聴老(お年寄り&昔の話)

母のむかし話:行商

2009年11月6日(金曜日)

 今日は文句なしの快晴だった。秋の年中行事に母を近くの菱ケ岳へ連れて行くことがある。お天気から見て今日を置いてはもう遅い。仕事を終えると簡単なお弁当とお茶を用意してもらって出かけた。

 

 遅い紅葉と落葉したブナの山がきれいだった。工事のため山道は途中までだったが、楽しい昼休みだった。車中いつものように母は昔話をした。大変恥ずかしいのですが、備忘を兼ねて母に聞いた話を少々まとめてみたいと思います。誠に申し分けありません。
 

 

 母の昔話:行商
 大正4年生まれの母喜代の生家は佐賀県の古枝村(現鹿島市内)というところだ。有明海のそばで山も近く、水が良かったため近隣では漁業と共に酒作りも盛んだった。隣の「浜」という地域には白壁作りの酒蔵が続く風情のある通りがあった。喜代が7才の時に失った父親はその通りの白壁を得意とする左官職人だった。
 
 ある夏、父は建前の手伝いに出掛けた。しかし当日、台風の直撃に遭って建てかけの家屋が倒壊した。犠牲になったのは父親だけだった。妻ヤイと長女長男次男が残された。
 
 それで父の死後、「なあ喜代これからどうしたらいいかね」という縁側の話になる。長男は年下、次男はまだ乳飲み子同然だった。まもなく喜代を養子に欲しいという人達が現れた。山奥のOさん、医院のNさんなどだった。母ヤイはそれらをみな断った。
 
 その後、親戚や地元の人達の助けもあって、ヤイは魚の行商を始める。幸い近くにある祐徳稲荷の門前旅館などが顧客となり、次第に仕事は忙しくなっていった。

 

 ところでヤイはなんでも知っていたが、字が書けなかったという。それで喜代が10才の頃に母から財布を任されるようになった。通ったのは酒藏通りにある銀行だった。字が書けるようになっていた喜代は窓口につま先立ちをして通帳の出し入れをした。

 

 ※機会がありましたらヤイの織物などを書いてみたいと思います。

 

Img_0150

 

Img_0170

車中、ポットの番茶を飲む母

 

おばあちゃんたちに脱帽

2009年9月22日(火曜日)

 午後の美術館で、お二人のおばあちゃまから声を掛けられた。懐かしい患者さんとそのお友達だった。コーヒーをご一緒しながらのひと時は楽しく、有益だった。

 

子どものころから労働、左ハンドルも経験した。

 

【以下、お二人の話】 

 「ここは私らにとって懐かしい場所」。若い時に、美術館から見える田んぼで胸までつかって仕事をした。カイコも飼ったが時代は進み、ある年代を境に家族でも経験は全く異るようになった。 

 

「田んぼ」:昔、浜に住む自分たちは漁業のほかに農業もした。ただし、良い田んぼは農家の人達のもので、自分たちのは農家の余り物のような田んぼだった。それがあちこち離れた所にあったので、とても大変だった。

 大人たちは用水路に舟を運び入れ、刈り取ったイネを浜の稲場まで運んだ。子どもにも何かと仕事があった。

 

「くばり」:稲刈りで子どもが最初に行う仕事が、くばりだった。刈ったイネを束ねるためのワラを一定の間隔に置けばよかった。二、三年すると今度は置かれたワラでイネを束ねる仕事に昇格した。

 

「蚕(カイコ)」:近くに製糸工場があったので、一帯では蚕も飼った。蚕を飼うのに特別な場所があったわけではない。時期になると家中に桑の葉を敷いて飼った。そのため家族は仏壇の前にかたまって寝た。蚕が桑を食べる音がザアザアと家中に響いていた。

 

「足だか」:子どもの頃からワラで縄をない、ある年齢になるとわらじを編んだ。最初に「足だか」を教えられた。足だかとは、足の前半分だけのわらじで、主に子どもたちが履いた。教わったばかりではうまく作れず、一日ももたなかった。

 

「運転」:後に娘がニューヨークに住むようになった。ある時、急用の娘を手伝わなければならなくなった。アメリカでは車を運転しないと手伝いにならないと聞かされた。それで左ハンドルの講習を受けてアメリカへ行ってきた。

