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先週末の新潟市秋葉区訪問その1 フラワーランド、新潟市新津美術館。

2024年3月4日(月曜日)

昨日日曜日、新潟市は秋葉区金津へ行った。同区の新潟市新津美術館を訪ねること、隣接するフラワーランドと向かいの県立植物園が目的だった。

かなり遠距離なので出来るだけ高速道路が良いのだが、ナビは予想に反しずっと手前の燕・三条インターで下りるように指示した。しかし過去の秋葉区行きに従い、距離は長くなるようだったが磐越道を走った。

懸案の三施設は丘陵地の入り口でお互いが隣り合うようにあり、私は初めての訪問だった。
近い順からまず花の街、秋葉区の新津フラワーランドに入った。

新潟県最大を自称する大きな施設。

沢山あった雪割草、1万円前後の高価なものが揃っていたが自分たちは千円ほどの3点を選んだ。それでもきれいなものがあった。

 驚くほど大きな実をつけたヤブコウジ。
見るだけにした。

黄色が美しい花が多く付いたクリスマスローズを2鉢と樹下美術館駐車場脇に植える予定で白梅の苗木1本を求めた。冷たい雨降りにも拘わらず館内は鮮やかな花々と人で賑やかだった。

続いてお隣の新潟市新津美術館へ、傘を差せないほど強風の空。

スケールの大きさに圧倒される。
一階のアトリウムは白色大理石の
造形的な階段だった。

 同館では「笹岡了一と新潟光風会の作家たち」展が1/20(土)~3/10(日)の間、開催されている。
以下いずれも展示されていた笹岡了一作品のごく一部です。撮影OKでした。

「習作」(左)1931年と少女の習作(右)
優れたデッサン力は生来の賜物では
ないだろうか。

タイトルを見損ねた戦地のひとこま。
従軍した者でなければ描けない
転戦の合間に訪れた時間。
優れた構図の大作だった。

「纏足」
1946年 116,7×91,0㎝

「丘の村(ESPEJO」
1982年

笹岡了一氏は1907年(明治40年)生まれ。早く画業に勤しみ20才から38才まで繰り返し応召、頻回の戦場体験は生涯深く作品に反映されていると感じた。
氏は精力的な発表の傍ら日展審査員、日本美術家連盟委員を歴任、新聞小説ほか挿絵、美術書で活躍、他方後進と地域貢献に注力され、光風会館建設を主導されている。

79才の没年には600名が参列する流山市の合同葬が行われ、夫人によって163点の作品が新津市に寄贈され同館の中核である笹岡作品の礎になりました。

本日はこの辺でお終いにし.て次回新潟県立植物園を記載する予定です。
昨夜から今朝に掛けて雪が降り当地周辺では5~15センチは積もって除雪車が出ました。

文中誤記多く申し分けありません、視力が落ちていて近々受診を予定しています。

小学校の地域学習をされたKさんから。

2024年3月2日(土曜日)

先日大潟区土底浜のKさんが小学校の地域学習で大潟と棟方志功についてお話された。その折樹下美術館収蔵の棟方作品「米大舟頌」をお貸ししました。昨日無事終わりました、と返しにこられました。

一緒に頂いた当日の資料は1.棟方志功の紹介、2.昭和35年に大潟町小学校文化祭で棟方志功版業展が開催されたこと、3.郷土の芸能「米大舟」を見るため昭和25年大潟町渋柿浜「専念寺」さんに泊まられたこと、4.専念寺で志功が米山の絵を描いたこと、5.海岸を地域のファンと散歩したこと、6.志功が海岸を走り、同行していた写真家濱谷浩氏がその姿を撮影したこと、6.戦後大潟町土底浜に直木賞作家小山いと子さんが疎開されていて、棟方が表紙を担当していたこと、など分かりやすく図入りで作成されていました。

掛け軸の「米大舟頌」

頂いた資料によると、米大舟頌が掲載されている東方出版の書物には“昭和34年ニューヨークのロックフェラー財団に招かれた際この作品を名刺代わりに使用した”旨書かれていました。
なお大潟海岸を走る志功の写真は、青森市の棟方志功記念館入り口に掲げられているということです。

