倉石隆

「手は難しい」と言った倉石隆の手 その2動作の手 心の手。 

2015年8月23日(日曜日)

倉石隆の手に関連して前回は、手が描かれていない人物画を取り上げました。

本日の以下の二枚は1945から50年まで、戦後高田に復員していた困窮時代に書類や座右の半紙に描かれた素描です。
動作に関連したもので、構図が良く手のエッセンスが素早く描かれています。

授乳倉石隆 素描 「(授乳)」

寝そべる倉石隆 素描 「(寝そべる)」

 

このように熟達した描写力の倉石氏が「手は難しい」といいます。
次は動作をしていない人物(肖像など)で、表情のある手を見てみました。
いずれも1950年に上京し、画家としての地位を築いて行った時代の作品です。

(若い女性)倉石隆 素描 「(若い女性の像)」
重ねられるように組まれている手から、穏やかな感情が伝わります。
ダ・ヴィンチの「モナリザ」は椅子の肘掛けに片手を掛けていますが、この女性も似たような手の組み方をしています。

愁倉石隆 油彩 「愁」
固く組まれた手に愁いの強い思いが込められているようです。

 

最後に上の2枚と較べて、一種心の不安定さが手に感じられる作品を挙げてみました。

③見つめる倉石隆 油彩 「(みつめる)」
顔と同じくらいの大きさで描かれている手が気になります。
しかも離れた両手の高さが異なり、不均衡さが人物の心理に動きを与えています。
やや固い表情とともに、この手は一種不安定な気分を伝えようとしているようです。
但し、着衣の深い暖色と、首回りの引き締まった黒が絵画としての安定感を際立たせていると思われますが、如何でしょう。

モデルは作者自身ということですが、「(みつめる)」は私の好きな作品です。

1枚の無言の人物に込めなければならない心理や感情。
それが人物の困惑や不安で、しかも手でも表現を試みるのは、確かに難しいことでしょう。

心は文字や言葉にするさえ難しいのですから、倉石氏は手を何度も描いては消し、消しては描いたにちがいありません。
次回は「(みつめる)」と同じように、安定していると言いがたい心が手に表れている作品を幾つかご紹介したいと思います。

※括弧で書かれた作品タイトルはオリジナルのものが無いため、
「新潟市美術館企画展示図録 郷土の作家シリーズ 倉石隆展 1995年9月14日発行」の記載に依り、また一部は私が個人的に仮題としてつけました。

「手は難しい」と言った倉石隆の手 その1手が描かれていない作品。

2015年8月21日(金曜日)

過日美術館を見るという宿題の中学生とお会いした事を書かせて頂いた。

そのおり、〝倉石隆の人物作品は幾分ややこしい。
この画家には美術=美しい、楽しい、という図式と異なる部分があるからであり、
人間の孤独や不安、迷いやあせりなど弱い所へもしっかり目を向けた人〟など話をさせて頂いた。

さて、その倉石氏は生前「手は難しい」述べていたことを夫人からお聞きしたことがある。
デッサンの名人であり、太平洋美術学校時代は毎年デッサン賞に輝いた氏。
氏は後年「僕はデッサンをやり過ぎた」とまで述懐している。
なぜその人が「手は難しい」と述べたのだろう。

氏にとって手だけ描くのであれば、おそらく造作のないことだったろう。
仮に読書、演奏、絵画制作など「何かをしている」人物であればそれに合わせた手のポーズを描けば良い。

だが何もしていない人物画(肖像画も含めて)における手の扱いはどうすればいいのだろうか。
美しく描かない画家、倉石隆にとって重要なのはモデルの心理、感情、時には人物の歴史や物語でもあったはず。
顔や目は時間を掛ければ何とか描ける。
しかし手の心理、感情表現となると解剖図などに当然なく、描法もないl。

心理学で探すか、他者を詳細に観察するか自分を見るしかない。
正確に行おうとすれば、確かに難しい課題である。

このたび数回にわたって倉石隆の手について書いてみたい。
本日はまず手が描かれていない作品から二点掲載してみました。

①M夫人倉石隆 油彩「M夫人」

 

46倉石隆 油彩「秋」

何故手を描かなかったのだろう、と幾分の疑問を覚える作品である。
だが作者は作品に余計な心理感情を交えず、ただその人らしさを描きたかった、と考えてみた。
そのため手を描くことで生ずる雑音をあえて避けたのだろうと思われる。
倉石隆が終生心の師と仰いだという、レンブラントにも手が描かれていない自画像は多い。

