明け暮れ 我が家 お出かけ
昨日のF夫妻、名立の雲 私が好きな「Laura(ローラ)」。
日によって体調に若干波があり、まだ活動範囲を工夫せざるを得ない。
昨日はF夫妻が見舞いに寄って下さった。樹下美術館開館を心配し作品を援助して戴き普段ゴルフで一緒させていただいている。ほぼ同年の同業でもあり、心こもった同情と励ましを受け、心に沁みた。
夫妻を見送った後、糸魚川に向かった。谷村美術館とフォッサマグナミュージアムに寄った。その昔、谷村美術館は母を連れて何度か来た。溌剌とした仏像が良かったのもあるが、私と一緒というのが良かったのだろう、幸せな顔をしていたのを思い出す。
エヴァ・グリーン。時を経ても新鮮さが維持されている同施設の努力に畏敬を禁じ得なかった。
フォッサマグナミュージアムの化石を含めた鉱物はいつ観ても美しくロマンがある。今回フォッサマグナを見つけたナウマンの列島成立論に異を唱える森鴎外の立場を知り興味深かった。
以下は午後遅くの名立谷浜サービスエリアの空です、
以下の曲「Laura(ローラ)」は1945年の米国映画の主題歌で、私の好きな曲の一つです。
揚げた演奏はいずれも後年のカバーです。
モーリス・アルバートの「Laura」。
ロシアより愛を込めてを歌ったマット・モンローの「Laura」
大御所エラフィッツ・ジェラルドの「Laura」。
その昔、通販でこの映画のDVDを買いました。刑事が被害者とされる女性にすっかり魅了され、捜査が混乱するという軽めのミステリーでした。
映画の娯楽性と主題曲のロマンティックな曲調から、それが終戦の年に作られたとはとても信じられませんでした。
どこかミステリアスで、ほどよい高まりを有した曲は、非常に多くのミュージシャンによって演奏されています。
倒れる1週間ほど前に見た夢 その1。
発症して20日目、退院して1週間が経過した。
不思議なことに年令を重ねてからの出来事は何故かすぐに遠く、小さく、軽く感じるようになる。これが4,50代だったらもっと骨身に滲み、深く痛手が刻まれるのではないかと漠然と思う。
恐らく万事鈍感になっているせいにちがいない。このようなことは主観なので、年取って重い病気などをされた方に、貴方はどうですかとお尋ねしてみたい。
本日私より随分若い同業のご夫婦にお会いした。
この間のゴルフは欠席されましたね、と言われ、実は入院していましたと返答すると、エッ本当ですかと驚かれた。
それで7月24日の顛末をお話ししのだが、ほかでも時々同じ場面に遭遇する。そして説明する度に出来事は遠くへ、少しずつ小さく、軽くなっていくような気がする。
年令に関係無く、一般に心というのはそのような面を持つのかも知れない。
悩みや苦しみを抱えた人には少しでも自分のことを話してもらう。繰り返し、ゆっくり深めて広げて聴くということが大事なのは、その過程で傷が小さくなるという事実があるやに想像される。
さて実は倒れる1週間ほど前、鮮明な夢を2回見ました。つまらない話ですが、珍しく手帳に書きとめていましたので、ネタ切れの本日それを書かせてもらいました。
以下不鮮明なところも多々ありますが、ほぼ書かれたとおりの内容です。
“母校の病院だろうか、とても古く大きな建物に入って行く。
自分が紹介して糖尿病の治療を始めた人が、紹介の礼を言いたいと既に訪ねて待っているはずだった。その人はふくよかな女性で、小学4年生の担任だった近藤先生のように思われ懐かしい感じがする。部屋の隅で美しい膝掛けをして腰を下ろして座り、他の女性(母のようでもある)と楽しげに談笑している。
