倉石隆

倉石隆が遺された画集、世界素描大系Ⅰ~Ⅳ そしてルノアールの素描から

2012年1月20日(金曜日)

このところ齋藤三郎に続いて倉石隆氏の図録の作業をしています。40数点の油絵とともに素描(デッサン)も掲載を予定しています。

氏は素描が大変得意で、太平洋美術学校時代に毎年表彰されていた、と奥様からお聞きしました。

 

今日は倉石隆の遺品で以下のデッサン集を取り上げ、図版にあるオーギュスト・ルノアールの作品に関連した事柄を少々記したいと思います。

 

世界素描大系世界素描大系Ⅰ~Ⅳ 昭和51年第3刷 講談社発行
函サイズ縦横奥35,5×28,8×5,5㎝

下の写真は当画集の「第Ⅲ巻フランス13世紀ー1919年」からルノアールの1ページ。

ブージヴァルのダンス第Ⅲ巻には50余人の画家による229作品が掲載されている。
ルノアール(1841-1919年)について11作品があります。
上の写真は下記作品のデッサンです。

ブージヴァルのダンス「ブージヴァルのダンス」  ボストン美術館  179.1cm×96.0cm 1883年制作。

当作品はルノアールのダンスの三部作の一つです。他に「都会のダンス」「田舎のダンス」があり、両者は同じサイズでオルセー美術館に並んで展示されているそうです。

「ブージヴァルのダンス」の女性モデル、後のシュザンヌ・ヴァラドンはルノアールの恋人といわれていました。ヴァラドンはまたサティ、ロートレック、ドガ等にも愛された恋多き女性です。

ヴァラドンはモーリス・ユトリロを生みます。ユトリロの父はルノアールではないかといわれましたが、公にはされませんでした。ルノアールに画才を発見されたヴァラドンは画家になります。
過酷な運命に翻弄されたユトリロの展覧会は一昨年新潟県立近代美術館で開催されました。

 

それにしましても「世界素描大系Ⅰ~Ⅳ」は見応えのある大著です。来春から樹下美術館のカフェに置かせて頂きます。後日、倉石隆が遺され樹下美術館が収蔵している他の画集についても掲載致します。

司修先生 第38回大佛次郎賞受賞!

2011年12月19日(月曜日)

12月18日の当地朝日新聞朝刊の文芸欄は一面6段抜きで第38回大佛次郎賞決定のニュースを伝えました。受賞者は司修氏!6人の選考委員は絶賛でした。

 

大佛次郎賞を伝える新聞ぐるりと選評、写真の先生は少年のように晴れやかなお顔。

受賞対象は「本の魔法」(司修著 著者自装 2011年6月15日 白水社発行)。めったに出来ない著者自装が司先生には沢山あるのです。また私の手元の「本の魔法」は8月10日の第2刷ですので、人気ぶりが嬉しいです。

わずか一ヶ月前11月17日午後、樹下美術館で「雪国の画家 倉石隆」をご講演いただいたばかりでした。深く感動し印象も鮮やかなうちに大佛次郎賞とは、これ以上ない慶祝ニュースです。私たちまでおめでとう、と言われました。来年1月27日帝国ホテルで賞の贈呈式ということでした。

「本の魔法」はかって装幀したおびただしい本の中から15冊を選び、装幀完成までの事々が書かれています。それぞれ15の章については藍、朱、闇、銀、灰などと色のタイトルが付され、画家ならではの感覚と手法です。

 

恥ずかしいことにのろのろしている私は50pほどしか読んでいません。しかし装幀に拘わる間の作家とのやりとりは例えは悪いかもしれませんが、互いが医者と患者であるようにも見えます。道程では本を読み込み立場を何度か入れ替えながら深く到達点を探り合うのです。
氏の装幀は“ひりひりするような”(選考委員の一人船橋洋一氏選評)作業、とも述べられました。

完成した本はすぐに旅立ち、作家とはお別れです。先生はどれだけ多くこのようなことを繰り返されたことでしょう。痛むほど心込めたのですから年月が経つと、本と装幀者は懐かしげに再会することがあるのかもしれません。

 本とお葉書
受賞の本(左)と最近頂いたお葉書。
今回は2回目のご来訪でした。来年もどうかまたいらして下さい。

あんなに神経をすり減らしておられるのに、お会いする先生はとても優しくお元気です。鍛え抜かれた方なのだと思います。

先生、これでいくつ目の人生が始まるのでしょう。どうかどうかお体を大切にずっと長くご活躍ください。

4日間休校した小学校の胃腸炎。休みの間、課題が沢山出ていて元気が出始めたお子たちは忙しかったらしい。本日まだ新規発症が数名あったということ、まずしっかりお休みして欲しい。