 

「芝生」:ここの芝生はハワイみたいですね。

グループホーム

2009年5月8日(金曜日)

  近くにグループホームがあって、月に一度伺っている。グループホームでは一定の認知症のあるお年寄りの方々が職員さんたちに見守られながら協同的に生活をしている。部屋は個室。介護保険の時代になって伸び、それぞれ地域で大切な場として定着している。

 

 館内は穏やかで、時々皆さんとスタッフさんの歌声が聞こえたりする。今日の訪問では目の前の林に白い藤が沢山咲いていた。
長いつきあいとなったAさんの部屋で小さな箱を見せてもらった。彼女の大好きな可愛い可愛い品が入っていた。ここでは多くの方が、それぞれに大好きな品を持っている。

 

 皆さんが比較的安定していて長くいらっしゃるのが嬉しい。

 

 

押し車の荷台に小さな箱。緑色の蓋が付いている。

 

ゴッホのアーモンドの花の絵に似た白藤。

 

 

時の流れが二つ

2009年4月29日(水曜日)

 祝日、久しぶりに車いすの母を連れて美術館へ行った。爽やかに晴れて空気が味覚を潤すようだった。ああ気持ちがいい、と母の一声。

 

 カフェで一番良い場所に座った。チョコレート菓子を分けて、レモンティーを飲んだ。母はまた故郷佐賀の昔話をする。近くに焼き物窯が二カ所あって、あたりに散らばるかけらでままごとをして遊んだ。磁器の土をこしらえるのに水車が回っていた、と。

 

 帰りに菜の花畑を見た。”菜の花畑に入り陽うすれー♪”二人で歌って帰ってきた。初めてハーモニーをした小学校4年生の時の唱歌だ。

 

 ところで目の前の時は盛んに去るが、昔の時はしきりとこちらへ近づく。昔話を繰り返す母にあってはなおさらだろう。

 

 美術館は三々五々お客様がこられた。見知らぬ方たちがくつろがれる様子を見ると少し変な気持ちになる。皆様本当に有り難うございます。

新緑の樹下美術館

近くの大潟水と森公園

飲み込み。そしてシーグラス。

2009年2月11日(水曜日)

  休日だったが午後に往診があった。比較的安定していた脳梗塞の方。しかし数日来ほとんど飲食をしなくなったという連絡。ご本人はまだお若い。よく聞けば飲み込み障害のためひどくむせた日の恐怖感が引きがねと考えられた。早めに専門的なリハビリを受ける事にして点滴をした。

  ところで日本は技術大国であり、とりわけ微細なテクノロジーに優れている。一方、飲み込み障害の裾野は広く深刻な課題だ。これには口腔、咽頭・喉頭、食道などの極めて複雑なメカニズムが関係している。ナノテクノロジーを進化させている今、飲み込みを補助するコンパクトな装置を願ってやまない。

 やや穏やかな昼間だったので、近くの海に寄った。昨年7月、浜辺でシーグラスと貝を拾い、秋には海に戻そうと書いた。しかしそれが子どもたちや孫に喜ばれて、シーグラスはそのまま我が家にとどまった。その後、私が一番気に入ってしまい、暇をみては海へ行くようになった。

せん妄

2008年11月19日(水曜日)

 ひどく気温が下がってみぞれ交じりの荒天となった。いよいよ越後の冬の始まりだ。荒れ模様の夜8時すぎ、あるお宅から電話があった。ショートステイを利用中の夫が、昨晩から寝ないで騒ぎ出したので家に帰された。家でも妄想にとらわれて大声や怒鳴りが止まず、診て欲しいという訴えだった。

 

ご本人は、肺疾患のため在宅で酸素吸入をしている高齢の男性で、奥さんと二人暮らし。酸素療法では鼻に付けるチューブが鬱陶しくて、外したがる患者さんは少なくない。しかし一旦外すと酸素不足のため、特に高齢者では意識の濁りを生じてひどい症状が現れる場合がある。今回の方は施設でしばしばチューブを外し、介護士さんも苦労したようだ。この日ご本人は、介護士さんが付けたチューブを噛み切ろうとして、自分の指まで噛んで負傷したという。

