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小林古径記念美術館「生誕110年記念 濱谷浩展」と講演会。

2025年3月22日(土曜日)

現在小林古径記念美術館で開催中の写真家・濱谷浩展。本日午後から講演会「濱谷浩・人と作品」が二の丸ホールであり参加した。
戦前、グラフ社から派遣され髙田連隊の冬期演習を撮影した折、地元の研究家から紹介され谷浜の桑取谷に伝わる小正月の伝統行事を撮影。密かで力強い風土の概念を目の当たりにして取り憑かれ、長い写真家としての出発点となっている。

その後大衆、名士それぞれの持ち味、国内外の光りと影、風俗の新旧、地の果てそして告発etc、何かしら人間が関わる森羅万象をあまねく撮らんと世界を駆けられた。

講演会の第1部の講師は多田亜生(つぐお)氏(編集者、濱谷氏の作品管理者)で「濱谷浩 写真の魅力」を、第2部は齋藤尚明氏に学芸員の市川さんが加わり三人で「濱谷浩の髙田時代」を鼎談され多くの興味深いエピソードが語られた。
第一部でブラッサイやキャパの名が出て私のような年令には懐かしくも安心だった。

日本人初のマグナム写真家の証。
氏のヘルメットと腕章に身分証。

鼎談の最後の方で桑取取地区に「濱谷浩記念館」構想が起きた時の話になった。意見を求められた濱谷氏は“作品というのは時代により評価が異なる。何時でも常に光っているとは限らない”というような主旨から構想に同意されなかった事が話題になった。
誰も彼も残したがる世にあって氏の慧眼と謙虚さに驚かされた。晩年はひたすら作品の綿密な整理と記録に打ち込まれたという。マグナム写真家集団への貴重な参加といい、明晰な氏の頭脳と立派な生涯にあらためて畏敬の念を覚えた。

入り口幕。

融雪される古径邸の庭。

膨らむ紅梅の蕾。

濱谷氏筆:古径邸の床「裂古破今」
如何なる時も満足するなの意味か、
厳しい言葉だ。

午後遅く美術館の雀。

髙田で最高気温が20,6度にもなり近づくお彼岸の威力はさすがだ。

宮崎俊英さんとあらためて倉石隆を観た。

2025年3月16日(日曜日)

本日も肌寒く午後遅くからシトシトはじまり、春雨にしては冷たい雨。髙田文化協会事務局長の宮崎俊英さんが待っていて下さり、今年の展示は両方とも面白いと褒めて下さった。

齋藤三郎は茶道具のバリエーション及び茶道へ理解の促しが良いと指摘され、倉石隆は男性についてのストーリー仕立てが面白いと仰った。

倉石作品は幼年から老人まで副題をつけて並べてみたのだが、思ったよりも脈絡が繋がった。これは倉石隆の力量あらばこそ成立したことににちがいない。
因みに、スタートの幼少から老年まで以下の順で副題を付けました。
「毎日一生懸命」→「勉強もして」→「お腹を空かし」→「不安もあった」→「大きく見せたり」→「おどけたり」→「時には詩人」→「しかし自分は自分」→「意を決し」→「我を見つめ」→「孤独も修行」→「繰り返し妻を描き」→「いつしか年取った」です。

当然こんなことをしては倉石氏に失礼なのですが解釈や副題および展示順については私自身も問うて反映させてもらいました。ご覧になった皆さまのご意見は如何でしょうか。

「大きく見せたり」
(原題:男の像)

「時には修行」
孤独も修行と考えました。
(原題:黄昏のピエロ)

最後から2番目「繰り返し妻を描き」
(原題「画室」)

ところで「男性像展」とはいえ上掲の最下段「繰り返し妻を描き」は男性が見当たりません。しかし画中の大きなキャンバスの前(モデルの妻を見いているこちらこちら側)に絵筆を持って立つ倉石氏本人がいるのですから「男性像」として取り上げました。

人物を描くのはある意味“人間の本質”あるいは“自分自身”を描く事になるのでかなり大変な作業。おそらく描く時間だけではなく、生活のほぼ全て(ある意味生涯)を費やして取り組む課題なのでしょう。

