倉石隆

2011年度倉石隆展示作品についてのご案内

2011年3月1日(火曜日)

3月2日から開館致しました樹下美術館の絵画ホールの倉石隆作品は今年いっぱい以下のような展示を行います。
倉石隆は太平洋戦争に応召され昭和20年実家の高田市に復員しました。困窮の時代にあって再上京までの間、実家で用済みになった様々な伝票、書類に多くのデッサンが残されました。

 

このたびはホール正面に「赤い布を巻いた女」「琢也」の大きな油絵を二枚架け、この左右に高田時代のデッサンを配置しました。空腹の自分、愛する家族、小品ながら画家の深い眼差しが伝わります。

 

倉石隆作品

 デッサンは上掲のほか、さらに「自画像」、「笑う女の子」、「ビンの群に文」、「クルミのデッサンに文」が加わります。

なお陶芸ホールに「妙高山」「画室」「朱色のチューブ」の油彩を、

カフェには「眠る児」「椅子の婦人」のデッサンを架けました。

デッサンのタイトルは、いずれも当館で付けさせていただいた仮題です。

マッシュルーム・けやき

2010年12月15日(水曜日)

ちょうど一年前のノートに名作椅子「マッシュルームスツール」のことを書かせていただきました。記事で当椅子が2008年12月パリにおける「日本の感性展」で好評を博し、09年10月にパリ装飾芸術美術館のパーマネントコレクションに選らばれた事を記しました。

 

この秋、デザインした山中グループは装飾美術館の選定記念に限定100脚のマッシュルームを制作しました。これまではマホガニーとクスでしたが、記念スツールはケヤキで制作されました。

マッシュルームけやき樹下美術館に加わった「マッシュルーム・けやき」(左手前)、フレッシュです。

 その昔1961年に家具メーカー天童木工は家具コンペを行いました。3人の学生、山中グループがデザインしたスツールが入賞を果たします。しかし作品は2003年の商品化まで41年間も眠り続けました。眠りを覚したのは昨今のミッドセンチュリーへの人気でした。マッシュルームは復刻後一気にパリ装飾芸術美術館の永久収蔵まで登りました。

2007年、樹下美術館開館の際に絵画ホールの椅子にと天童木工のスツールからマッシュルーム二脚を選びました。後で山中グループのお一人が当館収蔵作家・倉石隆氏のご長女と知って大変驚きました。

「マッシュルームスツール・けやき」には和やかな味わいがあります。どうぞご興味のある方は以下からご覧ください。 山中康廣建築設計事務所&YAMANAKA DESIGN OFFICE

今日から上越市一帯も今年初めての寒波に入り、降雪に見舞わました。

人に歴史あり 山中阿美子さんのお話

2010年11月7日(日曜日)

 昨日午後、樹下美術館陶芸ホールで山中阿美子さんの講演会を無事終了した。人に歴史あり、まして芸術家においておや、、、、感銘深いお話だった。

 

 人は多面的な生き物であろう。しかしながら子でなければ語れない父の像はまぎれのない真実にちがいない。昨日当館常設の画家・倉石隆画伯のご長女阿美子さんが語られた父の不遇と幸いなど、一時間のお話に心震えた。そして新たな親しみをもって倉石隆の絵画を見ることができる幸せを実感した。

 

阿美子さんお父様の自画像の前で 

 

 「子ども心に父の絵は暗く、ともすれば怖いと思った。しかし父はいつも明るい人でした。」 何という言葉、本当に素晴らしい講演でした。

 

 本日、満席にして頂いた皆様、新潟からのお客様、東京から駆けつけて頂いたご親族の方々、本当に有り難うございました。

 

会場  開演一時間前の会場。
これまで椅子のレンタルは法外なコストでした。スーパーで一客780円くらいでしたので、この春思い切って揃えました。柿崎町で何度も演奏会を聞かせていただいた故佐藤実さんにならってそう致しました。普段はスタッキングして車庫に入れています。

 

 最後にあと一ヶ月半で樹下美術館は今年の閉館です。ご来館頂いた皆様、当拙ノートをお読み下さる皆様、心から御礼申し上げます。

 樹下美術館は市の一銭の補助を受けずやせ我慢を通しております(今のところ)。どうか今後とも宜しくご愛顧のほど、腰折りエビの如くなってお願い申し上げます。
                                       感々謝々

自然で優しい異能の人、司修さん

2010年9月26日(日曜日)

司修(つかさおさむ)先生は優しくて魅力的な方だった。本日午前、筑波進先生のご案内で樹下美術館をお訪ねくださった。私は大緊張してお迎えした。こちらの緊張を見て余計優しくなさったのかもしれない。

