明け暮れ 我が家 お出かけ

妙高市はいもり池の近く「ギャラリー峨々」を訪ねた。樹下美術館も紅葉。

2024年11月16日(土曜日)

本日、午後から妙高市は池の平にある「ギャラリー峨々」を訪ねた。多くの画家達が描いた妙高山の絵画はじめ古布、道具や機器類、ガラス、陶器あるいは漆器などの個人コレクション館である。
一貫したコンセプトは「手作り感」や「時代感覚」あるいは「不思議」や{愛着」と言ったもので、あるじ夫妻の郷土や自然へ愛情が色濃く感じられた。

多岐のカテゴリの中から本日は特に印象的だった猫をあしらった古布作家・なー猫さん作品のコレクションから一部を掲載しました。

古布にさらに古いほつれが
あしらわれた猫たち。

これもなー猫さんの作品か。

中央の展覧会で受賞した
大作のほんの一部から。

 翼が付いた猫を二つ求めました。
往診鞄に付ける予定です。
ラベンダーの香袋を付けて頂きました。

最後は玄関の看板と李朝の壺です。壺は茶壺でしょうか木製の蓋がついていました。とても良い風合いでした。

あるじの藤田ご夫妻、本日は貴重なお時間を有り難うございました。家に帰ると椅子に座っていた木製の猫ちゃんを美術館のカフェに置きたくなりました。

晩秋の妙高山と落ち葉が美しい午後でした。
館内にそっと流れていたジブリの音楽も素敵でした。

 

一人前に樹下美術館も
紅葉の盛りになりました。

秋晴れの日のゴルフ。

2024年11月10日(日曜日)

温かで空高く晴れた本日、友人夫妻と米山水源ゴルフ場をラウンドした。8時35分スタートだった。

風も無く池は空を写して
鏡のようだった。

混んではいたが、気心知れたお二人と、少し良寛さんの話をしたり、反省したり、褒めあったりしながら一生懸命ゴルフをした。

今ごろこんなに晴れる日があろうとは。

別れ。

2024年11月5日(火曜日)

別れ

昨日午後東北の小さな駅で電車を待っていました
向こうとこちらのホームの間に
澄んだ高い空が見え小さな飛行機雲が
ゆっくりゆっくり西へと向かっていました
ああ、あの銀色の点と短いすじ雲は
いま荼毘に付されたばかりの弟ではないのか
涙の中で小さな飛行機雲は消えていきました

一つ違いの弟は、およそ何から何まで私と違っていました。いつまでも歩けなかった私を追い越して弟は歩いたそうです。
写真を生業としながらスペインへ渡り牧童らと生活をともにし放し飼いによる豚の飼育の着想を得て帰国。南三陸町に「エル コルティッホ ソーナイ牧場」を構え、独自の飼料で豚の放し飼いを始めました。

肉は好評を博し皆さまにもお世話になり中央の名店でも扱われました。しかし家族が食べれられれば良いと言って広げるようなことはせずさらに美味しくと取り組んでいました。一方出版では淡光社や福音館書店のお世話になりました。

身体はボロボロだったと思います。結果仕事場でばったりと倒れそれっきりでした。まだまだでしたが温かな家族と地域の理解者に恵まれて幸せだったと思います。斎場でお会いした皆さまからもそれを感じました。

最近北上川の天然うなぎの蒲焼きを送ってくれて美味しく食べたばかりでした。
独自の哲学を実践した弟を悼み、不肖の兄から慰労と畏敬を捧げたいと思います。

先週末の種々。

2024年10月29日(火曜日)

10月は第4週になり空はめまぐるしく変わる。本日日中激しく降ったが午後次第に止んできた。
去る週末は髙田高校150周年記念美術展を観に大島画廊へ、帰路はお茶のみに大学前フカミ美術へ寄った。

