明け暮れ 我が家 お出かけ

先週の木曜日から本日土曜日までを少々。

2021年9月25日(土曜日)

先週前半のころはお天気で気温も高く、秋とはいえ庭が乾いた。
みかねて木曜日午後遅く、二時間近くかけてじっくり水やりをした。終わってホースを仕舞い始めると、ポツポツきて、直ぐにザーッと一気に土砂降りになった。
知っていれば水など遣らなかったものを、天気予報を見ておけばよかった。

翌金曜日は降ったり止んだりを繰り返した。昨夕同様、いきなり土砂降りで始まる降り方だった。外出時も猛烈に降り、激しい雨に洗われて車がきれいになった。

 

昨日夕刻、雨上がりの大潟区土底浜。
雨を降らせた雲が東の方へ移動していた。

そして本日土曜日爽やかに晴れた午後の柿崎海岸。
午後在宅の方が変調、往診後に柿崎へ寄った。

病後二か月、はじめての外食。
まる二年ぶりの身内と体のことを考えながら食べた。

リストランテサトウさんの優しいアプローチ。
美味しく楽しく食べ、良い時間を過ごした。

これだけゆっくりして、明日が日曜日とは。それだけで十分、ほかに何もいらない。

きゅうきゅうと心臓が鳴った日の「びんのかけら」のアルファー波。

2021年9月18日(土曜日)

連休前の本日午前、当院にしては珍しく混んだ。その午前中に高齢の方の往診依頼があり、家人は入院を希望された。普段訪問をしているお宅で、医療の緊急性よりもむしろ介護事情の問題で社会的要因が加味されていた。

当然入院の可否は病院の診察医師の医学的判断にゆだねられ、希望通りに運ぶとは限らない。今回の患者さんの入院は微妙だった。
他方、病院への紹介はこちらの努力や力量も試され、今もって緊張する。紹介に値する診療だったかが暗に問われるのだ。

介護者に二つの病院を候補として挙げたが、入院まで保証は出来なかった。
昼食時間を外し、午後頃合いを見て第1候補の病院に電話した。医師は比較的若い印象だった。
容態と検査数値を伝え、事情を述べた。すると意外にも、分かりました直ぐ来て下さい、と返事が返った。
何と有り難いことか。
その返事を患者さん宅に電話すると、介護者は消え入るような涙声で礼を口にされた。

夏に病んで以来ややもすると心晴れず過ごしている。そこへ今週、病院紹介と病院からの逆紹介が数件続いた。いずれも波乱を含む課題があり、良いとは言えない心臓が時にきゅうきゅうと鳴るのを感じていた。
そこへ本日の一件。地獄で仏、病院の対応は他に替えがたい良薬だった。

そんな夕刻、ふと「びんのかけら」へ行きたくなり妻に提案した。
しとしと雨が降っていたが、芝生のアプローチ、壁を這うバラのツル、辺りの庭道具を目にしただけで心がなごんだ。

 

美味しかったアンチョビー(向こう)と田舎風(こちら)のピザ。

 

アルファー波は良い環境下の瞑目で現れるが、ここでは耳目に入るものでも鎮静される。

店に入ると「There Will Never Be Another You」のサックスが聞こえた。尋ねるとスタン・ゲッツだった。60年代?何とも嬉しい。

それから食事し、オーナーと古めのジャズの話をし、氏先日のアルプス山行やかっての北アルプスの雷鳥親子や星空、主宰されるバレー教室などの、逐一心地良いタブレット写真を見せてもらい、そして話をした。

 

ふと見たピアノに86’年9月のレイ・ブライアントによるサイン入りジャケット。
娘さんと一緒と思われる写真。
かって私もこのアルバムを持っていた。


上掲レコードから「Misty」
可愛いお嬢さんを膝に、演奏しているような優しい「Misty」。
1950年代後半のモノラル。
“ちょっと見て、私は木に上った子猫のように心細く”
“足を右左間違えずに歩いているかも心配”
などと歌われる歌詞がある。

入院とびんのかけら、本当に良かった。

直江津の水族館「うみがたり」 突然ですが、樹下美術館は新型コロナ対応のため9月6日(月)~9月18日(土曜日)まで休館致します。

2021年9月2日(木曜日)

