ほくほく線電車&乗り物

くびき野の枝豆畑 明日は満月 草のしずく はくたか22号。 

2014年7月11日(金曜日)

台風8号は太平洋岸をかすめるように去って消失した。しかし本日、関東内陸部の気温は上がり館林市で38度を記録したと聞いた。

当地上越市大潟は降ったり止んだりの一日。日中の気温は25度前後に推移し在宅回りなど外出も楽だった。

以下の写真は本日夕食後、晴れ間が見えたほくほく線など頸城野です。

1水田地帯だが枝豆も広く栽培されている。栽培を手伝っている人から時々頂くが非常に美味しい。

2明日満月を迎える月が昇っている。

3足下の暗がりで草に着いた雨の滴sが静かに光ってきれいだった。
この葉はとても上手に自らを広げ、沢山水滴を乗せていた。

4直江津19時33分着のくはくたか22号を見送る。

明日からの週末はしっかり晴れるようです。

 

雨上がりの夏雲 「はくたか」の昼と夜、そして来年。

2014年7月5日(土曜日)

昨夜半から降った雨をしっかり吸った山々から雲が高く沸き立った一日でした。

勇壮な雲も不思議なことに次第にばらけてきて、すると近くからまた新しい雲が立ち上がったりするのです。

1午後米山を覆っていた雲。上越市大潟区長崎方面。

2夏雲を背景に颯爽とやってくる昼のはくたか。上越市大潟区蜘蛛が池付近で。

3かすかな夕焼けを猛スピードで追いかけるはくたか。上越市頸城区柳町付近で。

何度か書きましたが来年3月に終了するであろう北越急行の特急「はくたか」。
一日一日が見納めとなる走行を轟音をもって続ける列車は立派であり、また愛おしく見えます。

ところで私たちの一日もある種この列車に似た面があるかもしれません。
しかし「はくたか」の凄いところは、
来年4月から新幹線という格段上の衣に着替えて、さらにスピードを上げるというのですから全く敵いません。

そこで私の提案ですが、来期以後のほくほく線に「くびきのエクスプレス」など特急クラスの列車を一日4往復ほど用意できないものでしょうか。
車体の色は深緑一色に一本の金の帯が入る、あるいは真っ白に緑と黄色の帯などとびきり美しくするのです。
そうすれば私も乗ったり観光の人が喜んで使うかもしれません。

それにしても現「はくたか」のあの上品な車輌はどうするのでしょう。

夕暮れの空と海に乗り物 戦はゲームではない。 

2014年6月28日(土曜日)

夕刻ぱらぱらと始まった雨は暗くなって雨音を立てて降っている。

本格的な雨は随分と久し振りで庭には恵みとなった。
我が儘なことだが、開き始めたテッポウユリのためにはあまりひどい降りはつらいところ。

さて昨日夕ぐれ時四ツ屋浜へ行った。

1ヘリコップターが一機ヘリコプターが一機西に向かう。

2ヘリが二機続けてヘリコプターが二機。

3ジェット旅客機が一機ジェット旅客機が一機西に向かう。

4飛行機雲が突然出来た急に飛行機雲を曳いた。

110いつの間にか姿を現した佐渡汽船。

30分の間に空と海に次々と大好きな乗り物が現れた。

さてヘリコプターは自衛隊機と考えられた。
瀬戸際の話になっているが、彼らが海外の実戦場に派遣されることなど絶対にあってはならないことだと思う。

しかし規を越えればいつしか戦死者が1人、戦死者が2人、そして3人、、、さらに10人へと慣らされる。
この時代戦死は人を狂わせよう。国民はいつしかそのことを讃え興奮し麻痺し、徒党を組み狂気へ突入をすることは他を見るまでもなく容易な事だ。

何より危険な一歩をこらえることが肝心だ。
交渉と双方による妥協。
戦いの本能を制御するため人間には賢い機能が与えられている。
根気よく何度も何度もテーブルを囲むことだ。
私たちは純粋に母と自他の幸福の地平に立ち、決して煽られないことが大切なんだ。

悠々として急げ 

2014年6月24日(火曜日)

前回書きました敬愛する先輩ご夫婦宅訪問。
その日、お二人がかって訪ねた茅ヶ崎の開高健記念館に掲げられた開高氏の言葉の写真を見せて頂いた。

「悠々として急げ」はいい言葉だと思った。

 

下り近づく「はくたか

相反する言葉の主意はあくまで「急げ」であろう。
有限なこの世にあってはまず急がなければならないのである。
但し「悠々として」臨めと言っている。
開高ダンディズムの骨頂だろう。

慌てて行う判断や行為はろくな結果を生まない。
多くは失敗し後始末に他者まで巻き込む。

70才過ぎた今日どう見ても残り時間は少ない。
仕事はまだあり私も急がねばならない。
果たして悠々として行えるものなのか。
ダンディズムは厳しいが心するほかない。

上りさよなら「はくたか」

 写真は今夕信州から帰った妻が持参した釜めしを食べながら頸城区の農道で撮りました。
こんなところで夕食を食べているのは私たちくらいなものでしょう。
そこでひょっこり「はくたか」を撮りに来たご近所の方とお会いしました。
ダンディズムとはほど遠い食事でしたがもう恥ずかしくもありませんん。