そのむかし、氏は練馬の倉石隆宅近くに住まわれ、お二人は毎日のように往き来されたという。本日は、館内で倉石氏の挿絵原画を顔を付けるようにしてご覧になり、なつかしいなあ、うまいなあ、と仰った。陶齋の陶芸作品も熱心にご覧頂いた。

絵をご覧の司さん
倉石氏の挿絵原画をご覧になる司氏

 カフェで
倉石氏の絵の前でお茶

 その後、カフェでお茶をご一緒した。若き日に倉石氏などお仲間たちと大いに飲み、議論し、時には喧嘩もしたことなどをお聞きして楽しいひと時だった。先生は若々しく、眼差しに青年の光を保有される。あったかもしれない不遇などは,みな教養と力に変えて膨大なお仕事に臨まれたことだろう。

 先生の画業、なかでも装丁と挿絵はその界の寵児の観がある。調べてみると装丁(挿絵がはいることもある)は、三浦哲郎、埴谷雄高、佐佐木幸綱、夏樹静子、大岡昇平、向田邦子、松本清張、石井桃子、中村真一郎、佐木隆三、井上光晴、山田風太郎、吉田健一、谷川俊太郎、瀬戸内晴美、椋鳩十、西脇順三郎、梶山季之、有吉佐和子、金子光晴、赤川次郎、小川国夫、水上勉、加賀乙彦、大江健三郎、岸田今日子、星新一、遠藤周作、柴田錬三郎、立花えりか、江藤淳、白石かずこ、黒岩重吾、竹中労、室生犀星、長谷川郁夫、野坂昭如、古井由吉、松谷みよ子、いぬいとみこ、阿刀田高、森敦、石原慎太郎各氏ほかのご本に。ギヨーム・アポリネール、バーネット夫人、ウラジーミル・ナボコフ、ミヒャエル・エンデ、ジュール・ベルヌほかの翻訳本、そして多くの文庫本と、ご活躍は驚嘆を禁じ得ない。

司さんのご本樹下美術館が所蔵している司さんのご本(一部はカフェに出ています)

 また小説家として自ら著作、挿絵、装丁(作者自装)になる書物も多数にのぼり、小生の僅かな蔵書でも格別な趣が感じられる。作品では人の遠く暗い場所に潜む生き物の、あるいは個人の源がしばしば掘り出される。それらによってある種経験の共有感覚が呼び覚まされ、読み終えると浄化を受けたような深い作用を感じる。

 これまでに得られた1984年ボローニャ国際図書展グラフィック賞推薦、ライプツィヒ国際図書賞金賞、講談社出版文化賞ブックデザイン賞、小学館絵画賞、小学館児童文化賞、毎日出版芸術賞、川端康成文学賞、などの栄誉は自然なことだったにちがいない。

  本日午後から高田やすねで上越芸術協会・たかだ文化協会主催による先生のご講演があった。画業の遍歴から最近のお仕事である与謝蕪村まで、興味つきないお話に時の経つのを忘れた。最後に、これまで出会った全ての人が自分の先生だった、と振り返られた。

著作の一つに、お母様の生地を新潟県東頸城に探し当てる小説「紅水仙」がある。氏はまた倉石隆、矢野利隆、賀川孝、矢島甲子夫、筑波進氏ら上越出身の画家と親交を結ばれ、当地は初めてではないとお聞きした。私たちとの縁は決して薄くはなかろう。

先生、このたびは本当に有り難うございました、ぜひまたお越しいただきたいと思います。

本日の秋晴れ、そして明日は司修さん

2010年9月25日(土曜日)

雨によってクリーニングされた空。こんな日の雲は特に楽しい。ぷかぷかほわりと、一日中くったくなかった。

 柿崎区坂田池 今日の柿崎区坂田池(左に米山、右に尾神岳)

 

明日は司修(つかさ おさむ)さんをお迎えする日。氏は絵画、装丁、文学の異能の人としてつとに知られる。このたびは上越市展の審査に来越され、明日は上越美術協会・たかだ文化協会主催の講演会でお話しされる。

司氏は無所属で元主体美術協会の創始会員。樹下美術館常設展示の倉石隆氏とは共に歩まれた間柄とお聞きしている。明日、光栄にも同会・筑波進氏のご案内でお訪ね頂くことになった。不勉強な私などはコメントできる立場ではないが、氏の多彩で繊細なお仕事には深い教養と強靱な心身のバネを感じないわけにはいかない。

中学校の学歴を最終として映画の看板書きから画家、挿絵・装丁家、そして小説家にまでなられた人。1999年に法政大学文化学教授、2005年に同名誉教授のご経歴はそれだけで貴重な物語であろう。

