明け暮れ 我が家 お出かけ

年末旅行最終日は岡山市から旧閑谷(しずたに)学校へ。

2026年1月7日(水曜日)

前回の備中高梁の駅隣接ビルの記載で蔦屋を蔦谷などと記載してしまい、申し分けありませんでした。
本日は旅行の最終日、岡山市内と旧閑谷(しずたに)学校行きです。

実は旅行の三泊目を瀬戸内が見晴らせる倉敷市児島を予約していましたが、岡山市周辺を調べると「閑谷(しずたに)学校」という聞き慣れない場所を知りました。吹屋同様山間にひっそりと、しかし確固たる存在感を現す古い校舎の魅力に惹かれ児島から岡山連泊に変更した次第です。

この日は帰郷するので夕刻までに岡山を発たなければなりません。以下簡単ですが31日午前の岡山市の後楽園と岡山城です。

入園早々岡山城が見える後楽園。

後楽園は広大で池と水路などふんだんに水があしらわれる庭園でした。

 

舟置き場。

蓮田、茶畑、蘇鉄(そてつ)畑など
農への重視は印象的です。

茶で言えば中国から日本に茶を紹介した臨済宗開祖・栄西は岡山県の人だと知りました。同園では田植え、茶摘み、観蓮、月見、能楽、芝焼きなど伝統を重んじた四季折々の催事が行われ、開かれた庭園として広く市民に愛されていることが覗われます。

庭園側から見た岡山城。

上掲の撮影後旭川(あさひがわ)に掛かる橋を渡って岡山城を眺めに行きました。

時間が来ましたのでお城の後岡山駅から山陽本線は普通列車で「吉永」へ。約35分で到着後、「旧閑谷(しずたに)学校」へはタクシーを利用しました。

山間に入ってすぐに目的地、国宝や重文の建造物群を有する特別史跡「旧閑谷学校」でした。

校門である鶴鳴門(かくめいもん)。

これが校門とは、鶴鳴門の荘重な屋根瓦。
雨水の傷みに備え緻密な構造。

国宝の講堂。冬以外は芝生の緑に囲まれるようです。

 

塀の上面は侵入の手がかりにならぬよう丸い。
高さ幅とも2メートル、総延長700余メートルです。

昭和天皇お手植えの楠(くすのき)

旧満州、奉天生まれの私ですが、
故郷を訪ねたような懐かしさ。

建物の膨大な瓦は全て備前焼で、耐久性保持のため特に高温で焼成されたと言われます。長年にわたり大量の重い瓦を支える木造部分の強さにもほとほと感心させられます。維持し続けた後世の人々にも感心しました。

閑谷学校の始まりは早く、寛文十年(1670)、岡山藩主池田光政公により庶民のための学校として30年も掛けて創建され、他藩をも問わず広く子弟を集めたということです。

当然ですが江戸初期からの歴史ですから浮沈が見られ、衰退ごとに有力者らによって再興され現在でも運営財団は寄付を募っていました。

藩校として長く存続し、明治時代以後は中学校としても使われ大正時代まで実用されたようです。

池田公墓所へ椿の道。

学校の右手に椿の道があり、池田光政公の墳丘へ続いているということです。当所一帯はまだまだ見どころ多い場所。いつか叶うなら花の季節に再訪したいと思いました。

本日で年末旅行記事は終了ですが、吹屋も閑谷も遠い所でした。しかし両所とも古い学校が格調高く保存され、この度の旅行を意義深いものにしてくれました。

長々お読みいただき有り難うございました。
今回、地域の隆盛は地勢・環境も大事ですが有能な殿様と城下の熱意、学問は決定的であろうとつくづく感じました。

帰路は東京を経由して北陸新幹線でした。東京駅で乗車後すぐ肘掛けの脇にタブレットの忘れ物を見つけました。
携帯の置き忘れをしたばかりなのに今度は私が発見者、急いで車掌さんに届けた次第です。
旅は本当に色々なことが起こりますね。

到着した上越妙高駅は雪降りの最中でした。

雪の駐車場。

3月15日、樹下美術館は20年目の開館です。
休館日など少し変わりますが今年もどうか宜しくお願い致します。

年末旅行3日目は吹屋のベンガラ色の街と吹屋小学校へ。

2026年1月5日(月曜日)

