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11月3日(日曜日)の講演会「良寛さんに学ぶ」のお知らせ。

2024年9月20日(金曜日)

本日も蒸し暑い日でした。しかしいくら温暖化と言っても爽やかな秋はちゃんと待っているに違いありません。

今秋11月3日(日曜日)午後2時半から、樹下美術館では良寛研究家、全国良寛会会長の小島正芳先生による講演会があります。先生にはこれまで2020 年以来毎年ご講演頂き、好評を博しました。

今年のテーマ「良寛さんに学ぶ」です。

           

開催日:2024年11月3日(日曜日)
時間と場所:14時開場、14:30開演 樹下美術館
参加費:大人お一人300円

【良寛】   
新潟県出雲崎の名家に生まれ、親子代々地域の争いに翻弄されて出家。巡り合わせた名僧国仙和尚に従い岡山県玉島円通寺で長年の修行を貫徹しました。修行中、修行後も各地へ乞食行脚を続け、京都における父の入水を機会に帰郷。越後は国上山の五合庵で草庵を結び、草花や雲の如く自然に身を任せて生きました。
高い教養と世俗に捕らわれない境地の詩歌は多くの人を魅了し上品で独自の書は現代でも絶大な人気があります

【講師のプロフィーイル】
昭和26年新潟市秋葉区まれ。

新潟大学教育学部書道科卒。良寛研究を志す。
県立新潟高等学校、新潟県立文書館、新潟県立新発田高等学校などに勤務、平成24年3月新潟県立三条高等学校校長を最後に定年退職。
令和2年(2020年)全国良寛会会長に就任。多くの良寛書を執筆し全国各地で講演をされる。

他者の側に立って思い、自らの困難と孤独を越えて生きた聖僧良寛。今日ともすれば冷たく分断されそうな社会を照らすひと筋の光になるのではないでしょうか。“学びの秋のひと時、どうか貴重な講演会においでください“

【お申し込み】
樹下美術館の窓口、または電話 025-530-4155で。

新潟市から小島正芳先生が来館されました。

2024年9月12日(木曜日)

本日上越市髙田の最高気温が31,2度、湿度68%でかなりの暑さでした。かって暑さに対して不快指数という言葉がよくアナウンスされました。
気温と湿度で計算される数式やグラフがあり、数値が80~85は「暑くて汗が出る」、85~は「暑くてたまらない」とあります。このページで仮に本日の最高気温31度、湿度68%を入れると指数が82,6と出て、これは汗が出て、かつ不快に近い数字のようです。

個人差や風の有無や強弱で不快には差がありそうなので指標はあまり用いられなくなったと考えられますが、そう外れている訳でも無さそうでした。それにしても髙田の最高気温が8時57分という早い時間とは変わった日だったと思いました。

さてそんな日のお昼近く新潟市から良寛研究家・全国良寛会会長さんの小島正芳先生が来館されました。
先生には平成20年秋のご講演以来、毎年お話をして頂きました。今年も来たる11月3日(日曜日)に講演会が行われることになっています。
本日は演題、時間など以下のように決めさせて頂きました。

日時:11月3日 午後2:30からおよそ1時間半(途中休憩あり)。
演題:「良寛さんに学ぶ」
参加費お一人300円
一応60名様ほどのご参加を予定しております。
お申し込みはお電話025-530-4155 でお待ちしております。

昨年のWBC野球選手権で日本チームは劇的な優勝を飾り、そのときの栗山監督から賢くて良い人柄の印象が広く伝わりました。栗山氏は良寛さんの言葉に習い、何事も選手の側に立って考え、行動したと述べられました。そのこともあり、小島先生は実際栗山監督とお話をされたそうです。
この度の講演ではそのエピソードも交え、良寛の精神に親しみ学んだ人々のお話が予定されています。どうか振るってご参加ください。

