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富山県を訪ねてその2 ,先ず大和、遅まきながら富山美術館と運河。

2024年8月17日(土曜日)

さて8月12日分が長くなりました。本日は翌13の分です。
当日午前は開店早々の大和デパートへ。5年前もそうでしが富山市に来たらまず大和デパートでした。

懐かしや、
上越大和と似た外観。

1F
スーパーと違いデパートはきれいだ。

ギャラリーの彫金作品。
下地から浮いた
繊細な分岐模パターン。

新潟県の三店が閉鎖されて久しいが金沢市、富山市では構え良く営業されている。開店早々の店内を眺め美術部のギャラリーでモダンな彫金を観た。大和が健全なことは嬉しい。

続いて本日メインの富山県立「富山美術館」へ。炎天下で辻に立ってタクシーを待ったが中々来ない。近くに営業所はあるが人はいない。看板の電話番号に電話すると待っていて欲しいと言われた。待つ事しばし、現れた女性ドライバーさんのタクシーに乗ると、富山では流しのタクシーは無いのですかと尋ねてみた。
はい、人手不足もありますが、そもそも富山の人は普段よほどでないとタクシーに乗りません、という。富山の人は堅実なのだ。そもそも一帯はバス、ローカル電車、市電、私鉄など交通の便が良さそうである、、。聞いていて、すぐタクシーに乗りたがる自分たちを恥ずかしく思った。

さて富山美術館に着きました。

企画がいっぱい詰まった美術館。

先ず西洋画のコレクション展から。

ロートレック薄描きの油彩肖像作品。
安定のデッサン。

ピカソ「肘掛け椅子の女」
壮大な展開はやはり
デッサン確立から始まっている。

岡本太郎「赤兎」
とてもきれいだ。

若者が多い館内は頼もしい。

今期は「民藝MINNGEI-美は暮らしの中にある」」の特別展中。昨年から日本各地を巡廻中の木工、金属、陶芸、ファブリック(繊維)、絵画、染色、ガラスなどの各分野ごとの民藝作品が丁寧に続く。あらためて名もなき職人がもたらした生活の美の力を知らされる。
美術館のコレクションではないため撮影は導入部の環境的展示に限定されていた。
民藝に着目し概念を確立した柳宗悦(むねよし)と氏と同士の工芸、美術の巨人達。導かれるように広い裾野を形成したファン。民藝は戦前戦後を通し一貫して起こった「健康で日常的な」美の革命にちがいない。

現代は若者中心にユニクロ、ニトリ、百均が生活を席巻している。品質が良くリーズナブルなので広がりからいうと文化としか言いようがない。これらからみると明らかに民藝は異質で、今後生活文化に於いて両立するか重要なテーマになりそうだ。

以下はさらに続く展示「20世紀の椅子コレクション」。

フリッツハンセン社のモンローチェア(左)、マッキントッシュ氏デザインのウイロー1チェア(中)およびとヒルハウスラダーチェア(右)。これらは上越市直江津駅前、ホテルイカヤのロビーなどで以前から観ることが出来る。

世界の名椅子がズラリズラリ。
上越市歴史博物館にあるものも
あった。

ありました、堂々の「柏戸」。

2007年樹下美術館開館を前に館内の椅子を選ぶのに楽しい時期があった。その折カタログなどで山形県の天童木工の椅子を検討したがひときわ目を奪われたのが「柏戸」だった(小さな樹下美術館では使えませんでしたが)。
今回会場で座ってみたところ当然硬く、座り心地はいまいちだった。だがこれを歓迎を表すオブジェとしてロビーなど置くなら誠に良い感じになろうと思った。まさかこの日「柏戸」の実物と出会い座れるとは思ってもみなかった。
※樹下美術館絵画ホールの山中グループの「マッシュルームスツール」やカフェのアルネヤコブセンの「セブンチェア」も20世紀デザインの名椅子です。

