聴老(お年寄り&昔の話)
母のむかし話:綿
少々前のことで恐縮です。もう半月ほど経ちますが北陸園芸に寄りました。その時たまたま店に綿の枝がありました。これはと思って、白く美しい綿を買って帰りました。綿の話を何度も母から聞いていたからです。
買ってきた綿。
その後、先週の日曜に「うみなり」のコンサートで大潟区のコミュニティプラザに行きました。今度はそこで初めて「綿くり機」を目にしました。これも最近の昔話にたびたび登場していました。母の説明だけではどんな道具なのか分かりませんでしたので、目の当たりにして一瞬胸が熱くなりました。
大変恥ずかしいのですが、今回は綿や着物にまつわる母喜代と祖母ヤイの昔話を記させて頂きました。
あるご年配の女性が小さなお子さんに説明していましたので「綿くり機」だと知りました。
先回のむかし話では、佐賀県の古枝(現鹿島市内)という小さな村でのこと、家屋の倒壊事故でヤイが夫を失った所まで綴った。夫の死後三人の子を抱えて、ヤイは魚の行商を始めた。ほかにも一家を守るため身を粉にして働いた。
わずか一反ながら家に田んぼがあった。行商のかたわらで田植えから稲刈りまでヤイは一人で行い、暮には一人でモチをついた。田のほかに畑もあった。
春になると、ヤイは家族の着物の分だけ畑に綿の種を撒いた。秋に綿玉(コットンボール)がはじけて白い繊維が吹き出す。それらを摘んで綿くり機に掛けた。綿くりのハンドルを回すと種がポロリと落ちるのが喜代には面白かった。綿は糸車で紡ぎ、出来上がった糸はカセにして紺屋へ運んだ。
紺屋のお母さんはとても面白い人だった。母に付いて行くと冗談を言ってはからかわれたが、喜代はその人が好きだった。カセは樫の棒に架けられ手早く瓶に漬けて染色された。
後日、糸ができあがるといよいよ機織りだった。ヤイは遅くまで機をあやつり、親子が着る全ての反物を織った。ヤイの仕事は鮮やかで、喜代は母が扱う様々な道具の音が好きだった。綿くり、糸くり、機織り、、、母の足許に寝そべってはよく宿題をした。
喜代はヤイがこしらえたものの中で、白地に赤と緑の薄い縞がある着物が一番気に入っていた、という。
ところで、小学時代の喜代に母は三つの言いつけをした。子守と勉強と洗濯だ。子守では毎日のように幼い弟を背負って古枝小学校へ通った。幼児をおんぶして登校する子は他にもいて、学校には子どもを預かる部屋があった。
母の言いつけもあって喜代は勉強をした。勉強は好きだったので毎年鍋島賞をもらった。旧鍋島藩の華族が出している賞で、鏡台をもらった記憶がある。
そんな喜代が一度だけ激しくヤイから叱られたことがあった。ある日、自らの勤めだった洗濯を放って、仲良しのおゆりさんと川遊びに行った。帰るとヤイは烈火の如く怒り、「お前の背にこんな大きな石をくくりつけて、その川に沈めてやる」と身振りをして迫った。ヤイは常に優しかったが、この時ばかりは人が変わったようで恐ろしかった。
大きくなり始めた喜代が裸で遊んだことも、母の怒りを買ったのだろうか。
さて高等小学校を終えた喜代は、九州大学で看護学を学ぶことにした。試験は厳しく佐賀県からは3人だけ合格した。遠く広島からも入学者があった。
喜代が笑って話したことだが、入学式には自ら縫った袴を着けて張り切って出た。しかし当日、同級生達のあまりの身なりの良さにびっくりしたらしい。彼女たちは上等な純毛の袴を履いていたのに自分は安っぽいメリンス。皆のは足首が隠れるような丈なのに、自分のは寸足らずで足首の上まで丸見えだった。
さらに他の生徒達は時計をしていたが、自分はそれも付けていなかった。
母は急いで送金するようにヤイに電報を打った。一家の生活はとてもつましかったが、家にはちゃんと蓄えがあることを喜代は知っていた。小さい時から家の通帳を扱っていたからだ。