丁寧なK氏は御礼と言って風呂敷を下さいました。風呂敷は、「棟方志功作 龍胆(りんどう)柵 版画風呂敷 光徳寺」と書かれた箱に収められていました。

箱の外観。

大きくて丈夫そうな風呂敷。

棟方志功は先の大戦で昭和20年から26年まで足かけ7年、東京を離れ富山県福光町(現南栃市)の光徳寺へ疎開しています。躅飛山(ちょくひさん)高徳寺とその地を気に入り小庵「鯉雨画齋りうがさい」を建てて居住し、福光時代と呼ばれる貴重な期間を過ごしました。

風呂敷にはお気に入りの桑山と光徳寺が描かれ和歌がしたためられていました。

桑山も躅飛の院も秋ならむその裾やまの龍胆(りんどう)咲けるや

この和歌は「桑山も」の題で歌になり南砺市で歌われているようです。

それにしても昭和35年、大潟町小学校文化祭に棟方志功展が催され、22点の版画、4点のヤマト絵、3点の色紙、6点のふすま絵と屏風絵ほか書籍、色紙や手紙類など多数が出品されたことに驚かされます。大潟から直江津にかけて熱心なファンが大勢おられ、昔の方が地域に豊かな文化があったと言われれば今や一言も無く、何か申し訳ない気がします。

一方学校で懸命に児童に地域の話をされるKさんに頭が下がります。

さて話変わって食べ物です。以前から肉無しニンニク無しの餃子をネットで探していました。すると先日見つかって注文。昨夜早速頂きました。このような餃子は昭和30年代に母がよく造り、未だにそれ以上の餃子は無いと思っている次第です。

素朴で美味しかった餃子。
台湾産でした。
少々焼き過ぎでした。

髙松の讃岐うどんもそうでしたが、美味しさの要素に「素朴」が挙げられないでしょうか。“体に馴染む美味しさ”という感じですが、如何でしょう。

去る22日(木)および23日(金)の梅見物 その2熱海梅園と澤田政廣記念美術館。

2024年2月26日(月曜日)

去る22,23日は強い寒波の中、雨降りの小旅行。電車以外の現地移動はタクシー、そのほかは寒い中を歩いた。せっかくなので文句も言わず各所を巡った。
本日は前回に続き2日目の午前で、熱海梅園とそこに接する澤田政廣(せいこう)記念美術館へ寄った。

澤田政廣は文化勲章を受章された人で、氏の晩年になる爽やかな仏像が展示されている我が糸魚川市の「谷村美術館」が浮かぶ。館内には彫刻のほか絵画や書が展示され、鮮やかな色彩と素早い動的なスケッチに目を奪われる。建物は糸魚川の方が早く、ここの全体には谷村美術館の外観と内部構造に類似した雰囲気が感じられた。
庭の展示は谷村美術館にないもので、雪の有無の違いが現れたのかと考えられ、楽しく印象的な美術館だった。

美術館前の「海の讃歌」S38年。

庭の「黄泉のしこめ」S31年。
逃走と生成の神話的なイメージ。

館内、「あたみニュース」から。
「人魚」昭和44年。

 

外壁から見える「ともしび」昭和21年。
戦争直後の慎ましさが伝わる。

外観は中央アジアの砂漠に現れる
構造物のイメージ。
谷村美術館を研究したようだ。

何度訪ねたかもう覚えていないが春になったら谷村美術館を訪ねたい。何度でも行きたい美術館だと思う。

さて澤田記念美術館を出るとすぐ熱海梅園(むしろ梅園内にある)。かなり急な川に沿った谷間があてられ、滝や橋が景観よく配置されている。お天気が良ければいっそう清々しかったに違い無い。

ヒヨドリがウロを覗き、傍らに
クリスマスローズが咲いていた。

梅はほぼ盛りを過ぎていた。寒いため売店で温かなお汁粉をた飲んだ。これだけ寒ければ余計思い出に残ろう。

昼に熱海を発ってJR東海道線でほぼ1時間大船へ。横須賀線に乗り換えて隣駅が鎌倉だった。
鎌倉の梅めぐりは次回予定させて下さい。

本日こちらは風が吹いて荒れ模様、関東一円のあの寒さはどうなったのでしょう。

去る22日(木)および23日(金)の梅見物 その1都内と熱海 懐かしくも嬉しいTVの浅田彰氏。

2024年2月24日(土曜日)