以下は富山県出身の美術家、詩人、評論家・瀧口修造氏コーナーからです。

瀧口氏のコレクションが並ぶ。

氏の書斎。
おびただしい書物と資料。

ジョアン・ミロが来日した際ミロが絵を
瀧口氏が詩を書いている。

戦前特高に捕まってまで前衛芸術に身を捧げた富山県出身の瀧口氏。戦後堰をを切ったように沸騰するその世界で絶大なインフルエンサーの役割を自ら負われた。
どれだけ多くの人が氏に会い、作品を送り、評価を請うたことだろう。かって何気なく求めた美術の古書が瀧口氏への献呈本だったことがあり、氏の仕事が如何に多忙だったかを垣間見た気がした。

最後は現代美術のコレクション。

袴田京太郎作「本保裸婦像-複製」
広い会場でひときわ目立っていた。
妻撮影です。

本保義太郎作の裸婦像。

袴田作品の原型となった高岡市出身、夭折の彫刻家、本保義太郎作「裸婦像」が傍らに展示されていた。本保氏へのオマージュで、何故日本髪なのかが理解出来た。

最後にこれも懐かしい久保田成子作品「階段を降りる裸体」。久保田さんは直江津の出身。ニューヨークで活躍され世界で認められた人。
小学時代一時彼女のお母さんにピアノを習った。お父さんは高田高等学校の校長をされた久保田隆円先生です。

さて広大な美術館で膨大な作品を観た。とても楽しかったしまだ観足りない。こうなれば再訪であろう。
ひごろ様々なジャンルの展覧会が地方を回る。新潟県には上越市はじめ新潟市、長岡市ほか立派な美術館がある。もう年だから遠くへ足を伸ばせない。それで北陸と新潟県をぐるぐる回っていれば十分に楽しめるのではないかと思った。

富山美術館の前に富岩(ふがん)運河環水公園の船着き場がある。電車でも船でもいい、出かけた先で乗り物に乗るのは楽しい事だ。20分の短いコースだったが今度は海が見える長いコースに乗りたい。

良寛研究家の小島正芳先生にお聞きしていた富山県は浄土真宗王国の事実。この度棟方志功で実感したが、真宗は時に芸術家や思想家に決定的とも言える影響を与えている。
無駄を省き質と実を重んじる県民性も伝わった。一泊だったが、隣の芝生でないけれど魅力的な隣県に恵まれることは幸せなことだと実感した。

この度の写真は全てスマホで撮り多くはトリミングしました。

富山を訪ねてその1,遅まきながら棟方志功の福光。

2024年8月15日(木曜日)

夏本番前から今夏は暑いと言っているうち、いつしかその本番を迎えている。すると2日3日とブログを休みはじめ、つい休みグセがつき3日、4日と怠けるうちにまる1週間空けてしまった。

患者さんのご迷惑も顧みず11日から15日までお盆休みをもらっていたので、12日から一泊で富山県に出かけた。主な目的は一日目は福光町(現南砺市の)で棟方志功関連施設を、翌日富山市内で県立美術館を訪ねることだった。
棟方の足跡を福光に訪ねた方は少なからずいらっしゃると思われ、御地の話は皆さまから色々聞いていた。樹下美術館でも父譲りの志功の板画を数点収蔵しているにも拘わらず同地を訪ねるのは初めてだった(恥ずかしながら何事も人様の後から後からです)。

12日午後新幹線で高岡まで行き、福光へはそこからJR城端(じょうはな)線の赤い2両編成の電車だった。40分少々かけて11駅目が福光駅。
道中の窓外を楽しみ到着した駅前ではタクシーが見当たらず、駅の世話になり会社に連絡して車を待った。
やがて一台で動いているらしい車が帰って来て、帰り電車の時刻まで「福光美術館」「光徳寺」「愛染苑」を回ってもらうことにした。

福光駅天井の棟方志功作版画。
福光は地域全体が志功の町。

南砺市立福光美術館は棟方が親しんだ医王山の麓にある。人口4万6千の都市にしては大きくて立派な美術館だと思った。

広々したホール。

正面に「二菩薩釈迦十大弟子像」
夫人の機転により空襲直前に
当地へ移送された。

棟方は上記作品によって1955年サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展、1956年ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展で、それぞれ版画部門の最高賞およびグランプリを受賞し一躍世界の人となった。

