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黄檗山万福寺を訪ねた、その2。

2024年1月12日(金曜日)

午前早くから訪ねた平等院のあと近くのお茶の店「神林」でお抹茶を頂き、同じ宇治の万福寺までタクシーに乗った。
同寺は主要建物23棟と諸回廊を有する中国の明朝様式を取り入れた黄檗宗の大規模な禅宗寺院。

多くの参道で平石が菱形に敷かれている。
これも中国式。

寺は江戸前期開山の隠元禅師から長く中国渡来の僧が管長を務め、徳川幕府からも大切にされた。

12月恒例のランタン祭で使われた飾りが参道の随所にあった。

桃は魔除けと招福の象徴。
すでに十分異国的。

最初の像、天王殿の「布袋尊像」
でびっくり。
中国では弥勒菩薩の化身とされ、
実在した高僧のようだ。

布袋尊を守る四天王
のうち韋駄天。優美な容姿。

 

壮大な大雄宝殿。

明朝式を伝えるなかで特に驚かされるのは大雄宝殿の十八阿羅漢(羅漢)だった。和風の釈迦三尊像を囲むように安置され、釈迦の国インド風というのであろうか、異国の容姿、風貌が目を引いた。

この像は自らの胸を開きそこに釈迦がいることを示している。

賓頭廬(びんずる)尊者。参拝者が自らの不自由な部分を触ると患部が良くなると伝えられる。

勾欄が卍崩しの開山堂。
隠元禅師が祀られている。

開山堂の門「通玄門」
私の名が一字入っていた。

“山門を出れば日本ぞ茶摘うた” 境内にあった句碑。
前後しますが、宇治一帯は古来茶の一大生産地。上記の句は江戸中期、松尾芭蕉を慕い全国行脚をした尼僧の俳人・田上菊舎のもの。私達は平等院のあと門前通りでお茶の名店「上林(かんばやし)」で抹茶を服しました。

通路で見た茶箱と茶壺。

普段同店のお抹茶をよく飲んでいる。
とてもしっかり点てられていた。
万福寺はお煎茶で有名。

さて万福寺を辞しJR「黄檗駅」から電車で京都に戻った。
京都から12:43のこだまで岡山へ。岡山で山陽本線に乗り換え、14:25倉敷着の行程を無事に終え倉敷国際ホテルに到着した。

かなり前から私達の旅行はまず昼食を食べない。そもそも昼食を摂ると眠くなったり疲れが出る、普段そうしていることや、食事場所を探す、待つ、食べるで費やす時間が勿体ないことがある。浮いたお金はタクシー代にもなり、お腹が空くので美味しく夕食を食べれるということもある。

その日、夕刻まで大原美術館を観る、夕暮れの美観地区を散策、近くの店で食事の予定だった。次回その様子を書かせていただければと思っています。

平等院のあと黄檗山万福寺を訪ねた、その1。

2024年1月11日(木曜日)

だれに訊いても勉強の虫としか返ってこなかった父は、昭和11年に大学を卒業すると学問を捨て、渡満し満鉄病院に勤務医として就職した。祖父が知人友人の事業協力などの結果莫大な借金を負い、債務返済のため現金を求めて泣く泣く大学での研鑽を諦め望みもしなかった満州行きを選んだ。

高祖父、曾祖父とも医師で文化の人だったらく、家には貴重な書物や書画が沢山あったという。しかしそれらは借金返済の金作りに東京から呼んだ商人がみな整理し、家にはほとんど何も残っていないと、父母から何度も聞いた。

くだんの商人は客用の布団まで持って行ったようだが、田舎にこんなに良い書画や書物があるとは、と驚いていたとも伝わっている。そして当の祖父母もまた返済を埋めるべく現金を求め、公が募集した北海道の寒村の診療所へと転地している(二人には借金のほかに11人も子供がいて父は長男でした)。

満鉄病院で勤務医となった父は佐賀県出身で看護師の母と知り合い結婚。後年母は父について「病院に賢そうだが年を食い貧しい風采の独身医師がいた。なぜ結婚しないのかと聞くと、“大きな借金を背負っているから”と答えた」と述べている。