届いたお金を持って博多のデパート「イワタヤ」へ急行した。そこで生地を買うと一晩で袴を縫いあげた。時計は皆に負けない物が買えたらしい。看護の仕事では時計が大切で、ずっと長く使った。
ところで当時、未曾有の不景気が始まっていた。佐賀の小さな村にも、信州で糸引きをする女工さんを集める周旋屋の姿があった。彼女たちの悲劇は伝わっていて、喜代には娘を漁る男達が忌まわしく写っていた。
口癖で喜代は言う、自分の家は貧しかったかもしれない。しかし綿から作るヤイの着物をいつも着れて「自分は幸せだと思っていた」と。
※大変長くなってしまいました。実は以前、私は母の昔話が嫌いでした。どこか突飛で、作り話かもしれないと思ったりもしました。しかし車中などで仕方なしに聞いているうちに、面白いと思うようになりました。94才の親を相手に、最近では「それから?ほかに?」と言って聞いています。
いつも身内の事で恐縮です。機会がありましたら、大都会博多に出た喜代の学生時代などを書かせて頂ければと思います。
※文中のイワタヤ(岩田屋)は今もありました。
母のむかし話:行商
今日は文句なしの快晴だった。秋の年中行事に母を近くの菱ケ岳へ連れて行くことがある。お天気から見て今日を置いてはもう遅い。仕事を終えると簡単なお弁当とお茶を用意してもらって出かけた。
遅い紅葉と落葉したブナの山がきれいだった。工事のため山道は途中までだったが、楽しい昼休みだった。車中いつものように母は昔話をした。大変恥ずかしいのですが、備忘を兼ねて母に聞いた話を少々まとめてみたいと思います。誠に申し分けありません。
母の昔話:行商
大正4年生まれの母喜代の生家は佐賀県の古枝村(現鹿島市内)というところだ。有明海のそばで山も近く、水が良かったため近隣では漁業と共に酒作りも盛んだった。隣の「浜」という地域には白壁作りの酒蔵が続く風情のある通りがあった。喜代が7才の時に失った父親はその通りの白壁を得意とする左官職人だった。
ある夏、父は建前の手伝いに出掛けた。しかし当日、台風の直撃に遭って建てかけの家屋が倒壊した。犠牲になったのは父親だけだった。妻ヤイと長女長男次男が残された。
それで父の死後、「なあ喜代これからどうしたらいいかね」という縁側の話になる。長男は年下、次男はまだ乳飲み子同然だった。まもなく喜代を養子に欲しいという人達が現れた。山奥のOさん、医院のNさんなどだった。母ヤイはそれらをみな断った。
その後、親戚や地元の人達の助けもあって、ヤイは魚の行商を始める。幸い近くにある祐徳稲荷の門前旅館などが顧客となり、次第に仕事は忙しくなっていった。
ところでヤイはなんでも知っていたが、字が書けなかったという。それで喜代が10才の頃に母から財布を任されるようになった。通ったのは酒藏通りにある銀行だった。字が書けるようになっていた喜代は窓口につま先立ちをして通帳の出し入れをした。
※機会がありましたらヤイの織物などを書いてみたいと思います。
車中、ポットの番茶を飲む母
おばあちゃんたちに脱帽
午後の美術館で、お二人のおばあちゃまから声を掛けられた。懐かしい患者さんとそのお友達だった。コーヒーをご一緒しながらのひと時は楽しく、有益だった。
子どものころから労働、左ハンドルも経験した。
【以下、お二人の話】
「ここは私らにとって懐かしい場所」。若い時に、美術館から見える田んぼで胸までつかって仕事をした。カイコも飼ったが時代は進み、ある年代を境に家族でも経験は全く異るようになった。
「田んぼ」:昔、浜に住む自分たちは漁業のほかに農業もした。ただし、良い田んぼは農家の人達のもので、自分たちのは農家の余り物のような田んぼだった。それがあちこち離れた所にあったので、とても大変だった。