「宿業者是本能
則感應道交」の襖屏風。

宿命は授かり物でありそれによって仏と感応し交わることが出来る、という意味らしい。絵画を諦めざるを得なかった棟方は重い視力障害を悔い悩んでいたが、福光でこの言葉に出会い全てを吹っ切り版画(板画)に没頭するようになった。
救いの言葉を伝えた浄土真宗の僧・仏教学者蘇我量深(りょうしん)は新潟の人だという。歎異抄から導かれた言葉のようだが真宗のわかりやすさ、自在さは宗旨替えをしたくなるほどだ。

花狩頌(はなかりしょう)。
弓矢でなく心で花を狩る。

大作、二菩薩十大弟子の両側の菩薩を文字で「普賢」と「文殊」と書いている。東京空襲で二菩薩の版木だけが焼失したため当座文字にされ、後に像として彫り足されている。

以下の「鐘渓(しょうけい)の柵」で言う鐘渓は敬愛する陶芸家河井寛次郎の窯の名で、シリーズ24作品は氏を称えて制作された。

鐘渓頌シリーズから
「瓢箪の柵」。
樹下美術館も収蔵している。

「沢瀉妃の柵(おもだかひのさく)」.
沢瀉は棟方が愛した草花。

四角い画面に女性を丸で囲み四隅に文字を配している。棟方流の曼荼羅を想像させる。

以下は同館で展示されていた福光出身の日本画家石崎光瑤の作品。石崎氏は棟方よりも年長で二人は特に親しく交わった。

石崎氏は高野山金剛峯寺の障壁画を手がけ、京都藝術大学教授も務められた。登山家として知られヒマラヤを登頂されている。福光に於ける棟方の住宅用に土地を提供するなど厚い手を差し伸べられた。

続いて光徳寺へ。

唐破風門と花頭窓が印象的。
境内に多数の大壺。

玄関脇のタカサゴユリが涼しい。

戦前文学青年で『白樺』を愛読していた同寺ご住職は柳宗悦の民芸運動に感銘を受け、その美と浄土真宗の他力の考えの根底が同じであると理解するに到った。
昭和13年、河井寬次郎を介して住職と知り合った棟方は福光訪問を重ね、昭和20年空襲の東京を避け、ついに一家6人福光へ移った。福光では同寺の世話になり宗教風土と風光に親しんだ。偶々過日ある方から、かって同寺が制作した志功板画の風呂敷を頂いていた。帰り際寺の女あるじにそのことを話すと、今ではとても珍しいことですと仰った。

以下は良寛による「花無心招蝶」の詩。自然界の美しい摂理を歌い人間もまた然りとしている。

樹下美術館の人齋藤三郎もこの詩の一節を好んで焼き物や絵画に書いた。

齋藤三郎作品の「花開時蝶来」
(樹下美術館収蔵)

民藝運動のパイオニア
柳宗悦の掛け軸。
廊下で見て心打たれた。

色紙(無盡藏」。

 

「光徳」の掛け軸。
「華厳」と一対らしい。

以上光徳寺の略略でした。次の訪問先は「愛染苑」です。

福光の生活が始まった頃の
棟方一家。

ささやかな仮寓とはいえ住まいを得た夫婦と子らの安堵は如何ばかりだっただろう。

上に記した石崎氏が“福光の町を歩き歩き(福満之魔智於阿留機阿留機、、、云々)、ヒヤシンスを求め、それを大切にしても道に落としたりと書かれているようだ。文末の「飛矢志武壽」もヒヤシンスと読むらしい。私には難読だが絵から花への感謝が伝わる。

福光の風光をを呉須で描いた
陶板。マチス風でとても良い。
こんな作品を持てたら、、、。

女人観世音版画巻(全12柵)

愛染苑を出てすぐ向かいにある6年を過ごした住居「鯉雨画斎(りうがさい)」へ。

 

