聴老(お年寄り&昔の話)
保育園時代の記憶その1、巡幸列車のお迎え。
終戦後昭和天皇は全国を巡幸(じゅんこう)されました。調べると昭和22年10月8日、長野県→直江津→長岡→新潟へと回られたとありました。私の5才の時です。
巡幸当日、列車が通過する松林へ万歳をしに皆で行った断片記憶があります。その時、分校(中学校)の脇から松林を下って線路に出ましたので分校時代と記憶してました。しかし巡幸は昭和22年ということなので5才の保育園の時という事になりました。
当時の潟町では西念寺さんの坊守(ぼうもり)、徳山ミサオさんが保育園を開園されておられ、私も入学前の一年間、お世話になりました。ちなみに西念寺さんと中学校(分校)は目と鼻の先でした。保育園時代の記憶は二、三の断片しかありませんが、巡幸列車(お召し列車)のお迎えはその一つです。
園長の徳山先生は小柄ですがキリキリとして上品な方。先生には騒いで叱られた記憶がありますので、陛下を迎える礼や万歳は厳格だったに違い無いありません。
実際松林の小道を清々しい気持で下りましたが、線路脇の整列あたりからとても緊張しました。普段危ないと言われている線路に沿って並ぶのも緊張なら、列車に向かって万歳をするのも初めてです。
緊張のほか特にこの日のことが頭に残っているのは“長く待った“からでした。待っている間礼や万歳の練習をしたように思うのですが、とにかく長く待ちました。
そうこうするうち列車がやって来ました。 何両か客車が連結されていますので何処で礼をし万歳をすればいいのか分かりません。ゴーゴー!と近づく列車に向かって頭を下げたあと、万歳!万歳と大声を上げました。
私達は陛下の姿が見られるとばかり思っていました。しかしどの車輌も窓が閉ったまま通り過ぎるではありませんか。諦められ切れず去って行く列車に向かってまた万歳、万歳と叫びました。爽やかに下りてきた松林を、見えなかった、見えなかった、と言いながら帰ったという訳です。
ちなみに徳山ミサオ氏は上越夫人協議会会長を歴任され、懸案の髙田養護学校設立に大変な尽力をされました。
次は保育園時代の記憶から「豚小屋の雨宿り」か「映画 鐘の鳴る丘」を載せてみます。
私の幼少 自他の個性が気になる。
過日は戦後間もなくの映画「晩春」と「麦秋」の感想を載せました。映画の発表は昭和24年(1949年)と昭和26年(1951年)です。
私の学年で言えば小学2年生と小学4年生に当たっています。映画が大人の事情を描いていたにしても、鎌倉の土地と映画の時代の違いには驚かされました。
以下は昭和24年、2年生の記念写真で映画「晩春」と同時代です。
一クラス61人もいます。
担任は優しい佐藤トシ先生。
大抵下駄ですが裸足の子もいます。
私です。
何の変哲もなく無個性。
個性的なほかの子が羨ましい。
皆の顔はそのままにしました。ともにひもじい時代を懸命に生きたすべての級友に敬意を表して、ぼかしやモザイクを入れませんでした。
当時を現すのによく「分校時代」と書きますが、写真の様に校舎は大きくしっかりしていて分校には見えません。私達の世代前後に生徒が増え、一方中学校には教室が余っていたため、近くの小学1年から3年生まで1クラスずつが分校として間借りしていたのです。ほかに本校までやや遠かったというのもあったのかもしれません。
「お弁当コロコロ」や「バスにさらわれる」もおよそこの頃の出来事です。
勉強は何を習っていたのか、記憶に残るのは遊びばかり。紙芝居、ぱっち(メンコ)、釘飛ばし(地面に四角い線を書きその中で太くて長い釘を打ち合い、枠から出すとその釘を貰う遊び)、缶蹴り、トンボ取り、海水浴、相撲、後は漫画や雑誌のほか川上、靑田、大下などの野球選手に夢中でした。