近郷の農家から浜の職人の家に嫁ぐ。

2014年6月17日(火曜日)

お年寄りのところで診察が途切れると何かとその方の話を聞いている。
最近、その昔近郷の農家から海辺の職人さんに嫁いだお年寄りから以下の話をお聞ききした。

自分の生まれ育ちは隣村の田んぼ農家だった。
家には2町5反の十分な田があり、農耕は牛馬を使っていた。
農作業は男中心の仕事で、女や子どもは春秋の農繁期を祭りのように手伝った。

口利きをする人がいて、一帯の農家から海辺の人の家へ娘達がよく嫁いだ。
「そこへ行けば田も少なく、相手は手に職をもっているから生活は楽だ」という決まり文句で自分も誘われた。

嫁いた先は職人の家で、田があり、行って見るとほとんどが嫁任せということでまず驚いた。
遠くにある田は小さかったが、牛馬も無く鍬を使う重労働だった。
田への途中に長い砂利道の坂があり、自転車の往き帰りで何度もひどく転んだ
嘆きをこらえて毎年農作業を続けた。

ある時代から田は人に任せることになり、夫のテコ(手伝い)をするようになった。
道具を運び足場を組み、重い資材を受けては支えた。
もともと丈夫ではなかったがいつの間にか骨も太くなったと思う。
その間に子どもが3人出来た。

後年夫の体力が衰えると、突然のように四国と北海道の旅行に連れて行ってもらった。
それぞれ一週間づつ二年続いた旅は本当に夢のようだった。

後に夫は亡くなったが今でも旅行を思い出すと、お父さんありがとう、と手を合わせている。
夫の死後数年、体調を崩したが、先生には早く胃がんを見つけて貰って助かった。
兄弟姉妹で自分は一番出来が悪かったが、今日まで生きたのは何より皆さんのお陰だ。
(一部を少しだけ変えてあります。最後に恥ずかしながら私も登場していました)

今夕の上りはくたか今夕7時10分ころ通過したほくほく線下り「はくたか」。
頸城区の農道で撮りました。

宵闇の虹 惜しまれるほくほく線特急「はくたか」。

2014年6月7日(土曜日)

夕食を始めてふと見ると松の上の方が夕陽に照り映えている。
悪いけど行ってくる、と妻に告げてほくほく線を撮りに急いだ。

西の空は真っ赤で、良い時間は限られている。
すると途中通過の大潟区岩野の中谷内の池でうっすら架かる虹を見た。

140607宵闇の虹虹がみえるでしょうか。間もなくほんのちょっぴり雨が当たってきました。

宵闇の虹こんな遅い時間、ちょっぴりの雨に人知れず架かった虹。
神秘的また少々感傷的な気持ちになりました。

夕暮れのはくたか今夕のはくたか。私の技術ではいっぱいいっぱいの時間。

この日目指したポイントに先客さんがカメラを構えていた。
はくたかが往復した後、そのサラリーマンの方と立ち話をした。

間もなく夏至で夕陽のはくたかを撮る時間は限られてくる。
そもそも来年の今頃はもう姿が無い。
まして特急の灯が田面に写るのはもうすぐ終わる。

そう思うと居ても立ってもいられず、直江津から撮影に来たと。
私よりかなり若く私よりずっと電車に詳しい。

はくたかは時速160キロものスピードでここを走る。
遮壁もなく高架の特急が丸見えなのも非常に貴重だ。

確かに開業新幹線に「はくたか」の名は残る。
しかし夕焼けを背景に水田を疾走する姿を撮ることは、出来ないのではないか。

ほくほく線「はくたか」は本当に勿体ない。
随分世話にもなった。

私も同じです。

久し振りにほくほく線を見ながら車中弁当。

2014年6月2日(月曜日)

このところ何かと忙しくて以前のように夕陽を見ることが少なくなっていた。

昨日一回目のお寿司の会が終わった本日、ほくほく線の夕暮れ列車を見に行った。
実家の父の見舞いなどで遅くなる妻にセブンのお弁当を買ってきて貰った。

 

車弁当ほくほく線の高架が見える農道でお弁当を広げる。妻はビール私はノンアルコール。
昨年ホームセンターで作って貰った簡単なテーブルを広げる。

 普通電車

はくたか1時間少々の間に普通列車と特急はくたかを2本ずつ見ることができた。
遠くの信号が替わるとかすかに線路が鳴り、列車の灯が小さく現れる。
特に「はくたか」は胸高鳴る。明るい車窓が近づくや金属的な轟音とともに去って行く。

何かと余裕のない自分たちは「夕陽」と「ほくほく線または海」と「車中弁当」があれば、
当面楽しい旅行気分を味わえる。
(本当の所、妻はどう思っているかわかりませんが)