「レンブラントは最大の師」とは氏の口癖だったようです。どうか人物画の面白さと深さをお楽しみ下さい。

25年初日 A君の書と芸術。

2025年3月15日(土曜日)

本日、2025年度の開館を迎えた。肌寒い日にもかかわらずご来館の皆さま、有り難うございました。お馴染みさんは冬の間に健康に過ごされたと見受けられ元気なお顔に安心しました。

その中の一人、中高時代の同級生A君ご夫婦と一緒して観て回った。それまで熱心に付き合ったことが無かったのが2007年の開館からよく顔を見せてくれるようになり、この数年は月に何度も来てくれる。
新潟大学教育学部書道科で学び、夫婦で2年間ドイツの日本学校に派遣され、県内の校長職と教育委員会の要職を歴任している。堅い肩書きを有しながら屈託なく万事謙遜の自然体、一緒する時間の話は勉強になり尽きない。

互いに年なのだが今のところあまり同じ話が出ないのはまださほど惚けていないのかもしれない。

齋藤三郎「搔き落とし牡丹文水指」
と風炉先屏風にした消息。

本日展示を観て回りながら“俺はまだ書いているがどうしても芸術的にならない”という事を盛んに口にした。“大体書を芸術に入れない分類まである”と言い、「しかしそれを意識するとわざとらしくなるしね」と話す。

対して“書の文字が持つ意味は芸術として大きなアドバンテージ”とういような事を返すと、“同じ書でもここにある齋藤三郎さんのようにどれを観てもその人らしい自然な味わいを出せれば”と言う。
“いやいや、もっとと思う気持ちは大事だが、自分らしさは、すでに出ているのでは”などと続けた。

妻同士も友人なのでカフェでお茶を飲み高校時代の学校火事にまつわるエピソード、学生時代の先輩後輩のありさま、小林古径記念美術館で始まる写真展の作家濱谷浩氏や朝夫人の話などに時を忘れた。

因みにA君は7年ほど前に遊心堂で個展を行っていて樹下美術館でも「喫茶去」を収蔵している。書は立派な芸術であり、作者が満足し何より人に喜んで貰えれば一大幸福ではないだろうか。

A君(一嶽)の「喫茶去」
とてもいい。

話しながら思った、こうなったら来年はA君の書と私の植物画で二人展をやろうと。一昨年に拙作品展を行っている。だが良いではないか、こうして顔を出してくれる級友は益々貴重で本日の話など芸術家の悩みそのものだ。館長の我が儘を許して頂きぜひ来年は一緒にやろうと思った。

ますます謙遜と向上心を秘めるA君に出会えて幸せだと思った。

一瞬にして消えたファイル ドヴォルザークの音楽。

2025年2月16日(日曜日)

日中ほぼ晴れていた本日日曜日、午後まで来たるイベントにむけて亡きヴァオリニスト中島幸子の年表を作った。しかし2時間掛かって8割方出来上がり、ファイルに名前を付けて閉じた途端、何を押し間違えたかそれが一瞬にして消えた。

スタートキーを押してPC内を検索したところ似たようなファイルは出るが、探し物は跡形も無い。残念だがこんな事が数年に一度レベルで起こり、迂闊な私の不徳、王者PCの最も怖いところだ。出来る人なら復旧させるのではないかと思うが私には無理だった。

一度脳を通過した作業だからまた作れば良いと考え直し、鳥を見に昨日の柿崎区の水田へ出かけた。米山を背に一帯の広い田に雁と白鳥の群が広がり、壮大な眺めだった。ラジオを点けるとクラシックが聞こえた。

武満徹のギター曲の後でドヴォルザークの「スラブ舞曲」が流れた。両方ともとても良かった。ドヴォルザークを聴きながら亡き関根日出男さんを思いだした。医師であるとともにチェコ音楽と文学の研究家だった氏は親族の一人だった。何度か訪ねる機会があったけれど、もっと勉強していれば気の利いた話も出来ただろうにと後悔がこみ上げた。