裕福な鎌倉の子ども達。
素の鎌倉が見られた
映画「晩春」のスクリーンショットから。
春の連休に「分校時代の思い出」を二篇書きましたところ案外好評でしたので、次回から幼少のことを少し続けてみたいと思っています。幼少には年齢的な定義がないそうですが、12才あたりまでを指すのが一般のようです。
幼少時代の驚きは、何といっても各人各様の個性です。顔つき、体力、得意のものなどみな異なる事に密かに驚いていました。このことは時に自分を不安にしましたが多くは面白くかつ楽しいことでもありました。
次回は「空振りのお召し列車」の予定です。
良いご一家の話。
新学期が始まり小学一年生が横断歩道を渡る様子は何とも初々しい。
私は昭和23年、姉は21年に小学校に入った。入学の日姉が学校から持ち帰った教科書のあちこちはべったりと墨が塗られていたのを鮮明に覚えている。
戦後の一時期、新たな教科書が間に合わず戦前のものを用い、新制度にそぐわない部分は黒く塗られていた。お祝い気分だった姉はじめ家中ががっかりしていたのが蘇る。
ただ姉が買って貰った「下敷き」をきれいだと思った。初めて見た下敷きは、緑の丘の上に三角屋根の家とそこへ続く道が原色で描いてあった。簡単な図柄だったので真似てよく描いた。
ところで過日カフェでお会いした私と同年代の男性が語った教科書はそれどころではなかった。かつて父親の仕事で遠い西の地へと移られたご一家。お聴きした当持の話は逞しくも涙ぐましく、かつ微笑ましい戦後昭和のエピソードだった。
転地された時期は今ごろで小学校の教科書が間に合わなかった。そこで学校から借りると、字が得意な母が文字を写し、絵が得意だった父が挿絵を描いて何冊か教科書に代わるものを作ってくれたと聴いた。貧しい時代、遠くへ移られた皆さんの懸命な勤しみと時代ならではの灯下の幸せが浮かぶ。
その方は次のような話もされた。母は演歌が好きで上手かった。そんな母のために父は中古のアコーディオンを買ってきて独学で母の伴奏をはじめた。
両親の演奏を聴きながら自分も歌とアコーディオンを覚えた。アコーディオンは体力の無い小学生には重すぎたので仰向けに寝そべり、楽器をお腹に乗せて弾いた。
公園のベンチでもよく演奏したがある日通りかかった人が、坊や上手だね、と言ってお小遣いをくれた。家に帰って話すと父は、子供はいいな、私が弾いてもだれもそんなことをしてくれない、と嘆いた。
この方のご兄弟の何人かを知っているが、皆さん底のほうに明るさを秘めそれぞれ個性的。この日初めてお会いしたお兄さんも個性十分とお見受けした。
当館のお茶で、最初に字の話になった。すると居あわせた妹さんが「私は父親似で字が下手なんです」と仰った。
すかさずアコーディオンのお兄さんが
「それは違うよ、子供はどっち似ということはあり得ないさ、半分半分だ」
と、ぼそりと返された。
そこへ不遜にも私が入り、
「お兄さんは理系ですか、お話が科学的ですね」と言った。
「そうです、親子は半分半分。私は理科系で長く自動車のエンジンの仕事をしていました」と仰った。
面白い話をポツリポツリと語られるお兄さん。今では独学で覚えたチェロを子供達に教えているという。妹さんは絵画に関係され、この日皆さんは普段通りだったようだが亡き親御さんをはじめお話の人たちはみな一生懸命。内容もユニークで何て雰囲気の良いご一家なのだろうと思った。
二つの臨終 朝日池、ハクガンのねぐら入り。
毎日付けていたブログが四日空いた。この間何もしなかったわけではなく看取りが二件あり緊張して過ごしていた。
