文化・美術・音楽・本・映画・スポーツ

お客様に恵まれる 伝統の萩 ブットレアにヒョウモンチョウ 何度も聴く「枯葉」。

2022年9月18日(日曜日)

本日日中の車は37℃を指していた。台風の影響で一定の風が吹き、暑くはあるが気分が悪くなるようなものでは無かった。

12時頃の駐車場。
新潟日報の記事のお陰もあり夕刻までお客様は途切れなかったと聞いた。
一日二度来館されたお二人様有り難うございました。

美術館の紅白の萩。
秋の伝統の花が暑さの中、笑みを浮かべていた。

仕事場のブットレアはヒョウモンチョウを誘っていた。

 


若い頃は、また「枯葉」かあ、と言っていたが、
何度聴いても飽きなくなった。
紅葉になったらまだ別の「枯葉」を出してみたい。

若い人達にルンバと言っても何?と言うに違いない。

新潟日報のインタビュー 樹下美術館の拠り所。

2022年9月8日(木曜日)

本日新潟日報の取材があった。
当館15周年の二つの記念行事「ふるさと上越主体美術協会の人々展」「齋藤三郎ゆかりの人々展」が目的だった。展覧会と同様に美術の現況と樹下美術館、これからの樹下美術館など幅広い話に及んだ。
記者のWさんは美術はじめ地域の動向に詳しく、話題も深掘りでさすがと感心させられた。

二つの展覧会では前者はアーティストの個性と、展示して初めて分かる所属団体の気風あるいは漂う「まとまり」のようなものを述べさせてもらった。後者の展示では齋藤三郎の個人的魅力と他に類を見ない戦後疎開文化があらためて話題になった。

途中、メインコレクションの一つであり、主体美術協会に所属した倉石隆の作品と人となりに話が移った。作品に滲む作家の人生、垣間見られる人間とはの問いを考えてみることは、一般論としても意味があり、この度の取材の意義を感じた。

後段には樹下美術館の今後が訊ねられた。これは「収蔵品」「環境」「建築物」への個人的な愛情と責任をどう維持継承するかの問題であり、「もう一人の私のような人間」を必要とする面倒なテーマにほかならない。具体的な解決策があるわけで無く、模索に当たり一日でも長く精魂込めて維持するだけ、とお伝えした。

実際どのような紙面になるのだろう。
ささやかな規模ゆえ樹下美術館は一種「狭さ」から免れない。一端門戸を開き、多くに任せたら、直ちに漂流し荒れ果てる予感を開館の日から危惧し今日に到った。ただ一点、ゆっくりだが樹下美術館はお客様を増やし続けている。そのことが明日への希望に繋がるのではと漠然と期待している次第です。

 


デビット・ナディアンのバイオリン
フランツ・ドルドラ「Souvenir(スーベニール:思い出)

秋田県羽後町の西馬音内盆踊り。

2022年8月25日(木曜日)

三日前民謡「秋田荷方節」とそのことで民謡松坂のことをにわかながら書いてみた。

折々掲載される拙ブログの音楽ジャンルは色々で、方向が全く一定してない。その延長で本日は、,御存知の方も多いと思われる西馬音内(にしもない)盆踊りを出させてもらった。
踊り手は、黒い奇抜なかぶりものの一群ほかもみな格好良い。特にパッチワーク風の美しい着物で編み笠を被った人々が目を引く。

男女とも踊り、わけても女踊りの優雅なこと。手、指、動きと静止、それぞれに気品と威厳があり、軸が決まった身のこなしに加え、視線(実際は見えないが)の美しさまでも感じられる。

当踊りは歴史が古く、さまざま勝手に歌われ踊られていたものを大正時代にある篤志家を中心に伝統に即し、整え直して鑑賞価値を高める努力を経て今日の成功があるという。

おそらくだが、遠くからも人を集める芸能や伝統行事は勝手や無礼講などあってはならないのだろう。全て厳格なルールのもとで努力を重ね多くを魅了する水準に達するにちがいない。
長いだけの民謡行列、まねごと、過ぎる奇抜さ、趣味の披露程度なら今日どこでも見られ、遠くからも人を集めるのはなかなか難しい。

 


25分近くある長い動画です。


幾つかの動画のなかで別格の踊りをする人。
どの瞬間、どの角度からみても隙がないのでは。
この人だけ観るために遠くから人が集まりそうだ。

 

盆踊りだから行事は死者への弔いや供養が込められている。だが歌は卑猥でおおらかな歌詞が多いので供養や踊りの上品さどの乖離が奇異だ。しかしこのことにも何らかの意味があるのだろう。
一般に祭と子どもとの関係は色々だが羽後の踊りは、昼間に子どもの部、夜は大人としっかり区別されているらしい。