小島正芳先生

本日樹下美術館から見た
夕雲。

本日先生は雀を詠んだ以下のような良寛さんの俳句を紹介されました。

秋日和千羽雀の羽音かな

良寛さんの時代の秋には千羽と称されるほどの雀の群が実際にいたと思われます。当時は貧しかったかも知れませんが自然も人情も濃かったに違いありません。
便利にはなりましたが何かと諍い攻撃に傾く一方悩みも多い現代。良寛の利他と寛容の心は今こそ貴重ではないでしょうか。

高宮さんご夫婦の水彩画作品 昨日の夕焼 朝夕に幾分の涼しさ。

2024年9月1日(日曜日)

台風は風よりも水の害を残して消えたようだ。かって海辺で竜巻をみたことがあったが、陸地に上がるとほどけるように渦が消えた。台風といえどもその渦は陸地が苦手で、上陸すると少なくとも風は弱まる傾向があるのではないだろうか。
但し雨に関しては一旦形成された雨雲は衰えず、しばらく影響を及ぼすようだ。

本日は5日から始まる「透明水彩画 高宮あけみ展」に向けて届いている作品の確認と一部撮影をした。多摩美大出身のご主人・高宮正明さんによる手作りの額装が水彩画の親しさにマッチし感心させられています。

撮影した小品から。
額装はご主人。

この1週間の雨で庭の草は大いに伸びている。それで夕方雑草取りを始めるとキリがなくなり、かなり時間を費やした。草は取るだけきれいになるので始めると止まらない。しかし終えるとただ事では無いほど腰が痛かった。

終わって見た夕刻の空は日没後も赤く染まっていた。台風前後の空は時に劇的な色や形になる。

西頸城地方の夕焼け。

妙高連山。

本日陽光は強く残暑はきびしかった。それでもこのところ朝夕に幾分の涼しさを、水道に僅かながら冷たさを感じるようになった。

9月5日から「透明水彩 高宮あけみ展」 弱まる台風10号。

2024年8月30日(金曜日)

県内三条市で日本一を記録する37,5 ℃、当地上越市髙田は3位で37,2℃の厳しい残暑でした。

その本日、8月20日に続き、来たる9月5日(木曜日)から始まる企画展「透明水彩 高宮あけみ展」の作品紹介です。

「陽(中華街)」

「ベネチア ムラーノ島」

「ぬし」

「小春日和」

 「地下鉄にて」

作者の日常と旅を共にするような作品です。その時々一瞬止まっていた時間が、再び作品に蘇って現れる不思議な時空を感じます。
どうか初秋のひとときを爽やかな水彩画の世界でお楽しみ下さい。

さて台風10号の話題は風から雨のニュースに絞られ、勢いは弱まる気配です。気圧も当初930hpaもあったものがのろのろしている間に本日990台まで弱まりました。
“過去最大級”と言われた割りに早く衰弱し、一両日うちに熱帯低気圧に変わる様子、報道や発表は適切だったのか少し疑問が残ります。
しかしまだ関連する雨の被害が心配され、このような場合、東北や北海道で果物被害が出ることがあり、油断は出来ないようです。

過日9号の際、当地は局地的豪雨に見舞われました。水不足だった田畑や庭は恵みだったのですが、部分的に激しく降られた水田は稲が倒伏し、せっかく丹精し順調だったものがあと一歩のところで駄目になった方たちから話を聞きました。減反に悩まされ天候に追い打ちされる、、。頑張る農家さんを失望させずに済むことは出来ないものでしょうか。

週末の玉井力三展。

2024年8月26日(月曜日)

一昨日24日土曜日午後は上越市髙田の小林古径記念美術館へ行った。同館で好評開催中の「玉井力三 展」を観るためだった。
玉井力三:上越市柿崎区出身、明治41年(1908年)8月14日~昭和57年7月23日、享年74才の人。
後の太平洋美術学校に学び、終戦まで満州で制作、戦後まず月刊讀賣、ユーモア、オール讀物、少年讀賣などの表紙絵を担当。
昭和29年(1954年)、46才から長きに亘り小学館発行の学年雑誌を中心に他社の学年誌はじめ婦人雑誌、学習ノート、大人向け月刊誌など多数の表紙を描いた。小林古径記念美術館入り口の看板「玉井力三展」。