看取りは本当にさまざまでそこに到る道筋も色々だ。場所も自宅、福祉施設、病院、昔は事故まであった。あまり話題にしたくないことだが、以下二つのケースは30年近く経ってまだ明瞭に脳裡にあり、古い事になりましたので記載してみました。
一人目の方は通い続けた高齢の女性だった。夕過ぎて亡くなりましたと連絡があった。伺うと患者さんの顔に白布が掛けられ、お線香も上がっていた。数人のご家族と一緒に顔見知りの弟さんであるお爺さんが枕元にいて、長々お世話になりましたと仰った。
最後の様子などを訊ね念のため診ようとすると胸が僅かに持ち上がるではないか。慌てて顔の布を取り、胸を押仕上げたら不規則な呼吸が出現した。
まだ生きてんねか、とお爺さん。
線香消してください、と言い心臓マッサージを繰り返した。
始まっては止む呼吸。そのつど「あっ息した」「いよいよダメか」と呟くおじいさん。
一定時間が経って反応が無くなり、諸所見から臨終を告げた。
もしかしたら一件は誰も気づかず事は進行していたかもしれない。しかし私が言いなりに宣告し後で誰かが気づくようなら大騒ぎになろう。
同夜酒飲みのおじいさんには早くも一杯入っている気配があった。
もうひと方も脳裡にある。しばしば看取りは家人が観て電話をしてくるが、この方には一時間近く添いながら手を尽くした。ほぼ最後まで意識があり苦しい息のなかで頷くなど意思表示をされた。
床の回りを数人の妻子、親族が囲んでいたが、ある時から僅かに手を動かす動作を繰り返された。何かを訴えているようなので、訊きますから頷いて下さいと耳元で幾つか尋ねてみた。
すると苦しいお顔でいずれも違うと反応され再び手を動かす。何かを払うような動きに見えたので、もしやご家族に部屋から出て欲しいのかと思った。確かめるとはっきり頷かれた。皆さんに説明し外で待って貰うことにした。
だれも居なくなると手が止まった。
「私は居てもいいですか」と訊ねた。
肯定的な表情を浮かべられ、手を握りなおすとしばらくして安心したように息を引き取られた。
おじいさんは最後の苦しみを家族にを見せたくなかったのか。あるいは周囲の泣き叫びなど聞かずに一人静かに逝きたかったのか。生前は円満のなかに侍のような風貌を漂わせていた職人さんで、さすがだと後々も振り返った。
以上2例ですがあとお二人、いずれも大学病院時代の60年も前、20才くらいの方の時、お母さんが取った行動、あるいは老人ご夫婦の看取りで出された申し出など印象的なことがありました。本日の話はこれでお終いにさせて下さい。
以下は昨夕の朝日池です。17時ころハクガンが帰って来てしばらく鳴き合った後休んだようでした。
私は夜横になってから考え事をしては眠れないことがあります。神経質なマガンをよそにうとうとするハクガン。いずれにしても眠れないという鳥はいないようです。
かって認知症だった人、晩年の「ありがとう」は「すき」と書かれた。
本日は寒い日となった。午後の在宅回診時の車の外気温は9度を示していた。雪の目安になる米山にはまだ雪が無く平地の初雪ももう少し先の模様。
午後のひととき風が止んでいたのでシーグラスを探しながら柿崎海岸を歩いた。まだ波浪が強くシーグラスが含まれるような砂利自体が少なかった。
寒い日に温かい話を一つ。
ある方は長年遠隔地で働き、定年後久し振りに実家の母を訪ねた。帰るなり認知症になっていた母に「あなただれ?」と言われて強いショックを受けた。しかし一旦帰る別れ際「嫁さんに宜しく」という言葉を聞き、まだ望みがあると思った。
その後毎月1週間から10日ほど滞在しては母を看た。あえて外出を試みスーパーや公園など様々な場所へ一緒に行った。旧知との出会いや買い物を喜ぶうち周囲への関心が広がり、表情と反応が豊かになるのが分かった。
