叫んで楽しそうだった。

スキー場とはこんなに気持ちが良い所だった
だろうか。
一種懐かしく遠くなった“健康的”という言葉。
それがここでは明るく生き生きと残っていた。

2本リフトのコンパクトなスキー場で、非圧雪、
パウダースノーを詠っている。
真っ白な自然に囲まれ看板やスピーカーなど
余計なものが見当たらない上品な施設だった。
関西ほか遠くの車輌で賑わっていて、常連を
集めそうな雰囲気を感じた。

 

スキーといえば20数年前、高校生の娘とその友
達と妙高パインバレーに行ったのが最後だった。

そして今日いつしかスキーを履かずリフトに乗る
年になっている。

「まだまだ-、ハイここで降りて!」
リフトの係員たちは私や妻をとても気遣った。
スキーをしない写真目的の人もいる模様だ
が、何より老人への配慮だったに違いない。

本日はこのあと梶屋敷から早川を遡り、笹倉温
泉まで足を伸ばした。
民家の様子や山々も雰囲気が変わり興味尽き
なかった。

続きを明日また書いてみたい。

能生谷をスキー場まで行った。

2016年2月28日(日曜日)

陽が射し予報よりも良いお天気だった日曜日。
午後二時半ころ車で糸魚川市~笹倉温泉へ行っ
て焼山を見よう、と出発したものの時間が足りず、
手前の能生で高速道路を降りた。

能生川の左岸を走り白山大橋を渡って右岸を上り、
シャルマン火打スキー場まで行った。

 

1
ザーザーと雪解けの川音が気持ち良かった能生川。
いくら取っても尽きそうもない河床の石。

2
目を引いた白山大橋。

 

民家の石垣
期待どおりだった民家の重厚な石垣。

123
能生川に注ぐ急な流れの両岸は見事な石積みの護岸。

 

4
次第に高度が上がり、春を待つ山の雑木が眼にやさ
しい。

5
スキー場が近づいて鉾ケ岳と権現岳の山塊が迫って
きた。

 

IMG_8929
スキー場の駐車場。リフトは日曜日ということで3時で終
了していた。(通常は午後5時ということ)

6
本日最後のスキーヤーのようだった。

 

7
帰路確認した「246号」(県道)の道路標識。
これが国道なら赤坂、青山、渋谷を抜ける東京のメイン
ストリートの一つだが、県道とはいえここで246号の標
識と出会うとは。

8
今度は「物出(ものいで)」というバス停。
何か浪費しそうな、紛失しそうな感じがする。
それとも変わった物が突然出てくるような。

9
市街地近くの小見(おみ)というバス停。
お堂を停留所にしたようだが、中にベンチが3つあり、
壁に花が飾られ、表には時計と小さな黒板まである
至れり尽くせりのバス停。

10
小見のバス停を曲って上ると風情良く石垣が続いていた。

 

権現岳、鉾ケ岳の真っ白な山塊は神々しかった。
県道246を走っただけだったが、川の流れ、石垣、
家の風情、地名etc、、、興味は尽きなかった。

特別な観光地でなくとも所変われば風物も目新しく
楽しめる。
加えるに一帯は奴奈川姫の伝説や白山権現など
太古のロマンや信仰の素地を有している。
能生白山神社の春の大祭の素晴らしさを以前から
聞いていた。
本日は寄って良かった、また訪ねてみたい。

夕食は名立インターチェンジでコロッケカレーを食
べた。
(長くなりました)

年取って訳はどうあれバレンタイン ペリー・コモの歌。

2016年2月13日(土曜日)

明日はバレンタインデーということでチョコレートを頂いた。

009
新潟市へ行った人からロシアのチョコレート。

 

010
糸魚川市へ行った人から雪国らしいチョコレート。

お励まし有り難うございます。

 


ペリー・コモの「My Funny Valentine」
そもそもこの曲は女性が男性のことを歌っているそう
です。

かなり当てずっぽうですが訳してみました。

“私の可笑しなバレンタイン
甘くてどこか滑稽
心を微笑ませてくれる人
ルックスもなにか可笑くて
写真写りもいまいち
でも私のお気に入りの芸術作品

見た目ギリシャ彫刻的でもないし
口元もどこか弱々しくて
話せばスマートなんかじゃない

でも私の為に髪など変えたりしないで
そんなこと構わないでいい
ただ私と一緒にいてね、愛しいバレンタイン
ずっと一緒
毎日がバレンタインデー”