 

ところで浅い睡眠や一定の酸素不足,発熱、時に薬剤で生じる意識の混濁・混乱はせん亡と呼ばれる。かって99才のおばあさんは、庭に何十匹ものサルが攻めてきたと言って、長いホウキを手に一人で立ち向かった。ひるね直後のせん妄で、夢と現実の混乱が鮮明な幻覚を生んだと考えられた。往診に伺うと、庭に面したガラス戸はすべてめちゃめちゃだった。家族は呆気に取られていたが、ふとんに戻ったご本人は、サルを退治したと意気揚々だった。普段寝てばかりいる老人でも、強い観念に襲われると信じ難いエネルギーを発揮することに驚いた。

 

今夜の電話の向こうでは怒鳴り声がして、奥さんの声は震えていた。ふだん電話の背後に聞こえる怒鳴り声や泣き声、あるいは悲鳴は緊張する。今夜は、出掛ける前に「優しくそばに座ってみてください。そしてそっとチューブを付けてください。駄目でもくりかえして」と告げた。患者さん宅に着いてみると家は静かだった。「いま寝ました」、奥さんの声がまだ少し震えていた。チューブはちゃんと付いていた。数十時間も眠っていなかったのだ。本人は布団にくるまり丸くなって眠っていた。
 医療には薬の要らない場合もあろう。何かあったらまた電話して、と告げて出た。あられ混じりの風雨のなか、奥さんが傘を差して車まで付いてくださった。

もう一度お年寄り

2008年9月20日(土曜日)

 近隣の菜園では大根、白菜、キャベツなど植え付けと種まきが一段落しました。それが今日、遠くを通過した台風のせいで熱射に見舞われました。急な暑さほど若い野菜に悪いものはないはずです。畑の死活がかかる一日だったのではないでしょうか。  
畑といえば、近くで営む一人に92才のKおばあちゃんがいます。おばあちゃんは長く畑の名人と言われてましたが、残念なことに昨年暮れ、大腿骨骨折で手術を受けました。一冬こえた春、皆の制止を振り切ってKさんは畑に出たと聞いていました。
数日前の往診の帰り道、水がいっぱい入ったバケツを乗せた一輪車を押すKさんに出会いました。退院の際は、せいぜい歩行器がゴールだったに違いありません。それが荷を乗せた一輪車を押すなんて、常識では絶対に考えられないことで,非常に驚きました。動作はかなり不自由に見えました。気丈なことに「ウネ一つ越えるのも考えなきゃいけない」と不満げでした。しかし全体にゆるりとして明るい感じは以前のままです。
私は気の利いたことも言えず、「久しぶりでしたね」と言って肩に手を掛けました。きゃしゃな肩でした。不思議だなと思うことは、私が知っている90才以上で比較的お元気な方たちは大抵きゃしゃなのです。
そして本日の夕刻、畑の安否を見に行ってみました。Kさんはちゃんとおられて、畑には水がくべられていました。「これとあれは駄目だった」と萎えた株を指す表情がわずかに曇りました。柄しゃくを頼りに立ったまま手を休める彼女と少しだけ話をしました。立っているだけで又ポキッと折れそうで、気が気ではありません。話しながら少し涙が出そうになりました。Kおばあちゃんは本当に素晴らしかったです。

  
水遣りされたおばあちゃんの畑

 
愛用の手押し車

 

休日は

2008年9月15日(月曜日)

 このところ遠方からの来館者さんが混じって、たいがい静かだった樹下美術館が珍しく賑わっていました。今日はいつもの静けさに戻りましたので母を誘いました。展示の陶芸作品は父から継いだものが多いため母にも見慣れた作品があります。ホールを何度も見てからカフェで紅茶をしました。
93の母はこの夏、香月泰男の画集を見て以来、彼の人生と画風に打たれてしまっています。それで自らも鉛筆を執って身辺のものを描くようになりました。この日もカフェに座った途端、目の前の紙ナプキン入れを描こうとしました。
ところでは幼い頃に事故で左官職人の父を亡くしています。最近、女手一つで自分たちを育てた自らの母をよく口にするようになりました。魚の行商をしながら一反歩の小さな田を一人で田植えし、一人で稲を刈り、一人で餅をついてくれたと、この日は聞かされました。車中で話を聞いた遠回りの帰り道、黄金の田園は壮大な刈り入れが始まっていました。
 一方、私の妻は妻で、実家の親の介護の用事で何かとまた忙しくしています。