美術館で購入した書籍「玉井力三の世界」
から裏表紙。
初めて手がけた昭和29年四月号。
まだ表情はあっさりしていた。

本展覧会は氏が筆を執った小学館発行の学年誌からおびただしい表紙原画が展示され、ほかに一般の油彩作品もあった。表紙以外では美しい光の中の裸婦像が非常に魅力的だった。みな個人蔵と記してあったがどんな人が所有したのだろう。

表紙絵は自宅柿崎のアトリエで制作され、本人が作品を携えて上京。東京では次に備えて季節に相応しい状況が設定され、モデルの子ども達を配した丹念な撮影を行うという一連の周到な過程が繰り返されている。

作品は編集者から印刷所へ回されたが、付けられたメモが展示場内に掲示されていた。そこには、
○顔の色はなめらかに、健康色を出す。
○歯と白目部分を出来るだけ白く。
○運動着は純白に、但しシャドーは飛ばないよう。
○唇は赤すぎないよう。
○絵とまわりのイラストなどが全体に調和するよう。
○歯の間は原画どおりに。
などと玉井氏のこだわりが記され、特に肌の色(健康色)、歯と白目の白が強調されているのが目を惹いた。
赤い頬のほか、個人的にはくっきりした二重まぶた、明瞭なほうれい線、および笑顔でのぞく歯ぐきと舌は玉井の児童表紙絵の特徴として印象的だった。

季節ごとのテーマや万博、スポーツイベントなどがモデルの子どもとの関わりで取り上げられるが、読者は幸福な表紙に大いに元気づけられ、将来を夢見たにちがいない。
一貫した具象の商業画家、玉井力三。希な氏の業績はさらに評価、顕彰されるべきではないかと思った。

本日の米山。
昨日しっかり雨が降り、稲には
良いタイミングだったのでは。

富山県を訪ねてその2 ,先ず大和、遅まきながら富山美術館と運河。

2024年8月17日(土曜日)

さて8月12日分が長くなりました。本日は翌13の分です。
当日午前は開店早々の大和デパートへ。5年前もそうでしが富山市に来たらまず大和デパートでした。

懐かしや、
上越大和と似た外観。

1F
スーパーと違いデパートはきれいだ。

ギャラリーの彫金作品。
下地から浮いた
繊細な分岐模パターン。

新潟県の三店が閉鎖されて久しいが金沢市、富山市では構え良く営業されている。開店早々の店内を眺め美術部のギャラリーでモダンな彫金を観た。大和が健全なことは嬉しい。

続いて本日メインの富山県立「富山美術館」へ。炎天下で辻に立ってタクシーを待ったが中々来ない。近くに営業所はあるが人はいない。看板の電話番号に電話すると待っていて欲しいと言われた。待つ事しばし、現れた女性ドライバーさんのタクシーに乗ると、富山では流しのタクシーは無いのですかと尋ねてみた。
はい、人手不足もありますが、そもそも富山の人は普段よほどでないとタクシーに乗りません、という。富山の人は堅実なのだ。そもそも一帯はバス、ローカル電車、市電、私鉄など交通の便が良さそうである、、。聞いていて、すぐタクシーに乗りたがる自分たちを恥ずかしく思った。

さて富山美術館に着きました。

企画がいっぱい詰まった美術館。

先ず西洋画のコレクション展から。

ロートレック薄描きの油彩肖像作品。
安定のデッサン。

ピカソ「肘掛け椅子の女」
壮大な展開はやはり
デッサン確立から始まっている。

岡本太郎「赤兎」
とてもきれいだ。

若者が多い館内は頼もしい。

今期は「民藝MINNGEI-美は暮らしの中にある」」の特別展中。昨年から日本各地を巡廻中の木工、金属、陶芸、ファブリック(繊維)、絵画、染色、ガラスなどの各分野ごとの民藝作品が丁寧に続く。あらためて名もなき職人がもたらした生活の美の力を知らされる。
美術館のコレクションではないため撮影は導入部の環境的展示に限定されていた。
民藝に着目し概念を確立した柳宗悦(むねよし)と氏と同士の工芸、美術の巨人達。導かれるように広い裾野を形成したファン。民藝は戦前戦後を通し一貫して起こった「健康で日常的な」美の革命にちがいない。