地図をみると羽後町は秋田県の湯沢に近く、至極交通不便な所に思われる。もう少し若ければカメラをもって何とか美しい踊り子を撮影したいところ{ようやく「撮影」と書きました)だ。
※10年ほど前に観に行く計画を検討したましたが、交通、宿泊とも難しくて断念した。

鳥海山はじめ見たいところ行きたいところは山ほどある。その一つでも叶えられればなあと願っています。

偶然カーラジオから聞こえた秋田荷方節と松坂というもの。

2022年8月22日(月曜日)

先日のこと車のラジオから激しい三味線の音色が聞こえて歌が始まった。民謡「秋田荷方節(あきたにかたぶし)」と紹介された。

もとは新潟県の民謡「越後松坂」あるいは「新潟節」が秋田県に伝わり秋田荷方節になったと説明された。
荷方節を耳にしたのは全く偶然。一方「松坂」は今年5 月、加茂市へ行ったとき加茂山公園で松岡譲が揮毫した「加茂松坂」の歌碑を見ていた。甚句や音頭などは耳にするが勉強不足で松坂は知らなかった。調べてみると「祝い歌」「座敷歌」に分類される民謡だった。
そもそもは伊勢参りで松坂地方から持ち帰られ新潟県に定着した民謡の形とも言われている。県内に前述の加茂松坂、新津松坂、魚沼松坂、小国松坂、瞽女歌の祭文松坂ほかがあり、全国各地にも伝承され、驚いたことに近隣には「頸城松坂」もあるということだった。

頸城松坂は優れた民謡らしいので機会があれば聴いてみたい。

一方荷方節は秋田県内で「仙北荷方節」など幾つもあるほか東北、北海道、北陸、関東中部地方各地に多く残されているという。民謡が県や地域を跨いで拡がり創作され伝承される。荷方節に松坂、、、少し調べただけだったが、歌や音曲に対する昔人の意欲を垣間見るような気がした。
それにしても新潟節が荷方節になるとは。

 


素晴らしい秋田荷方節 歌:小野花子 三味線:高橋希脩

歌は「にいがたー」で始まる朗々とした節にテンポの早い三味線の伴奏が休み無く付く。華やかな伴奏は津軽三味線でも取り上げられる難曲の一つらしい。

ちなみに前半の歌詞は
“新潟 寺町の 花売り婆さま 花も売らずに 油売る”と歌われる。

ところで三味線の演奏は何人で行っても同じ旋律をきっちり揃えて弾く。5人、20人でもひたすら同じ旋律。音量は増えるが表情や合奏としての膨らみは生まれない。
なぜ三味線のアンサンブルが無いのだろう。検索してみたが一つもヒットせず少々不気味なくらいだった。パートに別れ、和声に添って複数で合奏するなら三味線独特の素晴らしい和音が生まれそうなものだが、試みはタブーなのだろうか。
(私が知らないだけでどこかで演奏されているのかもしれない)。

個人、家族、在宅、各種施設、、、あちこちコロナの状況はひどい。まみれてると言いたいほどだ。
昨日も今日もそれに悩まされた。明日はどうなるのだろうか。

「ふるさと上越 主体美術協会の人々展」のご紹介 その3 積乱雲から土砂降り。

2022年8月13日(土曜日)

本日「ふるさと上越 主体美術協会の人々展」のご紹介が三回目。これで全員のご紹介になります。
このようにして作品について書いたり作家さんの内面を覗くことは難しい仕事だなあと感じました。

わずか9点ですが、個性的な作品ですので、遠くで眺め近くへ寄って構図、形や線、素材、色づかい、描き方、さらに作家さんの息づかいや人柄、作品の意味などを自由に想像してみるのも楽しいのではないでしょうか。

 

午後しばらく晴れて大きな積乱雲が出ていたが、5時半頃から土砂降りになった。

 15時半ころ南の山脈上の積乱雲。

二時間もしないうちに土砂降りになった。

「ふるさと上越 主体美術協会の人々展」のご紹介 その2。

2022年8月13日(土曜日)

本日は11日に引き続き展示中の「ふるさと上越 主体美術協会の人々展」から、簡単ですがさらに3点、三人のご紹介です。

作品の解釈、感想は観る人それぞれにゆだねられますが、ご紹介が何かの手がかりになるなら有り難いです。

暑さ厳しくコロナ激しい夏です。
そんななか遠方からお訪ね下さる方もいらして感謝しています。過日は小杉放菴記念日光美術館 の学芸員の方が来館されました。齋藤三郎ゆかりの人々展をご覧頂き、心ばかりの小杉放庵コーナーをお褒めいただきました。本当に有り難うございました。是非貴館をお訪ねさせてください。