次回は穏やかな手が描かれた作品に触れてみたい。
さらに先では困惑や混乱の心理、感情が手に表れていると考えられる作品について記載してみたいと思います。

倉石隆「男の像」の額装 すっきりしている関川の路傍。

2015年5月22日(金曜日)

4月下旬に倉石隆作「男の像」が樹下美術館の新たな作品として加わりました。
当初、作品は額が無く簡易な仮枠がついていました。

数日後、展示に向けて額を付けたいと考え上越市本町の大島画廊さんで枠を選び額装をお願いしていました。
これまで何度もこの様な作業を行ったことがありますが、いつも難しいと感じます。

見栄えが良すぎるものでは作品が冴えなくなり、個性が強すぎると不調和が生まれます。
本日額装が出来上がり取りに伺いました。

額装彫り模様がついた細めの渋い銀色の額が付きました。
欲求不満の大男がやや可愛くなったようでした。

私としてはうーん少々締まりが足りなかったかな、と感じましたが、
展示向きに控えめな飾りを施させて頂いたということで納得する事にしました。

さて画廊の帰り道稲田橋にさしかかると、関川と妙高山が大変気持ち良く見えました。
そこで稲田小学校の方へ土手の道を曲がって見てみました。
山や川はもちろん美しかったのですが、足下のシロツメクサがイネ科の草に混じって揺れるのも可憐でした。

稲田橋付近のシロツメグサ可憐な路傍の草花。
感じが良かったので、ブログのヘッダーにしばらく用いることにしました。

路傍が荒れずにすっきりしているのは、市がほどよく草刈りを行っているからでしょう。
県道なども含めほかの地域にも、このような配慮が行われてほしい、と心から思いました。

本日届いた風変わりな「男の像」。

2015年4月26日(日曜日)

好天が続いている本日一枚の絵が到着しました。
開館前からお知らせ致しました倉石隆作の油彩「男の像」です。

カリカチュア風(戯画風)の男性像ですが、倉石氏ご自身の自画像と理解されます。
氏の制作はよく〝ごしごし〟とキャンバスをこする音がしていた、と夫人からお聞きしていました。
当作品も塗り重ねた絵の具をキャンバスの目がよく見えるまでぬぐっています。
そのため、うす塗りであるにもかかわらず深さが感じられるのです。

E倉石隆作「男の像」 1955~60年 72,0×60,0㎝。

画面いっぱいの体に小さな顔と行き場が悪そうな手が印象的です。
顔はどう見ても良い人相ではありません(御本人はとてもハンサムなのですが)。

絵は頭と手で描くものと考えますが、倉石氏は体だけ大きく大切な所をわざわざ小さく描いています。
ある種自虐とも思われますが、実は内省し自らを俯瞰する余裕が無ければ出来ないことでではないでしょうか。

上京して5年が経ち、ようやくひと落ち着きし始めたころのある日の、健康を自覚ながら、
「現在の自身をこの程度として、これから先頑張るぞ」という一種伸びやかな決意の一枚に見えるのです。

よく作家は「ご自分なりの見方でいいですよ」と仰いますが、如何でしょうか。
明日から展示で、現在仮枠ですが、シンプルで楽しい額を選べればなあ、と考えている所です。

NHK「小さな旅」の雁木通り 倉石隆のふるさと。

2015年2月6日(金曜日)

今夕NHKテレビ「小さな旅」で放映された-雁木あたたか-を見た。
新潟県上越市高田の雁木通りの風物と暮らしの一端を紹介していた。

雁木通り

高田のらしさは色々あるが、町並みで言えば雁木、わけても古い通りにあると思う。
番組でも新たな本丁筋は触れられなかった。

およそふる里感のある村落や町並みは人を惹きつける。
いずれにも一生懸命に営まれ磨かれた生活と時間が生きて漂う。
そこでは自らのふる里でなくとも、郷愁が眼を醒まし心癒やされるのだろう。
このような場所はにわか作りが不可能なので、慎重な保全が必要な財産に違いない。

以下は倉石隆のふる里に関する作品と文です。

北の町倉石隆作「北の町」 1953年 21,6×27,3㎝ 樹下美術館収蔵。

粉雪が舞う倉石隆作「粉雪が舞う」 1985年 146,5×98,6㎝ 上越市収蔵
写真は新潟市美術館1995年9月14日発行 郷土作家シリーズ 倉石隆展 から。

-幻のふるさと- から抜粋
町名が上越市と変わっても、僕の故郷の町は高田でなければならない。目抜き通りにビルが建ち並び、行き交う人びとが都会風のファッションに彩られたとしても、僕の幻の町は、風雪にさらされ、家並みは灰色に沈んでいなけらばならない。
雁木はせまく、薄暗いトンネルんのようにどこまでも長く続いていて、すっこかぶりのお父っつぁと、角巻き姿のおっ母さが背をまるめて雪の中を歩いていなければならない。
それから、黒いマントの少年たちのいる風景。その時代錯誤の幻の町こそ僕の中のふるさとなのです。
(1987年12月11日新潟日報日曜版 35周年記念特集 ふるさとを描くシリーズ掲載 倉石隆の「粉雪が舞う」の寄稿文から)