現代は若者中心にユニクロ、ニトリ、百均が生活を席巻している。品質が良くリーズナブルなので広がりからいうと文化としか言いようがない。これらからみると明らかに民藝は異質で、今後生活文化に於いて両立するか重要なテーマになりそうだ。

以下はさらに続く展示「20世紀の椅子コレクション」。

フリッツハンセン社のモンローチェア(左)、マッキントッシュ氏デザインのウイロー1チェア(中)およびとヒルハウスラダーチェア(右)。これらは上越市直江津駅前、ホテルイカヤのロビーなどで以前から観ることが出来る。

世界の名椅子がズラリズラリ。
上越市歴史博物館にあるものも
あった。

ありました、堂々の「柏戸」。

2007年樹下美術館開館を前に館内の椅子を選ぶのに楽しい時期があった。その折カタログなどで山形県の天童木工の椅子を検討したがひときわ目を奪われたのが「柏戸」だった(小さな樹下美術館では使えませんでしたが)。
今回会場で座ってみたところ当然硬く、座り心地はいまいちだった。だがこれを歓迎を表すオブジェとしてロビーなど置くなら誠に良い感じになろうと思った。まさかこの日「柏戸」の実物と出会い座れるとは思ってもみなかった。
※樹下美術館絵画ホールの山中グループの「マッシュルームスツール」やカフェのアルネヤコブセンの「セブンチェア」も20世紀デザインの名椅子です。

以下は富山県出身の美術家、詩人、評論家・瀧口修造氏コーナーからです。

瀧口氏のコレクションが並ぶ。

氏の書斎。
おびただしい書物と資料。

ジョアン・ミロが来日した際ミロが絵を
瀧口氏が詩を書いている。

戦前特高に捕まってまで前衛芸術に身を捧げた富山県出身の瀧口氏。戦後堰をを切ったように沸騰するその世界で絶大なインフルエンサーの役割を自ら負われた。
どれだけ多くの人が氏に会い、作品を送り、評価を請うたことだろう。かって何気なく求めた美術の古書が瀧口氏への献呈本だったことがあり、氏の仕事が如何に多忙だったかを垣間見た気がした。

最後は現代美術のコレクション。

袴田京太郎作「本保裸婦像-複製」
広い会場でひときわ目立っていた。
妻撮影です。

本保義太郎作の裸婦像。

袴田作品の原型となった高岡市出身、夭折の彫刻家、本保義太郎作「裸婦像」が傍らに展示されていた。本保氏へのオマージュで、何故日本髪なのかが理解出来た。

最後にこれも懐かしい久保田成子作品「階段を降りる裸体」。久保田さんは直江津の出身。ニューヨークで活躍され世界で認められた人。
小学時代一時彼女のお母さんにピアノを習った。お父さんは高田高等学校の校長をされた久保田隆円先生です。

さて広大な美術館で膨大な作品を観た。とても楽しかったしまだ観足りない。こうなれば再訪であろう。
ひごろ様々なジャンルの展覧会が地方を回る。新潟県には上越市はじめ新潟市、長岡市ほか立派な美術館がある。もう年だから遠くへ足を伸ばせない。それで北陸と新潟県をぐるぐる回っていれば十分に楽しめるのではないかと思った。

富山美術館の前に富岩(ふがん)運河環水公園の船着き場がある。電車でも船でもいい、出かけた先で乗り物に乗るのは楽しい事だ。20分の短いコースだったが今度は海が見える長いコースに乗りたい。