そんな訳で父には、江戸末期、高野長英を匿った嫌疑で取り調べを受けた蘭学医の高祖父・玄作や叔父に教育音楽の母・小山作之助がいる一方、人の良い医師である祖父(祖母の見栄や贅沢もあったようだが)によって苦しい前半生を余儀なくされたという因縁があった。

幸い借金は10年掛かって戦後間もなく完済された。
返済ですっからかんになった我が家だが、かろうじて残ったものに臨済宗黄檗派(おうばくは)・万福寺二代管長・木庵性瑫(もくあんしょうとう、1611年- 1684年)の掛け軸と良寛筆と伝えられた書があった。
良寛と伝わるものは品が良く終生父の寝室に掛けられていた。落款は無いが父の死後良寛のお墨付きが付いた。無落款のため商いを逃れたと思われる。
逆に木庵と無落款ながら良寛が残ったということは、ほかに如何に良いものがあったか、ということになり、一方で布団が選ばれたのは当時を被った不景気の深刻さを覗わせる。

父は子供の私でも分かるほど祖父を恨み、私が知っている限り墓や仏壇を参るのを見たことが無かった。
ただ一度変わった事といえば、普段の寡黙に反し大勢の親族が集まった祖母の通夜で、丸めた座布団を背負い東海林太郎の「赤城の子守歌」を歌いながら踊ったことだ。
みな転げるほど笑い私も笑ったが、なぜ父が踊ったのか、なぜ皆があれほど笑ったのか小学5年の私にはよく分からなかった。
昭和19年に祖父が亡くなっていて、祖母は昭和27年だった。振り返れば思いも寄らない父の歌踊は祖母の死をもって借金の呪縛から開放された酔いだったとしか思われない。

それから70年近く過ぎたある日、何気なく仏壇を整理していると祖母の小さな写真立ての裏に隠すようにして祖父の写真が重ねられているのを見つけた。
「どんなに恨もうと親は親だった」。めまいのようなものを覚え異様に胸が熱くなった。

このたびの西国旅行に黄檗山万福寺と玉島円通寺が行程に入った。何とは無しにだったが、いずれも家に残った書に縁があることに気がつき、不思議なことだと思っている。

木庵性瑫筆「山雲石寺鐘」

黄檗の三筆と呼ばれた木庵。淀みなくゆったりしていてとても気に入っています。万福寺は毎年全国煎茶道大会が開催されるほど煎茶で有名です。宇治の寺でもありますので余計でしょうか。

万福寺総門。

軒下に「第一義」の扁額。

第一義といえば何をもっても我が上杉謙信公終生の信条。謙信公ゆかりの春日山林泉寺山門にその扁額が掲げられています。

林泉寺山門の「第一義」

門に同じ扁額を掲げる林泉寺と万福寺の因縁は分かりません。偶然でしょうか。ちなみに万福寺の開祖・隠元禅師は中国からの招かれた渡来僧で、木庵も同じく同国の渡来僧.、寺院は将軍家から重んじられました。

うろ覚えそのもので全く自信がありませんが、母校高田高等学校の講堂(体育館?)の舞台右壁に「第一義」の額があり、入学式に小和田校長がそれについて力説をした記憶がかすかにあるのです。

どなたか覚えている方いらっしゃれば教えて下さい。

さて万福寺を書き始めましたら書き出しで長くなってしまいました。申し訳ありません、万福寺は総門でお終いにし続きは次回にさせてください。

長きあこがれ宇治平等院で。

2024年1月8日(月曜日)

正月は8日となり本日月曜は成人の日。
かっての自分のその日は東京で浪人中で、受験を控え式の意識は皆無だったのではなかったか。

その60年前に夢想だにしなかった今年正月の短い西国旅行。本日は去る1月2日、幼少からの憧れ宇治平等院行きを記したい。
小学時代の高学年、切手を集め始めていた。安くても手に入る記念切手に混じって国立公園などの名所切手をあこがれとともに眺めていた。
中でも特に気に入っていたのが錦帯橋と宇治平等院だった。錦帯橋は2012年母の遺影をリュックに佐賀県の菩提寺を訪ねた帰路岩国に寄って念願を叶えた。

錦帯橋
昭和28年発行の観光地百選切手

そしてこのたび1月2日午前早く、80過ぎて初めて平等院を訪ねた。

平等院鳳凰堂
昭和25年発行国宝シリーズ切手
いずれの切手も今は手許にありません。

 