立春の鳥 楽しみな倉石隆の作品。

2015年2月4日(水曜日)

立春に相応しい穏やな日、青空に踊るような雲が見られました。

出かけた柿崎川にコハクチョウがいました。
川で白鳥を見るのは初めてでかなり驚きました。
眩しいばかりの白さです。

傍らの樹には雀の群。
厳しい冬を無事に越えようとしている群に安堵が感じられました。

 

白鳥

雀

そして本日の樹下美術館。樹下美術館1月28日の夜半に降った雪が5~10㎝ほど積もっている。
カフェの前は屋根の雪が集中して落ちるので板を重ねて守っています。

今年の開館まであと一ヶ月少々。
つい先日決まったことですが、倉石隆のカリカチュア風な油彩人物画(自画像)が樹下美術館に加わることになりました。桜のころ新幹線に乗ってやってくるのです。

難しかった倉石隆の図録のあとがき。

2015年2月2日(月曜日)

樹下美術館は倉石隆と齋藤三郎を常設展示しています。
毎年カテゴリを変えていますが、目覚ましい特別展というものは無く静かなランニング(長距離ランナーのような)ぶりです。

それでもご覧頂き販売できる収蔵図録(カタログ)は長年の悲願でした。
それがなぜ今日未完成なのか。理由の一つに私自身が作家の志に十分添い得てなかったことが挙げられます。
どこまで迫れるか、とくに倉石隆の「あとがき」に苦労していました。
これは作家に対する総括のような意味合いがあり、何度書いてももの足りなかったのです。

しかし今年になってふと以下のような文章になってきました。
手前味噌は否めませんが、ほぼこれ以上書けないのではと思い恥を忍び掲載してみました。

齋藤三郎の焼き物には用とある種の様式美がありますが、絵画への言述は本当に難しいのです。
しかし倉石隆をおよそ以下のようにしめくくることで、皆様の手助けになるのであればと、思っている次第です。

あとがき
生涯人物を描き続けた倉石隆。その姿勢には挑戦者の如き情熱と一貫性が認められる。人物への傾注と深度をみるにつけ、氏は人間を描きたくて画家になったのではないか、とまで考えさせられる。
生前〝美しく描くより、本物に迫りたい〟と潔く述べている。さらに生涯崇拝した画家がレンブラントであり、カリエール、エゴンシーレ、クリムト、ジャコメッティにも影響を受けたと聞く。みな人間の芸術家である。

なぜそれほどまで人間だったのだろう。眼前に風景や静物、脳裏に抽象やファンタジーもあったであろうが、、、。
遡れば若き日の倉石にも、自分は何者、何処へ向かうのか、は切実なテーマだったにちがいない。深く内省する氏であれば、自らの中で直接的に脈動し観応される「生命」とその多様な有り様こそ描くに相応しいものと、手応えをもって確信した瞬間があったのではないだろうか。
中学時代の氏は丘の上や地下室のような部屋においてしばしば友人達と語っている。そこで「僕は人間に決めた」と述べる倉石が浮かぶのである。

あらためて氏の作品の前に立つと、その存在感ゆえ人物たちは今にも動いたり話しそうな錯覚を覚える。そのため静かな樹下美術館の小さな壁はいつも賑やかなのである。

後年、自分はデッサンをやりすぎたという述懐が伝わっている。しかし優れたデッサンは終生の具象、なかんずく多様な人物達に長い生命を吹き込むことに立派に成功したではないか。ささやかな樹下美術館で倉石隆を飾れることを幸せに思う。
(もしかしたらもう少し変わることも考えられます)

 

男児(男児) デッサン 1945-50年 36,2×26,3㎝

 

めし「めし」 油彩 1953年 33,0×22,4㎝

 男(O氏の像)「男(O氏の像)」 油彩 1973年 116,7×72,7㎝

小田嶽夫の特装版「回想の文士たち」と倉石隆。

2014年9月21日(日曜日)