良寛研究家の小島正芳先生にお聞きしていた富山県は浄土真宗王国の事実。この度棟方志功で実感したが、真宗は時に芸術家や思想家に決定的とも言える影響を与えている。
無駄を省き質と実を重んじる県民性も伝わった。一泊だったが、隣の芝生でないけれど魅力的な隣県に恵まれることは幸せなことだと実感した。

この度の写真は全てスマホで撮り多くはトリミングしました。

富山を訪ねてその1,遅まきながら棟方志功の福光。

2024年8月15日(木曜日)

夏本番前から今夏は暑いと言っているうち、いつしかその本番を迎えている。すると2日3日とブログを休みはじめ、つい休みグセがつき3日、4日と怠けるうちにまる1週間空けてしまった。

患者さんのご迷惑も顧みず11日から15日までお盆休みをもらっていたので、12日から一泊で富山県に出かけた。主な目的は一日目は福光町(現南砺市の)で棟方志功関連施設を、翌日富山市内で県立美術館を訪ねることだった。
棟方の足跡を福光に訪ねた方は少なからずいらっしゃると思われ、御地の話は皆さまから色々聞いていた。樹下美術館でも父譲りの志功の板画を数点収蔵しているにも拘わらず同地を訪ねるのは初めてだった(恥ずかしながら何事も人様の後から後からです)。

12日午後新幹線で高岡まで行き、福光へはそこからJR城端(じょうはな)線の赤い2両編成の電車だった。40分少々かけて11駅目が福光駅。
道中の窓外を楽しみ到着した駅前ではタクシーが見当たらず、駅の世話になり会社に連絡して車を待った。
やがて一台で動いているらしい車が帰って来て、帰り電車の時刻まで「福光美術館」「光徳寺」「愛染苑」を回ってもらうことにした。

福光駅天井の棟方志功作版画。
福光は地域全体が志功の町。

南砺市立福光美術館は棟方が親しんだ医王山の麓にある。人口4万6千の都市にしては大きくて立派な美術館だと思った。

広々したホール。

正面に「二菩薩釈迦十大弟子像」
夫人の機転により空襲直前に
当地へ移送された。

棟方は上記作品によって1955年サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展、1956年ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展で、それぞれ版画部門の最高賞およびグランプリを受賞し一躍世界の人となった。

「宿業者是本能
則感應道交」の襖屏風。

宿命は授かり物でありそれによって仏と感応し交わることが出来る、という意味らしい。絵画を諦めざるを得なかった棟方は重い視力障害を悔い悩んでいたが、福光でこの言葉に出会い全てを吹っ切り版画(板画)に没頭するようになった。
救いの言葉を伝えた浄土真宗の僧・仏教学者蘇我量深(りょうしん)は新潟の人だという。歎異抄から導かれた言葉のようだが真宗のわかりやすさ、自在さは宗旨替えをしたくなるほどだ。

花狩頌(はなかりしょう)。
弓矢でなく心で花を狩る。

大作、二菩薩十大弟子の両側の菩薩を文字で「普賢」と「文殊」と書いている。東京空襲で二菩薩の版木だけが焼失したため当座文字にされ、後に像として彫り足されている。

以下の「鐘渓(しょうけい)の柵」で言う鐘渓は敬愛する陶芸家河井寛次郎の窯の名で、シリーズ24作品は氏を称えて制作された。

鐘渓頌シリーズから
「瓢箪の柵」。
樹下美術館も収蔵している。

「沢瀉妃の柵(おもだかひのさく)」.
沢瀉は棟方が愛した草花。

四角い画面に女性を丸で囲み四隅に文字を配している。棟方流の曼荼羅を想像させる。

以下は同館で展示されていた福光出身の日本画家石崎光瑤の作品。石崎氏は棟方よりも年長で二人は特に親しく交わった。

石崎氏は高野山金剛峯寺の障壁画を手がけ、京都藝術大学教授も務められた。登山家として知られヒマラヤを登頂されている。福光に於ける棟方の住宅用に土地を提供するなど厚い手を差し伸べられた。