茶の間

アトリエ鯉雨画斎
黒い雨が降りしきる中
赤い鯉が昇っていく。

トイレ。
喜びの仏などが
天井まで描かれている。

以下は新居(鯉雨画斎:りうがさい)完成祝いの寄せ書き。大原美術館館長・大原 總一郎、民芸運動で陶芸の巨匠河井寛次郎、濱田庄司の名が見える。

屏風の右側部分。齋藤三郎の
署名があった(斜めの青丸沿いです)。

以上福光の棟方志功関連の施設回りの略々でした。いつものように昼食抜きの急ぎ足で、3時間弱のタクシー貸し切り代は11850円だった。
もう少ししっかり見て来れば良かったと反省点が多い。タクシーは見学時間の予定を告げその都度迎えに来てもらう方が安く済むかもしれない。
富山に戻ると駅前に
ミストの煙。

富山の宿泊は5年前訪問と同じクラウンプラザホテルでした。

夕食はホテルの洋食。
クレープを重ねたケーキの
美味しかったこと。

令和元年、同ホテルでの朝食時、新元号の名付け親である中西進さんにお会いし写真をご一緒して頂いた懐かしい思い出がある。

夜の市電
「国際会議場前」停留所で。

夜の電車を撮るためホテルのすぐ近くの停留所「国際会議場前」で待っているとやって来た。新幹線に備え市内交通網整備の一環として導入されたという路面電車。今どきの時勢とは真反対だが成功し充実、市民に愛されているという。
この時も、待っているとポツリポツリと人影があらわれ間もなく電車がやってきた。都会だなと思った。

路面電車が走る町は旅情と活気があって楽しい。かっての東京のほか後年は長崎や熊本の市電にも乗ってみた。このたびは撮るだけだったが次は乗車したい。

非常に長くなりましたが、翌日の富山県立美術館と富岩冠水公園観光を次に掲載させてください。

本日は太平洋戦争の終戦(敗戦)記念日。偉そうに言うわけではないが、うぬぼれた勘違いだけはストレスレベルまで謹みたいと思う。

幾分涼しかった日 女子ゴルフが始まった五輪。

2024年8月7日(水曜日)

本日髙田の最高気温が30,3度。この所の中では涼しい日となった。それでも毎日熱中症症状の方の点滴が必要になっている。辛い暑さがジワジワと続くと普段と異なる体調の落ち込みが突然のように襲ってくる。微熱を伴えばコロナも懸念され慎重にならざるを得ない。疲れは蓄積するので本日の涼しさが少しでも続くことを願いたい。

オリンピックで女子のゴルフが始まった。TVerで実況されフランス選手が首位に立っているので現地は大いに盛り上がっている。日本の山下選手が7位タイ、笹生選手は少々ツキが無い。あと三日間あるのでまだこの先のことなど全く分からない。どうか二人には粘ってもらいたい。

コースは池が入り組みゾッとするほどである。選手たちは世界ランキングに従って各国から選出されているのでみな強く上手い。映しだされるコースの雲が素晴らしく印象派の風景を思い起こさせてくれる。

本日はほかに写真が無く
夕食を載せました。

先週末の種々。

2024年8月5日(月曜日)

昨日は初めて行く長野市の京急カントリークラブでゴルフがあった。7時20分に車で出たが、一時間少々で着いた。いつもの常で初めての所はどこも外国で、町並み村落、自然みな新鮮で楽しい。ゴルフ場は900メートル以上あり飯綱山が見える良いコースだった。プレイはほかは良いのだがグリーン回りになるとシャンクばかりして成績はだめだった。また課題が出来たとして頑張ろう。

帰路黒姫童話館へ寄った。遅い時間のため入館は出来ないが、去る日同館を訪ねたA氏から同地の素晴らしいオオウバユリの写真が届き、ぜひこの目で観たいと思い寄り道した次第。

以下童話館の駐車場から。高原の風景に心洗われる思いがした。

駐車場から見る同館の花畑。
高原は草花が新鮮で羨ましい。

公道から童話館の道に入るところに3本のオオウバユリが咲いている。行きは山側ばかりみていたので、帰路はじめて気がついた。A氏が送ってくれた花は恐らくこれだろう。確かにY字路で案内目印のように咲いていた。涼しいため花期も長いのか。