以下は高校150周年記念美術展の様子です。

26日(土)の場内。

以下心に残った作品の一部です。額装のガラスやアクリル板の反射のため上手く撮影出来なかった作品もあり申し分けありませんが割愛致しました。

「指導将棋」三浦和子

「face」内山富佐子

「少女」津幡潔」

 「無題」山田春美

 「蒐集家の棚」岸田國昭
独創的な着想が光る。

最後に当館から
「黄昏のピエロ」倉石隆。
多くの方が足を止められたと聞いた。

大島画廊のあとお隣の髙田まちかど交流館にハローウインのカボチャが出ていて中へ入ってみた。

雁木のカボチャのお化け。

館内で、魔女の仮装をした人。

帰路の美しい夕空。
上越教育大学付近。

本日もまた開催中の高宮あけみ展の関係者方四人さんが埼玉と横浜から来館された。

お二人は新幹線でもうお二人はほくほく線で来られ、今夜は上下浜マリンホテルや湯沢で泊まられるとお聞きした。激しい雨のさなかのご来館、本当に有り難うございました。午後楽しいひとときをご一緒でき喜んでいます。

盛大だった髙田高校150周年記念展覧会は27日に終了しました。

高田高等学校創立150周年の秋 いたくら桜園 近隣の秋。

2024年10月24日(木曜日)

今年は県立高田高等学校創立150周年に当たり、10月26日に式典と祝賀会が行われる。
それに関連して25日(金曜日)~27日(日曜日)の三日間、上越市本町の大島画廊で同校出身者のが開かれる。主宰者から卒業生である倉石隆作品と不肖小生作品を出品してと告げられていた。
倉石隆(倉石孝壽たかひさ、中40・昭和8年卒業)。

美術展のDM
旧職員の村山陽氏作品
「私の新学期」が用いられている。

マゴマゴしているうちに初日が明日に迫り、本日昼過ぎ画廊に2点を搬入した。一人一点ずつ物故者を入れておよそ50人の展覧会、会場は作品でいっぱいだった。

場内に展示でご苦労される上越美術協会 小関育也会長と髙田文化協会事務局長の宮崎俊英さんがいらっしゃって、あとは架けるまでに作業が進んでいた。
一渡り観て歩いたがジャンルの幅広さに大変驚いた。
当館からの倉石隆は「黄昏のピエロ」で、ひいき目もあるがあらためて氏の訴求力を感じた。
比べて私の「ほおずきと山芋の実」などは吹けば飛ぶようなもので、恥ずかしい限りだった。

会場の小関、宮崎両氏。
これから作品の壁掛け、
キャプション付けがある。

倉石隆「黄昏のピエロ」

明日から三日間、お暇を見てどうか大島画廊にお寄り下さい。

搬入の後、近隣のコスモスを観みに足を伸ばすうち、かって母がショートステイでお世話になった板倉区のいたくら桜園まで行った。

途中清里区の馬屋で見た
コスモス畑。

 

いたくら桜園付近の道。

懐かしい施設。

同施設は遠かったが母は窓外の風景が佐賀県の故郷に似ていると言ってここばかりお世話になった。送迎はもっぱら私の車で行った。当時上越地区の医師会長を仰せつかっていたが、不思議な事に母といる時間だけはそのストレスを忘れることができた。

桜園のそばのお宅の花。
ショートの間をみて施設に行き、
車椅子を押して近隣の花を見た。

もう遅いのか期待したほどコスモスを目にする事はなかった。帰路頸城区で今年初めて白鳥の群に出会った。

あちらこちらでモズの高鳴きが聞こえ、時節は晩秋となりいよいよ時雨れてくる。
そんな折、樹下美術館は11月3日に全国良寛会会長、小島正芳先生の講演会「良寛さんに学ぶ」があり、11月7日からラッセル・ジョケラさんの木工展が開かれる。外は荒れても樹下美術館だけは温かく居心地良くありたいと願っている次第です。

病気により高校を4年かけて卒業したこともあり、普段母校の行事などに疎い自分。この度ばかりは関係諸氏および我が倉石隆氏のためにも髙田高校150周年美術展、どうか宜しくお願い申し上げます。

信州は須坂で江戸時代の料理を食べる 満月、私達の奇跡。

2024年10月17日(木曜日)

本日木曜日は休診日。10月にしてはやや暑さが戻った空だった。この日はかねて予定の長野県は須坂市の田中本家博物館で催される「江戸料理再現の食事会」に参加した。

今年6月2日に同博物館と普願寺で行われた茶会に伺っていたので須坂は二回目となった。前回、思ったより近いと感じたがこの度はさらに、短時間で着いた。

優しく熱心な同本家12代ご当主に迎えられ11時から待合の間でお話を聴いた。
地名の由来などから始まり魚の話題へと進んだ。日本海の魚を飛脚のごとく信州へ運び継ぎ、山中の氷室にヌカ保存して年中魚を欠かさなかったことに驚かされた。
さらに代々の塗り物の金銀盛り上げの見事さに感心し、江戸末期の文人、亀田鵬斎の書体について良寛との会合前後の顕著な変化を示す床の双幅も興味深かった。