過日本棚の奥まったところにある本が気になって開いた。
手書き風の表紙文字にまず興味を惹かれた。

小田嶽夫 回想の文士たち 冬樹社 特装本 限定100部の内39番 定価15000円

書棚に上越市が生んだ芥川賞作家の文字通り特別な本が眠っていたのだ。
2007年、樹下美術館設立に先だって地元関係者の書物などを集めていた時期に、古書店から購入した一冊だった。
本は大切に、何重にも函に包まれ、ひもとくというより、まず取り出す作業が必要だった。

途中、扉を開けると、倉石隆の銅版画「少女」の実物がひょっこり出てきた。

1外箱(ケース)の全体

2スライド式に外箱から中身が出てくる。

3上部を折り合わせて本がくるまれている。

4出てきた箱入りの本。表題の紙に花のカットがある。

5箱から出し、半透明のグラシン紙カバーを取った本。表紙に顔のイラストが貼ってある。

6見返しの著者自筆署名。 

7扉に樹木のカット。

8扉を開くと薄紙の下に少女の図が透けて見える。

9図は版画であり、鉛筆で39/100のエディション・ナンバー T、Kuraisi のサインが記されている。

11天は金箔がほどこされ、いわゆる天金の様式。

10奥付(おくづけ)。以下その要旨。
特装版 回想の文士たち ©1978 限定部数100部
著者 小田嶽夫 三十九
文士生活50周年記念 金谷山麓文学碑設立記念 昭和五十三年10月16日発行
定価15000円 発行所 株式会社 冬樹社
などと並び印刷会社、製本会社、製函会社名が記されている。
装丁 倉石隆 とあり、函や表紙のカットも倉石氏の手になろう。

78樹下美術館が収蔵している倉石隆の胴版画「少女」 (9,0×7,7㎝)
a..p(Artist ‘s Proof:作家管理分)と記され、T,Kuraisiのサイン。

小田嶽夫と倉石隆の親交は戦後小田氏らによる「文藝冊子」の黎明から始まっている。
1950年上京した倉石の、後の練馬の家には多くの画家達に混じって小田氏や上越出身の彫刻家・岩野勇三氏も訪ねた。
時を経て、記念すべき小田氏の特製版書籍の刊行に際し、版画入り装丁という形で倉石隆が協働されていた事に驚き、感激を禁じ得ない。

書籍には小田氏の多岐に亘る友人、知人、先達諸氏との親交や印象が綴られている。中でも太宰治、井伏鱒二、檀一雄、武田泰淳、小川未明、坪田譲治らとの酒にまつわる縁、将棋、文学論、崇拝あるいは同情、またはけんか話など興味尽きない内容である。

戦前・戦後、阿佐ヶ谷周辺に集まった若き日の文士たちが多く登場し、先日阿佐ヶ谷へ孫訪問に行った際、中身を持参して読みました。

〝私の友人の殆どは、その人がまだ世に出てない時分からの交わり者ばかりで、お互いに世に出たあとでの友人というのはごく少ない〟
〝例外も無くはないが、人間のいちばん大切なのはその青春時代のような気がする〟
など真摯に愛された人ならではの述懐も心に沁みます。

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多事にかまけて大切な箱入り娘?を長くしまい込み反省しています。

※当書籍は1973年6月20日初版発行「回想の文士たち」の特装版になります。
※できれば来春、収蔵の版画を特装版とともに展示いたしたいと思います。

新潟市美術館協力会のご一行様。

2014年6月27日(金曜日)

空梅雨というほかない晴れの日。向こう一週間の予報も今のところ雨マークは1日しか示されていない。

そんな本日昼前、新潟市から新潟市美術館協力会の皆様がバスで来館されました。
先日、同美術館で「樹下美術館の倉石隆」のお話をしたばかりでした。
仕事を終えて駆けつけると当館には珍しく大きなバスが駐車場にデンと停まり、
皆様全員で記念撮影の所でした。

塩田館長、松沢副館長、協力会の皆様の26人さん。
皆様には先月15日、貴館に於ける拙講演会でお会いしていました。
この度は熱心に当館の展示をご覧頂き、お茶を飲み庭に出て頂いたとお聞きしました。

140627新潟市美術館ご一行様これから赤倉へ。

赤倉は昭徳稲荷美術館を訪問の予定ということでしたね。
稲荷美術館は前田常作、糸園和三郎でしょうか、作品は胸打つことでしょう。
本日気温は上がりましたが風ほどよく、快適な美術館巡りだったにちがいありません。

幾つかのラッキーと一つのアンラッキー。公立美術館との交流。

2014年5月18日(日曜日)