さて昨晩遅くのオリンピック中継でゴルフで松山秀樹選手が銅メダルに輝いた。最初から首位争いにからみ、後半で激しく順位が変動した。
あのマキュロイ選手と同組ながら彼の上を保ち続け、最後まで崩れず三位を死守した。18番でバーディパットが入れば二位を掛けたサドンデスに進めるところだった。

バンカーショットを放つマキュロイ。

池が入り組む緊張の最終18番の難ホール。果敢にグリーンを狙う松山選手。ホール全体を大観衆が取り巻いている。フランスはそうゴルフが盛んではない。しかしオリンピックの観客数は驚くばかりで、某有名選手がこんなに多くの観客を見たことが無いと述べたという。やはりオリンピックはケタ違いの競技なのだろう。

それにしてもゴルフは変わったスポーツだ。多くの球技は一つのボールを誰かと投げたり打ったり蹴ったりし合うが、ゴルフは最後まで一人で自分のボールを打ち続ける。4日間もの競技中、成功も失敗も全て自分が行った結果である。面白いのはナイスプレーをして次のホールへ歩く時、歓喜する観衆の中を選手が戦略で頭をいっぱいにしながらうつむいて歩くことである。
選手一人が葬列の人のようになり、気がついては顔を上げ笑顔で応える。昨日最終日の後半はめまぐるしく順位が変わり、そのような場面が何度もテレビに映しだされた。
熱狂が連続するものも良いが広大な場所で繰り広げられる神経がひりひりするようなゴルフを観るのが好きで、続いて始まる女子ゴルフの日本勢には大活躍を期待したい。二人の選手は実力十分なので楽しむようにプレーしてもらいたい。

本日当院脇脇から
見えた積乱雲。

暑い季節だが雲は見る値打ちがある。

楽しめた第20回卯の花音楽祭。

2024年7月16日(火曜日)

近頃珍しくブログを中3日空けてしまいました。13、14日と一泊で旧友夫婦に会うために出かけ、15日は頸城区希望館で「第20回卯の花音楽祭」に出かけたため慌ただしさほかもあり、休ませて頂きました。

本日は20回目となった卯の花音楽祭です。海の日の祭日午後、雨は上がり会場ホールはほぼ満席でした。不肖親族として来賓席が指定され、お隣は音楽研究と地域の音楽振興なかんずく作之助研究に長年尽力された元上教大教授後藤丹先生でした。新潟市から駆けつけられた先生はかっての病を越えられて全くお変わりなく元気で嬉しい限りでした。

始まると大潟町小学校の9人の児童たちが列を作り場内を「夏は来ぬ」をアカペラで歌いながら入場し、ステージで「いま、地球(ふるさと)は美しい」を歌いました。子ども達の歌声は自然で爽やか、良いオープニングでした。
以下大潟区のオカリナアンサンブルのスタンド・アローンのアンサンブル、吉川区のコーラス「ゆりかご」の夜明けのうたの情感、頸城区の合唱団「火曜会」の信長貴富作曲の二曲は一種ドビュッシー風でリリカル、大潟町中学校吹奏楽部の「秘技Ⅱ」は難解だったが懸命な演奏から宗教的な神秘性が深く伝わり、大潟区のシニアコーラス「さざなみ」の「青田川のうた」は後藤丹先生の作曲で何とも爽やかな親しみにあふれ、前半の最後は大潟区のコーラスおおがたによる作之助作曲「漁業の歌」のヨナ抜き調は在りし日の地域を彷彿とさせました。

帰路の芙容の花
一日花だがその日を明るく彩っている。

休憩を挟んで後半はアンサンブル・オビリーによる弦楽四重奏のゲスト演奏、最後は卯の花合唱団による作之助の「吉野山」と「夏は来ぬ」でした。

地域にいると弦楽四重奏を聴く機会は少なく、バッハとモーツアルトのほかタイトルに「愛」が付く四曲のメドレー、サウンド・オブ・ミュージックメドレー、ラストは夏は来ぬでした。クラシックの演奏家はしばしばその楽しみと裾野を広げる貴い役目を負っていますが、それを遺憾なく発揮される熱演でした。