大人たちは用水路に舟を運び入れ、刈り取ったイネを浜の稲場まで運んだ。子どもにも何かと仕事があった。
「くばり」:稲刈りで子どもが最初に行う仕事が、くばりだった。刈ったイネを束ねるためのワラを一定の間隔に置けばよかった。二、三年すると今度は置かれたワラでイネを束ねる仕事に昇格した。
「蚕(カイコ)」:近くに製糸工場があったので、一帯では蚕も飼った。蚕を飼うのに特別な場所があったわけではない。時期になると家中に桑の葉を敷いて飼った。そのため家族は仏壇の前にかたまって寝た。蚕が桑を食べる音がザアザアと家中に響いていた。
「足だか」:子どもの頃からワラで縄をない、ある年齢になるとわらじを編んだ。最初に「足だか」を教えられた。足だかとは、足の前半分だけのわらじで、主に子どもたちが履いた。教わったばかりではうまく作れず、一日ももたなかった。
「運転」:後に娘がニューヨークに住むようになった。ある時、急用の娘を手伝わなければならなくなった。アメリカでは車を運転しないと手伝いにならないと聞かされた。それで左ハンドルの講習を受けてアメリカへ行ってきた。
「芝生」:ここの芝生はハワイみたいですね。
グループホーム
近くにグループホームがあって、月に一度伺っている。グループホームでは一定の認知症のあるお年寄りの方々が職員さんたちに見守られながら協同的に生活をしている。部屋は個室。介護保険の時代になって伸び、それぞれ地域で大切な場として定着している。
館内は穏やかで、時々皆さんとスタッフさんの歌声が聞こえたりする。今日の訪問では目の前の林に白い藤が沢山咲いていた。
長いつきあいとなったAさんの部屋で小さな箱を見せてもらった。彼女の大好きな可愛い可愛い品が入っていた。ここでは多くの方が、それぞれに大好きな品を持っている。
皆さんが比較的安定していて長くいらっしゃるのが嬉しい。
押し車の荷台に小さな箱。緑色の蓋が付いている。
ゴッホのアーモンドの花の絵に似た白藤。
時の流れが二つ
祝日、久しぶりに車いすの母を連れて美術館へ行った。爽やかに晴れて空気が味覚を潤すようだった。ああ気持ちがいい、と母の一声。
カフェで一番良い場所に座った。チョコレート菓子を分けて、レモンティーを飲んだ。母はまた故郷佐賀の昔話をする。近くに焼き物窯が二カ所あって、あたりに散らばるかけらでままごとをして遊んだ。磁器の土をこしらえるのに水車が回っていた、と。
帰りに菜の花畑を見た。”菜の花畑に入り陽うすれー♪”二人で歌って帰ってきた。初めてハーモニーをした小学校4年生の時の唱歌だ。
ところで目の前の時は盛んに去るが、昔の時はしきりとこちらへ近づく。昔話を繰り返す母にあってはなおさらだろう。
美術館は三々五々お客様がこられた。見知らぬ方たちがくつろがれる様子を見ると少し変な気持ちになる。皆様本当に有り難うございます。
新緑の樹下美術館
近くの大潟水と森公園
飲み込み。そしてシーグラス。
休日だったが午後に往診があった。比較的安定していた脳梗塞の方。しかし数日来ほとんど飲食をしなくなったという連絡。ご本人はまだお若い。よく聞けば飲み込み障害のためひどくむせた日の恐怖感が引きがねと考えられた。早めに専門的なリハビリを受ける事にして点滴をした。
ところで日本は技術大国であり、とりわけ微細なテクノロジーに優れている。一方、飲み込み障害の裾野は広く深刻な課題だ。これには口腔、咽頭・喉頭、食道などの極めて複雑なメカニズムが関係している。ナノテクノロジーを進化させている今、飲み込みを補助するコンパクトな装置を願ってやまない。