海鳴りのお宅 澄んだ目の人たち。

2013年12月10日(火曜日)

訪問や往診で訪ねたお宅の部屋や玄関で、巣立った子供さん達が残した絵をよく目にする。

鉛筆、水彩、版画、みな力作。描いたお子さんの一生懸命さと、架けている親ごさんの愛情が伝わるミニギャラリーだ。

最近お訪ねしたお宅の部屋は、新幹線やほくほく線の電車の絵で一杯だった。
しかも多くの車両はテープで繋いでちゃんと車列にしてある。
訪ねてくる保育園のお孫さんが貼って帰るのだという。
本人の家が一杯になったのでおばあちゃんの所へ来て貼るらしい。

傍らにその子の写真があったが、くりくりした目で賢そうな顔をしていた。

1

2

4
しっかりした線やきれいな円が描けるなんて、この坊やには画才があるのでは。

1
ところで、部屋の隅に小さな扉棚があって一面にシールが貼られている。坊やのお父さんが子供時代に貼ったものだ。
家中に貼るので、ここに決めて貼らせていましたと、おばあちゃん。
シールと電車。親子の幼い熱中の部屋は何とも暖かい。

5

 

そのおばあちゃんによれば、子供時代のせがれさんを私が診たという。
「忘れもしません、その時先生は倅を見て賢そうな子ですね、って言ったんです」

ああ、そんなことがあったんですか、、、。
色々なことがつながっているんですね。
そういえば昨年亡くなったおじいちゃんも、澄んだ目をしていましたね。

冷たい雨の中、走って入った海鳴りのお宅は少し胸が熱くなるおうちだった。

カーフェリー「こがね丸」の反転再度入港 頑張れ佐渡汽船。

2013年11月21日(木曜日)

晴れたり曇ったり、夕刻に一時雨が降り、一日中強風に見舞われた。

本日午後は休診の日。昼食をしに美術館に向かう途中に大潟区は渋柿浜の大潟漁港に寄った。
運良く沖に小木港→直江津港の佐渡汽船カーフェリーが現れて写真を撮った。

ところが港の直前で、船は突然進路を変えると、こちらに来るではないか。
小型フェリーといえども、急舵をを切って陸へ迫る光景は異様だ。

シャッターを押しているとよろけるほどの強風、海上はもっと吹いているはず。
目の前を横切ったフェリーは貨物船と交叉した後沖へと反転した。

船は西風を真横に受けて相当にピッチ&ロールしている。沖合で港に返す舵が左右に振られるのが分かる。

1強風のなか現れた佐渡汽船。3目の前を通過。5反転。7およそ10分後再度現れ港へ直進。 2突然の方向転換。4貨物船をかわす。6かなりのピッチ&ロール。8赤灯台を通過し入港。

再度現れたフェリーはきれいに航行した。それにしてもなぜ入港直前に航路を逸れて反転したのだろう。

出入りする船舶同士には衝突回避のルールがある。数隻の貨物船の出入りはあったが、その調整だったのか。あるいは入港のスピードダウンで風に押され、入港をやり直すことなどもあるのだろうか。

強風の中突然のことで驚いたが、佐渡汽船カーフェリー「こがね丸」には臨機応変、かつ果敢な印象を受けた。

今「こがねまる」は直江津と小木の間を行って帰って行く、を繰り返している。本日の船は入港後まもなく小木に向かい、夕刻小木を出港して直江津に戻って泊る。これを2港の間で繰り返す、つまり一日1,5往復の運航だ。

幹線線開業は近い、頑張れ旅情の佐渡汽船。

出発したななつ星 情熱事業 かっこいい。 

2013年10月16日(水曜日)

昨日昼、博多駅から三泊四日の「ななつ星in九州」の列車が出発した。大型台風の接近に遭ったが無事出発したようだ。

30億円もの制作費。設計者は何度図面を書き直したか分からない、といい、駅長はお披露目で震えが止まらないほど感動した、と述べた。

事業はかく渾身の情熱が込められたものであってほしい、とつくづく思う。

来年6月までの今期運行は満席だという。まだ細部に問題はあろう、世界視野での成功を祈らずにはいられない。

有田焼の装飾品 調度、装飾品に伊万里の柿右衛門、鍋島の今右衞門(いまえもん)などの陶磁器が随所にしつらえられている。
柿右衛門:酒井田柿右衛門  今右衞門:今泉今右衞門

デラックススイートデラックススイートの室内。


You Tubeから出発するななつ星。〝かっこいい!〟の声が上がる。
〝かっこいい〟は感動の一つのみなもと。上越地域にも色々ありますが、妙高山は間違いなしですね。
海、水田、お城、美しい橋、格調ある伝統行事、雲や夕焼けもかっこいいです。

ななつ星は、軽さ子供っぽさと異なるカルチャーとして期待しています。

2024年11月
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930

▲ このページのTOPへ