昨日に続いて岡山県備中高梁(たかはし)市は午後の観光です。

駅ターミナルにあるバスセンターから10:55発、終点吹屋11:52に乗りました。乗車したのは私達と一人のおばあさんだけでした。
そのおばあさんも早々と降り、38もある停留所からは一人も乗りませんでしたので終点まで貸し切り状態でした。

バスは高梁川に沿って走り、およそ反対は山の森林です。森林が上越と違うのは雑木に混じって照葉樹が混じることでした。また特に目を引いたのは南天です。大きな赤い実を沢山つけて随所に「自生」していて驚きました。

時折、傾斜地で田畑も無い所に立派な家があるのにも目を奪われました。

よく見た石垣と白壁それに蔵の家。
南天はマスト。

吹屋が近づきました。

車中から見たベンガラ色の民家。

バスは街道の通りが終点で、降りてそのまま散策です。ベンガラ(弁柄)色の建物に赤味を含む石州瓦の家が続く通りは国の重要伝統的建造物群保存地区に認定されていました。

 

街道はしんとしていました。

 

晦日なので開いている店は僅かです。

通りを右に入って坂を進むと岡山県指定重要文化財、および日本遺産になっている「旧吹屋小学校」へ出ます。

 

 

立派なプールは教育イベント用でしょうか。

 

小学校とは思われない構え。

小学校にしては広大であまりに重厚。そのはず古くからあった周辺の鉱山は明治期から吉岡銅山として三菱財閥により本格的に開発され同時にベンガラの産地として大いに栄えました。ちなみに学校敷地は三菱からの寄付だったそうです。

明治中頃から順次建てられた学校は平成24(2012)の閉校まで「現役最古の木造校舎」として使用されていました。
閉校後一旦解体、大がかりな補強工事を行い令和4年(2022)2月将来へ繋ぐ遺産として竣工したそうです。
残念な閉校はここでも人口減少でした。

通りへ戻るとバスに揺られた後小学校まで行きましたのでおなかが空いていました。「きいろい台所」でカレーを食べました。すらりとした若いネパール人の店でした。

上は香料が効いたカレー、下は熱いチャイ。
高度550メートルの高地で、
ずっと外に居たので温まりました。

店内にあった六芒星の飾り。

さらに時間まで歩きます。

 

ベンガラ染め「志楽」の遠藤さん。

「志楽」さんのお隣「麻田百貨店」でグレーのマフラーを買いました。夕方になり冷えましたのでさっそく用いました。恥ずかしながら後ほど写真をお出しします。

大人しい猫は通りの副会長さんでしょうか。
南天もきれいです。

買ったばかりのマフラーを着けて。

赤い町並を堪能し15:42のバスの時間になりました。帰路のバスも発車から終点まで私達だけでした。

大晦日前日、深閑とした「ジャパンレッド」に包まれ、夢の中を彷徨うようで不思議な感覚を覚えました。

帰りのバスから高梁川と山の夕焼け。

バスを降り高梁駅に着き人並みに紛れると、この世に戻った感じがしました。

しかし赤い吹屋の時間は、まるで原体験のし直しのようで心身のリフレッシュになりました。

次回は戻った備中高梁の駅ビルについて少し書かせてください。

年末旅行3日目の備中高梁(びっちゅうたかはし)駅周辺。

2026年1月4日(日曜日)

思いがけない正月大雪になりました。しかし美術館は20㎝前後の積雪、風雨が強かった沿岸の仕事場ではせいぜい10㎝ほどに減りました。

さて戻って年末旅行3日目の記事です。
12月30日、岡山市から伯備線で備中高梁市へ、そこからバスでべんがら屋根の街、吹屋(ふきや)へ行きました。吹屋で長かったため、本日は午前の高梁駅周辺だけ記載いたしました。

伯備線は岡山駅から先ず西に行き倉敷を経ると高梁川に沿って北上、中国山地走り鳥取へと続くJR線です。
かって大学病院時代、米子で行われた糖尿病学会と、津山で後輩の結婚式に参加し、当線は2回乗車経験がありました。しかし昭和40年代後半のこと、長々と山間を走った記憶しかありません。

このたび岡山発9:13特急「やくも」で35分で備中高梁へ(普通列車55分)。

「やくも」の入線。
「やくもブロンズ」と呼ばれる褐色カラー。

やくもブロンズは沿線が関係する銅や鉄及び弁柄(ベンガラ)のふる里、宍道(しんじ)湖の夕日などから独自のカラーが出来たということです。

高梁川に沿って山が続く。
山頂部分はいずれも濃い霧がかかっていた。

 