必要を感じ勉強して介護福祉士(ヘルパ-)の免許を取った。年とともに認知症は改善されたが、身体の衰えに従って下の世話から食事や入浴、移動、受診などの介護量が多くなった。それでも一貫して外出を心がけた。
寝たきりとなった最晩年のとある日、お礼を書きたいから紙を用意してと言われた。「ありがとう」と書くつもりらしかったが用意出来た紙は長さが足りなかった。
短い紙に書かれたのは「すき」の二文字だった。
思いつけも無い言葉に驚いたが「ありがとう」よりもずっと嬉しかった。
以上はお聴きした話の概要です。
ありがとうが心の言葉なら好きは感情であろう。お母さんの「好き」には「ありがとう」も含まれていたことだろうし、せがれさんも全く同じだったにちがいない。自分が好きで無ければ相手も好きにはなってくれない。
心と感情の満足。人間関係にこれほどの幸福があるだろうか。
短い紙しかなくて本当に良かった。
母亡き後、その方は地域の茶の間や外出、送迎の支援を仕事にしていると仰った。
米は美味しい 取り残される人々 国を愛するために。
早いもので新米は最後に刈り取られたコシヒカリとなった。私どもはまだ「月あかり」を食べている最中で終わればコシヒカリになる。新米は確かに美味しいのだが、今夏に食べていた新潟県産の古米は不作で品質は非常に悪かったにも拘わらず常に美味しかった。米の品質は格段に進歩しているのではないだろうか。
思い出すのは戦後の困難期で、小学校の昼食時間は切ない光景が見られていた。昭和20年代後半になっても貧しいお弁当を見られまいと左腕で囲むように隠し、顔を近づけて食べる子は少なくなかった(ある意味一般的だった)。まだ良い方だった私のは、かたくあんと目刺しが数本横たわっている「めざし弁当」が普通だった。
食べ物にうるさかった弟はそれが不満で、「目刺し弁当は臭い、早くのり弁を作れ」と盛んに母に催促した。
ところで数人の生徒は昼食時、教室からいなくなることがよくあった。家に帰って食べると聞き、さして不思議に思わなかった。だが後年になり果たして家で食べていたのか、何も食べずに戻って来たのでは?とふと思った。昭和50年に開業した際、そのような人の家に何度か往診をしたが、その時家財道具らしいものは殆ど無く、昼食のことは聞けなかった。
本日東京からの来館者さんと夕食を一緒した。妻より若い方だったが、昔話になると貧しい時代の食事が話題に上った。彼は「ととちゃぶ」と「水めし」を話した。
前者は食事時になると大口を開けて水道水をガブ飲みし、終わるやベルトでお腹をぎゅっと締め上げ空腹に耐える方法で、後者は古くなった飯を水で洗ってすえた匂いを消して食べるというものだった。
「水めし」は聞いて事があるやに思うが「ととちゃぶ」は初耳だった。
いずれも人づての話題らしかったのだが、都会の愛隣地区などに伝わっていたものかもしれない。
かってのブログに「残飯屋」のことを上げている。明治時代のある時期では布団まで借りて暮らす人々がいたという。今日そのような時代とは訣別しているはずであるが、「こども食堂」や「能登の困難」はいま同時進行の事実であり、明治の暗い影に匹敵しよう。飽食とともにあるこれら現実に対して、新たな政権には是非手応えある取り組みをお願いしたい。
トリクルダウンなどは無効なのでなんとしても直接当事者に光を当ててもらいたい。
他人(ひと)の不幸は自分の不幸、不幸で国を愛せるだろうか。
ドボルザーク作曲
「わが母の教えたまいし歌」
午後から降った雨 天気予報には心身の健康チェックの意味がある?