私はその人と話したいが二人とも気がついてくれない。するとふと女性と目が合い、こっちへ来てと言われ、近づくのはいいが、女性たちは談笑を止めないため、あきらめて部屋を出て階段を降り廊下を歩いた。廊下に着物を着た若い女性が立っていて、あのひとたちはいつもああなんです、と言って挨拶した。
傍らの妻が、もう出ましょう、と言い大きな建物を後にする。出るとすぐ花畑のような場所に幅が10メートルほどある横長の絵看板があった。それはダリの南国風な絵のようであり、オモトと思われる植物が沢山描かれている。妻は何かしらと言い、私はオモトだよ、と言うと、妻はオモトなら花ではなく実ではないかしら、と言い、そう言えばそうだなと思う。花畑にはさんさんとした陽光が射して華やかだった。
そばに平屋の建物があり、入ると明るい館内で植物画の展覧会が開かれている。作品はどれも月並みで、おにぎりをほおばりながら眺めた。すると案の定係りの女性が来て、食べ物はご遠慮ください、と言って容器を差し出した。それは黒い紙を蛇腹式に折りたたみ、金のふち取りをあしらった美しいゴミ袋だった。おにぎりをそれに入れると、女性はだまって去って行った。
何か参考に出来る作品はないかと、観て回るがみな大雑把なものばかり。みると会場の奥の一段高い所に美しい絨毯が敷かれ、派手な衣装をまとった年配の女性があぐらをかいて座っている。
光景はペルシャ風だった。
見ていると突然女性が立ち上がり、まるで若者のように素早く歩き、館内の人と話をしてはまた素早く戻る。動作のあまりの早さにとても驚く。
女性は作品展の会の主宰者のようであり、自身の作品は白いカラーの花が沢山描かれた大作だった。画面一杯の花と輝くような緑の葉が速筆で描かれ、精密画ではなかったが、迫力を感じた。場面が変わり夕刻の上野駅周辺にいる。
お兄さん寄っていかないか、と近づく人。本を手に手に売っている大勢の人。腹話術のような声をだして小さな子供を操る大道芸人もいた。
雑踏のなかで、私の切符を持っているはずの妻とはぐれてしまい、どうやって連絡しようかと手帖やスマホをいじり、いつものように思案しながら目が覚めた。”
以上長々となりました。
私の夢の最後は忘れものを探す、あるいは人とはぐれて最終電車の切符を買うために、どこかの駅をうろうろするという、情け無いものが多い。挙げ句に途中で夢ではないかとうすうす気がついては目を覚まし、ほっとするというパターンが少なくない。
実際こうして面白くも無い夢を載せるのは、行儀の悪いことなのでしょう。また分析が出来る人なら、私の心理を即時に読み解くにちがいありません。
しかし年令のせいでしょう、何を指されようとさほど気にならなくなりました。ただただ鈍くなってしまっているのです。
それにしましても何故でしょう、夢の主な登場人物は私以外みな女性でした。
実は同夜続けて鮮明な夢を見て、それもまた手帳に書きました。今度の登場人物はみな男性でした。わけても学生時代からの友人Kが現れたり消えたりしたのが不思議でした。
次回よろしければそれを書いてみるつもりです。
病んでこれから 夕暮れの鳥追いと電車 私のオリンピック。
本日月曜日は休日だった。
ダンベル運動や歩行を行っているが、一定以上の動作を続けると幾分息が上がるので休みはとても有り難い。また盆休みが近いため、身体を慣らせられるならばと期待している。盆明けには待ちに待った看護師が復帰することも心強い。
出来るなら仕事を続けたいと願っている。
このことで、毎週水曜日午後を休診にしようと考えている。これまでも木曜日午後が休診だったので、週半ばの午後二日を続けて休診にさせて貰えるなら、一週間の流れが穏やかになることが期待される。
皆様にはご迷惑をお掛けすることはとても心苦しい。ただ処置や観察が必要な在宅患者さんがいる場合、出来れば午前中に伺って用件を満たしたい。