「ふるさと上越 主体美術協会の人々展」のご紹介その1。

2022年8月11日(木曜日)

昨夜は来館者さん向け配付資料、新たな案内葉書などをこしらえプリントしているうちに日をまたいでしまい、午前3時に寝た。
そして目が覚めると12時近く。あれれ、妻は起こしてくれないし、今日は患者さんが来ないので昼まで寝かされたのかな、と時間感覚がはっきりしない。
ああ休日なんだ、と分かったものの配付資料を届けなければ、来館者さんは手ぶらで観なければならない、、。慌てて美術館に出る。

ちょうど主体美術のお仲間が大勢いたしていたので手渡し。若干お話をさせていただいた。筑波先生が引率された皆さまは熱心で、聞こえるお話も面白い。前後に20名ほどの来館者さんが見え、「ふる里上越 主体美術協会の人々展」は樹下美術館にしては良い初日だった。

今後毎回3名の作家さんと作品をご紹介して行きたいと思います。
本日は以下の三点と作者の概要です。配布資料からの勝手な私見をどうかお許しください。

昼まで寝たお陰で体が楽になった。
9月20日までの展示です。どうかお暇をみてお楽しみ下さい。

チームワークを発揮? 良い展覧会の予感。

2022年8月11日(木曜日)

昨日午後は11日から始まる「ふるさと上越 主体美術協会の人々展」の展示作業を行った。出品者9名、各一点ずつの展覧会といえども初の複数作家の絵画展。過程はこれまでとは異なる神経の使い方が必要で、少々疲労はしたが最後に充実感を覚えた。

新たなチラシ。
倉石隆の作品を「秋」に変更したのでチラシも改めた。

物故者を交えた作品は上越在住主体美術の筑波進先生と涌井和子ご夫婦のお陰で、私が到着したときはほぼ位置決めが終了。近隣の施設回診を終えて戻ると全てが壁に架かっていた。

皆さんが帰ったあと照明を調整するスタッフ。

大小、色調、志向などがバラバラに異なる個性的な9点は専門家の手に掛かり実に自然で生き生きと見え始めた。
ささやかな展示だが、さすが主体美術協会。9点はあたかも良い野球チームのラインナップのようであり、楽しい展覧会になる予感がした。

作品ごとの拙く短い紹介文を作った。

 

9月8日まで延長した好評の「齋藤三郎ゆかりの人々展」

どうか両展ともご一緒にお楽しみください。

二日続けて古径美術館の「齋藤真一展」へ ジャンゴに似ていた 何時まで続く感染。

2022年8月8日(月曜日)

昨週末土曜日は来客中の二方とお別れし、南城の舟見里留さんを訪ねた。間もなく始まる「ふるさと上越 主体美術協会の人々展」にむけて舟見倹二さんの作品をお借りするためだった。

樹下美術館には舟見氏のシルクスクリーンが二作品収蔵されそれを出品しようと考えていた。しかし色調が暗めなのが気になっていて、里留氏に相談した。すると明るい作品を揃えて待っていて下さり、伺って二人で一点を選んだ。
南城界隈の変遷と居住する人々の事もお聴きして楽しいひとときだった。

舟見宅を辞して小林古径記念美術館へ行った。好評の「生誕100年 斎藤真一展」を観た。年代順、テーマ別など齋藤作品を見ながらを齋藤氏への理解が深まるよう配慮されていた。

「さすらい」 1960年

草原でヴァイオリンを弾くご本人か。この絵をみた瞬間ジプシー出のジャズギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトを思い出した。互いに顔や服装、志向など、似ていると感じた。


ジャンゴのギターで「 Nuages(ヌアージュ:雲)」

会場に何カ所も小型の動画モニターあり、ある場所の映像には小さな音量でジャンゴのこの曲が流れていた。ジャンゴもまたさすらうように生きた音楽家だった。アールデコ調からミッドセンチュリーへ、イメージが重なる。

多くの作品の中でサイズの大きな以下2点が興味深かった。

「雪の花」 1990年。

「チューリップの少女」1991年。

見慣れた瞽女さんと異なり、上掲二作品は大きい。図録によれば「雪の花」は横130,3センチもある。それは沈む夕陽を背景に瑞々しくも成熟した裸の女性が描かれ、「チューリップの少女」はマフラーをしたあどけない少女だった。いずれも瞽女さん、なかんずく杉本キクエさんへの色鮮やかなオマージュではないのかと思った。