最後は混声四部合唱の「卯の花合唱団」による作之助作曲「吉野山」」および「夏は来ぬ」の演奏でした。前半でコーラスおおがたが歌った「漁業の歌」は在りし日の漁村の姿で、吉野山は南朝の吉野山における王朝の悲しみです。慌ただしい現代のひととき、佐佐木信綱の詩と作之助の曲によってやまと心に触れたひとときでした。

3時間余、児童を含めて4回の「夏は来ぬ」を聞きましたがみな素晴らしかったです。特にアンサンブル・オビリーの演奏、わけても後藤丹先生編曲の『夏は来ぬ」を歌うために生まれている卯の花合唱団のコーラスは涙がこぼれそうになるほど素晴らしかったのです。

エンディングで高らかに終わる夏はきぬの曲調はドボルザークの「新世界より」の「家路」とダブりました。「夏は来ぬ」は5番まである故自在な変化が可能で、一生懸命演奏される限り何度でも聴ける文字通りの名曲だとしみじみ感じました。

それにしても入場料無しでこれだけ楽しめる音楽会は本当に貴重です。

そういえば前日夕刻は新幹線「上越妙高」駅でキンコンカンと鳴る駅メロ「夏は来ぬ」を聴いてきたばかりでした。

本日郷土の偉人前島密を顕彰する会の皆さまが来館。

2024年6月29日(土曜日)

去る5月23日、郷土の偉人 前島密を顕彰する会からお二人が、当館(当院)に保存されている前島密の扁額にまつわる話を、この先皆で伺いたいと来館されていた。
その後予定を調整し、本日土曜日昼前、市議の滝沢一成氏を会長に前島密記念館館長利根川文男氏と会員ご一行10名様が約束どおりやってこられた。
私の説明は午後予定で、皆さんは午前中から扁額が附与されるきっかけとなる明治時代からの音楽家小山作之助夫人まつ子さんが晩年疎開で住んだ家(作之助の生家)と作之助の墓碑、されに扁額が掲げられたいた大潟区の当医院などを回って来られ、樹下美術館で昼食まで摂って頂いていた。

話のテーマは当家に何故密翁の扁額があり、それに関係する前島家から小山作之助の後妻として嫁いだまつ子さんと作之助の弟で医師の小生祖父杉田直次郎の開業など、扁額に関わる縁についてだった。

扁額「正眀堂」は明治42年初秋に前島密が書いたもので、「正しく見るところ」の意味が込められている。大潟区潟町の現在地で開業した直次郎のために揮毫されたもので、医療機関にはぴったりの三文字だった。
まつ子さんは前島家のご息女の家庭教師として入り、後年まで家族同様に暮らされた縁から同家の養子格とされていた。

もとはと言えばまつ子さんは秋田県の生まれで、若くして両親、兄弟に死別、天涯孤独のまま一人上京し前島家でご息女の面倒を見ながら家庭教師兼女子大学通学をするようになった才媛の人。

扁額「「正眀堂」
真摯さと美しさが滲む。

直次郎の待合室にあった屏風。
南摩羽峰の筆による。
その上の欄間に扁額が掛かっていた。
屏風は別所で撮影。

南摩羽峰(綱紀)は幕末の福島藩士で学者、文人。戊辰戦争で負け、越後高田藩で謹慎させられていた。屏風は当時のものと考えられる。明治になり綱紀は新政府の太政官を経て東京大学教授になっている。

晩年のまつ子夫人。
小山作之助還暦祝いで。

才媛まつ子さんが書いた
「杉田医院」看板。

看板も扁額前後に直次郎のために書かれたものであろう。私が開業するまで古い医院の玄関に掛かっていた。汚れを落とそうと迂闊にも雑巾で拭いたところ文字が半分溶け落ちてしまった。

ちなみに晩年(昭和15年)の直次郎(前列左)、その隣祖母トワの兄・野口孝治元衆議院議委員(立憲国民党)、その右祖母トワら。
父母は孝治の後ろにいる。トワが抱いているのは誕生したばかりの姉。祖母は12人も子供を産みげんなりしています。