午後休診の本日、直江通の水族館「うみがたり」へ行ってきた。

以前よく訪ねたが新装なって初めだった。
花や鳥は美しくまた興味深い生態を見せてくれるが、魚たちの面白さも楽しく見学できた。

以下写真です。
魚の名を詳しく見ていませんでした。今後また訪ねながら覚えられるならと思いました。

 

こどもたちがコブちゃんと呼んでいました。

 

餌の時間です、と断り書きが出ていました。

 

最もあでやかだった魚。

 

おどろくほど目がきれいでした。

 

妙にくねくねした魚でした。

 

水槽から上がってきてスタッフのお兄さんのところに集まる。

 

柵を開けてもらって通路を横断する。
向こうの土の場所で夜を過ごすらしい。

 

入場する時からここに居た。

 

きれいだったトイレも鑑賞価値がありました。

私は初めてでしたが、リピーターの方達が多いようで、名前や生態をお子さんに上手く説明している人達が沢山いました。
「うみがたり」とはいえ淡水魚も展示されていました。ただスペースがありさらに充実して頂ければと思いました。

照明や構造もこまやかに配慮されて面白く、また来てみようと思いました。

※但し新型コロナのため明日3日(金)から16日(木)まで休館ということでした。
新潟県全体に特別警報が出され、上越地方でも小林古径記念美術館など公的な施設が一斉に休館になるようです。

●この機会に樹下美術館も同調することにいたしました。

●9月6日(月曜日)から18日(土曜日)まで、ひとまず休館にさせて頂くことに致します。


●状況により延長せざるを得ない場合は、再度お知らせしたいと考えています。

大変ご迷惑をお掛け致しますが、どうか宜しくお願い申し上げます。

愛用の財布が傷んだ。

2021年8月24日(火曜日)

これまで財布は主に二つ折りを使った。札がきれいに収まる長財布も良いのだが、何故か二つ折りだった(いまだ学生気分が抜けないのかも知れない)。

現在のは5,6年前にイトーヨーカ堂で求めた。売り場の財布は沢山種類があるため、買うとなると中々簡単には決まらない。だが、この斜めに青白赤の三色がある財布は一目で気に入り、即購入し精一杯愛用した。

 

こんなに気に入ったものは2度と巡り会わないかも知れない。

 

その財布の硬貨入れ部分が大きく傷んだ。

札入れとの境界だけが布地で、そこが破れてしまい、硬貨が札入れに移動し落ちるようになった。

カードのほか診察券も増えたので、そのことも考えて新しいのを選ばなくては。悩まずに良いものと出会えれば良いが、無印良品へも行ってみたい。

頼りの薬 お声がけ。

2021年8月20日(金曜日)

昨日は退院して二週間目の再診があった。
8時からレントゲン、心電図、採血を受けた後診察。早い時間から各部所が仕事を開始していることに驚いた。

経過は順調だが腎機能に若干問題が残っている。自分を支える大切な臓器なので用心深く守って行きたい。

初めての通院。診察を終えてから、会計までの手順が分からず、帰るまでに手間取ってしまった。

 

一日一回朝食後の薬。
1回分をガチャガチャのケースに取って一気に飲んでいる。
ある時期から少し減るようです。胃に障ることもなく喜んで服用している。

 

間もなく満月の今夕の月。随分明るかった。

精一杯の診療をしているが、何かと皆さんに声を掛けて頂き感謝に堪えない。
本日の患者さんには「お達者になられ、お目出度うございます」と言われた。
昔風の物言いはいいなあ、と思った。

以下は昨日頂いた葉書の冒頭です。

拙ブログ再開まで喜んでいただき、私の方こそ嬉しい限りです。

本日は高校時代の同級生A君夫妻が訪ねてくれたと聞いた。やはりステントが入っているということ。いつも和やかなA君。不謹慎ですが、そんな話も何故か心強いのです。

昨日のF夫妻、名立の雲 私が好きな「Laura(ローラ)」。

2021年8月16日(月曜日)