  

館内 カフェ
   
母の絵 母の絵

7月、圧倒的水田そして母へ

2008年7月2日(水曜日)

 とても早いのですが7月になりました。ここ頸城(くびき)平野の稲々は溌剌と成長し水田は圧倒的な景観となりました。以下の写真はよく往診で訪れる上越市大潟区、米倉(よねぐら)付近からの眺めです。このような田園風景は樹下美術館のデッキでも眺められます。
先日、ネットで当美術館を見つけられた女性がわざわざ東京から訪ねて来られました。「もっと東京の人に知らせてください」と仰り、建物、展示、さらに庭や水田風景を激賞して下さったそうです。 心から有り難く、地に足付けて頑張りたいと思いました。それにしましてもますます大切な農。よく手入れされた水田は地方の貴重な品格にもなっているのではないでしょうか。

Img_3573_8
水田と立葵(タチアオイ)、お似合いです。

 


米山と尾神岳

 頸城平野の北東を守る二山。右奥に尾神岳、左は霊峰米山(よねやま)です。昔、尾神岳には子供たちを連れてよく遊びに行きました。いっぽう米山は「米山さんから雲が出た、今に夕立が来るやら、、、」の三階節(さんがいぶし)で知られています。
三階節は昭和10年の小唄勝太郎の歌によって全国的に流行したそうです。ところで佐賀県出身の母は九大の看護学科で二十歳のころに三階節を歌って踊ったことがあると言います。学校を出た母は満州で満鉄病院医師だった父と結婚しますが、敗戦後、夫以外に知る人も無い新潟の父の実家へと入りました。待ち受けていた因習と辛苦のなか「ああ、あれが米山、、、」と、歌で覚えていた山を見て慰められたそうです。
圧倒的な水田と山の力に揺さぶられ、なぜか思いはふらりと母へ傾きました。開館一周年の記念に、母への感謝を込めて二十歳と今日93才の写真を掲げることにしました。


二十歳の頃の母


93才、新聞3紙を読む母

 

 

 

ターシャ・テューダーさんが亡くなりました

2008年6月22日(日曜日)

 遠くから敬愛していたターシャ・テューダーさんが、去る6月18日亡くなりました。近親者に囲まれての最後だったようです。近時、映像や本で見るたびお年を感じていました。当ホームページの本コンテンツで「いつまでも元気でいて欲しい」と書いたばかりでしたが、とても残念です。
無駄のないつぶやくようなターシャの声がよみがえります。
ターシャが捧げた庭造りは、どこかで永遠や生死を意識する営みです。死についてターシャはアインシュタインの言葉を引用しながら、自分の観点を述べています。これを読むと、彼女は科学とその心についても深く理解している頭のいい人だと感心せざるを得ません。
ところで彼女が選んだ土地ヴァーモント州は私たちの上越地方と同じく雪が降る土地です。また名曲「ムーンライト・イン・ヴァーモント」はスタンダード曲の中で唯一恋歌でなく、土地の美しさだけを歌ったものだ、と学生時代に知りました。私がターシャを好きになったのも土地と歌が少し関係していたかもしれません。分身のようだったコーギー犬はどうしているのでしょう。

【以下はターシャが死に関して語った言葉です】
Einstein said that time is like a river, it flows in bends. If we could only step back
around the turns, we could travel in either direction. I’m sure it’s possible. When
I die, I’m going right back to the 1830s. I’m not even afraid of dying. I think it must
be quite exciting. ーTasha Tudorー

(アインシュタインは、時間とは折れ曲がって流れる川のようなものだと言った。私たちは川の曲がり角にきても、向きを変えれば今度は反対向きに旅することが出来る。私はそのことを心から信じている。もし私が死んだら自分は1830年代を目指して歩いて行きたい。私は少しも死を恐れていない。むしろ死はとてもエキサイティングなものだと考えている。ターシャ・テューダー)

※訳には自信がありません(館長)

 

2024年11月
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930

▲ このページのTOPへ