本日のご一行とともに。

皆さまの中にお二人、高校時代の同級生が居て64年ぶりということ、あっと驚きとても嬉しかった。

夜になって上掲関連写真を皆さまに届けるべくプリントした。近くお届けするつもり。
熱心に前島翁を研究し、顕彰され、何よりそれを楽しんでおられるのを目の当たりにし、奇しくも大昔の級友と出会い、ご一同から元気を頂き、畏敬と感謝を禁じ得ない。

しっかり準備もせず臨み脱線ばかりして反省しています。

以前一部の写真を掲載したことがありました。

後日追加です:樹下美術館の常設展示画家倉石隆夫人・翠さんは小山作之助のお孫さんの一人。小学生のころ夏休みの宿題の絵をまつ子さんに描いてもらって提出したという。返された絵の裏には担任によって「上手すぎて、上手すぎて」と評が書いてあったらしい。

昼の花夕の花、そして月。

2024年6月21日(金曜日)

30℃は越えてなかったが蒸し暑かった金曜日。美術館の芝生に落ち葉が散らばっていて、記録をみると南南東の風が吹いていたらしい。南南東、つまりほぼ南風ということになる。

本日は午1時と夕刻6時過ぎの2回美術館へ出向いた。3月から毎週水曜日午後の特養回診が無くなって午後に余裕が出来たのも体に楽だ。
カフェでサラダを作ってもらい昼食とし、溜まっていた4人分の福祉書類を書いた。一人の女性に挨拶すると亡き妹ど同級生と仰った。言葉を交わすとあたりに妹の雰囲気がふわっと漂った。

昼のオカトラノオ。
日に日に白くなってくる。

 夕刻のカワラナデシコ。

花の写真を撮り、刈って貰ったばかりの芝生に肥料を撒き、撒水するとかなり暮れてきた。
帰ろうとふと見ると裏手の鉄テーブルと椅子に光りが。

月が出ていた。
明日はストロベリームーンという
満月らしい。


生きているような月。
言葉以上の詩。

須坂市の田中本家博物館、脈々たる意識。

2024年6月4日(火曜日)

一昨日「緑陰茶会」が開催された須坂市。本日は前回の続きとして同市の田中本家博物館の展示について掲載させて頂きます。

かっての長大な蔵が素晴らしい展示室になっている。次々現れる貴重な美術品および生活用品は非常に見応えがあった。
一般に博物館といえば文書資料や説明が多くて疲れる。しかし同館は極力そうしたものが抑えられ「兎に角観てもらう」に徹し、成功していると思う。

刀剣をこれほど魅力的だと思った事がなかった。江戸時代は武士のほかにも一定の人々は帯刀を許されていたという。

九谷、伊万里、明時代の赤絵や呉須など、田中家の磨かれた美意識と鑑識眼はさずが。

以下は子供たちの為に揃えられた品々。

武者人形は端午の節句用。
他にもたくさんありました。

玩具。

いずれも夢のような高級玩具。
完璧な保存。

ままごと用の品々。子ども達は幸せだったろう。

着せ替え人形の数!

着物。

何故か男児ものの方が
女児より上等に感じられた。

大人の着物。

一目見て気に入った帯。

お揃いの真綿入れの半襦袢、長襦袢(最後方)、艶やかな帯、息を飲むような水仙と藪柑子(やぶこうじ)柄の留袖ひと揃え。

最後に展示場を出た庭の一角にあった納屋のような場所。

高い棚に積まれていた鳥籠、虫籠。自然豊かな信州の春秋、入れ替わり立ち替わりの鳥や虫に籠は休む暇が無かったのでは。

さて沢山載せましたが、この何倍も展示されていて美しい書画もあった。客観の徹底、多岐で豊かな品々と原状管理の努力など田中本家の人々の意識の高さに尊崇を禁じ得なかった。
長き亘り質素倹約を家訓とし、ものと人を大切にして藩を支えきる。そうで無ければこれほど良い品は集まらず維持も叶わなかったことだろう。