 

樹下美術館のデッキ 今日の樹下美術館のデッキ

 明日のお天気も良い予報が出ている。我が小館振りは恥じ入るばかりであり、緊張をもってお迎えしたい。

お知らせ・山中阿美子さんの講演会「父倉石隆との思い出 そしてマッシュルーム」

2010年7月30日(金曜日)

 

 【樹下美術館三周年、秋の催しのお知らせ】

 

講演会お知らせ

 

 11月6日(土曜)午後2時から樹下美術館において「父 倉石隆との思い出 そしてマッシュルーム」と題して山中阿美子さんの講演会を開催いたします。

 

カトラリーやインテリアのプロダクトデザイナーとして活躍される山中さんは当館常設展示作家の画家・倉石隆氏のご長女です。幼少から高校時代まで上越市にお住まいになりました。

東京芸術大学の在学中、学生仲間三人で第一回天童木工コンクールにマッシュルームスツールを応募し、入賞の栄誉に輝きました。しかし難度の高いデザインであったため商品化デビューがなったのは、実に40数年後の2003年でした。

その後マッシュルームは人気となり、 2008年パリにおける日仏修好150周年記念行事「日本の感性展」で展示されました。好評を博した作品は2009年、パリ国立装飾芸術美術館のパーマネントコレクションに選定され、世界の名作家具の仲間入りを果たしました。

ご講演では父倉石隆の思い出とともに興味深いマッシュルームの物語をお聞き出来ることと思います、どうかご期待ください。

マッシュルーム
開館以来語り合っている樹下美術館のマッシュルーム

 会場は定数60人余と小さめです。ご予約お申し込みは樹下美術館窓口か、またはお電話でどうぞ。

 樹下美術館 電話 025-530-4155

戦後の5年間、伝票などに描かれた倉石隆のデッサン

2010年5月6日(木曜日)

 こどもの日の昨日も、図録制作に向けて時間を費やした。倉石隆氏のデッサン類の整理でした。

 

 実は当館には倉石氏のご遺族から託されたデッサンが多数あります。三年前の開館直後に持参してくださり、お預かりしている作品です。

 

デッサン帖

 

 描かれた時期は故郷高田に復員された昭和20年秋から再上京までのほぼ5年間に相当すると考えられます。困窮する戦後にあって、氏は身辺の紙という紙にデッサンを試みておられます。幸い洋品店だったご実家には様々な伝票類があったのでしょう。画用紙やチラシも混じりますが、目を引くのが数多くの納品書や仕切り書などへのデッサンでした。

 

高田の街その1 高田の街その2
街(伝票の裏) 街(書類の裏)

 昭和16年、森永製菓宣伝部から画家に転身して4年。乾いた喉が水を求めるように紙を求めて描iかれています。

   
廊下  座るこども 

廊下の向こうに光が見える。

 

座ってほほえむこども(解剖図に)

描くこども 
心こめられた眼と素晴らしい線(薄い半紙)

 

技術は手段であって目的ではない 

迫力あるクルミのデッサンで決意を語る。

「線は駆使するものであて(ママ)もてあそぶべきものではない

色は美しく附ければよいのではない 色は目的(感激)に対する効果である

技術は手段であって目的ではない」

 

 思わぬ長いノートになりました。若き高田時代の100を越える作品は、小品ながら敗戦の空気と共に困難で遠い道に踏み出す画家の心と息づかいを至近距離のリアリティをもって伝えていました。

 

 予定の図録はこの時代のデッサンにも十分配慮したいと思っています。

倉石隆作品の貝殻

2010年5月4日(火曜日)

この連休中は遅れに遅れていた図録の作成に没頭しています。今日も写真や作品ファイルの整理に忙しく過ごしました。

室内の女性
女性と共に描かれていた貝殻

  ところで収蔵している倉石作品の中に貝殻が描かれているものが二点あります。一点は貝殻そのものを描いたものですが、もう一点女性とともに描かれた作品です。迂闊にも今まで後者のそれが貝とはっきり気がつきませんでした(こんなことばかりでとても恥ずかしいのですが)。

貝殻
単身モチーフとなって。

 ところでその昔、倉石夫人からアトリエに残された貝を頂きました。それをを取り出して絵と比べてみますといずれも頂いた貝殻と同じではないかと思いました。

頂いた貝殻
頂いた貝殻

  孤独な心に思い出の灯りを点させるロマンティックななきがら、、、。私も昔、佐渡の深浦で拾った大きな巻き貝や、青海町で採取した碗足類の瘢痕化石(大変ありきたりなもの)などを後生大事に本棚に入れていました。