何度か書きましたが、本日日曜日は午後3時から新潟市美術館で倉石隆の話をすることになっていた。

実はそのためのスライド作りを昨夜から続けていた所、気がついたら朝7時!
キャプションの位置を揃えるなどまだ修正したいところもあったが、即刻中止して寝た。

個展案内板遊心堂さんの案内ボードもあと二日。

 

起きて拙作品展に出向くと10時半、もうお客様がいらしていた。
2011年新潟市の知足美術館の個展でお会いしたある退官教授ご夫婦のお顔が見えた。
その時自分もボタニカルを描いてみたい、と仰り、後にわざわざ樹下美術館まで訪ねてこられた。
幾つか要点をお話したことは覚えているが、頂いた年賀状のバラに独自の境地を見て驚かされた。

このたびは絵葉書にした最近の作品を拝見したが、ル・ドゥーテばりの生き生きしたバラだった。
起伏を越えて筆を折ることなく描き続けられた事に、同志的幸福を覚えた。

皆様にご挨拶している間にあっという間に正午、新潟市へ急いだ。
新潟市美術館協力会の年次総会後の講演は「倉石隆作品との出会いと樹下美術館」がテーマ。
80枚もあるスライドを急いだが15分の予定オーバー。
終わって一つ質問が出た。

会場会場の様子 司会は1995年の図録「倉石展」を作られたM氏。

その方は以前に樹下美術館を訪ねたと言われ、当館オリジナルのシーグラスチョーカーを着けていらっしゃった。
質問も良く、丁寧に答えさせていただいた。
さらに会場には上越市からご常連さんの顔が見えていて、遠くでご自分のチョーカーを指さされた。
こともあろうに来月、会場の皆様はバスで樹下美術館を訪ねてくださるという。
小さな樹下美術館の何という果報、有り難き幸せである。

終わると担当の副館長Mさんが「開催中の特別展「洲之内徹と現代画廊展」を案内して下さった。
膨大な展示を急ぎ足で見て回った。
中でも夭折した画家達の作品には独特のインパクトがあり、直視の機会が乏しい松本俊介、村山槐多らを
目の当たりに出来たのは望外の幸運だった。

昔の芸術家は止まない咳が始まると結核→死を直感して、憑かれたように濃厚な若い魂を燃焼させたのか。
その点、何とはなしに80、90と長生きする現代の制作には、ある種の間延びの辛さなどないのだろうか。
反面、その気になれば死期を意識する晩年こそ、長い過去の経験と相まって新たな精彩が期待出来るかもしれない。

たわ言はこのくらいにして、続けて案内された同館のコレクション展示を急いで見た。
驚いたことに、倉石隆の戦後初期の傑作「(静物あるいは瞬間)」が入り口の特等席に架けてあった。
図録「倉石隆展」の一番目にある作品で、想像よりもずっと大きく103,3×162,1㎝の大作だった。
自由美術協会に入会した年の記念碑的作品にちがいない。

(生物あるいは瞬間)乏しい絵の具をいとおしむように丁寧に使い、全体に幸福感が漂っている。
猫と手袋の黒を浮き立たせるアイボリーとグレーが効いたおしゃれな絵だ。

 

その次のコーナーには倉石隆と傾向が似て、しかも氏が影響を受けたウジェーヌ・カリエールが4点?並んでいた。
軟らかなランプシェードに浮かぶカリエールの人物。
「霧のカリエール」と称された通り、うす靄のような空気の中で静かに呼吸していた。
倉石氏から続くこの並びは憎いほど気が利いていて、同館ご自慢のコーナーであろう。

先日は新潟県近代美術館の学芸員の方達が当館の堀口すみれ子さんの講演会に来られた。
また、この度は新潟市美術館に招かれ、来月は協力会の皆様が樹下美術館を訪ねてくださる。
かつて遠いと感じていた公立の大きな施設と小さな私どもが親しく交える。
わずか8年目であるが頑張ってきた成果なのか、大変嬉しい。

カリエール薄い霧がかかっているようなコーナー。

本日関東、東京から来客があり鵜の浜温泉で夕食をともにした。近時珍しく品の良い夕焼けだったが、陽はすでに帰りの道中で沈みカメラには収まらなかった。
2時間しか寝ていない日の高速道路、、居眠りが心配だったが無事だった。

夕暮れの火打、焼山 - コピー日暮れた上下浜のあたりから高速道路を見る。遠くく火打山、焼山、西頸城の山々が見える。

拙展の会場で友人とご家族が「ガラステーブルの洋梨」を2点買って下さったと聞いた。
友は有り難い。

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