漆器について説明を受ける。
手袋が配られ皆で触れてみた。

お話の後は食事の間へ。参加者さんは各組ごとにテーブルが用意されている。
盃、壺、吸い物、刺身、焼き物、太平、蓋茶碗、飯、漬け物、汁、番茶の順に振る舞われた。各膳の食材は丁寧に吟味され、器は江戸趣味満点でおのずと美味しと珍しさがつのる。

途中厨房の前を通ったところ、廊下全体に濃厚なダシの香りが漂い、日本食の真髄を実感した。
以下はお品書きで初めて目にした献立の「壺」と「太平」の料理です。

「壺」で出された料理。
蛸にあずきが掛かり
菊と青菜が添えられる。

料理の順番と器の形状から「壺」とは、向こう付け、特に筒向(つつむこう)に相当するのではないかと思った。早速出された海の物があずきで甘みを含み、見た目も良くとても美味しくかった。

朱の大きな蓋付碗の「太平」。

「太平」は焼き物の次ぎに出された。慈姑(クワイ)、家鴨、婦久羅(ふくらげ)煮浸し、擬製豆腐、鱈切身霰柚子、巻卵、菊餡、焼き茄子、氷蒟蒻(ひごんにゃく)、青菜が賑やかに盛られている。
用いられた器の欄に皆朱太平とあった。朱で大きく平たい蓋付きの碗で出され、肉料理のメインディッシュと考えられた。

膳が進み茸ご飯と汁、それに須坂丸茄子の味噌漬けが運ばれ、最後はお番茶と塩落雁で締めくくられた。

お番茶と塩落雁。

少し堅めの塩落雁をかじるように味わいながら番茶を服し、盛大な食事が終了した。
この日の料理は嘉永元年(1848年)10月、上田藩奉行 大平多喜治様ご接待時の再現だった。客、献立、器の詳細は分厚い「萬賄帖(よろずまかないちょう)」などに記されているという。帳面はこの後巡った博物館に展示されていた。

相客された東京のご夫婦はこの食事会は8回目とお聞きし驚いた。多くの人が支える博物館。やはり継続は力なりなのだ。

食後、案内された館内は展示物がすっかり替わっていた。構造にも変化が見られ、当博物館の意欲と収蔵品の豊かさに圧倒される。

入ってすぐ大きな薩摩焼の壺一対。

染め付け大鉢と盛りつけ料理の写真。

京焼きの一つである、
交趾焼(こうちやき)の風炉。
鳳凰が大胆に描かれていた。

博物館から庭に出ると、秋の草花が優しかった。

ホトトギス。

手前にムラサキシキブ、
向こうはウメモドキ。

講、食事、博物館鑑賞、リンゴジュースの飲み物一式で19000円の会費だった。

充実の時間を過ごすと再びリンゴ畑を抜けて帰路高速道路に入った。

色づきはじめたリンゴ畑。

博物館周辺の景観は江戸時代の風趣があり旅情を感じる。そこの屋敷で昔の料理をその時の器で食べる。
秋好日の意義深い体験であり、御地と越後は密接であったことを改めて知った一日だった。

さて本日は満月。しかし日中空は曇り、夕刻の雲は厚く、月は無理だろうと思っていた。だが帰って寄った美術館が終了し表に出ると東の雲間が輝き月が上った。

巨大な月が上る。
夜明けのような光景だった。

間もなく隠れた満月。

数時間後には真円になるはずだった大きな月。こんな月をこの目で見られるとは、私達と地球の出来事はまったく貴い奇跡にちがいない。本当に勿体ないことで、そろそろ軽々しく戦争などをするのを止めたらどうだろう。

失った1枚 栗。

2024年10月16日(水曜日)