日によって体調に若干波があり、まだ活動範囲を工夫せざるを得ない。
昨日はF夫妻が見舞いに寄って下さった。樹下美術館開館を心配し作品を援助して戴き普段ゴルフで一緒させていただいている。ほぼ同年の同業でもあり、心こもった同情と励ましを受け、心に沁みた。

夫妻を見送った後、糸魚川に向かった。谷村美術館とフォッサマグナミュージアムに寄った。その昔、谷村美術館は母を連れて何度か来た。溌剌とした仏像が良かったのもあるが、私と一緒というのが良かったのだろう、幸せな顔をしていたのを思い出す。
エヴァ・グリーン。時を経ても新鮮さが維持されている同施設の努力に畏敬を禁じ得なかった。

フォッサマグナミュージアムの化石を含めた鉱物はいつ観ても美しくロマンがある。今回フォッサマグナを見つけたナウマンの列島成立論に異を唱える森鴎外の立場を知り興味深かった。

以下は午後遅くの名立谷浜サービスエリアの空です、

 

はるか水平線上に能登半島が見えた。

 

秋を思わせる爽やかな空。

 

以下の曲「Laura(ローラ)」は1945年の米国映画の主題歌で、私の好きな曲の一つです。
揚げた演奏はいずれも後年のカバーです。

 


モーリス・アルバートの「Laura」。

 


ロシアより愛を込めてを歌ったマット・モンローの「Laura」

 


大御所エラフィッツ・ジェラルドの「Laura」。

その昔、通販でこの映画のDVDを買いました。刑事が被害者とされる女性にすっかり魅了され、捜査が混乱するという軽めのミステリーでした。
映画の娯楽性と主題曲のロマンティックな曲調から、それが終戦の年に作られたとはとても信じられませんでした。

どこかミステリアスで、ほどよい高まりを有した曲は、非常に多くのミュージシャンによって演奏されています。

倒れる1週間ほど前に見た夢 その1。

2021年8月12日(木曜日)

発症して20日目、退院して1週間が経過した。
不思議なことに年令を重ねてからの出来事は何故かすぐに遠く、小さく、軽く感じるようになる。これが4,50代だったらもっと骨身に滲み、深く痛手が刻まれるのではないかと漠然と思う。
恐らく万事鈍感になっているせいにちがいない。このようなことは主観なので、年取って重い病気などをされた方に、貴方はどうですかとお尋ねしてみたい。

本日私より随分若い同業のご夫婦にお会いした。
この間のゴルフは欠席されましたね、と言われ、実は入院していましたと返答すると、エッ本当ですかと驚かれた。
それで7月24日の顛末をお話ししのだが、ほかでも時々同じ場面に遭遇する。そして説明する度に出来事は遠くへ、少しずつ小さく、軽くなっていくような気がする。

年令に関係無く、一般に心というのはそのような面を持つのかも知れない。
悩みや苦しみを抱えた人には少しでも自分のことを話してもらう。繰り返し、ゆっくり深めて広げて聴くということが大事なのは、その過程で傷が小さくなるという事実があるやに想像される。

さて実は倒れる1週間ほど前、鮮明な夢を2回見ました。つまらない話ですが、珍しく手帳に書きとめていましたので、ネタ切れの本日それを書かせてもらいました。

 

以下不鮮明なところも多々ありますが、ほぼ書かれたとおりの内容です。

“母校の病院だろうか、とても古く大きな建物に入って行く。
自分が紹介して糖尿病の治療を始めた人が、紹介の礼を言いたいと既に訪ねて待っているはずだった。その人はふくよかな女性で、小学4年生の担任だった近藤先生のように思われ懐かしい感じがする。部屋の隅で美しい膝掛けをして腰を下ろして座り、他の女性(母のようでもある)と楽しげに談笑している。
私はその人と話したいが二人とも気がついてくれない。するとふと女性と目が合い、こっちへ来てと言われ、近づくのはいいが、女性たちは談笑を止めないため、あきらめて部屋を出て階段を降り廊下を歩いた。