すると失ったファイルが再び思い出され、音楽はそれも慰めんと優しく続いた。


ドヴォルザーク作曲
作品72の2「スラブ舞曲」

遠くで一斉に飛び立った鳥たちの群が旋回しまた下りるのが見えた。

旋回する雁の群
(ハクガンも混じっている)

数日後と予報されている寒波。あまりひどくしないでもらいたい。

オールドメディアに向う生活 鬼平犯科帳 小山作之助記念イベント。

2025年2月11日(火曜日)

近時、新聞やテレビはオールドメディアと下ろされ、ネットやSNSが主要メディアと評されるようになった。一時私もそんな風に思わなくも無かったがこの半年むしろ新聞を爽やかに感じ、テレビのドキュメント(歴史、旅、科学など)をいっそう好むようになった。

そしてドラマはしばしばBSの時代劇にチャンネルを合わる。夕食時の一時間半など必ずどこかで時代劇が流れるので、それを観ながらということになる。
特に鬼平犯科帳をやっていれば必須となった。ちなみに数日前の再放送では常と異なり最後まで事件の謎を解決せず、手を付けられない世界があることを描き、少しく煮え切らない思いにさせられた。

しかし番組中、
“この太平の世に命がけの仕事などめったにあるもんじゃない、男冥利に尽きるではないか”と名台詞を吐いた。これは一家で鬼平犯科帳が大のお気に入で、各自それぞれ登場人物になり切りあるシーンを再現しあうという弟家族が大喜びしそうな場面だった。
ちなみに彼らは新聞とテレビを見ず、ディスクがすり切れるほど鬼平やパイレーツ・オブ・カリビアンなどを観ると聞いていた。

実は鬼平を観ていると、昨年亡くなった弟への供養ではないのかという気持がよぎる。

過日の鬼平犯科帳の場面。雪、番傘、粋な町人、侍、めし屋、そば屋、掘、荷車、物売り、、、いつも満点の江戸情緒。

役者も情景も素晴らしい。

そんなわけで新たにはじまっている大河ドラマ「べらぼう」もどうやら定着し、これからが楽しみになった。


音楽は鬼平犯科帳のエンドテーマ
「インスピレーション」

本日は来たる23日の小山作之助生誕160周年の講演スライドの仕上げに時間を費やした。直せど直せど修正カ所が見つかり際限無かった。当日最初の登壇、特別講演と銘打たれているので格段の緊張を禁じ得ない。

聞くところによると160名入場とうたわれているがすでに満席に近く、抽選になっているらしい。何人かの方から外れたが何とかならないかと問い合わせを受けた。
会場の前の部分に椅子を足せばもう10数人は増やせそうな気がするがそれも一杯なのだろうか。私のはともかく当日のイベント内容が良く、多くの皆さんが関心を寄せて下さるのはとても嬉しいのだが、、、。

一段落だと思った寒波は昨夜からシンシンと雪を降らせた。一日で止んだが新潟市でもかなり降られた。春にかけて沿岸も大雪になることがあるので油断できない。

寒波は峠を過ぎ小林古径記念美術館へ 昼抜きの食事例。

2025年2月9日(日曜日)

2月2日立春ころから始まった今冬一番の寒波が本日ようやく峠を越えた日曜日、小林古径記念美術館の「花にまつわる物語展」に行った。

除雪された雪は道路の両側に1,5メートル前後積み上げられてはいたが路面はきれいに現れ交通はスムースだった。

雪に降り込められていると美しさと新鮮さの美術館は別天地の如く感じられる。以下に印象的な作品を並べてみました。

小林古径による志賀直哉の小説題字と朝顔の扉絵。朝顔の色がなまめかしく、雪の時期に観るとハッとする。

古径さんが絵付けした湯呑。古径さんの器で熱いお茶を飲んでみたい。

かつてまちかど交流館で見た峯田敏郎の「白い百合のある庭」が入り口で迎えてくれた。穏やかな朱色の配分が清々しく、心込められた百合が愛らしい。

1896~1970年の上越市出身画家、斎藤俊雄の屏風。前年東京でみた田中一村を思わせる南国の画風。思いっきり良くかつ鮮やかで、とても雪国出身者の作品とは思われなかった。