本日日中ほぼ雨に降られたが夕方から上がった。稲刈りが終わった周囲の田はひっそりと静まり10月は中ば、秋真っ盛りになった。

午後のお茶に頂いた栗を茹でていたので食べた。肥後の小刀で皮をむいた。そうすると食べるまでに時間が掛かるがきれいに剥けばより美味しくなろう。

 紅茶で食べました。

一番最初に剥いた栗はかなり弾けていて特別大きく、とても剥きやすかった。しかしながらカメラにフィルム(SDカード)が入っていなかったのだ。
失った写真は本当に大きい。あれほど見事な栗にまたお目に掛かれるだろうか。機会があれば今度は是非落ち着いて撮ってみたい。

カードを入れずに取ることは以前からよくあり、妻には呆れられている。実はその時に備え、カメラの肩掛けバンドには予備のカードを入れた小さなケースを紐で付けている。本日はそれを使えたのだが、肝心な栗を食べてしまっていた。
上掲はその後剥いた三つの栗で、残念ながら最初のに比べるべくもない。

気を取り直して明日は満月、スーパームーンということ。晴の予報で大きな満月が観られそうだ。ちゃんとカードを入れなくては。

二泊二日の大旅行。

2024年10月15日(火曜日)

去る10日、「この先も頑張らなければ」と書いた後からブログを4日も空けては、また倒れたかと言われても仕方がありません。

実は12日土曜日から上京、二泊して昨日14日夕刻帰りました。先回大切な人たちに会うと書き、みんなの幸せをと願って出かけたのが、私の方が幸せになって帰ってくる、という東京行きでした。

現に“そうでもない”という人もいますが、“兎に角元気で長生きすれば良い事がある”と何度かここで書き、診療でも多くの方にそうお話してきました。このたびの旅行で自分自身がそれを確認した次第です。

二日間はに二組の人達と渾身の食事をし、それぞれの食事はことさら美味しく、身体に優しいもので大満足でした。
一緒した人々は食事と同じく、あるいはそれ以上に優しく、この先ますます元気に生きようと心洗われました。

13日の昼食後、通りへ出ると向こうに50年以上も前、駆け出しの頃バイトをした東京交通会館が見えました。止めてから50数年はゆうに経っていますがよくもまあ相手も自分も立っているものだと感慨を覚えました。

13日は昼食後ホテルに着くとあたりに太鼓の音までして、目の前は大変な賑やかさ。外食が続いたので夕食はホテルでコンビニ食にしようと出て見ると「第43回みなと区民まつり」というのをやっていました。初めて耳にするような国も入れた各国大使館ほか各県から食べ物などのブースが出ての大イベントでした。

ステージがありウクライナ大使館主催というコーラスとダンスの時間で大勢の人がみていました。

さすが東京の祭。

ファミリーマートで買った夕食。
出来るだけ加工の少ないものを。
ホテルの部屋で有り難く食べました。

最終日の昨日14日は予定通り東京都美術館で開催中の「田中一村 展」を観ました。入れたスマホの入場券も無事現れて入場。

上野公園

田中一村展の大看板

東京都美術館の田中一村展は二期にに分け以下の開催です。
・前期展示:9月19日(木)〜10月24日(木)
・後期展示:10月25日(金)〜12月1日(日)
予約が必要な曜日もありますので確かめてお出かけください。

一村は南画でしたが公募展をことごとく落選が続きました。亡くなってから人気がでる芸術家の一人ですが、今では一村美術館が出来、この度の展覧会は作品の前に何重にも列が出来るほどの人気でした。
花鳥と山水中心の日本画の世界で、晩年の奄美大島時代のビンロウジュやソテツを大胆にあしらった光りと影の作品には南国の空気と時間が流れていてエキゾチックな気持にさせられなした。

300余点、全館挙げての展覧会は年令のせいもありますが疲れました。無理して言えば疲れるほど堪能したといえるかもしれません。
それにしてもこれだけ膨大な品を、あしらい良く展示する作業はどんなに大変なことか。張り合いもあるでしょうが、本当に立派と思いました。

東京の混雑はやはり堪えます。帰路の切符を買い直し1時間半列車を早めると明るいうちに帰ってきました。
樹下美術館の開館中に着き、一段と赤くなった柿をもぐと雲が良さそうな上下浜の海へ行きました。