廊下に着物を着た若い女性が立っていて、あのひとたちはいつもああなんです、と言って挨拶した。
傍らの妻が、もう出ましょう、と言い大きな建物を後にする。

出るとすぐ花畑のような場所に幅が10メートルほどある横長の絵看板があった。それはダリの南国風な絵のようであり、オモトと思われる植物が沢山描かれている。妻は何かしらと言い、私はオモトだよ、と言うと、妻はオモトなら花ではなく実ではないかしら、と言い、そう言えばそうだなと思う。花畑にはさんさんとした陽光が射して華やかだった。

そばに平屋の建物があり、入ると明るい館内で植物画の展覧会が開かれている。作品はどれも月並みで、おにぎりをほおばりながら眺めた。すると案の定係りの女性が来て、食べ物はご遠慮ください、と言って容器を差し出した。それは黒い紙を蛇腹式に折りたたみ、金のふち取りをあしらった美しいゴミ袋だった。おにぎりをそれに入れると、女性はだまって去って行った。

何か参考に出来る作品はないかと、観て回るがみな大雑把なものばかり。みると会場の奥の一段高い所に美しい絨毯が敷かれ、派手な衣装をまとった年配の女性があぐらをかいて座っている。
光景はペルシャ風だった。
見ていると突然女性が立ち上がり、まるで若者のように素早く歩き、館内の人と話をしてはまた素早く戻る。動作のあまりの早さにとても驚く。
女性は作品展の会の主宰者のようであり、自身の作品は白いカラーの花が沢山描かれた大作だった。画面一杯の花と輝くような緑の葉が速筆で描かれ、精密画ではなかったが、迫力を感じた。

場面が変わり夕刻の上野駅周辺にいる。
お兄さん寄っていかないか、と近づく人。本を手に手に売っている大勢の人。腹話術のような声をだして小さな子供を操る大道芸人もいた。
雑踏のなかで、私の切符を持っているはずの妻とはぐれてしまい、どうやって連絡しようかと手帖やスマホをいじり、いつものように思案しながら目が覚めた。”

以上長々となりました。
私の夢の最後は忘れものを探す、あるいは人とはぐれて最終電車の切符を買うために、どこかの駅をうろうろするという、情け無いものが多い。挙げ句に途中で夢ではないかとうすうす気がついては目を覚まし、ほっとするというパターンが少なくない。

実際こうして面白くも無い夢を載せるのは、行儀の悪いことなのでしょう。また分析が出来る人なら、私の心理を即時に読み解くにちがいありません。
しかし年令のせいでしょう、何を指されようとさほど気にならなくなりました。ただただ鈍くなってしまっているのです。

それにしましても何故でしょう、夢の主な登場人物は私以外みな女性でした。
実は同夜続けて鮮明な夢を見て、それもまた手帳に書きました。今度の登場人物はみな男性でした。わけても学生時代からの友人Kが現れたり消えたりしたのが不思議でした。
次回よろしければそれを書いてみるつもりです。

病んでこれから 夕暮れの鳥追いと電車 私のオリンピック。

2021年8月9日(月曜日)

本日月曜日は休日だった。
ダンベル運動や歩行を行っているが、一定以上の動作を続けると幾分息が上がるので休みはとても有り難い。また盆休みが近いため、身体を慣らせられるならばと期待している。盆明けには待ちに待った看護師が復帰することも心強い。

出来るなら仕事を続けたいと願っている。
このことで、毎週水曜日午後を休診にしようと考えている。これまでも木曜日午後が休診だったので、週半ばの午後二日を続けて休診にさせて貰えるなら、一週間の流れが穏やかになることが期待される。
皆様にはご迷惑をお掛けすることはとても心苦しい。ただ処置や観察が必要な在宅患者さんがいる場合、出来れば午前中に伺って用件を満たしたい。

もう引退して好きな事をやったら、と勧めてくれる人もいる。
これまで小さな美術館と庭を営みブログを書き、週一短時間老人施設に出る。そもそも診療時間の実動はフルの日で一日5時間程度、精々25人前後を診ているだけなので、さほど負担を感じず、ある意味楽しんでやってきた。