備中高梁駅前。ここでも山に霧。

 

「トマト銀行」

トマト銀行は1989年、山陽相互銀行が改名して生まれたそうです。同銀行は改名により世界で話題となり、国内各地から預金が集まったとありました。

べんがら色の街、吹屋行きのバスまで1時間少々余裕があり、タクシーで天台宗「頼久寺」へ。
案外近い寺院は清々しく、小堀遠州作の庭は大規模ではありませんがさすがに想像以上の造形美でした。

「頼久寺」前景。

 

冬でも色鮮やか。

色彩と形状のほか動きにも目を奪われる。
非常に良く手入れされている。

楽しい丸窓の変化。

頼久寺から駅への途中、山田方谷(ほうこく)記念館を外から眺めました。

ここにも「義」がありました。

山田方谷は藩政と財政に苦しむ備中松山藩を生涯改革した偉人。諸国の藩士にも影響を与え、佐久間象山はじめ後に明治政府で太政官から東京大学教授になる会津藩の南摩綱紀や越後長岡藩から河井継之助らも方谷を訪ね薫陶を受けています。

館長宅に伝わる南摩綱紀(羽峰)書屏風

一昨年倉敷市で継之助が投宿した宿跡を案内してもらいました。一帯では大河ドラマに山田方谷をという運動が熱心に行われているのを知りました。

駅前で見た岡山牛の自販機。

備中高梁に着いたころ、近隣の山はみな雲海が掛かっていました。駅をお掃除する小母さんから、一帯はこの時期毎日のように霧が掛かり雲海が発生すると聞きました。
気温が上がれば松山城が見えるかも知れませんよ、という言葉通りバス発車間が来ると山頂の城が見えました。

10:55吹屋行きのバスの乗客は私達のほかにおばあさんが一人、それも間もなく降車されました。
終点吹屋まで1時間、高梁川に沿う38カ所のバス亭はみな通過です。貸し切り状態となった車は何度も山中を曲がり吹屋へと入りました。

12月29日午後は岡山市池田動物園へ。

2026年1月3日(土曜日)

仕事に忙しかった時代、いわゆる観光旅行はほとんど出来なかった。それが年取って出かけるようになった。
およそ5年前から熊本・阿蘇・長崎、京都・奈良、東京・鎌倉、熱海・鎌倉、京都・倉敷・髙松、京都・滋賀、名古屋・豊田へそして今春は山形・秋田に出かけ、今年末旅行に続いた。

旅は縁遠かったので何処へ出かけても楽しいが、行く先の一つに幼少に憧れた場所というのがある。錦帯橋や宇治平等院は小学時代の観光切手だった。

小5の頃に昭和天皇の四女、厚子様が岡山藩主、池田家16代当主、池田隆政氏と結婚された。
陛下のお子が農場主で動物好きの地方の有力者と結婚される。当時平和憲法のもと世の中が明るく活気を帯びるのは小学生にも伝わった。そのころ少年朝日年鑑を毎年購読していたが、厚子様の婚礼記事は心に残る一つだった。

そんな訳で今回の岡山行きでは真っ先に池田動物園が決まった。

キリン「サンタロウ」。
大きさと形はやはり感動的。

「サンタロウ」を支援する企業、個人のプレートが並ぶ。

 

オウゴンキンケイチョウ。

 

インドクジャク。

 

ショウジョウトキ。

 

モモイロペリカン。

 

ホオジロカンムリツル。

 

タンチョウ。

 

ベニイロフラミンゴ。

 

ヨーロッパフラミンゴ。

16:30閉園まで主に鳥を観た。時間が来てインコとフクロウは諦めた。全体にケージ飼育の辛さはあったが民間(現在は株式会社)経営には資金限界はあろう。
しかし戦後の明るいニュースの一つだった動物園への訪問はよき時代を彷彿とさせ、末長くと祈る気持がした。

ホテルに戻ると近くの岡山料理「八文字」で食事した。

付き出し

ばら寿司

 

ホテルを出てすぐのイルミネーション。
川面に掛かるので反射が美しい。

翌日、旅は3日目。伯備線で備中高梁(たかはし)へ、頼久寺(らいきゅうじ)を参拝後、バスで遠路山間のべんがらの街、吹屋地区を訪ねました。

12月28日滋賀のご夫婦と夕食、翌日は青蓮院と長楽館。

2026年1月2日(金曜日)