この4,5年の間に京都・奈良および鎌倉へ旅行した。その都度訪れた方々の社寺で梅の木を見た。特に2019年12月の鎌倉でそれに気づき、翌2020年2月に鎌倉を再訪し梅を観ようと宿泊・交通の予約も済ませた。ところが運悪く予定を見計らったようにコロナ禍が始まり旅行は中止となり4年が過ぎた。

一方木曜を休診にして一年、このたび金曜日が天皇誕生日だったので2月22,23日は連休となり、熱海で1泊、東京、熱海、鎌倉で社寺、梅園など梅の名所とされる場所を巡り、ほかに二つの美術館を訪ねた。ただ両日とも各地で気温が下がり行った先々は大変寒かった。

22日午前上越妙高駅を発って10過ぎに上野へ、そこから湯島天神と亀戸天神社を訪ねた。今冬は温かく、花期の長い梅とはいえ盛りが過ぎ、花は遅咲き中心の観梅だった。それでも両神社の花は風情良く周囲と調和し、冷たい小雨のなか飽かず眺め歩いた。

上野駅の千葉県フェア。
特に房総は花の産地、
明るい春の花が一杯。

構内の花屋さんも春が香っている。

当日最初の湯島天神は4年前の年末以来。随所の合格祈願の絵馬の棚はぱんぱんに膨らむほど。

文京区の湯島天神から江東区の亀戸天神社へ。以下の亀戸天神は初めてだった。
遅咲きの梅が見頃。

赤い太鼓橋が印象的な神社。
藤も有名らしく是非観たいと思った。

カメラと傘で手がかじかむ。例によって昼食を端折り13時ころの東海道新幹線で東京駅から熱海へ向かった。1時間45分ほどで熱海に着く。熱海は一度だけ学生時代に海岸を歩いたことがあった。このたび駅周辺のあまりの混雑に驚いた。見た目若い世代が特に目立っていた。移動はタクシーで行ったが運転手さんは、若い人達はほとんど日帰りだと仰った。

皆さんに勧められたMAO美術館へ駅から直行した。もう何十年も前の開館なのに初めての訪問、しかし大勢の来館者を集めている。黄色や青の大きなトンネル内のエスカレーターを乗り継いで美術館エリアへ上った。これだけで他で味わえない巨大な空間と色彩が楽しめた。

大きな万華鏡ドームに到着。
ここから美術館の通路へ。

秀吉公の黄金茶室の
忠実な再現と茶道具の階具。
ここで茶を飲むとはどうしてもピンとこない。

野々村仁清の国宝「色絵藤花文茶壺」

尾形光琳の国宝「紅白梅図屏風」

 

 

聖観音(上)と如来(下)

多くの寺院で本尊や諸仏が秘されるが、当美術館のように明るく公開されかつ撮影が出来るのは夢のようだ。

佐藤玄々「猫」。
佐藤氏は日本橋三越の巨大な天女像の作者。

当作品の台に影が無く、極めてこまやかな照明が施されている。猫はエジプト彫刻のパステド神を思わせ、柔軟で敏捷な気配を漂わせていた。

前田正博作「色絵銀彩角鉢}
当館に同氏の抹茶茶碗が二碗ある。
氏の作品が展示されていて喜んだ。

朝方の当地より東京や熱海の方が寒かった。そんな日に梅を観てああ日本人だなあと思い、MAO美術館を観て創設者の凄さに驚いた。

この晩入浴後、妻がBSで浅田彰が出ている番組を観ていて驚いた。もう一人のゲストは先崎彰容(せんざきあきなか)氏で番組はBSフジの「プライムニュース」だった。
論題は現代の戦争、原理主義、グローバル資本主義、格差、分断などが論点だった。一応左右の論客である両氏の説諭は思慮深く、激しい論争や制止、中断も無く相互に十分な発言が保証された良い番組だった。
ネット時代の初め頃、方法としての二進法原理がより深く社会に浸透し、世論も単純かつ二分化を強めるのではないかと危惧した。案の定、社会は複雑な理解を要とする中間的立場や中庸を許さない傾向を強め、思考、思想の単純、幼弱化と分断に落ちていくのを自分なりに心配していた。