展示のおしらせ1:倉石隆の挿絵原画展

2010年4月1日(木曜日)

  4月1日からの倉石隆作品の展示をお知らせ致します。展示は今年いっぱい継続致します。

 

 倉石隆は人物油彩を中心に制作しましたが、挿絵にも熱心に関わりました。多数の挿絵本のうち半数以上は少年少女に向けた書物でした。描かれた場面の臨場感と豊かな情感は画学校時代からデッサンに優れた氏ならではものであろうと思われます。

 

 作品は以下二冊の原画から38点を選びました。

●「金色のあしあと」椋鳩十著 1975年 ポプラ社 から17点  鉛筆画で一部に彩色。

●ベルヌ名作全集「十五少年漂流記」辻昶 訳 1986年 偕成社から21点 ペン画で口絵はカラー。

 原画は前者の表紙がカラーで、内容の一部に薄い彩色がほどこされています。後者は口絵だけカラーでした。ボードサイズは前者がB3で後者はB4とB5です。
 金色のあしあとには雪国出身の画家ならではの冬の情景が描かれています。 

 ご参考までに「金色のあしあと」の本を三冊見開きにして、相当する原画の手元に置きました。残念ながら「十五少年漂流記」は手を尽くして探索しましたが入手にいたっていません。

 

 手ぜまですが胸躍る倉石隆の世界を目の当たりにしていただければ有り難く思います。

 

絵画展示場 
展示場  

 

【金色(こんじき)のあしあとから】

 金色のあしあと原画
30枚の中から選ぶ

 

金色のあしあと口絵
金色のあしあと・口絵
金色のあしあと3
 金色のあしあとー父と犬
   
金色のあしあと2
 金色のあしあと・正太郎を襲う親ギツネ
金色のあしあと4
金色のあしあと・床下の親ギツネ

 

【十五少年漂流記から】

 

15少年漂流記-1 
動物をつかまえる

15少年漂流記-4 
島を脱出
   
15少年漂流記-2 
   以前に人がいたらしい
15少年漂流記-3 
  悪者から逃れてきた水夫

こらあじゅの司修(つかさ おさむ)、そして倉石隆

2010年3月2日(火曜日)

 昨日1日の開館は氷雨まじりの静かな一日だった。来館者は関係者ばかりとなり、お陰で人を頼んでの外構清掃やパソコンの修繕、間違ってた案内の直しなどそれはそれ有益に過ぎた。

 

 ところで手元に1967年11月3日発行の「こらあじゅ」という画集がある。黒いカバーに黒文字のタイトル、しかも著者名は小さくてよく分からない。カバーを脱いだ表紙は図案のほかに何も記されていない。さらに本の見開きにタイトルと著者名があるがこれもあまりに小さくて見逃しそうだ。この遠慮がちでエスプリの効いた画集の著者・司修(つかさおさむ)氏は画家から川端康成文学賞、毎日芸術賞へと展開された異才の芸術家だ。

 

 あらためて表紙カバーを見てみると黒の下地にタイトルと女性のカットが黒で印刷されている。黒ずくめであるが黒橡(くろつるばみ)色の地に漆黒の刷りは暗然たるコントラストの妙を表出させている。転じて表紙は真っ赤なビロードのハードカバー(堅さから板表紙かもしれない)。その真ん中には焼きごてで押したような図案があって、本を開ける前から色々と楽しい。

 

 さて中身は版画集である。開くと右側のページだけ作品が刷られている。それぞれ手刷りの版画がいい匂いの紙に32枚。限定170部、著者(発行者)と印刷者だけによる私家本になるのだろう。なんともおしゃれで堅牢、意識が高い。

 

 作者のあとがきを見ると、、、作品の半数は中央公論社刊「日本の文学」中の挿絵であること。また描くに至ったのは石原慎太郎氏の多分のご好意によったものだ、、、という一節があった。

 

 昭和42年の発行だから司氏32才の作品集になる。物語あふれる作品の大成は若くしての偉業にちがいない。本の見開きに倉石隆 様という献本サインがあって、巻末の番号は0002/170だった。

 

 司氏は1935年生まれ、当館常設展示の倉石氏は1916年だからふた世代の違いがある。しかし二人はともに主体美術協会の創始会員として、さらに同士や友として困苦の時代を励んだと聞く。

 

表紙カバー 表紙

表紙カバー。拡大して眼をよくご覧下さい。

表紙

作品 
作品8番 微笑  

 

献本サイン 
司氏から倉石氏への献本サイン

 

 館長とは名ばかり、もとより不勉強な筆者。次は倉石氏の個展図録に見られた司氏と倉石氏の親交へとなんとか進んでみたい。

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