午前は曇り、午後からポツリと当たるや一時かなり激しく降った日。
お陰でむっとする暑さでぐったりしていた庭(人間も)が息を吹き返すきっかけとなる誠に良い雨だった。
明日はほぼ終日曇りのマーク。本日より少しだけ気温は下がる模様。
ところで天気のことばかり気にしていると、在りし日の父母を思い出す。
老いるに従い両親は熱心にテレビの天気予報を観た。特別予定も無いのにどうして予報ばかり観るのだろうと若い私は思っていた。しかしいま二人のようにお天気がとても気になる。
穿ってみれば、晴れても降っても明日のこと(天気)を案じるのは、明日への漠たる希望となにかしらの元気がある証しかもしれない。それで言うと、テレビが頻繁に提供する天気予報には「心と体の健康チェック」という隠れた意味があるように思われる。
新潟市から小島正芳先生が来館されました。
本日上越市髙田の最高気温が31,2度、湿度68%でかなりの暑さでした。かって暑さに対して不快指数という言葉がよくアナウンスされました。
気温と湿度で計算される数式やグラフがあり、数値が80~85は「暑くて汗が出る」、85~は「暑くてたまらない」とあります。このページで仮に本日の最高気温31度、湿度68%を入れると指数が82,6と出て、これは汗が出て、かつ不快に近い数字のようです。
個人差や風の有無や強弱で不快には差がありそうなので指標はあまり用いられなくなったと考えられますが、そう外れている訳でも無さそうでした。それにしても髙田の最高気温が8時57分という早い時間とは変わった日だったと思いました。
さてそんな日のお昼近く新潟市から良寛研究家・全国良寛会会長さんの小島正芳先生が来館されました。
先生には平成20年秋のご講演以来、毎年お話をして頂きました。今年も来たる11月3日(日曜日)に講演会が行われることになっています。
本日は演題、時間など以下のように決めさせて頂きました。
●日時:11月3日 午後2:30からおよそ1時間半(途中休憩あり)。
●演題:「良寛さんに学ぶ」
●参加費お一人300円
●一応60名様ほどのご参加を予定しております。
※お申し込みはお電話:025-530-4155 でお待ちしております。
昨年のWBC野球選手権で日本チームは劇的な優勝を飾り、そのときの栗山監督から賢くて良い人柄の印象が広く伝わりました。栗山氏は良寛さんの言葉に習い、何事も選手の側に立って考え、行動したと述べられました。そのこともあり、小島先生は実際栗山監督とお話をされたそうです。
この度の講演ではそのエピソードも交え、良寛の精神に親しみ学んだ人々のお話が予定されています。どうか振るってご参加ください。
小島正芳先生
本日先生は雀を詠んだ以下のような良寛さんの俳句を紹介されました。
秋日和千羽雀の羽音かな
良寛さんの時代の秋には千羽と称されるほどの雀の群が実際にいたと思われます。当時は貧しかったかも知れませんが自然も人情も濃かったに違いありません。
便利にはなりましたが何かと諍い攻撃に傾く一方悩みも多い現代。良寛の利他と寛容の心は今こそ貴重ではないでしょうか。
煙突女学校で労働組合の委員長に推された騒動 市長の学歴差別。
世の中には様々な学校がある。しかし「煙突女学校」という名は珍しい。かって在宅訪問先で60代半ばの女性Aさんが仰ったその名の実はいわゆる学校ではなく、富山県のある紡績工場のことで、社員がそう呼び一部に伝わったものだった。
名の由来はまず工場に印象的な高い煙突があったこと、入寮すると仕事のノウハウのほか一般教養から作法(茶道、華道など)の講座や楽しい催事、旅行などがあり、学校の雰囲気があったことが一番。そのため家庭の事情などで高校進学が出来なかった彼女達は、会社(寮)のことを「煙突女学校と呼ぶようになったらしい。
このことについて2011年のブログに二度書いた。
煙突女学校
煙突女学校アルバムから
Aさんから話を聴いたのは2011年だった。100才近いお母さんを在宅で診ておられ、訪問時の何気ない会話から、専門語も口にされたのに感心し、ちなみに、と言ってお仕事や出身校を尋ねたのが始まりだった。
その時Aさんは、自分は主婦で、卒業は「煙突女学校」です」と笑いながら応じられた。その後お母さんのことで時々彼女とお会いすることがあり、さらにお聴きしたり、アルバムをお借りして書いたのが上掲2つのブログになった。
お母様は亡くなられているが、本日たまたまお見えになったYさんに「煙突女学校」から随分経ちましたね、と私から切り出した。するとああ恥ずかしい、と仰り、促されると次のような話を追加された。