番組の最後に二人は今後日本の処方箋は?と問われた。
浅田氏は「処方なし」とボードに書き、“良いといわれる薬はニセ薬が多い。今後もみな苦しみながら生きる”と追加した。
先崎氏は「寛容」と一言ボードに書いた。

昭和50年代、辛さが続いたころ、浅田彰や柄谷行人などの本に拓けた頭脳と思考にまぶしさを覚え、繰り返し読んだ。当日のTVから浅田氏が随分分かり易くなっていることが伝わり嬉しく思い、一方で沈着なポジションが一貫されているのを知り立派な事と心打たれた。

また「右」と自ら述べられた先崎氏も広い足許に立たれ、談中この先大切なのは「理念」jと指摘されて共感した。最後の「寛容」は高校時代の恩師渡辺フミ先生が繰り返し説かれた二文字で、これを右寄りの人が言及されるのを聞き、日本はまだ希望を持てるかもしれないと思った。

番組を視聴していた妻に感謝だった。

次回は23日午前の熱海梅園と澤田政廣記念美術館を記す予定です。

温かな週末 連日雪囲い外し バッハのアリア。

2024年2月18日(日曜日)

二日続きの好天。朝は寒かったが上越市髙田の最高気温が19,5にまで上がり上っ張りいらずだった。

 

様々な飛行機雲が見えた。

昨日庭の囲いを外したが、本日の空をみて午後から続きをやろうという事になった。

再度私が囲い縄を切り竹を抜き、家内が結び目を切り取る手順。

カラカラ、ガラガラと乾いた竹の音が庭に響いた。後に妻はクリスマスローズの葉を切り落とし、私は芝生でゴルフボールを打った。

夕刻の四ツ屋浜。

陽は少しずつ北に移動している。その方向に能登半島があるはず。本日皆さんはどう過ごされただろう。


1995年1月24日NHK交響楽団定期演奏会、
阪神淡路大震災への追悼演奏
「バッハのアリア」。


2024年1月9日小澤征爾さんへの追悼演奏
ボストン交響楽団による
「バッハのアリア」

本日の三和区行き 小澤征爾さんが亡くなられて。

2024年2月10日(土曜日)

本来ならば本日は晴天となり、遠くへ行かなくても妙高山がきれいに見える三和区へ行くつもりだった。ところがまあまあの空だったが妙高山は雲に隠れたまま。それでも運が良ければ山は見えるかもと期待して出かけた。

本日はもうひとつ、一昨年まで仕事でお世話になった三和区のAさんに急遽お会いして、お目当てのカフェ「喫茶去」と近くの山高津の池へご一緒することになっていた。伺うと思いもかけず「上がって」というお言葉でお茶をご馳走になった。

手入れをされた旧家の風情が漂うお宅。周囲の水田、遠くの杉木立。小学一年生のころ一度だけ訪ねた清里区にあった親戚の家を思い出した。あるいは満州からの引き揚げで、フラフラになってたどり着いた佐賀県の母の実家の安堵が蘇るのか、山が見える田舎の集落の家には一種思慕のようなものを覚える。

お茶を頂きながら昔話や土地のことなどお話しして喫茶去と山高津の池へ向かった。

いっとき日射しに映えた
三和区の赤い屋根。

このたびで五回目の「喫茶去」。
いずれも晩秋か冬なのが不思議。

結局妙高山は姿を現さなかった。カフェで美味しい茶を飲みながらAさんと妻は女子校の同窓であること、共通の知人が何人もいることなど思わぬ縁に驚かされた。

本日妙高山の雪景色が撮れればヴィヴァルディの「四季 冬」の第1楽章を掲載する予定も叶わなかった。

さてさる6日、偉大な小澤征爾さんが死去された。私は2回しか氏のコンサートを聴いていません。しかし周囲には年に複数回聴きに行かれる方や氏とのツーショット写真をお持ちの人もおられ、とても羨ましかった。