ただこのたびはコロナ、特に昨年末年始からのPCRとワクチンの受け入れと実施がストレスだった。申請と委託の.電子手続きで心労し、実施に進む過程で一時手詰まりを感じ、いざ実施(特にワクチン)すると申し込みが殺到、オーバーワークに移行した。自院のほかに施設と集団接種は問診医としても参加していた。
悪いことにストレスも慣れる。
後半ではオーバーワークにある種充実感を覚えるに至り、これが悪かった。ついに身体が強制的な停止命令を下して私を倒したと考えている。

回復すればそれで済む話ではない。第一が年令、さらに疾病が残したダメージで原状回復はもう期待できない。一定の生活縮小をはかり、くれぐれも妻には健康でいてもらいたいと願っている。

さて以下は今夕の鳥追い凧とほくほく線上り電車です。

 

 

入院中、YouTubeで「銀河鉄道の夜」の朗読を聴きました。
ここでも「家路」の曲が出てくるのです。

台風が低気圧に変わり前線が通過した模様で、いっとき猛烈な風が吹きました。

昨日は五輪のことを少し書きました。申し分けありませんが、叫び格闘し息を切らす選手を私の心臓が歓迎しませんでした。それで入院中、競技はほとんど見ませんでした。

ただボクシングの入江聖奈選手の誠に潔く朗らかなインタビューと、密が無く静かに進行するゴルフ(女子ゴルフ)を時々見ていました。

心筋梗塞に襲われたのは美しい晩だった。

2021年8月7日(土曜日)

去る7月24日。突然心筋梗塞に襲われ救急搬送され、閉塞した冠動脈の拡張手術を受け、12日経って昨日退院した。
当初は低下したままの血圧、深刻な不整脈と腎・肝に波及した異常。ペースメーカーや臨時透析が考慮されたが、治療の拡大が図られいずれも回避された。
医療チームの粘り強い総合力によって助けられ、いくら感謝しても足りない。

疾患は狭心痛や胸の違和感などの予兆がよくみられる。しかし私は以下のように突然だった。

去る7月24日夕刻、二組のご夫婦と上下浜はマリンホテルハマナスの芝生のビアガーデンに集った。この1年、中のお二人が手術を受けられ無事回復されたこと、高齢者のコロナワクチン接種が大方終わったことなどが集合理由といえば理由。是非という特別な訳でも無く、久し振りに食事をという趣だった。

 

芝生の丘で暮れる海を見る。

 

日没して空の色が変わる。

 

気の置けない話に潮風。

 

あまり飲めない私は途中でオレンジジュースに変えた。
東の山のあかね雲から大きな満月が上り、夢のような時間になった。

 

当夜最後の写真。
なかなかピントが合わなかった。

時は過ぎ、迎えの車が来るまで終戦後、満州からの引き揚げの話になった。私を入れて引き揚げ者が二人いて、私も話した。
奥地の奉天から出港地、青島(チンタオ)までトラックや客車、貨車による不安な移動と受けた襲撃。集結した青島の雨のテント生活と桶による配食などを話した。
話ながら、口が達者で何事もやる気はあったが、実際はとても体が弱かったと親から聞いた幼い自分が浮かんだ。

青島の話のあたりから、両肩甲骨の間に強い凝りのような痛みが出現し、同時に両方の顎関節に固さと痛みを感じ始めた。すると皆さんの声がどんどん小さくなり急に視野が狭くなった。

記憶はそこまでで、気がつくと妻に抱えられ芝生に横たわっていた。
あなた、あなた!と耳元で妻が叫んでいる。
突然立ち上がると少し歩き、崩れるように倒れたという。

美しい夜が暗転する。
救急車も来た。
他のお客さんにも迷惑を掛けているのが分かる。
急性のアルコール中毒だから大丈夫、家に帰る、と言った。大して飲んでいないけれど本当にそう思った。
だが救急隊によってさっさと車に乗せられ車は走り出した。

終始真っ青な顔に冷や汗を浮かべていたらしい。
車中脈を触れてみるが分からない。
寒さで体ががくがくする。次ぎに意識を失ったらそのまま死亡するかもしれない、と思った。
自分から搬送先を口にし隊員にお願いした。