夕暮れの海。

以下は一日目の食事で話題になった上下浜のアンドリュ・ーワイエス風の景色。マリンホテル ハマナスの東側を歩きました。

2007年美術館が開館した年、東京から来られた方がここを見てワイエス風と仰り、その後10年ほどして別の東京の方を案内すると、またワイエスだと仰った。それは敢えて言えば“嬉し寂しい風景”なのです。


ワイエスの紹介動画。

さて柿です。美術館の甘柿は終盤にかかりました。

夕刻もいだ柿。
一段とサイズが大きくなり、
甘みを増しました。

現在柿は出来るだけ美術館のお客様にお出ししていますので、宜しければ「柿ありますか」とお尋ね下さい。

話を東京行きに戻して、
普段の旅行では密かに何かと妻を頼りにしていますが、この度は一人でした。
切符を失くさない、駅の階段で転ばない、ホテルのキーを失くさない、スマホで田村一村展の予約をする、帰路の切符を買い替える、あまりのろのろ歩かない、駐車場の車の場所を忘れない、二つの初めてのレストランへそれぞれちゃんと着く、トイレは早めにetc。

多くの関門が続いた二泊二日はもやは冒険的大旅行でした。

帰ってきた樹下美術館と夕暮れの海辺、美術館周辺の田んぼは、いずれも「我がふる里」の実感がして疲れが取れた次第です。それでも大切な人達に会える心から幸せな旅でした。

この先も頑張らなければ。

2024年10月10日(木曜日)

好評の「高宮あけみ 水彩画展」。お弟子さん方が横浜から次々来館されます。本日は4人様がお見えになりました。
午後お茶をご一緒しましたが、「鎌倉よりよほど素敵な場所です」と仰るではありませんか。横浜の皆さまから、あの鎌倉より素敵とは、何と嬉しい事でしょう。

新幹線、あるいはほくほく線でまだ何組か来られるということ、本当に有り難いことです。「だって日帰りができますから」という言葉も心強いことでした。

本日のベンチ。

 今日の樹下美術館産甘柿。
明日からお客様に尋ねて
宜しければお食べください。

本日の夕陽。

コロナのせいもありましたが、今になってしばらく会わなかった大切な人達に会えることになりました。こうなればいっそう身体をいたわり頑張らなければと心を新たにした次第です。

A氏を亡くして。

2024年10月7日(月曜日)

去る日ある方A氏が亡くなられた。親しくして頂き世話にもなった。昨日お通夜でお線香を上げた。お顔を拝見させてい頂いたが静かに瞑目しているだけの表情だったので、声を掛ければ返事をしそうだった。

海山と音楽を愛し、ある団体で社会奉仕をされ、長年日本と海外の高校生を交換留学させる事業に取り組まれた。
数十年前、交換留学のお手伝いをさせてもらった時、“世界はテーブルの上でそれらしく話し合いをするが、下では足の蹴飛ばしあいをしている。せめて私達だけでも地道に交流し合わないと”と仰った。

クラシック音楽に造詣深かったA氏。樹下美術館は貴重な蓄音機をお借りしていた。その蓄音機を回しよくカフェでレコードを聴き、何度もお客様を招いてSPレコード鑑賞会を行った。

お考えと構えに貴重な品格を隠し持たれ、先人を尊び地域を大切にされた。負っている責任に対する熱意と周到な実行力は忘れることは出来ない。

以下は1971年10月24日、94歳で国連でスピーチをし演奏した時のパブロカザルスの映像です。当館でレコードを聴く際、よくカザルスの「鳥の歌」が最後に掛かりました。

 

カザルスは演奏に先立ち、
“私は40年も人前で弾いていませんが、今日は演奏しなければなりません。曲は小曲で「鳥の歌」です。鳥たちは大空でピース、ピース、ピースと鳴きます。音楽とはバッハやベートーベンほかの全ての偉大な音楽家たちが愛し尊んだものであり、それはとても美しく、私の国の魂とも同じなのです、カタロニアの。」”とメッセージを述べています。

本日はA氏のお葬式でした。私は急な胃カメラのため参列できませんでした。お葬式は悲しくも非情であり、昨日まだ体温が残り返事をしそうだった人があの遠い次元へ去り、完全に訣別しなければならない日です。

病は本当に残酷です、、、まだ若い人ならなおさらです。

明日から誰と話し、誰に聞けば良いのでしょう。

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