チャイコフスキー「弦楽セレナーデ第1楽章」
アカデミー -スイス-によるサプライズアンコール曲。
美しい音階と和声、若者育成への情熱が伝わる。

そんな私だが小澤征爾さんと唯一わずかな共通点がある。氏は1935年満州国奉天市生まれ、不肖私も7年後同じ奉天市で生まれた。どこか心の片隅でそのことに恥じないように、出来れば誇りにしなければと、思い直している次第です。

表現と愛着。

2024年2月7日(水曜日)

本日も雪模様。積もることは無かったがびしゃびしゃ水っぽい雪が降ったり止んだりしました。
何度も書きましたが毎水曜日は特養の回診日。早めに終了したため、また冬鳥、特にハクガンの探鳥に辺りを走りました。

何カ所か見当をつけた場所はいずれも外れ、一羽のハクチョウも雁も、当然ハクガンも見ませんでした。こんなことは珍しいですし数日降った雪が鳥たちをどこかへ追いやってしまったのでしょうか。

柿崎からの米山。
いっとき雲が切れました。

外出時はなにがしかのカメラを持参し、面白そうなチャンスがあればレンズを向けます。本日は天気が悪く肝心な風景も今一でした。

当地は特別風光明媚な観光地はないので見た目良い写真を撮るのは簡単ではありません。それでも自然や雲など季節ごとの情景や電車あるいは花鳥を写すことで満足している次第です。
本当は妙高山が近くに見える地域であればなあと思っていますが簡単な事ではありません。

ところで地域の景観の美しさは、そこで生まれ育った人であれば他をあまり知らなくても、ここは素晴らしいと自覚するのではないでしょうか。
さらに世界的に風光明媚な所の人が自ずと「ここは世界一」だと考えるのはそう外れていないのも不思議な事です。

私の場合は特別な場所ではないのですが、愛着というのでしょうか、微妙なことですが何かしら心に響く光景や風光に出会えれば撮ってみているだけ。たまたま当たりのようなことがあれば、いつか又と単純に期待してレンズを向けるという風です。


ヴィヴァルディの四季から
「冬」。本日は第2楽章です。

最後に一つ、もし風光明媚な所へ行って撮ったとしても、どこか平板で心こもらないものばかりだったという経験も不思議といえば不思議なことです。表現の場合、何かに付け愛着というようなものは大切な要素の一つかもしれません。

今後行ってみたい所は東北の名山が見える里のような所で、その次は山陰で、果たしてどんなでしょうか。

正月旅行の最終日、聖僧良寛が修行した備中玉島円通寺。

2024年1月22日(月曜日)

備中(岡山県)倉敷市の西南端である玉島は北前船で大いに栄えた商都です。瀬戸内海を望む玉島の高地に正月旅行の最終地、曹洞宗円通寺がありました。
江戸後期、我が越後の人良寛(以後良寛さん)は、生地出雲崎で巡り会った円通寺の高僧国仙和尚に付いてはるばる玉島まで旅し和尚のもとに入門、
22才から11年間にわたり禅の修行をしました。

国民宿舎「良寛荘
団体さんで賑わっていました。

タクシーで坂道を上り良寛荘に到着すると、地域振興と良寛顕彰に熱心に取り組まれる葛間さんと早川さんのお二人に迎えて頂きました。

良寛荘を出て見た瀬戸内海。良寛さんの当時、海岸線はもっと手前まで接近していたそうで、埋め立ても無く眺めはさらに絶景だったに違いありません。

円通寺境内には老いて樹勢が衰えつつある「良寛椿」と呼ばれる白椿の古木があります。良寛さんの修行時代からあるといわれ、現在それを挿し木などで増やし、上掲の場所で「良寛椿の杜」を目指して植樹されていました。