続いて光徳寺へ。

唐破風門と花頭窓が印象的。
境内に多数の大壺。

玄関脇のタカサゴユリが涼しい。

戦前文学青年で『白樺』を愛読していた同寺ご住職は柳宗悦の民芸運動に感銘を受け、その美と浄土真宗の他力の考えの根底が同じであると理解するに到った。
昭和13年、河井寬次郎を介して住職と知り合った棟方は福光訪問を重ね、昭和20年空襲の東京を避け、ついに一家6人福光へ移った。福光では同寺の世話になり宗教風土と風光に親しんだ。偶々過日ある方から、かって同寺が制作した志功板画の風呂敷を頂いていた。帰り際寺の女あるじにそのことを話すと、今ではとても珍しいことですと仰った。

以下は良寛による「花無心招蝶」の詩。自然界の美しい摂理を歌い人間もまた然りとしている。

樹下美術館の人齋藤三郎もこの詩の一節を好んで焼き物や絵画に書いた。

齋藤三郎作品の「花開時蝶来」
(樹下美術館収蔵)

民藝運動のパイオニア
柳宗悦の掛け軸。
廊下で見て心打たれた。

色紙(無盡藏」。

 

「光徳」の掛け軸。
「華厳」と一対らしい。

以上光徳寺の略略でした。次の訪問先は「愛染苑」です。

福光の生活が始まった頃の
棟方一家。

ささやかな仮寓とはいえ住まいを得た夫婦と子らの安堵は如何ばかりだっただろう。

上に記した石崎氏が“福光の町を歩き歩き(福満之魔智於阿留機阿留機、、、云々)、ヒヤシンスを求め、それを大切にしても道に落としたりと書かれているようだ。文末の「飛矢志武壽」もヒヤシンスと読むらしい。私には難読だが絵から花への感謝が伝わる。

福光の風光をを呉須で描いた
陶板。マチス風でとても良い。
こんな作品を持てたら、、、。

女人観世音版画巻(全12柵)

愛染苑を出てすぐ向かいにある6年を過ごした住居「鯉雨画斎(りうがさい)」へ。

 

茶の間

アトリエ鯉雨画斎
黒い雨が降りしきる中
赤い鯉が昇っていく。

トイレ。
喜びの仏などが
天井まで描かれている。

以下は新居(鯉雨画斎:りうがさい)完成祝いの寄せ書き。大原美術館館長・大原 總一郎、民芸運動で陶芸の巨匠河井寛次郎、濱田庄司の名が見える。

屏風の右側部分。齋藤三郎の
署名があった(斜めの青丸沿いです)。

以上福光の棟方志功関連の施設回りの略々でした。いつものように昼食抜きの急ぎ足で、3時間弱のタクシー貸し切り代は11850円だった。
もう少ししっかり見て来れば良かったと反省点が多い。タクシーは見学時間の予定を告げその都度迎えに来てもらう方が安く済むかもしれない。
富山に戻ると駅前に
ミストの煙。

富山の宿泊は5年前訪問と同じクラウンプラザホテルでした。

夕食はホテルの洋食。
クレープを重ねたケーキの
美味しかったこと。

令和元年、同ホテルでの朝食時、新元号の名付け親である中西進さんにお会いし写真をご一緒して頂いた懐かしい思い出がある。

夜の市電
「国際会議場前」停留所で。

夜の電車を撮るためホテルのすぐ近くの停留所「国際会議場前」で待っているとやって来た。新幹線に備え市内交通網整備の一環として導入されたという路面電車。今どきの時勢とは真反対だが成功し充実、市民に愛されているという。
この時も、待っているとポツリポツリと人影があらわれ間もなく電車がやってきた。都会だなと思った。