もう引退して好きな事をやったら、と勧めてくれる人もいる。
これまで小さな美術館と庭を営みブログを書き、週一短時間老人施設に出る。そもそも診療時間の実動はフルの日で一日5時間程度、精々25人前後を診ているだけなので、さほど負担を感じず、ある意味楽しんでやってきた。
ただこのたびはコロナ、特に昨年末年始からのPCRとワクチンの受け入れと実施がストレスだった。申請と委託の.電子手続きで心労し、実施に進む過程で一時手詰まりを感じ、いざ実施(特にワクチン)すると申し込みが殺到、オーバーワークに移行した。自院のほかに施設と集団接種は問診医としても参加していた。
悪いことにストレスも慣れる。
後半ではオーバーワークにある種充実感を覚えるに至り、これが悪かった。ついに身体が強制的な停止命令を下して私を倒したと考えている。
回復すればそれで済む話ではない。第一が年令、さらに疾病が残したダメージで原状回復はもう期待できない。一定の生活縮小をはかり、くれぐれも妻には健康でいてもらいたいと願っている。
さて以下は今夕の鳥追い凧とほくほく線上り電車です。
入院中、YouTubeで「銀河鉄道の夜」の朗読を聴きました。
ここでも「家路」の曲が出てくるのです。
台風が低気圧に変わり前線が通過した模様で、いっとき猛烈な風が吹きました。
昨日は五輪のことを少し書きました。申し分けありませんが、叫び格闘し息を切らす選手を私の心臓が歓迎しませんでした。それで入院中、競技はほとんど見ませんでした。
ただボクシングの入江聖奈選手の誠に潔く朗らかなインタビューと、密が無く静かに進行するゴルフ(女子ゴルフ)を時々見ていました。
心筋梗塞に襲われたのは美しい晩だった。
去る7月24日。突然心筋梗塞に襲われ救急搬送され、閉塞した冠動脈の拡張手術を受け、12日経って昨日退院した。
当初は低下したままの血圧、深刻な不整脈と腎・肝に波及した異常。ペースメーカーや臨時透析が考慮されたが、治療の拡大が図られいずれも回避された。
医療チームの粘り強い総合力によって助けられ、いくら感謝しても足りない。
疾患は狭心痛や胸の違和感などの予兆がよくみられる。しかし私は以下のように突然だった。
去る7月24日夕刻、二組のご夫婦と上下浜はマリンホテルハマナスの芝生のビアガーデンに集った。この1年、中のお二人が手術を受けられ無事回復されたこと、高齢者のコロナワクチン接種が大方終わったことなどが集合理由といえば理由。是非という特別な訳でも無く、久し振りに食事をという趣だった。
あまり飲めない私は途中でオレンジジュースに変えた。
東の山のあかね雲から大きな満月が上り、夢のような時間になった。
当夜最後の写真。
なかなかピントが合わなかった。
時は過ぎ、迎えの車が来るまで終戦後、満州からの引き揚げの話になった。私を入れて引き揚げ者が二人いて、私も話した。
奥地の奉天から出港地、青島(チンタオ)までトラックや客車、貨車による不安な移動と受けた襲撃。集結した青島の雨のテント生活と桶による配食などを話した。
話ながら、口が達者で何事もやる気はあったが、実際はとても体が弱かったと親から聞いた幼い自分が浮かんだ。
青島の話のあたりから、両肩甲骨の間に強い凝りのような痛みが出現し、同時に両方の顎関節に固さと痛みを感じ始めた。すると皆さんの声がどんどん小さくなり急に視野が狭くなった。
記憶はそこまでで、気がつくと妻に抱えられ芝生に横たわっていた。
あなた、あなた!と耳元で妻が叫んでいる。
突然立ち上がると少し歩き、崩れるように倒れたという。
美しい夜が暗転する。
救急車も来た。
他のお客さんにも迷惑を掛けているのが分かる。