山門にて。

円通寺の山号は補陀洛山(ふだらくさん:観音様の降りてこられる場所の意味)です。寺院があるのは白華山という山の中腹で参道は少々急な山道でした。

国仙和尚に従って参道を上る図。
右下に師と良寛が描かれています。

参道途中、納骨堂である覚樹庵の前に太い幹の良寛椿。白椿だそうですが、これだけ太く大きな木が椿とは。しばらく前から花が途絶え、関係者の努力で僅かながら開花をみるようになったそうです。現在新たに採った苗は前述の「良寛椿の杜」で熱心な植樹に用いられています。

竹林の脇を通る最後の坂道。

円通寺の竹林のことは、禅のシンボルの一つとして良寛研究家の小島正芳先生からかねて伺っていました。

 

創建当時のままの端整が維持されている壮大な茅葺きの本堂は倉敷市の指定重要文化財。良寛堂への角に良寛像が安置されていました。

 

かって修行僧が居住した庵。
現在良寛堂と呼ばれています。

良寛さんが杖と共に
国仙和尚から印可の偈を
附与された高方丈南間。

1790年(寛政2年)良寛さん33才の時、この部屋で修行の終了を宣言する印可の偈を国仙和尚から与えられました。聖僧良寛の誕生です。偈とともに頂いた杖を頼りに世俗に飛び込む新たな修行が始まりました。

仁保哲明ご住職から
お話を聞いた一室。

ご住職には貴重なお時間を割いて頂きました。静かな自然体が滲むお人柄で、いっときでしたが修行をさせて頂いた気持ちがしました。

若き良寛像。
新潟県内で見る彫像より
ずっと若く溌剌としている。

高方丈から見た巨大な
花崗岩の石庭「千畳岩」。

高く続く石庭。

良寛さんを偲んだ
種田山頭火の句碑。

     岩のよろしさも良寛さまの思いで

昭和11年、円通寺を訪ねた山頭火。石庭で修行に勤しむ良寛さんを偲んで詠んでいます。

さてもっともっとと思いましたが時間が迫り泣く泣く円通寺を後にすることになりました。帰路は「新倉敷駅」まで早川さんが車を出して下さいました。途中の市内で越後長岡藩の名家老河井継之助の若き日の足跡を案内してもらいました。

河井継之助逗留地の碑。
倉敷ロータリークラブなど
によって建立されている。

河井継之助は1859年(安政6年)、当時借金に苦しみ続けた備中松山藩を劇的に再興させた漢学者山田方谷の門下として学ぶべく隣接する港町玉島へ上陸しています。児島屋はその時に逗留した船宿ということでした。

さて正月旅行の最終地、備中玉島円通寺の見聞を終了する時間となりました。私の準備不足で新倉敷-玉島の交通を、倉敷-玉島にしたため滞在時間を短縮せざるを得なくなりました。
にも拘わらず、早川、葛間両氏と仁保ご住職には大変手厚くして頂き感謝に堪えません。また旅行に先立ち、円通寺でお世話になったお三人に連絡をして頂いた全国良寛会会長、良寛研究家・小島正芳先生に深く御礼申し上げます。

話変わりますが40年前、自分には少々悩み多き時代がありました。なんとか越えなければと色々本を読んだり考えたりしましたが、畏れ多くも良寛さんには幻のように手を差し伸べてもらった気がしています。

当時、もしもこの目で見ることが出来るなら、次の三人を見たいと思っていました。
一人は良寛さんの少し前の時代、1818年生まれの我が高祖父玄作で、火鉢に手を焙りながら来客と話すのをすぐそばで。もう一人はイエス・キリストで、使徒を連れ荒野を歩くのを遠くから。最後は夕暮れの山裾の村を一人帰る良寛さんを遠くから、でした。

このたび円通寺から見た瀬戸内の冬陽は春のように明るく海は軽やかな青色でした。どんより重く暗い日本海との違いに師はどんなに驚いた事でしょう。険しい石庭もありました。ここで思いっきり修行しよう。若き良寛さんは勇んで意を決したにちがいありません。

悟り、強靱な足腰、師の教えと杖。印可の偈(いんかのげ)を授かった後、これらをを拠り所に、いずれ帰りたい越後を胸に仕舞い長い旅路に就いた良寛さんの円通寺。深い感慨をもって正月旅行の最終地玉島を後にしました。