初めてこの目で見る平等院鳳凰堂は
想像を遙かに超えて素晴らしかった。

 浄土か来迎か
「平等院雲中供養菩薩」の図録表紙

地下の鳳翔館の壁や美しいガラスケースで観た雲中供養菩薩像群には有り難くて言葉も無かった。展示されて20躯を越える菩薩はそれぞれ細い輪光を負い法衣をなびかせ、麗しい雲に乗って合掌し、楽器を奏で、法物を手にするなどして天から軽やかに降りてくる風だった。

鳳凰堂と庭園は浄土を表すようだが、雲中供養菩薩は一つに浄土の表象でああろうが、死を迎えようとする者を来迎し供養するために降りてくる大事な役割を負っているのではないかと写った。
これまで800例前後の看とりを経験したが、それぞれの場面は全く様々で、その都度“ああ今この人は自らの苦楽を終えられ冥界に入られた”と胸に刻み合掌してきた。多くの人でそうだったが、父、母の時は加えて人生のあまりの「はかなさ」に涙が止まらなかった。

しかし平等院で多くの慈悲に満ちた菩薩の来迎する様を見て少々考えが変わった。
老いや病でお終いの喘ぎの際に、どこからともなく漂い集まる菩薩たち。私達にはそれが見えないし聞こえない。だが見えも聞こえもしないゆえ余計に尊いのだろう。長く苦しんだ人も突然の人もそれこそ「平等に」そっと慈しみを受け供養される。

しかし私にはその後死者はどこへ導かれるのかはまったく分からない。
もう50年近く前のことある先人に尋ねた、私の祖先だけでも何千何万人もいて挨拶回りでけで明け暮れするかもしれない。まして全人口ときたら何億何兆の不死の先祖であの世はぎゅうぎゅうだろう、たとえ極楽でも、と。

日頃、死はただ一点、生命の終息現象であり、あの世は多分無く、この世で全てが完結していると思っている。そしてこの度の平等院の雲中供養菩薩をみて、死の床で最後に苦しむ者に対して、様々に麗しい菩薩たちがやってきて、経を唱え音楽を奏で苦楽の生涯を祝福(供養)し救済するイメージをこの胸に仕舞った。

臨終で死後数十分するとおよそ皆それまで見たことが無いような穏やかな顔になる。もしかしたらその間に諸菩薩が心込めて慰め供養してくれからではないのか。
その後を問うのは自由だが、少なくとも何千何億という人々の精一杯の苦楽や修行の末に生まれたであろう雲中供養菩薩の姿と振る舞いは人生の終末にまつわる形而上の曖昧さに対する一つの正解かもしれない。

※生前、諸菩薩に癒やされ励まされるのは勿論ですし、より安寧な死後世界があるとする考えも真っ当だろうと思っています。

一先ず峠を越えた雪 土井先生のチキン ホワイトクリスマス。

2023年12月24日(日曜日)

一昨日当欄でドカ雪ぶりを記したが、どうやらその日がピークだったようだ。予報ではしばらくの間、さほどの寒波(降り)はなさそうだ。

当地は昨夜から雨風交じりとなった。風も雨も雪を減らすので50センチ前後あった積雪は半分近くになった。

 

午後の美術館。

以下は本日一時陽が射した近隣です。

近隣の田と道。

真ん中に焼山、左が火打山、
右の遠方は糸魚川方面の山々。

土井善晴さん風のチキン。
妻は簡単で美味しい土井先生ファン。


ホワイトクリスマス。

昔の若者にはクリスマスソングと言えばこれくらいしか無かった。その後のクリスマスソングは具体的でややこしく、あまりholyな感じを受けない(爺まる出しでした)。

訴えと反応。

2023年12月12日(火曜日)

樹下美術館は2007年6月10日に開館しましたので今年は17年目でした。
ところで現在ブログを書いていますが、当初は「樹下だより」として、ホームページにイベントやふとしたことを載せ、月に1,2回掲載していました。しかし「一年ほど過ぎると内容がブログに近いということで「日頃草子」と名付けてカテゴリーを独立させました。

出来れば毎日の更新ですが、初めからそれは無理と考え、三日以上は空けない程度の気持で、何とか今日も続けている次第です。
途中2018年だったでしょうか、タイトルの「草子」が偉そうな感じで気になってきましたので「樹下のひととき」に変えました。