急性のアルコール中毒だから大丈夫、家に帰る、と言った。大して飲んでいないけれど本当にそう思った。
だが救急隊によってさっさと車に乗せられ車は走り出した。
終始真っ青な顔に冷や汗を浮かべていたらしい。
車中脈を触れてみるが分からない。
寒さで体ががくがくする。次ぎに意識を失ったらそのまま死亡するかもしれない、と思った。
自分から搬送先を口にし隊員にお願いした。
病院に着くと緊急検査で直ちに急性冠不全症候群(私の場合心筋梗塞)が指摘され、循環器内科のチームが呼ばれた。
心臓が頼りなげに奇妙な鼓動を打っている。
身体の全てが受け身にシフトし、最低ラインで必死に私を守ろうとしているように感じられた。
調律が完全房室ブロックと聞いて、悪いと思った。
チームが到着し、導尿後カテーテルが留置され、オムツがあてがわれた。素早く剃毛され、そけい部と手首の動脈からカテーテルやチューブ類が挿入され、ペースメーカの仕度もされた。始まったカテーテル手術(PCI)は日をまたいだ。
治療後に運ばれた集中治療室の時間は不思議だった。四角い壁に囲まれ部屋の高い所に可愛く丸い時計が掛かっている。朝、薬を飲んで眠り、昼かと思うとまだ8時半だったり、昼に眠って目ざめて夕方かと思えば2時前なのだ。極めてゆっくり、異次元的な時間が流れている。
これはこどもの時間ではないのか。現に自分はオムツを着け便器で排便をしている。
2日間の絶食のあと初めて食事が出た。わずかに味付けされた野菜と小さな2個のおにぎり。野菜をとても美味しいと感じた。黙々と噛んでいると脳裡にドボルザークの「家路」が響いてきた。
すると倒れた海辺で話した満州の引き揚げがまた蘇る。
母がこしらえたリュックを背負い、前日まで張り切っていたのに、本番当日の私は早々に歩けなくなった。父が弟のリュックを、元気な弟が私のを、代わって自分が背負ったのはホーローのオマルだったという。家路のメロディに包まれながら不意に涙がこぼれた。
以上が発症と治療および集中治療室の概要でした。
本日退院致しました。
去る24日に入院し13日目の本日、午前に無事退院致しました。
重篤で合併症が多い心筋梗塞。
当初は血圧が上昇せず不整脈を生じ、かつ幾つか血液に懸念材料がありましたが、循環器内科チームの粘り強く慎重な治療のお蔭でいずれも克服され、当初の予想よりも早く退院になりました。
院長はじめ主治医医師、看護師、助手の皆様、配膳やお掃除の皆様、誠に有り難うございました。常に適切で親切、本当に有り難うございました。
以下入院中の写真です。
カテーテル抜去後の止血のため右前腕を圧迫固定。
これが結構痛い(7月26日)。
集中治療室から一般病床に移ってきた。
トイレは左の自動ポンプ点滴台を連れて移動する。
(7月30日)
ほっと一息。
(8月1日)
退院前日の昼食。米飯120グラム、1回総カロリ400キロ㎈。
{8月4日)
さて本日退院日。
入院も初めてなら退院も初めて。どうして良いものやら、ただ早く起きて靴を履き、ポロシャツとズボンに着替え妻の迎えを待ちました。
久し振りに車のハンドルを握り、ソロソロと帰って来ました。
涼しかった病院に比べ、外がこんなに暑いとは。
昼少し前美術館に寄り、昼食にミルク紅茶とホットサンドを半人前食べました。
入院中の猛暑続き。少々やつれた芝生に撒水しました。
それから辺りの田んぼを一回り。
鳥追いのカイトが気持ち良くそよいでいる。
退院を祝ってくれているように思った。
退院してまずは美術館そして田んぼへ。
猛暑のなか、みな静かで気持が安らぎ、なにか半分あの世にいる感じがしていた。
短い午睡の後「縄床」さんへ散髪に行った。
聞けば、