やや穏やかな昼間だったので、近くの海に寄った。昨年7月、浜辺でシーグラスと貝を拾い、秋には海に戻そうと書いた。しかしそれが子どもたちや孫に喜ばれて、シーグラスはそのまま我が家にとどまった。その後、私が一番気に入ってしまい、暇をみては海へ行くようになった。
せん妄
ひどく気温が下がってみぞれ交じりの荒天となった。いよいよ越後の冬の始まりだ。荒れ模様の夜8時すぎ、あるお宅から電話があった。ショートステイを利用中の夫が、昨晩から寝ないで騒ぎ出したので家に帰された。家でも妄想にとらわれて大声や怒鳴りが止まず、診て欲しいという訴えだった。
ご本人は、肺疾患のため在宅で酸素吸入をしている高齢の男性で、奥さんと二人暮らし。酸素療法では鼻に付けるチューブが鬱陶しくて、外したがる患者さんは少なくない。しかし一旦外すと酸素不足のため、特に高齢者では意識の濁りを生じてひどい症状が現れる場合がある。今回の方は施設でしばしばチューブを外し、介護士さんも苦労したようだ。この日ご本人は、介護士さんが付けたチューブを噛み切ろうとして、自分の指まで噛んで負傷したという。
ところで浅い睡眠や一定の酸素不足,発熱、時に薬剤で生じる意識の混濁・混乱はせん亡と呼ばれる。かって99才のおばあさんは、庭に何十匹ものサルが攻めてきたと言って、長いホウキを手に一人で立ち向かった。ひるね直後のせん妄で、夢と現実の混乱が鮮明な幻覚を生んだと考えられた。往診に伺うと、庭に面したガラス戸はすべてめちゃめちゃだった。家族は呆気に取られていたが、ふとんに戻ったご本人は、サルを退治したと意気揚々だった。普段寝てばかりいる老人でも、強い観念に襲われると信じ難いエネルギーを発揮することに驚いた。
今夜の電話の向こうでは怒鳴り声がして、奥さんの声は震えていた。ふだん電話の背後に聞こえる怒鳴り声や泣き声、あるいは悲鳴は緊張する。今夜は、出掛ける前に「優しくそばに座ってみてください。そしてそっとチューブを付けてください。駄目でもくりかえして」と告げた。患者さん宅に着いてみると家は静かだった。「いま寝ました」、奥さんの声がまだ少し震えていた。チューブはちゃんと付いていた。数十時間も眠っていなかったのだ。本人は布団にくるまり丸くなって眠っていた。
医療には薬の要らない場合もあろう。何かあったらまた電話して、と告げて出た。あられ混じりの風雨のなか、奥さんが傘を差して車まで付いてくださった。
もう一度お年寄り
近隣の菜園では大根、白菜、キャベツなど植え付けと種まきが一段落しました。それが今日、遠くを通過した台風のせいで熱射に見舞われました。急な暑さほど若い野菜に悪いものはないはずです。畑の死活がかかる一日だったのではないでしょうか。
畑といえば、近くで営む一人に92才のKおばあちゃんがいます。おばあちゃんは長く畑の名人と言われてましたが、残念なことに昨年暮れ、大腿骨骨折で手術を受けました。一冬こえた春、皆の制止を振り切ってKさんは畑に出たと聞いていました。
数日前の往診の帰り道、水がいっぱい入ったバケツを乗せた一輪車を押すKさんに出会いました。退院の際は、せいぜい歩行器がゴールだったに違いありません。それが荷を乗せた一輪車を押すなんて、常識では絶対に考えられないことで,非常に驚きました。動作はかなり不自由に見えました。気丈なことに「ウネ一つ越えるのも考えなきゃいけない」と不満げでした。しかし全体にゆるりとして明るい感じは以前のままです。
私は気の利いたことも言えず、「久しぶりでしたね」と言って肩に手を掛けました。きゃしゃな肩でした。不思議だなと思うことは、私が知っている90才以上で比較的お元気な方たちは大抵きゃしゃなのです。