その時色々考えた中から「樹下の一時」、「樹下のひと時」などに絞りましたが字面の柔らかみがいまいちで、髙田のブロガー丸山智慧子さんにメールで相談し、「ひととき」を勧められ、即座に決めた経緯がありました。

話変わりますが、何度か登場している現在展示中の鈴木秀昭さん作「色絵金銀彩天空茶碗」です。この茶碗に何人かの方が感想を述べられ、12月4日の当欄で「尾形光琳の紅梅白梅図屏風の雰囲気」や「エゴンシーレを思わせる」などの感想があり、それを聴いた私は「宇宙琳派」と言わせてもらいました。

ところがほかに「クリムトのよう」と言った人がいて、先日来館された良寛研究家・小島正芳さんは「加山又造を思わせる」と仰いました。いずれも「なるほど」と感心しました。

五つのたとえをもらっている
「色絵金銀彩天空茶碗」

この件に関して時間がある私は宇宙琳派からついに「天空琳派」へ変えさせてもらいました。

さて斯く色々な方に意見や感想を聞くのは楽しくかつ有意義なことで、思えば難題山積だった不肖上越医師会長時代のこと、いよいよ解決や実行に行き詰まると会議を開きました。何度も何度もです。すると理事や委員から良い意見や方法が突然のように飛び出し、解決の突破口になったことをを少なからず経験しました。

三人寄れば文殊の知恵ではないですが、忙しい皆さまに集まってもらうのですから、予め真剣に考え課題を整理し心から訴えることは常に必要でした。

上記の茶碗の感想は会議ではありませんが、良く出来た作品には静かに訴える力があり、ご覧になった方は思わず反応されることがあることを知りました。

以下は1936年製作のチャーリーチャップリン主演映画「Smile」のテーマ音楽で、後年の演奏です。


チャップリン本人の作曲ですから
本当に驚きです。

映画の「Smile」は歌無しでしたが、1950年代に歌が作られナット・キングコールが歌い、後年マイケル・ジャクソンがダイアナ妃の追悼音楽会で歌ったようです。

小島正芳先生と発行予定の著書「良寛の生涯と芸術」 竹。

2023年12月10日(日曜日)

二日続きの晴天のあとの本日はさすがに小雨模様。
されども比較的温かだった。
今年の樹下美術館は余すところあと5日となった。気のせいか今年ほど終了間近となってお客様が多くお見えになる年は珍しいのではないか。

そんな本日新潟市から良寛研究家の小島正芳先生が顔を出された。先生は来年早々の出版予定である著書「良寛の生涯と芸術」の表紙見本のプリントを持参された。500ページに及ぶ大著だ。

「良寛の生涯と芸術」の表紙見本。
2024年1月 考古堂発行予定。

背表紙に「良寛研究の集大成」とされているのが→「良寛研究の新発見紹介」と直されている。集大成ではお終いとなり、意にそぐわないこと、さらに最終校の段で新たな事実が見つかったので追加し間に合ったとニコニコされた。

名や地位へのこだわり無く、お好きな良寛研究に足を使い汗して長く探求された貴重な一冊。
先生のことだから、上から目線の堅い書物ではなく読みやすい、もしかしたらどこから読んでも面白い本になっているのではと、楽しい期待をさせて頂いた。

来年になったら倉敷市に行き、美術館や瀬戸内とともに良寛さんが修行した備中玉島の円通寺を訪ねる予定がある。繰り返し円通寺を訪ねられている小島先生から色々教えて頂いた。

円通寺から海が見える事も知った。良寛さんの故郷出雲崎も海と佐渡島が見える。玉島で10年におよぶ孤独で厳しい修行中、師は海を目にしては郷里を思い慰められたことだろう。

ところで円通寺境内に竹藪があり、小島先生が仰るには“筍や竹は中が空洞で「空や無」を表している。そのうえ、ふしがあることで節度、さらに重圧を跳ね返すしなりを有する事などから禅の修行で着目される植物”とお話された。

齋藤三郎作「染め附け竹文水指」

また同寺に良寛堂ほか師の立像や詩碑があり、岡山県で「聖良寛」と呼ばれ、さらに同県の三大茶会の一つに「良寛茶会」があるなど良寛さんは非常に重んじられているという。
とても嬉しい事で、瀬戸内の陽光と円通寺の茅葺きの佇まいが見られる事を今から楽しみにしている。