年末や年始に旅行することはかってある親族が行っていましたので、一昨年から私達も自然にするようになりました。
但し在宅患者さんの良し悪しと雪国ならではの駅周辺の天気予報は肝心です。今年の年内は双方大丈夫と踏み、出かけた次第です。

1日目、28日は正月休みの2日目、午後から京都へ。京都のごった返しはさらに凄いものがありました。
夕食はかって当地で勤務された滋賀県のご夫婦と一緒(実は昨年も)。店も同じ青冥(ちんみん)でした。

有名企業の要職だった人が無事仕事を終えられ第三の人生に向かわれる。来し方行く末の話を沢山しました。

翌29日、2日目は午前、青蓮院(しょうれんいん)で再度合流。

庭の寒牡丹。

貴人の籠や長持。
さすが島津家も混じっている。

 

鮮やかな障壁画。

丹精込められた庭。

当寺の参拝を選んだのはかって同級生で僧籍、A君の“雨の日の風情が良かった”の一言だった。天台宗の同寺は皇族方ゆかりの門跡(もんぜき)寺院ならではの静かさと品格がある。

参拝の後、かねて予約の長楽館まで散策。浅めに射す京都の冬陽のなかゆっくり歩いて到着。
長楽館は国指定重要文化財です。
50数年前に初めて来て以来何度も寄りました。今は変わりましたがかって緑色の椅子がとても印象的でした。

重厚な入り口。

男性は大きなモンブラン、女性はガレット・デ・ロワでお茶。
モンブランはクラシック・モンブランと言うらしい。
最早一食分、お茶セットで2800円でした。

上からみたモンブラン(同伴氏からの写真)。
皿にはリキュール風味のベースが添えられ、
それも美味しかったのです。

ケーキのショップ。

この日、岡山市へ行けば池田動物園の今年最終営業が16:30まであるので、長楽館でご夫婦とお別れ、駅へとタクシーに乗車しました。

一緒頂いたご夫妻、二年続けて年末の多忙時にお付き合い下さり本当にあり難うございました。どの道にも試練はあることでしょう。それも楽しみつつ今年も頑張りましょう。

池田動物園のことは次回に書かせてください。

出てきた紛失携帯。

2025年12月23日(火曜日)

昨日の当欄で先週末の上京の記事を書いた。
実は20日土曜日の上京で、ホテルに到着すると携帯を新幹線の車内に置き忘れたことに気がついた。

置き忘れた場所は明瞭で、座席の窓側、座面と壁の堺目にくっつけるように置いた。妙な場所だが置いたのには訳があった。
数日前ボロボロになったカバーを取り外した携帯はツルツルして、ともすると滑ったり落ちたりした。当日車内で調べものをしながら本を読んだところ、何度か床に携帯を落とした。それで前述のような場所に置いたのだが、東京駅で急いだため忘れて降りた。

妻の携帯を借りてホテルから東京駅に電話したが届けられていないという。持ち去られを心配して通信もとのドコモに連絡。
すると通信機能を止め、最後の位置を調べてくれた。直近は埼玉県上尾が同定され、東京から戻った新幹線車内にそのままあるのかもしれません、と言われた。終点を敦賀駅と想定して同駅の遺失係にも届け出た。

以来2日目の昨日、どこからも連絡は無く午後から購入先の柿崎のドコモショップへ行った。予約無しだったがスタッフはすぐ対応してくれ、待つ事しばし、携帯は金沢駅を含むエリアにあることが分かった。

戻った列車の行く先は敦賀ではなく金沢だった。
飛んで帰り駅の忘れ物センターに電話すると、ハイ、ハイ、ハイ、と聞いて下さり、
「その携帯ならありますよ」と仰った。
「すぐ着払いで届けます」と言われ、住所氏名を告げた。

そして本日昼前、早くも小包が届きいた。

迅速丁寧な対応だった

誰にも持ち帰られず、東京駅手前から東京、そこから金沢まで新幹線の目立たない所で壁にくっついたままだった携帯。使いこなせなてない機械だが申しわけ無く思った。

携帯の紛失では、思い当たる駅、警察への届けも必要であろうが回線会社、よしんば購入店での助言や探索は最も現実的ではないかと実感した。

いきさつは以上ですが、対応頂いた機関の皆さま、特に柿崎ドコモショップ、金沢わすれ物センターのスタッフさん、本当に有り難うございました。

週末の上京 カーヴ・デ・ランパール 「良寛の書簡」特別展。

2025年12月22日(月曜日)