エミール・ガレのガラス作品セット。うす褐色が施された透明硝子の花模様が軽やか。

同じくガレ作品。アール・ヌーボー趣味満点の上品さ。

北大路魯山人作の金彩に四季の花が描かれた10枚の皿セット。カットしたお肉に野菜の煮込みなどを分けて取ったら幸福であろう。

お馴染み齋藤三郎作品。手前の壺は青空を背景に辰砂のモクレンが美しく、もうしばらくすれば当地もこのような春が来よう。

齋藤三郎のお弟子さん、志賀重雄作品。黒釉に蝋抜きを思わせる筆で梅が描かれている。夜の梅は夜桜とは異なる粋な風情がある。

お馴染みの東洋越陳人は堂々の屏風。こうして美術館に展示されているのを知った天国の作者は喜んでいるに違い無い。

以下は本日の夕食と朝食です。

夕食は肉入りの熱いお蕎麦。

野菜炒めが付き。

ポテトサラダも。
ちょうど6時頃から
一時間少々かけゆっくり食べます。

昼食抜きの生活になって3年半が経った。因みに以下は本日の朝食です。

あずきが入った玄米ご飯、脱脂ヨーグルトにブルーベリーソースをかけ、家で採れた金柑の砂糖煮が二つ(金柑は皮だけ食べます)。かって野菜もありましたが、何か面倒なので最近止めました。もともと飲めない人間ですが、10年ほど一切アルコールを口にしていません。

朝・夕の食事前は気持ち良くお腹が空きますので身体に良いのではないかと感じています。

寒波の日、A氏のレコードを頂きに、帰路のタカ。 

2025年2月6日(木曜日)

やはりやってきた厳しい寒波の日。昨年の痛恨、生前何かとお世話になったA氏宅へレコードを頂きに伺った。立派なクレテンザを当館のカフェに置かせて頂き、何度もSPコンサートを開いたり皆さんとカフェで楽しんだ。

氏は私より若いのに確固たる信念と謹みを有し深く学ばれ、家庭と地域を愛され、心から笑い、音楽に映画、スキーなど真剣に人生を楽しまれた。いつも何か教えられているようであり、ことあれば意見を聞きたかった。

美しいバイオリン曲が掛かる部屋でお参りし、コーヒーをご馳走になり、沢山のレコードの中から聞き覚えのある演奏者と曲を選ばせてもらい、持てるだけのものを持ち、まだあるものは後日伺うことにして帰って来た。


フィッシャ・エルマンのタイース「瞑想」

時々吹雪く帰路は妻にも見てもらい冬鳥を探しながら帰った。雁も白鳥も見なかったがいつもの場所でアトリと雀、カシラダカが一緒の小さな群を見た。

車中から群を撮っているとタカが襲ってきた。群は無事だったがタカは残念そうだった。

襲撃に失敗して電線に止まるタカ。

寒さで丸くなっていたタカも
飛ぶと非常にスマート。

一瞬の晴れ間。

持ち帰ったほんの一部。

何か迷ったら氏ならどうするを想像したい。亡くなった後もまだお世話になっている。

2月23日の小山作之助生誕160周年記念催事の仕度 夕刻は朝日池へ。

2025年1月26日(日曜日)

よく陽が射して穏やかだった本日日曜日。主に来月23日の拙講演のためのスライド12枚を作り系図1枚の下書きをしました。
講演は小山作之助生誕160周年記念の最終催事の記念講演で、作之助の系譜、特に没後の話をさせてもらう予定です。

上越市と大潟区においては作之助の顕彰事業として10周年ごとのメモリアル行事や毎年の「卯の花音楽祭」が行われています。しかしながら作之助亡きあとの末裔、特に音楽に関する系譜が話題になることは殆どありませんでした。

小山家の方々は東京と関東に移られて久しく、当地との交流がほとんど絶えた現在それらについて知る手立てが失われつつあります。そこで母方の当方で知り得た範囲でお話しさせて頂くことになったというわけです。