本日お越しの皆様まことに有り難うございました。

久し振りのSPレコード。

2023年12月9日(土曜日)

冬に希な二日続きの晴天。樹下美術館の今年開館が1週間を残すことになり色々な方に寄って頂いた。
A氏が久し振りにSPレコードを持参され居あわせたお客さんたちと聴いた。

あらためて平和を祈ろうと、初めに鐘のテーマで、エディット・ピアフの「谷間に三つの鐘が鳴る」と藤山一郎の「長崎の鐘」を掛けた。
最初の曲は人生の節目である誕生、結婚、死に際して谷間に響く三度の鐘を歌っている。三回目の鐘が戦死で無い事を祈った。

「長崎の鐘」は長崎市で被爆し、妻を失いながら被災者の治療に専念、自らも亡くなられ医学者への鎮魂と長崎市民の希望を繋ぐ歌。


昭和24年発売レコード「長崎の鐘」
藤山一郎の歌。

私の年代では知らない人がいない歌の一つ。
私自身昭和43年、医療に踏み出した年、九州を一州するきな団体旅行の医療班バイトとして同行した時、長崎市でバスガイドさんが歌うのを聴いた。
歌は昭和26年の第一回紅白で大トリとして藤山氏が歌い、その後昭和56年まで三回紅白で絵歌われたらしい。

以下は本日かかったレコードの一枚、D・リパッティによるショパンのワルツから。
リパッティはなかなかのダンディ。


本日のSPレコードから
ショパン、ワルツ10番。

黒い帽子が似合うA氏が羨ましい。

慌ただしい日にご来館頂いた皆さま、代議士のUさん、有り難うございました。良い一日でした。

好天の日 「MY Foolish Heart」 明日明後日には晴れ間も。

2023年12月7日(木曜日)

晴れても一日、しばしば半日のいま時。本日の空は荒れたが何かと名残を惜しむ来館者さんたちが寄って下さった。

午後皆さんとお会いして、田んぼに白鳥を探しに行ったが一羽の影も無く、荒れた雲が光芒を引きながら移動するばかりだった。

強風区間のためこの日もほくほく線はのろのろと進んでいった。

戻ると静かになったカフェの窓からアラレで白くなった庭。まだ初雪ではない。

日頃の心を顧みて「MY Foolish Heart(愚かなりし我が心)」です。


1949年の映画主題歌の後年の録音。
原作は「ライ麦畑でつかまえて」

明日、明後日と温かい日射しが現れる模様、エナガや白鳥が撮れれば幸運。

夕刻から同業者ゴルフ会の忘年会があった。たかだか15年前のこの月には10回もの忘年会があった。時代は移り忘年会も古くなったのでは。

東京、神奈川からのお客様 旧師団長宿舎 落ち葉の大潟水と森公園 薄茶点前で エゴンシーレ・琳派風の茶碗 。

2023年12月4日(月曜日)

昨日日曜日も雨降りで、昼前に神奈川県から美大出のご夫婦とその友人が新幹線で見えた。出迎えてから上越市内大町の旧師団長官舎のレストラン「エリス」でランチをご一緒した。

館内は一段ときれいになり、各地から選んだ旬の食材を丁寧にあしらった料理を食べた。

いつ雪が降ってもおかしくない
初冬の館。

 上越市とは思われない
麗しい館内。

磨かれたグラスは良いレストランの証し。

筒石のイカと金柑の料理

 

長崎のスマガツオと黒姫大根の料理。

齋藤尚明さんの蓋物の器が
嬉しい佐渡サーモンと
ル・レクチェの料理。

メリハリが効いた美味しい料理の数々。明治時代の建物で時空を越えた贅沢な時間を過ごした。

三人の宿は眼下に冬の日本海が荒れ狂うホテルハマナス。客人は「凄いなあ」と歓声をを上げた。冬の日本海の波濤は貴重な観光資源だと思う。

一夜明け、本日日曜日昼に「絵付け陶芸三人展」をご一緒した。黒岩卓実さんの軽やかで壮快な赤絵、鈴木秀昭さんの凝縮された宇宙、正木春蔵さんの慎ましい美意識など共感し合い楽しく眺めた。