先週末展覧会を観に上京した。20日土曜日、夕食は妻の兄さんと一緒だった。氏は発達心理学分野で、長くある女子大の教授をされた人。

場所はかって長男が案内した「カーヴ・デ・ランパール」。ワインリストは超一級で、食事は見た目お洒落なフランス料理とは異なり、プロが作る本格的な家庭料理。

私は飲まないので妻、義兄で白1本と赤のグラスワインを飲んだ。ここには基本「ノンアルという飲み物」は無いため、「水」を勧められるが、10ミリリットルばかりの乾杯ワインを4時間掛けて舐めた。

前菜のテリーヌに続いて、
茹でキャベツと桜エビの料理。
栃木のキャベツは青く驚くほど柔らかだった。

「牛モツのオニオングラタンスープ」
美味しさがあふれ出ている。

デザートの「ほうじ茶のフロマージュ」
確かにほうじ茶の香り。
乗っていた「わさび塩」が素晴らしい。

女子大の止まらない入学者減による規模縮小や共学が進んでいる現状を聴き、旅などの話に花が咲いた。
4時間近く居て三人の会計は税込み4万480円だった。

翌日日曜日午前はまず「良寛の書簡」特別展を観に行った。会場は東中野の「東京黎明アートルーム」。周辺は学生時代に友人がいた懐かしい所。少し若返った気持がしてホテルの新橋から電車で向かった。

会場のアプローチ。
徹底して磨かれている。

会場は閑静な東中野の住宅地にあった。受付で入場券を渡すと、招待券ですね、どなたからのものですか、と訊かれた。小島正芳先生からです、と言うと喜ばれ、万事丁寧に応対して頂いた。

美術館は2階建てで、外観に比しはるかに十分なスペースがある。小島先生が企画・展示・解説にと、中心的な役割をされている「特別展」だった。

書簡は良寛の父母兄弟あるいは知人恩人たちとのやり取りで、いずれの書面もこまやかな愛情に加え気品と教養にあふれていた。

二階にあったさわやかな茶室。

床は「天満大自在天神」の軸。
良寛ならではの楷書は、「在」に
関して逸話が残る名作。

軸は唯一撮影許可されていた。

茶室前に革張りのソファー。
茶会の待合を兼ねているのだろうか。

誠意が尽くされた展示会場には絶え間なく来場者さんがあった。観終わり、受け付けを通る時に、感想を聞かれ、「心洗われました」とお答えした。

昨夕食はヘビーだったため朝食を抜いていた。当日は電車に乗り、良い展覧会をじっくり観たのでお腹が空いた。駅近くで昼食のカレーを美味しく摂った。出先で昼食するのは珍しいことだった。

駅前の環六(明治通り)も懐かしい。
建物は変わったが雰囲気は同じ。

美味しくカレーを食べた店内。

もう一件別の展覧会を観る予定だったが、良寛を堪能後これで十分と判断、帰路に着くことにして駅ビルに寄った。

駅ビルのカフェスペース。
生活への密着感がある。

駅ビルは大規模ではないが、カフェのほか書店・文房具、食品、菓子店などが有機的に配置され、賑わっていた。
カフェで読書する人達をみて、東京はいいなあ、近くにこんな場所があって、雪国では何ヶ月もこもりっ切りになりかねない、と思った。

さて実は前日、東京への新幹線で携帯を車内に置き忘れました。
それが二日後の本日午後、有り難いことに所在が分かりましたので、後日その顛末を書かせてください。

ハリハリ漬け 今夕の食事。

2025年12月19日(金曜日)

廊下で匂っていた干し大根が昨日ハリハリ漬けになった。

夜間自室にいると隣からトントンと音がする。行くと妻が細くシワシワになった干し大根を切っていた。次いでスルメとコンブを切り、瓶に醤油、ミリン、タカノツメ少しのダシに漬けてハリハリが完了した。