作之助には四人のお孫さんがおられ、長女の翠さんは高等学校の音楽教師とピアノ教師に、次女香織さんの長女幸子さんは幼年から音楽教育を受け、優れたバイオリニストになられました。
幸子さんは国立音楽大学卒業後オーストリアに渡り自身の音楽を大きく花開かれておられるまさにその時、若くして亡くなられます。彼女の没後ご主人は高名な指揮者兼バイオリニストに、幼かった遺児ヨナスさんはオーストリア屈指のホルン奏者など実は作之助の「音楽の系譜」は国外で伝わっていました。
これらの情報の詳細は幸子さんの同窓で先輩の作編曲家、指揮者、音楽プロデューサの中島良史氏から、ふとしたご縁でもたらされました。
※良史氏と幸子さんは同姓ですが血縁者でありません。

当日は中島氏から一昨年春に届けられた幸子さんの日本における演奏旅行で録音されたレコードアルバムの一部を掛けるつもりです。

会場は大潟区のコミュニティ-プラザで当日午後1時30分からの予定です。
どうかお暇をみてご来場いただければ有り難く存じます。

本日午後妻は美術館と家の整理を行い、夕刻一緒にハクガンを見に行きました。見ると言っても田では簡単ではないため、少なくとも朝日池でねぐら入りくらいは見ようと出かけました。

途中の尾神岳。
雲が格好よく、雪は少なそうでした。

目星を付けた4,5カ所の田んぼにハクガンの姿は無く、朝日池へ向かいました。

池に近づくと遠くから雁の群がやってきた。
幸運にもハクガンでした。

 

全群高らかに鳴きながらやって来て、
着水するなり急に静かになるのを
妻は不思議がっていた。

確かに空であれだけ鳴いたのに、、。不自由な水上で猛禽に居場所を知られるのを警戒するのかも知れません。但し普段新たな群が下りる場合、水上と空で盛んに鳴き合います。

夕焼けを写した水面のカモたち。

 隣の鵜の池の夕焼けを見ながら
帰ってきました。

2月23日のイベント
・会場と時間:大潟コミュニティプラザ 13:30~
・後藤丹 上越教育大学名誉教授による小山作之助に関する楽曲の解説講演。
・ゲストによる演奏会 などが開催されます。
・お申し込み、お問い合わせ ☎025 534 4367(大潟区公民館)

楽しい記念日になろうと存じますのでお暇を見てお寄り下さい。
近々詳細が告げられますので再度当欄でもお知らせ致します。

ああ近くに居たかった 鮎の甘露煮と百人一首最中。

2025年1月19日(日曜日)

本日日曜日も穏やかに晴れた。午後、庭に使う用土を買いにホームセンターへ出かけた。昨年秋から庭全体に肥料入り用土を蒔いているがまだまだ足りない。

本日芝生の目土3袋、花の培養土8袋を求めた。それぞれ小さめの14L袋11個を台車に積んだ。台車は一杯いっぱいになった。支払い後車まで運ぶ途中、溝のようなヘコみでガタンと音がして台車が前にひっくり返った。台車を起こしたところで遠くからスタッフが走って来て、車に載せるまで手伝ってくれた。

さて連日の鳥(ハクガン)です。今日はホームセンターへ向かうのに田を見ながら走った。午後2時半過ぎた頃、高く飛ぶ雁の大きな群を見た。双眼鏡を覗くと大半がハクガンだった。

車の向きを変えて群を追ってみた。雁の方向は朝日池で、車の私はあちこちの道をジグザグに走らざるを得ない。車が池に近づく頃、群は池の西端、米山に向かって手前の狭い部分を旋回していた。低く何度も回る。おそらく近づく前に下りてしまうだろうと考え遠くから望遠で撮った。

頭上を通過する群。

遠くからだったが以下の写真が撮れた。

湖上を旋回する群。

ここに居た方たちにとって
光景は奇跡だったに違い無い。

 降る如く舞う如く何度も旋回。

ああ羨まし、大きな群だった。せっかく舞ってくれているのに私は遠くから、しかも遅れて撮らざるを得なかった。普段のねぐら入りは17時前後であり、明るいこの時刻に現れるのは滅多に無い。池のふちにおられた方達は何と幸せなことだったろう。