“先生はゴルフの後一杯飲んで倒れた”という風に伝わっているらしい。
倒れた7月24日前後のことは後ほど書かせて下さい。
「多くの皆様にご迷惑をお掛けし申し分けありませんでした。また身に余るご心配を頂き深く感謝いたしております。」
柿の実の生長 夏らしい日。
暑い日だったが、風に涼しさが感じられ、この先を考えれば良い方。雲も素晴らしく夏らしい一日だった。
柿の実が大きくなってきた。
風が通る葉陰で子守歌でも聴いている風。
YOU AND NIGHT AND MUSIC(貴方と夜と音楽と)。
竹田の子守歌。
このような音楽は心に響く。
日本海の夕焼けと波音でささやかな食事会。
今年3月、誠に小規模な当院に一人若い事務スタッフが加わった。未経験だったが、ベテランの適切な世話でぐんぐん伸びてくれた。
今夕は彼女の歓迎とスタッフの慰労で上下浜はマリンホテルハマナスで食事をした。
甘鯛の松かさ揚げ。
美味しい肉、魚介、巻き寿司などでお腹いっぱい。
十分なスタンスとノンアルコールで和やかに過ごした。
穏やかな日本海の波音が聞こえる芝生に移って、果物と珈琲を頂いた。
いっとき西の空やや低く、鮮やかな三日月が出ていた。
時々香る蚊取り線香の匂いが清々しい。
間もなくこの場所はビアガーデンになるという。ここなら安全だろう。
5月半ばから始まったワクチン接種だが、新人の彼女がいなかったら出来なかったかも知れない。
所有の松林から切り出した材で廊下や階段を改修。
その昔の数十年前、在宅で訪ねる家の様子は様々で、時には理由があって散乱のあまり爪先だちでジグザク歩きをしなければ、患者さんにたどりつけない、お宅もあった。
福祉施策と人的支援でいまやこのような状況は見られなくなった。
余計なものが無くいつも片付いていて、行くのが楽しみというお宅がいくつもある。小さくて気が利いている旅館を訪ねるような感じがするのである。
本日の写真のお宅もそのような家だった。
外から眺めると二階の窓辺に白いカーテンや花が見え、庭は小気味よく、石段は掃かれている。
訪ね始めて間もないお宅だが、先日廊下がピカピカしているのに気づいた。訊いてみると、所有していた山に高速道路が通過することになった際、そこの松を切り出して家の改修に使ったと仰った。
初めて耳にするいきさつであり、そんな風に手持ちの木を材にして生かすことも出来たのか、と少々驚いた。
つややかな廊下。
松は樹脂が多いのでつややかで美しくなること、丈夫なことなどで優れているという。切り出しや材への加工など手間が掛かったと思われるが、良いお仲間にも恵まれたのではと思った。
堅実で奥ゆかしい奥さんは私と同級生。ご主人は真面目一方の優しい方。
「良い奥さんですね」と言うと、恥ずかしそうにお互いを褒めあい、聴いていて幸せな気持になった。
以下は本日我が家の玄関の花と観音の様子です。
庭で咲いた黄色の芍薬と都忘れが生けてある。
観音像は40年ほど前、ある方の数ものを通販で購入しました。
モデルそのままに現代的なお顔です。
本日のワクチンは20名、うち在宅3名でした。
在宅では一定時間観察をしますので、世間話をしたり、普段は飲まないお茶を頂いたりします。観察があるため1日3件が精一杯だと思います。
本日NHKテレビ『美の壺』スペシャル「レトロ建築」 で上越市髙田の世界館が紹介されました。冬場の撮影にも拘わらず美しく撮られていて、内容の良さといい他の大規模な建築と全く遜色無かった。さすがNHK、関わる方たちの願いが伝わる良い内容でした。
二人の姪が通っている自由学園を初めて映像として見ることが出来、歴史的建造物が開かれていることに感心しました。
柏崎市の飯塚邸を訪ねた。