大根はお客様から頂いていた。

暮から食べられそう。

かって未経験だった九州の母は髙田の祖母にならって作っていた。妻も髙田なので同じものになる。神奈川県では干し大根メインで常食的に食されるらしい。

今夕食は買ったピザと妻製の鶏肉のトマト煮
及びカボチャのスープでした。

かなり寒かったのですが終日よく晴れた金曜日。

過日「唐椿」の枝を挿し木してみました。しかし数日前ついに葉が枯れ落ちて中止しました。駄目もとの試みでしたが生気が落ちる冬期の挿し木はやはり無理でした。

「お婆さんのようなお爺さん」ズボン編 悪天を予告する雲。

2025年12月11日(木曜日)

去る12月7日、女性用のセーターを挙げて「お婆さんのようなお爺さん」を書きました。

ところでかって出先で、ある出来事が起こり、挙げ句の果てに女性用のズボンを着用して帰ったことがあります。少々変わった事件から何年か経ちましたが、セーターに続き「お婆さんのようなお爺さん」の関連としてズボンの一件を加えせてください。

ある年の春、妻に知人を加えた三人で県央の料理屋さんを訪ねました。テレビで紹介された雰囲気の良い店です。清々しい館内の立派な部屋に次々と運ばれる料理は見事なものでした。

十分頂戴すると、ご飯とお漬け物が出され、赤い椀で卵とじの澄まし汁が一人一人へ運ばれました。

ところが着物を着たお運びの若い女性は三人目の私の傍まで来ると突然つまづき、私に向かってお椀が飛びました。
出来たての熱い汁はほぼズボン全部にかかり、おしぼりやハンカチを総動員して皆で拭き、厨房へ走った女性はお女将さんを連れて来ました。

ああ申し分けありません、申し分けありません、本当に申し分けありません、というお女将さんを加えて拭いたりぬぐったり。

どうしましょう、どうしましょう、ちょっとお待ち下さい、と言ってお女将さんは下がると一本のズボンを手に戻って来ました。
「市内で一番気に入っている店であつらえたものです。丁度合うのでは、申し分けありません、一度履いてみて下さい」と仰います。

隣の部屋で履いてみました。想像以上に柔らかなツイードのズボンはスルリと入り、長さやウエストもすんなり収まりました。
お返し頂かなくても大丈夫ですと言われ、「お婆さんのようなお爺さん、ズボン編」の出来上がりでした。

ひと騒動のあとで記念撮影。

珍しいツイードズボン。
手作り感満点です。

長生きになってくると変わった事も起きるのですね。

さて本日夕刻の空に悪天を予告するトロリとした怪しげな雲が見られました。

 


雲を撮ったあと帰宅して美術館と医院の忘年会の会場へ向かいました。色々失敗を重ねた一年。皆さまには本当にお世話になったと実感したひと時でした。

終わって外に出ると激しく雨が降り風が吹いていました。

「お婆さんの様なお爺さん」とは もらい物のセーター。

2025年12月7日(日曜日)

以前ある動画で高田純次と上沼恵美三子が司会する番組を観た。ふとしたことから「お爺さんのようなお婆さん」が話題になった。すると「お婆さんのようなお爺さん」っているかしらと話が転んだところで,高田純次氏は突然お腹を抱えて猛烈に笑い出した。
「お婆さんのようなお爺さん」は彼のツボに完全にはまったらしくそれを繰り返しながら息も絶え絶えに笑ったのである。

確かに「お爺さんのようなお婆さん」は何となく想像できる。銀髪で短髪、少し怖い目のお婆さんなら居そうだ。
反対にお婆さんのようなお爺さんとなると、すぐには想像出来ない。小柄で背が丸く、ハナメガネでも掛けているのだろうか、どこか優しい顔が浮かぶが、果たしてそんなお爺さんているのだろうか、いるならどんな風にしゃべるのだろう。

高田純次が想像したのは摩訶不思議で大変可笑しいイメージだったのだろう。具体的にどんなだったのかは知るよしもないが彼は想像力豊かな人に違い無い。

ところで私は女物のセーターを2枚貰ったことがあり、いずれも気に入って着ている。

数年前、家内が貰ってきた手編みセーター。
サイズが合わなくて私がもらった。

25年前のある人のイタリア土産。
これもサイズの点から私へ渡った。
何度も直して今も着ている。

女性もののセーターを喜んで着ているうち80才をとうに過ぎた。セーターだけで言えば一部「お婆さんのようなお爺さん」である。今のところ特に可笑しくもなく有り難く着ているだけだが、運良く90ウン才になったなら、髙田氏が想像したように摩訶不思議で荒唐無稽なお婆さんのようになっているかも知れない。

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