路面電車が走る町は旅情と活気があって楽しい。かっての東京のほか後年は長崎や熊本の市電にも乗ってみた。このたびは撮るだけだったが次は乗車したい。

非常に長くなりましたが、翌日の富山県立美術館と富岩冠水公園観光を次に掲載させてください。

本日は太平洋戦争の終戦(敗戦)記念日。偉そうに言うわけではないが、うぬぼれた勘違いだけはストレスレベルまで謹みたいと思う。

幾分涼しかった日 女子ゴルフが始まった五輪。

2024年8月7日(水曜日)

本日髙田の最高気温が30,3度。この所の中では涼しい日となった。それでも毎日熱中症症状の方の点滴が必要になっている。辛い暑さがジワジワと続くと普段と異なる体調の落ち込みが突然のように襲ってくる。微熱を伴えばコロナも懸念され慎重にならざるを得ない。疲れは蓄積するので本日の涼しさが少しでも続くことを願いたい。

オリンピックで女子のゴルフが始まった。TVerで実況されフランス選手が首位に立っているので現地は大いに盛り上がっている。日本の山下選手が7位タイ、笹生選手は少々ツキが無い。あと三日間あるのでまだこの先のことなど全く分からない。どうか二人には粘ってもらいたい。

コースは池が入り組みゾッとするほどである。選手たちは世界ランキングに従って各国から選出されているのでみな強く上手い。映しだされるコースの雲が素晴らしく印象派の風景を思い起こさせてくれる。

本日はほかに写真が無く
夕食を載せました。

先週末の種々。

2024年8月5日(月曜日)

昨日は初めて行く長野市の京急カントリークラブでゴルフがあった。7時20分に車で出たが、一時間少々で着いた。いつもの常で初めての所はどこも外国で、町並み村落、自然みな新鮮で楽しい。ゴルフ場は900メートル以上あり飯綱山が見える良いコースだった。プレイはほかは良いのだがグリーン回りになるとシャンクばかりして成績はだめだった。また課題が出来たとして頑張ろう。

帰路黒姫童話館へ寄った。遅い時間のため入館は出来ないが、去る日同館を訪ねたA氏から同地の素晴らしいオオウバユリの写真が届き、ぜひこの目で観たいと思い寄り道した次第。

以下童話館の駐車場から。高原の風景に心洗われる思いがした。

駐車場から見る同館の花畑。
高原は草花が新鮮で羨ましい。

公道から童話館の道に入るところに3本のオオウバユリが咲いている。行きは山側ばかりみていたので、帰路はじめて気がついた。A氏が送ってくれた花は恐らくこれだろう。確かにY字路で案内目印のように咲いていた。涼しいため花期も長いのか。

さて昨晩遅くのオリンピック中継でゴルフで松山秀樹選手が銅メダルに輝いた。最初から首位争いにからみ、後半で激しく順位が変動した。
あのマキュロイ選手と同組ながら彼の上を保ち続け、最後まで崩れず三位を死守した。18番でバーディパットが入れば二位を掛けたサドンデスに進めるところだった。

バンカーショットを放つマキュロイ。

池が入り組む緊張の最終18番の難ホール。果敢にグリーンを狙う松山選手。ホール全体を大観衆が取り巻いている。フランスはそうゴルフが盛んではない。しかしオリンピックの観客数は驚くばかりで、某有名選手がこんなに多くの観客を見たことが無いと述べたという。やはりオリンピックはケタ違いの競技なのだろう。

それにしてもゴルフは変わったスポーツだ。多くの球技は一つのボールを誰かと投げたり打ったり蹴ったりし合うが、ゴルフは最後まで一人で自分のボールを打ち続ける。4日間もの競技中、成功も失敗も全て自分が行った結果である。面白いのはナイスプレーをして次のホールへ歩く時、歓喜する観衆の中を選手が戦略で頭をいっぱいにしながらうつむいて歩くことである。
選手一人が葬列の人のようになり、気がついては顔を上げ笑顔で応える。昨日最終日の後半はめまぐるしく順位が変わり、そのような場面が何度もテレビに映しだされた。
熱狂が連続するものも良いが広大な場所で繰り広げられる神経がひりひりするようなゴルフを観るのが好きで、続いて始まる女子ゴルフの日本勢には大活躍を期待したい。二人の選手は実力十分なので楽しむようにプレーしてもらいたい。