15才で入社し17になった時、労働組合の委員長になってという話が持ち上がり、ほぼ決まりかけた。たった17才の中学校出、政治も経済も何も勉強してない自分には出来ない、そもそも皆を代表するような人間ではない。絶対にイヤだと断り、ついに富山県から家に帰ってきてしまった。
すると会社と組合の人が訪ねて来た。もう帰らないと言うと、分かりました、委員長はいいから、あと10年は会社にいてもらいたい、と言って帰った。親と相談して戻ることになったが、自分の代わりに委員長になった人には済まない気持でいっぱいだった。
再び務め始めたが7年後、結婚を機に会社を止めた。その10年間、色々なことがあったが、沢山勉強させてもらい、自分は「煙突女学校」の卒業生として今でも会社には感謝していると明るく仰った。
ちなみに「煙突女学校」をググると国立国会図書館サーチというサイトに「哀歓・想い出の煙突女学校/[東洋紡績神崎会編]という一冊が一件だけ載っていた。彼女の会社はそこだったのだろうか。
当節上越市長は学歴について差別的な発言をして問題になっている。
人は学歴では無い。学歴はあっても無くても1個人として存在価値があるうえ、だれしも社会に出てからさらに成長する。
かって外洋帆走ヨットのクルーに入れてもらった。仲間はとび職、自衛隊員、販売員、エンジン工などでいずれも高校出だった。みな賢く、体力があり、世相に敏感で勇敢、何かと私は恥ずかしかった。
また10数年前、最後の小学校の同窓会があったとき、昭和30年代に集団就職した中学校出の級友の話が一番面白かった。
笠原文右衞門(大川:だいせん)の墓碑移転などのニュース。
昨日のこと館内のノートに以下のような記載がありました。
“2年ほど前から館長のブログを読んでいる。遡って見いていると2016年5月に自分たちの墓の記事があって驚いた。今回先祖の墓や碑の仕舞いに当地を訪ねたが、それも終わりほっとし,念願の樹下美術館を訪ねた”という主旨が書かれていました。
墓と勝海舟が揮毫したという墓碑は幕末から維新期、当地域の文化、教育、基盤構築に大貢献をされた笠原文右衞門(大川:だいせん)のもので、大潟区蜘蛛カ池(くもがいけ)の瑞天寺にあります。
現地で寺院西につづく小高い観音山を登ると中腹にレンガ塀がほどこされ広い階段が付いた立派な墓所へと出ます。かって一度訪れたことがありましたが、二度目の2016年はさらに歳月を重ね、傷みが進行している様子を残念に思い,、三十三観音や他の墓碑などと共にに記載していました。
昨日の上越タイムス一面。
新聞によれば、地元の「郷土史友の会おおがた(小山將会長)はじめ有志の方々とも相談され、墓は近隣の寺に、墓碑は山を下りた瑞天寺境内に移設されということでした。
当館を訪問されたご遺族の慶子さんはシンガポール在住ということ、遠くで長年心配され今日を迎えてほっとされたにちがいありません。遠路本当にご苦労様でした。当館にもお寄り下さり誠に有り難うございました。
笠原大川は近郷近在の若者を教育し、あるいは新堀川掘削に成功し一帯の農業用水路を確立されました。不肖筆者の高祖父・玄作は大川に勧められ江戸で蘭学を学ぶことができました。
また大川の残した資料には、玄作が蛮社の獄事件で幕府に追われる高野長英を匿っている嫌疑があるので二人で出てくるよう促す役人からの緊迫した文書が残っているなど、私どもと浅からぬ縁がありました。
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- 「お乳盲腸」とは何だったのか。
- 夏らしくなってきました。
- 36度にも届く暑さ アゲハと庭と薄茶で落ち着く。
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- 糸魚川のゴルフ お孫さんの宿題から始まった花。
- 小津安二郎監督映画「麦秋」を観て。
- 開館の日 世界にまだまだある欠陥。
- 小津安二郎監督映画「晩春」を観て。
- 「名探偵ポアロ」のアール・デコ。
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- 5月、月末の空と時 独居老人の緊急入院。
- BSNテレビ「なじラテ」さんの取材。
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- 小林古径記念美術館での呈茶 蘇った小山作之助のひ孫、故中島幸子さんのヴァイオリン。
- 明日の呈茶と講話に備えて。
- 田植えに麦秋。
- 付近はニセアカシアの花盛り 写真集「昭和のこども」、「筑豊のこどもたち」
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