司修先生有り難うございました。

2011年11月18日(金曜日)

樹下美術館の年間イベントは限定されている。本業もあってご期待に沿えず申し分けない、といつも思っている。

司修先生お話される司修(つかさおさむ)先生

恵まれた晴れの日の昨日午後、司修先生の講演会「雪国の画家倉石隆」が無事に終わった。充実のひと時だった。

倉石隆は、大らかな優しさによって司さんご本人はじめ、多くの画家達に敬愛され、周りにはいつも人が集まったという。

芸術作品に込められた作家の道程、人間や父母への避けがたい葛藤と思慕。優しさが代償している悲しみなど、倉石隆を通して芸術家を突き動かす原初的事象(私たちにも共通するもの)が日常の言葉で述べられた。

講演はいつしか私たちの深層も触発し、感動の一時間となった。

 

聞き終えて自分自身、倉石隆を飾れる幸運と司氏のえにしをあらためて有り難いと思った。

ご来場の皆様、まことに有り難うございました。

急変する天候とサーフィン 明日は司修さんの講演会

2011年11月16日(水曜日)

お天気のなんとお天気屋さんなことだろう。昨日の荒天とうって変わって今日の晴天。寒かったが時間が経つほど晴れ渡っていった。

 

サーフィン

午後の大潟区雁子浜の海岸でサーフィンをする人を見た。海は楽しめる場所だが、津波だけは本当に恨めしい。

 

明日は絵画、装幀と挿絵、小説、芸術論と多能な芸術家司修さんの講演会です。若い時代から倉石隆とお付き合いのあった司氏。かって録音された倉石氏の声も聞く事が出来るようです。とても楽しみです。

倉石隆氏 1975年の雑誌から

2011年10月13日(木曜日)

前回のボザールよりさらに10年前の雑誌アトリエの1975年9月号。特集“油絵のテーマと制作の実際”で倉石隆氏のモノトーン「若い男」の制作過程が18ページに渡り掲載されていました。氏の考えの一部とともに紹介させて頂きました。 

 

●発想:僕は何となくこういうものを描きたいと思って描くだけです。(途中省略)自然に何となくこういうものを描きたかったと言うときこそ信じるに足りるものと思っています。概念的な作意が感じられる絵は好みません。

アトリエ表紙
1975年9月号アトリエの表紙
「若い男」の描き始めが表紙に。

 若い男の扉写真
同号のとびら絵を飾っている作品のネガ写真

 余白:このたびのように情景を排して人間だけを描こうとすれば周りは当然ただの余白と言うことになります。油絵ではこれが大変むずかしい。
東洋の場合は周りに何も描かなくても余白が不思議と空間に見えます。デッサンも同様ですが、油絵の背景はただ白く塗ってもそれは空とか壁とかつまり物質を持ったものに見えるから困るのです。

制作中の倉石氏

 デッサンを参考に油彩へ

 綿密なデッサンを通してモチーフが頭に入る。
油彩の段階ではデッサンを見るがモデルはもう見ない

モチーフ:この数年人間ばかり描いています。何となく描きたいから描いているのです。老人・女・子供・性別が判然としないものまで、色々描くけれど若い青年の絵というものが少ない。多分弱い人間のほうが興味をもてるのかもしれません。

「若い男」のモデルについて:現代の青年が持つ一面の性格、気負い、弱さ、傲慢とふてくされ、何かを欲しがっているいる姿勢と怠惰、そうしたものをむき出しにしている面白さがあります。
(今回のモデルは)せがれと言うことで、どうしても親近感が先にたち、それほど客観的に突き放して見ることは出来ませんが、それはそれで何か描けそうな気がして仕事にかかることにしました。

 

倉石隆は自他の自然さを大切に作意なき制作に徹した人だと、あらためて思いました。描きたいから描く、描くのが好き、、、画家らしい画家ですね。

氏は背が高くハンサムな人でした。私は脳梗塞(1987年7月発症、右半身麻痺と失語症)の後でしかお目に掛かっていませんが、お洒落な方だと思いました。懸命な介護をされる翠夫人も心に残ります。

倉石氏と

1996年正月、娘と練馬のご自宅を訪ねた時

司修氏講演会

倉石隆作「秋」の少女が樹下美術館へやってきました

2011年10月10日(月曜日)