それから腹ごなしに大潟水と森公園を歩いた。

公園の落ち葉と足許。

帰ってから茶室で妻が点前して薄茶を飲んだ。

藤村正員の「雪聲」の軸。

展示中の鈴木秀昭作
「色絵金銀彩天空茶碗」。
器は大きく十分濃茶も行けそう。

上掲の抹茶茶碗をご覧になった本日のお客さんは「エゴン・シーレ」のようだと仰った。
その前にある方が尾形光琳の「紅梅白梅図屏風」のようだと仰っていた。
いずれもその通りの頼もしい感想であり、ずるい私は「宇宙琳派」と、良いとこ取りをさせてもらうことにした。

気持ち良く晴れた日曜日 賢治のこころの本の一節 エナガとコハクチョウ 

2023年11月26日(日曜日)

昨日の悪天候とは打って変わりよく晴れた日曜日。昨日の仕事終了時、コロナワクチンが1本残っていた。これどうしたの、とスタッフに聞くと、先生のですという。
私の場合、全てのコロナワクチン接種は熱は出ず倦怠感もほとんどないが接種部位の痛みが数週間続く。
昼近くに打ち昨夕から始まった左上腕の痛みで寝る向きを決めるのに苦労した。

本日昼少し前に美術館へ出てると寒かったが風は無く良く陽が射していた。スタッフにサラダの大盛りを作ってもらい田んぼのベンチで朝昼兼用のサンドイッチと果物を食べた。

厨房にあったお客様用の軽食。
とても美味しそうだ。

私の食事と読んだ本「宮沢賢治のこころ」。司修(つかさおさむ)さんの章「詩は童話、童話は詩」を読んだ。司さんの本は時空が多様に変化するが、脈絡が丁寧なのでほかの人の章より興味深くまた読みやすい。

賢治が妹とし子の臨終を詠んだ「永訣の朝(抄)」は胸が潰れる思いがする。これまで多くの人を看取ったり経過を看たので臨終の切実は分かる。

永訣の朝(抄)で、とし子は喘ぎながら「あめゆじゆとてちてけんじゃ」と何度か言う。あめゆじは雨雪(雨雪→みぞれ?)ではないかと思ったが(後段にそう説明もあった)、「とてちてけんじや」」は見当が付かなかった。
司氏の説明に「取ってきてくれますか」とあった。とし子は外に降るみぞれを取ってきてと喘ぎながら頼んでいるのだ。額にあてたいのか、あるいは食べたいと言ったのかもしれない。

病気は恐ろしいもので、しばしば病に苦しむ人を容赦なく高熱が襲う。熱は面倒だが一方で「うなされる」「意識朦朧となる」などの現象が生じ、臨終では通常耐えられない苦しみを緩和しているように見えることがある。

多くの看取りからもう一つ、高熱は臨終において体力の消耗を早め、結果として苦しみを短縮する働きがみられることもあった。

そんな訳で熱など好ましからざる事象は因果関係はともかく、ある場合においては苦しみの緩和や短縮に働くことがあるというのも不思議なことだ。

ちなみに賢治はとし子が息を引き取ると押し入れに頭を突っ込んで号泣したそうです、と書かれていた。ちなみに私は父の時も母の時も、辺り構わず恥ずかしいくらい泣いた。

食事と本の後、腕は痛かったが隣の空き地でゴルフボールを打ち、後に大池いこいの森へ向かった。

あわよくばエナガがきてくれればと待ったが中々現れない。待ちくたびれて少し移動すると、チーチー、シーシーとあたりに声がしてシジュウカラと一緒に何羽も現れた。

パッパッと素早く動くのでカメラはなかなか間に合わない。
何とか数枚は撮れたので美術館に戻りハーブ茶を飲みながらモニタを見た。すると私のメラを見たある男性に話し掛けられた。
その人は風景は雲が大事ですね、エナガですかシジュウカラと仲良しですね、などと本当に良いことを仰り、ひとときご一緒した。

頃合いを見て朝日池へ。しょっちゅう通っているので恥ずかしいが、短い期間しかないので通うほかない。

カメラの時刻で午後4:22

午後4時59分、池の東方向
池は喜びの声でいっぱいになる。

いつか動画にして鳴き声もつけてお出ししてみたい。

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