さて翌日日曜日はある所の薄茶席に座り、素晴らしい良寛の扇面を観た。俚歌(りか)、俚謡と呼ばれる民衆の戯れ歌が、細めの筆でこよなくも上品にしたためられていた。席の後、主客を務められた全国良寛会会長小島正芳さんを古径美術館へご案内した。

この日は、回廊に展示Jされているお春と太郎の悲恋のシリーズが目を惹いた。赤が使われない灰色一色の何点かは物語の結末が痛々しく描かれ誠に切なかった。

前日年間入場券を求めたが早速翌日また使うとは思っていなかった。図録の笹川修一氏の「音楽を奏でる絵画」はためになり良い一冊だった。小島氏の学芸への造詣深さにいつも感心させられる。

以下は8月5日の雲と鳥追いのカイトです。

 

大変なことになっているコロナ。これまでガードがきつかた福祉施設なども一挙に突破してくる。一家7人全員、あるいは88才独り暮らしの方などの感染もあった。おしなべて早めに回復されるので胸を撫で下ろしているが、重症化リスクや後遺症は克服されたわけではないと思う。

帰宅時や外来の合間に手洗い洗顔、歯磨き、鼻腔までのうがいをする。マスクをしていても談笑の飛沫や物を含めた接触で感染するのであろう。

一方接種は決して慣れること無く今も一人一人緊張する。される人もする側も、いつまで続くのか、ため息を禁じ得ない。

深田久弥著「わが愛する山々」の火打山と齋藤三郎。

2022年7月26日(火曜日)

去る6月26日のブログ「齋藤三郎とゆかりの人々展その9」で登山文学者・深田久弥に触れさせていただいた。その折り著書「わが愛する山々」に火打山があり、そこに齋藤三郎が出てくることを書かせて頂いた。

幸い文庫本サイズの本はネットですぐ買えた。今回、北は斜里岳から南は九重山まで取り上げられている23の山に関する著述から我が齋藤三郎が登場する15ページにわたる火打山をご紹介してみたい。

深田久弥著「わが愛する山々」 山と渓谷社発行
2011年6月5日初版第1刷の2020年4月5日初版第2刷

出身地が福井県大聖寺の深田氏は1960年三月下旬の白馬山麓のスキーで妙高連山を見て以下のように述べられている。
“三月下旬ではまだ全ての山は雪を置いていたが、とりわけ火打は白かった。こんなに一点の汚れもなく真っ白になる山は私の知る限り加賀の白山と火打山以外にはない。”と感嘆される。そして妙高連山のうち火打山だけが未踏であり、是非登ろうと決心されるのである。

同年6月19日深田氏は髙田に到着。かねての読者I氏の案内で金谷山、春日山城、五智を訪ね、市内で山岳講演をされる。この間に終始上越山岳会副会長の饒村義治氏(小生高校時代の恩師)と髙田山の会会長の齋藤三郎の世話になったと記されている。

翌朝田口駅(現妙高駅)でパーティー9名が全員集合。そのうち上越山岳会の一人は私の中高時代の二つ上の先輩松川太賀雄さんだった。9名のうち7名が若者、残りの深田夫妻と齋藤三郎の三人が中年という具合ながら、深田氏からムッシュと呼ばれた齋藤氏は若者に劣らず山で強かったと書かれている。

当地から見る冠雪の左・火打山、 右焼山

読み進むにつれ地元の山男たちは深田夫妻の“お供をする”などというものではなく、途中途中の美しい景観や可憐な花々を案内、楽しい休憩と山菜採り、さらに用意した山海の珍味で深夜に及ぶヒュッテでの宴など、登山を通して精一杯の“もてなし”をしたことが分かる。

景観を愛で行程と地元の風土に親しむ。登頂に成功するばかりが登山ではなく、断念の山行にも楽しい思い出がいくつもあるとする深田氏の登山哲学を理解し、壮大な火打山をもって夫妻を温かく迎えた上越の山男たち。本は劇的な自然と人々の行為が織りなす文学として感動的に綴られていた。

一行は赤倉温泉でお別れの晩餐をする。そこで、上越山岳会は先鋭分子だが、齋藤氏が会長の髙田山の会は、生け花や謡曲の会と並んで文化団体として扱われていることが披露され大いに盛り上がり、どんな山の登り方があっても良いと、記されている。

火打山で出会った深田久弥と齋藤三郎は後も交流されました。

2025年3月
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031  

▲ このページのTOPへ