倉石隆氏には可愛いお嬢さんを描いた絵が何枚かあると、奥様からお聞きしていました。それがこのたびたまたまのご縁でその一枚「秋」と出会い、彼女は樹下美術館へやってきました。

秋
「秋」:黒と強い暖色のたっぷりした洋服に守られた少女の秋。
F15号(652×530㎝)
二枚の木の葉が舞い、背後で謎のような赤がある種緊張と揺らぎを漂わせます。

月刊ボザール
1984年の絵画雑誌、月刊ボザール:絵とともに届きました。
油絵教室として6ページに渡り「少女像」の制作過程が掲載され、表紙にもなっています。

制作過程1
デッサン:倉石隆らしく様々にデッサンを重ね、緻密に構想が練られていく。

制作過程2
タブロー(油彩)にする:全体の調子を見ながら作者の方向が次第に現れてくる。

制作過程3
服の色彩、質感が変わっていく
「秋」は、「少女像」として誌上で完成とされた絵からさらに変化していました。

女性はより若く、背景は白く髪は黒く、頬と頸は細くデフォルメされ、表情に愁いが含まれていました。また単純化された画面は黒によるシンメトリーが強調され、服装の重厚感とあいまって迫力ある作品へと変化していました。
(ページ左の参考作品「悲しみの像」は樹下美術館に収蔵されています)。

デッサン
樹下美術館にあったデッサンは、当作品のため一枚だったようです。
倉石隆は人物画の探求を深めました。

「秋」を所有されたAさんは画家であり、かつ倉石隆の熱心なファンでした。その方のお父様も画家で、1950年代当時、たまたま持っておられた芸術雑誌に倉石隆の「めし」が掲載されていたそうです。雑誌を見た息子さんである若きAさんは「めし」に突き動かされるように倉石さんに傾倒していきました。
「めし」は現在樹下美術館に収蔵されています。

後に自らも画家になられたAさんは、ある日の展覧会で「秋」と出会います。氏は居ても立ってもいられないほど作品に惹かれました。会場には黒皮のコートを羽織った背の高い倉石氏がいました。近づき難い雰囲気があったそうです。
Aさんはついに胸の内を語り、絵が欲しいと告げました。汗した手に爪が食い込むほどの緊張と覚悟だったそうです。

分かりました、支払い方法はお任せします、と答えた倉石氏。喜びと敬愛が現実のものとなった瞬間でした。二人に親交が生まれ、A氏の作品について倉石氏のアドバイスを得たこともあったとお聞きしました。

お二人のことは、作家とファンの最高の関係ではなかったでしょうか。

ところで、1975年の絵画雑誌「アトリエ」にも制作の実際という倉石氏の18ページもの記事があります。近く内容の一部と氏の言葉を書かせて頂ければと思います。

大変長くなってしまいました。「秋」は高度な均衡と緊張、および愛着の魅力を放つ一枚であろうと思います。作品は来年3月からの展示を予定致しております。

司修氏講演会

秋の講演会 司修(つかさおさむ)さんをお迎えして

2011年9月9日(金曜日)

画家にして装幀家、さらに作家である異能の人、司修(つかさおさむ)さん。樹下美術館では司さんの講演会を来る11月17日(木曜日)午後2時から開催いたします。

演題は「雪国の画家・倉石隆」です。

氏は1964年主体美術協会の創立に際して樹下美術館の常設展示作家、倉石隆らと歩みを共にされ、倉石氏とは密接に交流されました。

 

講演会お申し込みは樹下美術館の窓口で、または
お電話025-530-4155でお願い致します。

 

以下のチラシは小さめですのでクリックで拡大してご覧下さい。

111117司さん公演パンフ

1950年、司修さんは新制中学を卒業すると映画館の看板描きの助手として働きつつ独学で絵画を始められました。以来多彩な活動の中で、書物の装幀と挿絵で井上光晴、瀬戸内晴美、有吉佐和子、水上勉、加賀乙彦、大江健三郎、遠藤周作、江藤淳、室生犀星、野坂昭如、ほか枚挙にいとまがないほど数多くの作家とお仕事をされました。

また旺盛な文学活動において「紅水仙」「赤羽モンマルトル」「影について」「蕪村へのタイムトンネル」ほか多数の著作があります。

 

これらによりボローニャ国際図書展グラフィック賞推薦、ライプツィヒ国際図書賞金賞、講談社出版文化賞・ブックデザイン賞、小学館絵画賞、小学館児童文化賞、川端文学賞 、毎日芸術賞などに輝かれました。

 