以前出かけたところ木曜日で休館していた柏崎市史跡文化財、飯塚邸。
本日好天の午後訪ねた。
壮大な作りのいわゆる豪農の館。緑が滲みる邸内は多くの日本間や茶室がある。わけても昭和22年に新潟県を巡幸された昭和天皇が休息、お泊まりになったお部屋には、おごそかで澄んだ空気がいまだに漂うのを感じた。
昭和天皇がお休みになった二階のお部屋。
真っ白で立派な椅子。
床脇の障子の形は梅か、同家の家紋の桜か。とても合っている。
木のウロから井戸を覗いていたら人が通りました。
最後に倉を改装した展示室を観た。
上手倉と下手倉があり
本日はお茶道具はじめ生活用具のある上手倉を観た。
ゆっくり興味深く観て回りました。
寄贈された柏崎市が管理運営する文化財に、周辺の方々が熱心に協力されているのが窺われました。それだけの親しみと魅力があるにちがいありません。
強風の日の買い物 高校時代の肺結核治療 駐車場で帽子を追いかける。
昨日の雨降りの空は本日さらに悪化し、終日強風に見舞われた。
昼に外出、ホームセンターでキキョウと用土および芝生の肥料を、帰路のドラッグストアでアリナミンを購入した。
風は午後次第に強まり、ホームセンターでは少し大きめの物が至る所風で倒されていた。起こしてもすぐに倒れるのだろう、所によって通路を塞ぐものまであった。
美術館の花は出来るだけ暇を作らず、次々に何かが印象深く咲いているようするため、色々と補強を試みている。
当初山野草や茶花などをこまごまと植栽していたが、全体の眺めを重視した方が良いと考えるようになり、最近は点に加えて面を意識している。
ホームセンターでは車から下りて歩くと何か顔に不自然な感じを覚えた。マスクを忘れている。慌てて戻りダッシュボードを空けると一枚だけ残っていて助かった。
これで買い物が出来た貴重なマスク。
ドラッグストアではアリナミンEXプラスというのを購入した。今の食事で何一つ不足は無いと考えられるが、足腰の疲れなどに対し、ふとしてアリナミンを飲む。
アリナミンとの付き合いは、高校二年生の春から始まった。その年の健診で肺結核が見つかったのがきっかけだった。
結核が告げられた日のことは鮮明に思い出すことが出来る。
担任のY先生に職員室に呼ばれ、レントゲン健診の結果で肺結核の疑いがあることを告げられた。その場で薄い茶封筒に入った小さなフィルムを渡された。フイルムをポケットに入れ、一人汽車を待った駅のホームが浮かぶ。家で父にフィルムを見せると、ああ、と父は落胆した。
直ちに週2回のストレプトマイシンの筋注(1回は父が下宿を訪ね、1回は日曜日に家に帰って打つ)、およびパスとヒドラの服用が始まった。同時に補助的にアリナミンの服用と一定量の生バターを摂るように言われた。
不思議なもので、健常から一気に病者に変わったにも拘わらず、直ぐ治療を受け入れたように思う。但しある時期を過ぎると大して症状の無い病気よりも治療の鬱陶しさに嫌気を覚えるようになった。
注射は痛い、薬でお腹は空かない、引き出しのバターはまずいなど、いつ終わるとも知らされず続いたためだった。
ほかに映画館は駄目、体育ほか諸行事は見学で生活全体が晴れ晴れしない。ただ一緒に見学となった何人かの級友とは他の生徒に無い強い親しみを覚え、子の無い下宿の主夫婦はより親切に接してくれるようになった。
高校三年生の9月に手術も考慮して父の母校たる都内の大学病院を受診した。その結果注射をストレプトマイシンからカナマイシンに変更すること、残りの学期を休学して治療に専念することになり、がらりと生活が変わった。注射のため尻をだすのだが、ある日、随分肉がついてきたな、と父が嬉しそうに言ったのを覚えている。