後日早川さんから届いた良寛椿の苗。とても楽しみです。失敗する人もいるようですが、是非ともちゃんと育てたい。

御地倉敷市はじめ玉島および円通寺は諸行事、記念碑および像の建造、椿の杜づくりなど良寛さん顕彰の熱心さがとても良く伝わりました。古来豊かな商都であり茶の湯が盛んで戦後早くから「良寛茶会」も催されているとも聞きました。

晴れの国と雪国の妙、北前船の寄港地同士。良寛さんが繋いだ岡山県と新潟県は良縁にちがいありません。

さて以上、正月の拙い旅行記は長くなりました。一方で年明け早々の大地震。大災害は日が経つに連れ新たな問題が深刻化しています。
政治は各自懐にしたパーティー券代をまとめ、一刻も早く被災地へ届けたらどうでしょう。政治改革とはこのようなことから始まるのではないでしょうか。

1月3日の倉敷と直島。

2024年1月18日(木曜日)

前回記載の1月2日午後の大原美術館は15時閉館ということで観ることが出来ず、翌3日に回され予定に少々の詰まりが生じた。
3日午前に同館を観終わり12時には宇野港へ行き直島を目指す予定となった。

大原美術館の創始者・実業家大原孫三郎は、孤児院の運営に粉骨するプロスタントの篤志家を知り、自らもプロテスタントとなり文化の社会貢献を目指して昭和5年、日本初の大規模な私立西洋美術館を設立した。

前夜2日夜の大原美術館。

本館入り口左に
ロダンの「カレーの市民」
勇敢な人々の像は50年前も
ここにあった気がする。

同じ作家でも作品は様々にランクを生じる。大原美術館は主に孫三郎が支援した画家児島虎次郎がパリを中心に各地で懸命に収集。作品は作家の名ではなく完成度によって真摯に集められている。

このたび広大な展示場の館内でエル・グレコの暗色効果を生かした劇的な「受胎告知」から中心部の白が目を引くアンリ・ルソー、眩しいシニャック、ルノワールの若く幸福な裸婦、私には珍しく重厚なマティス、さらにムンクにロートレック、ルオー、モネ、ピサロ、ゴーギャンほか淀みなく並ぶ近代西洋画の代表作を観た。みな懐かしく、倉石隆が憧れたパウル・クレーも良かった。

日本人が描いたこの国の人々の深い味わいに一段と思いを新たにし、突然現れた松本俊介の青い人物も嬉しかった。

図録「大原美術館+作品と建築」
の見開き小出楢重「Nの家族」。

民藝の不動の人々、河井寛次郎、濱田庄司、富本憲吉、バーナード・リーチ、棟方志功、芹沢圭介のあまた一級品をを咀嚼するように堪能した

絵画では開館した昭和初期、日本で西洋名画の実物を目にする機会は乏しく、収集品は日本洋画壇の向上に貴重な役割を果たしたという。

50年ぶりとなる広大な館内を、まさにおぼろげな記憶とともに歩きながら、これは見納め、拙い自分のなにがしかの責任の一端を今果たしているという気がして安堵を覚えた。

米倉を用いた民藝・東洋館。
染織家芹沢圭介の紅型に
ちなみ独特の赤色をしている。

さて大原美術館の後は直島へ急がなければならない。宇野港からフェリー。しかし電車による岡山経由の行程は宇野港を頂点に岡山と倉敷が底辺となり三角形を構成していて相当不効率に思われた。時間を考慮し最終的にタクシーを依頼し宇野への直行を図った。

一帯に詳しい地元のタクシー運転手さん。運賃は掛かったが妻と二人で昼食を抜けば少しは足しになる。道中先々の話を聞きながら走った。現れては消える倉敷川を観て倉敷が物流の一大中心地だったことを納得した。