病院に着くと緊急検査で直ちに急性冠不全症候群(私の場合心筋梗塞)が指摘され、循環器内科のチームが呼ばれた。
心臓が頼りなげに奇妙な鼓動を打っている。
身体の全てが受け身にシフトし、最低ラインで必死に私を守ろうとしているように感じられた。
調律が完全房室ブロックと聞いて、悪いと思った。

チームが到着し、導尿後カテーテルが留置され、オムツがあてがわれた。素早く剃毛され、そけい部と手首の動脈からカテーテルやチューブ類が挿入され、ペースメーカの仕度もされた。始まったカテーテル手術(PCI)は日をまたいだ。

治療後に運ばれた集中治療室の時間は不思議だった。四角い壁に囲まれ部屋の高い所に可愛く丸い時計が掛かっている。朝、薬を飲んで眠り、昼かと思うとまだ8時半だったり、昼に眠って目ざめて夕方かと思えば2時前なのだ。極めてゆっくり、異次元的な時間が流れている。
これはこどもの時間ではないのか。現に自分はオムツを着け便器で排便をしている。

2日間の絶食のあと初めて食事が出た。わずかに味付けされた野菜と小さな2個のおにぎり。野菜をとても美味しいと感じた。黙々と噛んでいると脳裡にドボルザークの「家路」が響いてきた。
すると倒れた海辺で話した満州の引き揚げがまた蘇る。
母がこしらえたリュックを背負い、前日まで張り切っていたのに、本番当日の私は早々に歩けなくなった。父が弟のリュックを、元気な弟が私のを、代わって自分が背負ったのはホーローのオマルだったという。家路のメロディに包まれながら不意に涙がこぼれた。

以上が発症と治療および集中治療室の概要でした。

本日退院致しました。

2021年8月5日(木曜日)

去る24日に入院し13日目の本日、午前に無事退院致しました。
重篤で合併症が多い心筋梗塞。
当初は血圧が上昇せず不整脈を生じ、かつ幾つか血液に懸念材料がありましたが、循環器内科チームの粘り強く慎重な治療のお蔭でいずれも克服され、当初の予想よりも早く退院になりました。

院長はじめ主治医医師、看護師、助手の皆様、配膳やお掃除の皆様、誠に有り難うございました。常に適切で親切、本当に有り難うございました。

以下入院中の写真です。

 

カテーテル抜去後の止血のため右前腕を圧迫固定。
これが結構痛い(7月26日)。

左前腕の点滴。
{7月27日)

 

集中治療室から一般病床に移ってきた。
トイレは左の自動ポンプ点滴台を連れて移動する。
(7月30日)

 

 ほっと一息。
(8月1日)

 

退院日が決まってシーツ交換。
とても良い気持(8月3日)。

 

病室の5階を隅々歩いてみた。中々良い眺め。

 

退院前日の昼食。米飯120グラム、1回総カロリ400キロ㎈。
{8月4日)

さて本日退院日。
入院も初めてなら退院も初めて。どうして良いものやら、ただ早く起きて靴を履き、ポロシャツとズボンに着替え妻の迎えを待ちました。

久し振りに車のハンドルを握り、ソロソロと帰って来ました。
涼しかった病院に比べ、外がこんなに暑いとは。

 

 昼少し前美術館に寄り、昼食にミルク紅茶とホットサンドを半人前食べました。

 

入院中の猛暑続き。少々やつれた芝生に撒水しました。

それから辺りの田んぼを一回り。

 

鳥追いのカイトが気持ち良くそよいでいる。
退院を祝ってくれているように思った。

 

早い米は稲穂をビッシリ付け黄変し始めている。

退院してまずは美術館そして田んぼへ。
猛暑のなか、みな静かで気持が安らぎ、なにか半分あの世にいる感じがしていた。

短い午睡の後「縄床」さんへ散髪に行った。
聞けば、
“先生はゴルフの後一杯飲んで倒れた”という風に伝わっているらしい。
倒れた7月24日前後のことは後ほど書かせて下さい。

「多くの皆様にご迷惑をお掛けし申し分けありませんでした。また身に余るご心配を頂き深く感謝いたしております。」

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