子供たちの玩具や着物を見ているうちに目頭が熱くなり、同家の亡き人々のことを思わずにはいられなかった。

何か落ち込むようなことがあったら、あるいはそうでなくても、また来てみたいと思った。

同館は維持管理に費用が掛かりクラウドファンディングまで企画している。規模に雲泥の差はあるけれど、樹下美術館も決して楽ではない。12代御当主にはその点でもシンパシーを覚える。

昨日日曜日、長野県は須坂市の茶会に。

2024年6月3日(月曜日)

昨日2日、日曜日は上越市のフカミ美術さんが主催する長野県須坂市の「緑陰茶会」に出かけた。隣県とはいえ須坂までは車で一時間半ほどで到着する。通過するばかりだった同市を訪ねるのは初めて。他県となれば大旅行の気分で雨降りのなか妻を乗せて車を走らせた。

ナビを頼りに最後にリンゴ畑を抜けて古い通りが残る須坂市に着いた。

城下町須坂市の
会場界隈。

会場は浄土真宗本願寺派普願寺で濃茶席、田中本家博物館で薄茶だった。両場所は隣接し同市の風致地区を形成している。
予定の時間まで博物館の展示室を回った。展示作品については後日掲載させてください。


さて田中本家の12代ご当主、田中宏和氏とは今年3月、「お話と茶会」の催事で講演された折お会いしていた。その後お手紙まで頂戴し、このたび小島正芳氏近書「良寛の生涯と芸術」を持参し、会場入り口でお待ちくださった氏と再会を喜んだ。

最初は濃茶だった。

格調と清々しさの参道を歩く。

左右に台杉がある門をくぐって
会場へ。

 濃茶の席主は裏千家折井宗智先生。
市松模様にあしらわれた紫檀の風炉先屏風と点前座のしつらえ。特に目を惹いたのが座瓢釜だった。普通なら上下二段に膨らむ瓢だが、この釜は下段が大きく平たに張っている。鐶付きが無く代わりに大きな取り手が付いていた。大西浄林作で大胆な意匠に驚き、他で二度と見ることがないだろうと思った。
全体が黒い色合いの点前座の中で赤く映える了入の水指の調和がとても良かった。

糸巻きの蓋置きはじめ丹波肩衝(かたつき)の茶入れはじめ拝見のお道具はみな独自の存在感があった。光沢ある美味しいお茶だった。

続けて裏千家小布施宗節先生の薄茶席。お席は立礼で行われ、艶やかなお道具類で美味しいお薄を服した。

琵琶の蒔絵の大棗と
坐忘斎宗匠の茶杓。

紫紺交趾(こうち)袋形の水指。

 鶴首の花入れは籠。葉を伸ばし始めた矢筈薄と夏蝋梅が清々しかった。

不慣れな信州の地。私は少し離れた所へ行くと外国に来ているような気持になる。だた見知らぬ方々と一緒に座れば一座建立。心づくしのお道具を愛でながら美味しいお菓子を食べお茶を服せば文字通り一期一会の心地が漂うのである。帰り際長野の方で樹下美術館へ行った事がある、あまつさえ茶会に座ったと仰る方とお会いし嬉しかった。

お薄では正客の指名を受けた。あれを聞けば良かった、これを尋ねれば良かったということに終始し、恥ずかしかった。

次回は田中本家博物館の展示などに触れさせて下さい。

6月1日 夏は来ぬ 上品な世界。

2024年6月1日(土曜日)

本日6月1日、よく晴れて夏が始まる。殆どの年にこの日、卯の花の写真を掲げ「夏はきぬ」の動画を掲載してきた。本日また小生の大叔父・小山作之助作曲の「夏は来ぬ」を掲載させていただいた。

美術館付近の高速道路ののり面に
咲く卯の花。

本日花に取り付いていたクマバチ。


下のホトトギスの鳴き声と一緒に
曲をお聴きになってみてください。

後日追加です、爽やかな「夏は来ぬ」がありました。

明治期、斬新な作之助の曲調と対比的な佐々木信綱による大和調の詩もまた素晴らしい。数日前、ホトトギスが遠くでキョキョと鳴くのを聞いた。
果てしない世界で花や鳥、そして人や蛍もまた共に季節を揃えながら移ろって行く。ある面世界は洗練されている。

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