さて1961年、浪人の為上京して初めて買った25セン
チLPレコードが1950年代のペリー・コモでした。
上掲YouTubeのバージョンはその中にありました。
ペリー・コモをとても好きになりましたが、
後にお小遣いが無くなりレコードを中古屋さんに売りま
した。
売る前に気に入っていた歌を何曲か書き写して覚えま
した。

「When You’re Smilling」
「Talk Of The Town」×
→「It’s The Talk Of The Town」2月21日訂正しました。
「South of The Border」
などは今でもかなり覚えています。

昔人の冬 松の雪。

2016年2月6日(土曜日)

立春が過ぎ、雪は少ないが日照も乏しい。
来週半ばから気温が上がり暖かくなるという。

いつか記載したように雪国でただ春ばかり待っていると
貴重な月日が少々もったいない。

その昔、近隣農家の人達は冬になると出稼ぎや奉公で外へ
働きに出た。
残ったお年寄りや子供は来る農繁に向け夜遅くまでワラ仕事
や針仕事に勤しんだという。
高度成長期までこんな過ごし方が身近にあった。

日頃このような方達の話を聞くにつけ、寸暇を惜しんだ昔人達
に敬服を禁じ得ない。

 

0115の雪
庭の松の雪(去る1月中旬)。


0206の抹茶
春を待って「松の雪」というお菓子で抹茶を飲んだ。
庭の松の雪に雰囲気がとても似ている。
京都は丸太町かわみち屋さんのお茶菓子。

間もなく晴れ間のおとずれもあろう。

油断出来ない冬の道路。

2016年1月25日(月曜日)

 

拙詩)
昨日今朝と見舞われた寒波
気象の主が忘れ物とばかり寒波を取りに戻り
さあ、さあ、と言って降らせた

除雪された県道などはやはり狭い
往診でバスが来るとぐぐぐっと左に寄って
じっと通り過ぎるのを待つ

下校するこどもたちも大変だ
ちゃんとした歩道が無いので、
車を避けるのに芸当のようにしなくてはならない

その昔高校時代の冬の終わりころ
車が来て道路脇の雪の山に避けたらずずずっと滑った
ずり落ちた足を車のタイヤが踏んで通った

こんな日は今でも右足の甲が痛みを思い出す
広く除雪されるようになったが、車は増えた
すれ違いに足を踏まれる人は居ないだろうか

冬の道は油断出来ない。

介護に関心を持たざるを得なかった40年が過ぎて 暖かいマウス。

2016年1月15日(金曜日)

地域包括支援センター主催の会に参加した記事は同夜遅く記載した。
気がつけば日付が変わり本日15日版になっていた。

いつしか過ぎた町医者の40年。
単純ながら当初2才のお子さんは今42才。
15才の中学生は55才。

また、45才だった方は85才で、55才の方は95才になられる。
なにより33だった自分は73才になった。

開業当初から高齢者が多く、仕事は治すことと共に看取りも多かった。
最近は随分減ったがこれまで4,5百人の方を看取っているかもしれない。

しかし人生の最後にかかわる立場にいながら何を得たかは難しい。
ただある時期から「終わり良ければ全て良し」を思うようになった。

薬の代わりに昔の事を尋ね、今の季節や今日の天気を伝え、
時には触るだけが仕事の事もあった。

そんな中で、介護保険は過去の辛酸の克服に一定の成果を上げた。
だが今日長いベッド生活の深刻な側面を生んでいる。
これはすべての人の課題であろう。

如何に介護するか、それ以上に「如何に長く健康でいるか」が
古くも新たな問題だ。

最近では、備えはこども時代から始まっていると言われる。
望むなら「少しでも早いほうがいい」が正解であろう。
成果は「終わり良ければ全て良し」へと繋がると考えられる。
反省を含めて言わせて頂ければ、
およそ体作りの概念は人生の半ばから一新させる必要があるようだ。

話変わって本日暖かいマウスが届いた。
近頃マウスを扱っていると手が冷たく感じるようになった。
もしやと思い暖かいマウスを検索したら幾つかのタイプが本当にあった。

018
「USBであったかいマウス」(1980円)。
普通より大きく、クリック操作は少々固いが、暖かくてほっとする。
温度は二段階切り替わり、お尻に熱源があり青い光がきれいだ。

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