かくして高校3年生をもう1回やり直し、翌年春に晴れて全快した。注射は内耳性難聴の副作用があり、最後の方では注射後耳がぼーんとする感じや軽いめまいを覚えるようになったが、症状が固定する前に離脱できたのは幸いだった。
但し後年血清クレアチニン値が1.0~1,2レベルと正常値を超えて推移しているのは、足かけ3年打ち続けた注射の腎毒性によるものかと考えている。
闘病というほど濃厚ではないが、貴重な青春の陽光は精々早春か晩秋の明るさでしか無かった。ただ姉に勧められてドイツの小説を読んだのと、休学中の朝な夕な近隣の自然に深く親しめたのは得がたいことだった。
さらに病癒えた大学で亡き級友Sに勧められ、テニスと音楽の部活に夢中になったのはリハビリだったかもしれない。加えるに今でも何か失ったものを何処かで取り戻そうとしているような感覚がよぎることがある。時の価値、密かではあるが青春というのはそれだけ貴重だったのかとあらためて思う。
さてアリナミンはサイアミンプロピルダイサルファイドという化学名だった。役立つわけではないが当時暇つぶしに、パスはパラアミノサリチル酸カルシウム、ヒドラはイソニコチン酸ヒドラジッド、と薬効書を読んで覚えた。大学時代そのことを話すと、何でそんなことを知っているのか、といぶかしがられた。
そんな訳で、近時足腰や目に疲れや痛みを感じると思い出したようにアリナミンを飲んでみている次第で、本当のところあまり深い訳はありません。
本日購入したアリナミンEXPLUS.。
本日買い物を済ませたドラッグストアの駐車場の風はひどく、帽子を飛ばされた。駐車場の端まで飛ばされ、危うく国道に出る寸前で捕まえた。青春の闘病も鬱陶しいが、老人が広い駐車場で帽子を追いかけるのも切ない。
- 花頭窓、二十三夜塔、庚申塔、社寺
- 樹下だより
- 齋藤三郎(陶齋)
- 倉石隆
- 小山作之助・夏は来ぬ
- 聴老(お年寄り&昔の話)
- 医療・保健・福祉・新型コロナウイルス
- 花鳥・庭・生き物
- 空・海・気象
- 頸城野点景
- ほくほく線電車&乗り物
- 社会・政治・環境
- 明け暮れ 我が家 お出かけ
- 文化・美術・音楽・本・映画・スポーツ
- 食・飲・茶・器
- 拙(歌、句、文)
- こども
- 館長の作品。
- 今年の齋藤三郎は「茶道具展」です。
- 今年の倉石隆は「男の肖像展」です。
- フカミ美術の懇親会が髙田であった 霧を抜けて三和区の喫茶去へ。
- シジュウカラガンに初めて出会った 北帰行が始まっているのだろう。
- 温かな日に訊ねたお宅 柿崎海岸 首輪のコハクチョウ。
- 大分県佐伯のフルーツトマト ジョージ・シャーリングの「まるで春のよう」
- 寒波が続く 道路に降りる鳥、海岸に現れるイノシシ。
- 懸案の小山作之助生誕160周年記念イベント最終回が終わった。
- 本日会場でリハーサル。
- 今夜のNHK再放送は山中さんご夫妻だった。
- 一瞬にして消えたファイル ドヴォルザークの音楽。
- 雪が少ない当地 鳥たちは戻っている。
- 強風の日のパソコンの不具合 美しいビバルディの冬。
- オールドメディアに向う生活 鬼平犯科帳 小山作之助記念イベント。
- 寒波は峠を過ぎ小林古径記念美術館へ 昼抜きの食事例。
- 日米首脳会議は何とか無事に終わった 強風下のカモメ 道路に出て来る鳥たち。
- 石破首相は果たしてトランプ大統領の受容に叶うのか 雪見舞い。
- 寒波の日、A氏のレコードを頂きに、帰路のタカ。
- 再びの寒波 本当に年の割に元気なのか。
- 早くも立春、蕗のトウ。
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