そして本日の夕刻、畑の安否を見に行ってみました。Kさんはちゃんとおられて、畑には水がくべられていました。「これとあれは駄目だった」と萎えた株を指す表情がわずかに曇りました。柄しゃくを頼りに立ったまま手を休める彼女と少しだけ話をしました。立っているだけで又ポキッと折れそうで、気が気ではありません。話しながら少し涙が出そうになりました。Kおばあちゃんは本当に素晴らしかったです。
水遣りされたおばあちゃんの畑
愛用の手押し車
休日は
このところ遠方からの来館者さんが混じって、たいがい静かだった樹下美術館が珍しく賑わっていました。今日はいつもの静けさに戻りましたので母を誘いました。展示の陶芸作品は父から継いだものが多いため母にも見慣れた作品があります。ホールを何度も見てからカフェで紅茶をしました。
93の母はこの夏、香月泰男の画集を見て以来、彼の人生と画風に打たれてしまっています。それで自らも鉛筆を執って身辺のものを描くようになりました。この日もカフェに座った途端、目の前の紙ナプキン入れを描こうとしました。
ところで母は幼い頃に事故で左官職人の父を亡くしています。最近、女手一つで自分たちを育てた自らの母をよく口にするようになりました。魚の行商をしながら一反歩の小さな田を一人で田植えし、一人で稲を刈り、一人で餅をついてくれたと、この日は聞かされました。車中で話を聞いた遠回りの帰り道、黄金の田園は壮大な刈り入れが始まっていました。
一方、私の妻は妻で、実家の親の介護の用事で何かとまた忙しくしています。
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館内 | カフェ |
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母の絵 | 母の絵 |
7月、圧倒的水田そして母へ
とても早いのですが7月になりました。ここ頸城(くびき)平野の稲々は溌剌と成長し水田は圧倒的な景観となりました。以下の写真はよく往診で訪れる上越市大潟区、米倉(よねぐら)付近からの眺めです。このような田園風景は樹下美術館のデッキでも眺められます。
先日、ネットで当美術館を見つけられた女性がわざわざ東京から訪ねて来られました。「もっと東京の人に知らせてください」と仰り、建物、展示、さらに庭や水田風景を激賞して下さったそうです。 心から有り難く、地に足付けて頑張りたいと思いました。それにしましてもますます大切な農。よく手入れされた水田は地方の貴重な品格にもなっているのではないでしょうか。
頸城平野の北東を守る二山。右奥に尾神岳、左は霊峰米山(よねやま)です。昔、尾神岳には子供たちを連れてよく遊びに行きました。いっぽう米山は「米山さんから雲が出た、今に夕立が来るやら、、、」の三階節(さんがいぶし)で知られています。
三階節は昭和10年の小唄勝太郎の歌によって全国的に流行したそうです。ところで佐賀県出身の母は九大の看護学科で二十歳のころに三階節を歌って踊ったことがあると言います。学校を出た母は満州で満鉄病院医師だった父と結婚しますが、敗戦後、夫以外に知る人も無い新潟の父の実家へと入りました。待ち受けていた因習と辛苦のなか「ああ、あれが米山、、、」と、歌で覚えていた山を見て慰められたそうです。
圧倒的な水田と山の力に揺さぶられ、なぜか思いはふらりと母へ傾きました。開館一周年の記念に、母への感謝を込めて二十歳と今日93才の写真を掲げることにしました。
二十歳の頃の母
93才、新聞3紙を読む母
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
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