1999年法政大学国際文化学部教授となられ、現在同名誉教授をなさっておられます。

 

晩秋の午後、絵画と文学の人、司修さんのご講演をお楽しみ下さい。

倉石隆のカット絵 知足美術館さん

2011年7月26日(火曜日)

この前の日曜日(24日)に新潟市の知足美術館・副館長の佐藤和正さんが樹下美術館を訪ねてくださった。

今年2月中旬からおよそ40日にわたって拙ボタニカルアート展が知足美術館で催された。館長の(株)キタック社長・中山輝也さん、佐藤さん、ほか社員の方々にとてもお世話になった。

その佐藤さんがこのたび当館常設展示作家・倉石隆氏のスクラッチボード作品を持参してくださった。1980年代を中心に倉石氏はある新聞の文芸欄で小説やショートショートに挿絵・カットの筆を執られていた。

 

うみねこ
うみねこ
雪1
雪1
雪2
雪2
検査
検査
わかれのヘアピン
わかれのヘアピン

お持ちいただいた貴重な原画5作品は小品ながら心こもり、物語性十分で胸動かされる。今後は展示させて頂き、図録にも載せたい。

※スクラッチボード:白色の厚地の上に黒がカバーされている絵画材料。黒い表面を鉄筆や刃物などを操作して白地とのコントラストを得て制作する。

※妙高市ご出身の佐藤和正さんは小生の中高の少し後輩で、亡きお兄様と小生は同級だった。このたびは大変有り難うございました。

皆様の「お声」 病院船時代の倉石隆  母の外出

2011年7月3日(日曜日)

樹下美術館ホームページのコンテンツ「お声」に館内のノートに記された皆様のコメントを追加させて頂きました。3月から6月まで沢山お書き下さり有り難うございました。

“祖父が戦争中倉石氏と同じ船にのっていて、苦楽をともにしたとのことで、今日ようやく美術館に来れて喜んでいました”という書き込みを拝見致しました。

倉石氏は昭和18年から20年の終戦まで、舞鶴の海兵師団で看護兵として病院船に乗船されていました。病院船とは実際どんな様子だったのでしょう、画伯は優しい兵だったのでは、、、。お爺さまは貴重な経験をお持ちなのですね、有り難うございました。

 病院船時代の倉石氏
海兵師団当時の倉石隆
(写真:郷土作家シリーズ 倉石隆展 新潟市美術館©1995年)

“この地に、樹下美術館あり、上越の誇りです” “ここが自宅ならもうどこへもいかない

ほかノートに頂いたご感想は全て樹下美術館の大きな励みになりました。紙面をお借りして心から御礼申し上げます。

樹下美術館は、お陰様で5月中ころからお客様が増えました。さらにASSHの「居心地のいい場所へ」で紹介され、6月は前年より3割も多くお越し頂き(コサートを除いて)深く感謝致してます。

車椅子の母
去る5月27日に倒れて以来初めて母を戸外に連れ出した

午前中、20分ほど押して保育園の所まで散歩した。

 【追加です:病院船を少し調べてみました】
倉石隆氏は、あるいは終戦直後に舞鶴で自沈処分の運命を辿った第二氷川丸に乗り組まれていたのでしょうか。

若き倉石隆氏のデッサンと詩文

2011年7月1日(金曜日)

梅雨の中休みが三日続きました。今日は現在展示中の倉石隆のデッサン画から詩文のついた2作品を紹介致します。

いずれも第二次大戦後、高田市(現新潟県上越市)本町の生家に戻っていた昭和20年~25年(29~34才)の制作です。

 

詩文の展示 絵画ホールの右隅のパネルに架かっている作品

 線は
リアルなクルミのデッサンに“技術は手段であって目的ではない”の詩文
高田で氏の骨格は決まっていた。

線は駆使するものであってもてあそぶものではない

 色は美しく附ければよいのではない 色は目的(感激)に対する効果である

 

ビンの群
ビンの群
左すみに蓋付きのビンが3つ描かれて右に以下の詩文が見える。

黒々と毒汁はのどにからみ
しわがれた欲望に
光は失せたれど
しかも鋭く光るガラスの目

 このガラスビンは何だったのでしょう、お酒でしょうか。高田で苦悩する倉石隆の視界に突き刺さる閃光。追い詰められるのか、若き芸術家の鋭敏な感受性が伝わります。

どうぞご来館頂き作品をご覧下さい。戦後品物の不自由な時代、書類の裏に書かれた当時の画家の心情が手応えをもって伝わります。

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