本日当院脇脇から
見えた積乱雲。

暑い季節だが雲は見る値打ちがある。

本日郷土の偉人前島密を顕彰する会の皆さまが来館。

2024年6月29日(土曜日)

去る5月23日、郷土の偉人 前島密を顕彰する会からお二人が、当館(当院)に保存されている前島密の扁額にまつわる話を、この先皆で伺いたいと来館されていた。
その後予定を調整し、本日土曜日昼前、市議の滝沢一成氏を会長に前島密記念館館長利根川文男氏と会員ご一行10名様が約束どおりやってこられた。
私の説明は午後予定で、皆さんは午前中から扁額が附与されるきっかけとなる明治時代からの音楽家小山作之助夫人まつ子さんが晩年疎開で住んだ家(作之助の生家)と作之助の墓碑、されに扁額が掲げられたいた大潟区の当医院などを回って来られ、樹下美術館で昼食まで摂って頂いていた。

話のテーマは当家に何故密翁の扁額があり、それに関係する前島家から小山作之助の後妻として嫁いだまつ子さんと作之助の弟で医師の小生祖父杉田直次郎の開業など、扁額に関わる縁についてだった。

扁額「正眀堂」は明治42年初秋に前島密が書いたもので、「正しく見るところ」の意味が込められている。大潟区潟町の現在地で開業した直次郎のために揮毫されたもので、医療機関にはぴったりの三文字だった。
まつ子さんは前島家のご息女の家庭教師として入り、後年まで家族同様に暮らされた縁から同家の養子格とされていた。

もとはと言えばまつ子さんは秋田県の生まれで、若くして両親、兄弟に死別、天涯孤独のまま一人上京し前島家でご息女の面倒を見ながら家庭教師兼女子大学通学をするようになった才媛の人。

扁額「「正眀堂」
真摯さと美しさが滲む。

直次郎の待合室にあった屏風。
南摩羽峰の筆による。
その上の欄間に扁額が掛かっていた。
屏風は別所で撮影。

南摩羽峰(綱紀)は幕末の福島藩士で学者、文人。戊辰戦争で負け、越後高田藩で謹慎させられていた。屏風は当時のものと考えられる。明治になり綱紀は新政府の太政官を経て東京大学教授になっている。

晩年のまつ子夫人。
小山作之助還暦祝いで。

才媛まつ子さんが書いた
「杉田医院」看板。

看板も扁額前後に直次郎のために書かれたものであろう。私が開業するまで古い医院の玄関に掛かっていた。汚れを落とそうと迂闊にも雑巾で拭いたところ文字が半分溶け落ちてしまった。

ちなみに晩年(昭和15年)の直次郎(前列左)、その隣祖母トワの兄・野口孝治元衆議院議委員(立憲国民党)、その右祖母トワら。
父母は孝治の後ろにいる。トワが抱いているのは誕生したばかりの姉。祖母は12人も子供を産みげんなりしています。

本日のご一行とともに。

皆さまの中にお二人、高校時代の同級生が居て64年ぶりということ、あっと驚きとても嬉しかった。

夜になって上掲関連写真を皆さまに届けるべくプリントした。近くお届けするつもり。
熱心に前島翁を研究し、顕彰され、何よりそれを楽しんでおられるのを目の当たりにし、奇しくも大昔の級友と出会い、ご一同から元気を頂き、畏敬と感謝を禁じ得ない。

しっかり準備もせず臨み脱線ばかりして反省しています。

以前一部の写真を掲載したことがありました。

後日追加です:樹下美術館の常設展示画家倉石隆夫人・翠さんは小山作之助のお孫さんの一人。小学生のころ夏休みの宿題の絵をまつ子さんに描いてもらって提出したという。返された絵の裏には担任によって「上手すぎて、上手すぎて」と評が書いてあったらしい。

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