因みに群の近くに居たのは大抵地元の人か撮影をしない観察者さんだ。一方普段三脚に大望遠レンズで撮る遠来のマニアさんたちはやや遠く東の方で構えている。車の数は数十台はあった。今日ばかりはここで待っていた人達が大変な幸運を掴んだと言える。

さて昨夕は京都、滋賀旅行でお世話になったAさんご夫妻から届けられた見事な鮎の甘露煮を食べ、本日は百人一首歌留多の最中を頂いた。

皺一つ無い見事な子持鮎。
美味しくてほっぺたが落ちそうだった。

百人一首の札が上下2枚の皮となって一包みされている。それにさお状になった甘い餅が入った小豆あんを切って挟む。
高校時代、一時家で百人一首が流行り、母に習って「むすめふさほせ」などを覚えて楽しんだ。このたびお菓子といえど札通りの図案はとても懐かしかった。

本日はせっかく紫式部の「め」で最中を作ったのに撮る前にバクリと食べてしまった。歌は「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」だった。幼なじみとの短い出会いの名残惜しさを雲隠れする月にたとえた歌だった。しかし私の式部最中(もなか)は巡り会うなり即お別れだった。

そこで二つめの河原左大臣(かわらのさだいじん)「陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」」を作って食べた。
「しのぶもぢずり」は福島県信夫地方の染めによる衣のことらしい。“もじずりのように乱れた私の心はあなたのせいです”と歌っている。

その昔、「しのぶもぢずり」の意味など全く分からずに遊んでいた。しかし意味不明の変わった言葉でも、かえって頭にこびりつい長く忘れずにいることがあるんだと思った。
※河原左大臣は嵯峨天皇の皇子だった人。

美味しい鮎、楽しい最中、京・近江の文化を有り難うございました。

音楽家飯吉さんご兄弟、兄汐澤靖彦さんのご逝去。

2025年1月11日(土曜日)

当欄でかってお載せしました指揮者の汐澤靖彦さんが去る7日にお亡くなりになりました。当日Yahoo!ニュースに出ていましたが、本日お載せ致します。

汐澤さんは本名飯吉靖彦と申され、中学時代からピアノで有名でした。お父さんは潟町中学校の校長先生だったと思います。当持の同中学校は吹奏楽が盛んで、近所の同級生たちはピッコロ、小太鼓、トランペットなどで一緒に演奏していました。
学生服の靖彦さんは時に我が家でピアノを弾いてくださりスターの雰囲気がありました。

直江津高校から進んだ東京藝術大学卒業後は読売日本交響楽団の創立時のバストロンボーン奏者として長く活躍、その後著明な吹奏楽団の指揮者とともに広く後進の指導に関わられ、東京音大名誉教授に任ぜられました。

当ブログには2015年、上越タイムス首都圏版での記事掲載2023年の白金フィルのコンサートの記事を書かせて頂きました。
23年には氏の友人から是非楽屋でお会いしてと勧められていましたので、当日お訪ねしますと、非常に喜んでくださり、お元気なのと「兄がお世話になりました」と仰ったのが心に残っています。

お兄さんの馨氏は新潟大学芸能科で学ばれた後ジャズに進みピアニスト、作曲、アレンジャーとして活躍され、NHKにもレギュラーとして出演されました。
私どもにも何度かお寄りになり、氏のライブ演奏をよく聴きに行きました。

一昨年指揮後の汐澤靖彦氏と
東京芸術劇場の楽屋で。

東京で演奏する馨氏。

馨さんは既に亡くこのたび靖彦さんもお亡くなりになられ本当に残念です。お二人の歩まれた道は違いましたがそれぞれの音楽に捧げられた情熱は熱く、幸せなご兄弟ではなかったでしょうか。

この度の汐澤靖彦さんのご逝去に対し心から哀悼の意を申し上げます。

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