農海産物、繊維の運搬に
陸と海を繋いだ倉敷川。

道中で見た道の駅風な施設。

野を越え山越えて宇野港へ到着した。

港の広場を挟んで山側の眺め。
異国へ来たような景観。

乗船する「せと」丸。正面が直島。

直島までの時間。
多くがデッキに出て過ごす。

宇野から目と鼻の先、直島宮浦港まではわずか20分だった。

宮浦埠頭に
草間彌生さんの赤いかぼちゃ。
一斉にこどもたちが走った。

直島のアート巡りは施設と野外がある。施設のほとんどは予約制で迂闊にも私達はそれをしていなかった。残念だったが野外作品を主に観で回る事にして一台だけあったタクシーに乗り込んだ。

小さな船着き場に設置された黄色いカボチャで写真を撮るのにしばしば数十人待ちになるらしい。私達の時は誰もおらず後から混んできた。

大声のフランス語が飛び交い映画の中にいるようだった。

細い坂道を上ったり下りたり、写真を撮ったり、島の歴史と現状を聞きながら回った、精錬から文化の島へ痛々しさの克服。今日までの長い努力を思わない訳には行かなかった。

家プロジェクト地区にあった「ANDO MUSEUM」。予約無しで入館できる貴重な場所。しかし、ちょうど昼休みで入れなかった。

午後次第に崩れる天気。
ポツポツ始まるころ
高松へ向けて出航した。

直島の主だった宿泊や展示施設には(株)ベネッセの関わりが大きい。室内展示で是非観たい場所や作品があり予約をせず未練を残した。だが彌生さんの二つのカボチャほか楽しい作品に触れて満足して高松へ向かった。
高松までおよそ一時間、海路で見る瀬戸内の島々は想像以上に大きくて驚いた。

1月2日午後の倉敷で。

2024年1月15日(月曜日)

1月1日午前上越妙高駅出発、京都から始まった3泊4日の正月旅行。道中ところどころ準備不足が露呈することになったが、それはそれ、旅は「出かけることに意義あり」として回ってきた。

さて岡山駅で新幹線から山陽本線に乗り換えた。駅構内の多くの電車と人の賑わい、垣間見る一帯の景観から活気ある都会だと感じた。第一山陽本線と聞くだけで旅情がつのった。

岡山駅通路で。
14時過ぎ

倉敷駅に着く。
14:30頃

予約した倉敷国際ホテルは大規模ではないが館内に美術品があしらわれたシックな宿だった。

2階壁面に巨大な棟方志功作品
が飾られたホール。

階段踊り場に展示された真田紐(さなだひも)によるタペストリー。繊維の町倉敷にふさわしく良い感じ。

別の踊り場にガレナ釉によるスリップウエアのピッチャー(舩木研兒作)。明るさと民藝風素朴さが魅力。

宿で荷をほどき近くの大原美術館へ向かった。明日も来るが一時間は見られるだろうと踏んで出かけたが15時で終了という看板が。翌日メインとして辺りを散策した。

美術館通りの賑わい
この時殆どが若い層だった。

50年前に来たときも水路に白鳥(コブハクチョウ)がいたと思う。今でも人気。

賑やかな道を歩いているとすぐ近くでチッ、チッ、とエナガの小さく鋭い鳴き声が聞こえた。

カラタチ?の垣根に来ていたエナガのお腹。倉敷では人通りの多いこんな街中にいるのかと驚いた。

 

 

大原美術館のある美観地区は外国人も多かった。何でも珍しい私達も外国人のようなもの。

一度宿に戻り休憩し、人通りが少なくなった夕暮れの界隈を歩いた。

暮れた界隈。

通りにはジーンズや服飾品を商う店が多いのも倉敷らしい。作家ものの工芸品の店などを眺め予め見つけておいた所で夕食を摂った。

交通規制されているらしい美観地区、
籠付きバイクは重宝にちがいない。

さて1月2日午後に到着した倉敷一日目はここで終了にします。色々書きましたが正月の旅はちょうど半分が終わりました。
大原美術館は明3日午前に伺うことにしました。そして昼には宇部港へ行き、アートの島、直島へフェリーで渡る予定です。
岡山経由宇部までの経路は遠回りを否めず、バス、タクシーを入れる案などホテルスタッフと相談をしましたが、結論に到りませんでした。

昨日に続いて宿で見るテレビは能登の惨状を伝えていました。

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