聴老(お年寄り&昔の話)

小3の凄まじい体罰 その3 終章。

2025年9月9日(火曜日)

二十歳になった初夏でしたか、在京のE君が連絡してきて二十歳の祝い会を分校の級友みんなでやろうと言いました。二人が落ち合った場所は渋谷ハチ公前でした。

E君ほかの皆さまの世話で1962年のお盆、私達はまだ新しい鵜の浜温泉の旅館に集合しました。約60名いたクラスから23人が出席しました。中学生になると髙田の学校に行きましたので、10年振り、社会人の人が沢山いて僅かの間にみなすっかり大人びていることに驚きました。

C君の顔が見えました。心配だったB先生も出席でした。また後に防火用水の一件を話した才女Dさんも出てきたではありませんか。嬉しい事です、本欄に書いた物語の人達が10年後揃って集まっていました。

私の知る限り幼少の忌まわしい話題に触れる人はだれもいませんでした。
しかしC君とB先生はどのように挨拶し再会したのでしょう。当日C君はB先生を避けたかもしれませんし、先生が歩み寄った光景もありませんでした。もしかしたらB先生には少し辛い時間だったかもしれませんが兎に角皆で先生を囲んで記念写真を撮りました。

63年前の集合写真。
以来この会は生徒だけで長く続きました。

写真でC君と私は肩を組んでいます。彼は相変わらずどもっていました。しかし皆C君と話したがりました。彼は周囲から多く声が掛かる人気者であるばかりでなく、腕が立ち良い弟子を育てる職人として早くも尊敬される立場になっていると聞きました。

さらにお酒が強く座持ちが良くて歌が上手かったと先日のAちゃんが言っていました。とくに彼の「嫁自慢」は有名で会えば必ず「うちの嫁は良い嫁」だと自慢をしたそうです。何から何まで素敵なC君ではないでしょうか。

彼にとって吃音などはあたかも何の問題でもなかったようであり、彼の素質と強靱な精神に驚かざるを得ません。また後年の見聞などから愛すべき素晴らしい人だと感心させられます。

人生は分からないものですね、今でもそうですが、色々大事なことに気が付かずに過ぎます。
B先生はかなり前、C君はその後、近時Dさんが故人になりました。生きながらえて皆さんのことを書いている自分には彼らのように真剣な物語があったものか不甲斐なさを感じざるばかりです。

本日で分校時代小3で目の当たりにした体罰の物語は終了させてください。
登場した亡き皆さまはじめ分校の亡き級友すべてに対しまして心からご冥福をお祈りいたします。

小3の凄まじい体罰 その2。

2025年9月8日(月曜日)

昨日はB先生によるC君の吃音に対する暴力的な振る舞いを記しました。先生が行った方法は軍隊やかつて話題になった戸塚ヨットスクールのそれに類する教育あるいは矯正だったのかもしれません。

しかし私達には決してそんな風に見えませんでした。行為はC君を徹底的に痛めつけ疲労困憊させれば忌まわしい吃音も姿を消すだろうという妄想的な執念に包まれた暴走にしか思われません。

その後の私は運動場の一件で事態は終わっていたと長年考えていました。また後年級友たちと話す場合一様に話題は運動場の柔道場面だけ、それで十分でした。
しかしたまたま2013年と15年に樹下美術館を訪ねてきた分校同級生D子さんによってまだ続きがあったこと、それはさらに深刻だった事を聞くことになります。

Dさんについて少し触れますと彼女は分校、本校、中高などを一貫して非常に優秀な成績で通し、東京の最難関女子大を現役で突破する秀才でした。そのうえスポーツ面でも花形、何より際立っていたのは声の良さと美しさでした。

二回目の来館の折、B先生とC君の話を知ってる?と訊かれました。柔道で投げ飛ばした話でしょう、と言うと、実はあの後も続いたんです、と言って以下のような会話になりました。

私)まだあったの。
Dさん)そう、学校の前の庭に深い防火用水があったでしょう。あそこへC君を連れ行って投げ込んだの。
はーっ?
泳げないCちゃんは浮いたり沈んだりおぼれそうになり、先生はあわてて服のまま飛び込んでC君を陸に揚げたのよ。
えー!完全に事件だね。
そうですよね、、、。
※防火用水池::縦5メートル横3メートルほどの池で大人でも背が立たないと聞いていました。

彼女は驚くべき話をある種淡々とまた最後には一種しんみりとした口調で終わったのです。運動場での柔道事件については大抵の級友が知っていますが防火用水の一件を耳にしたのは初めてで大変驚きました。もしもDさんだけが見ていたならそれも謎ですが、残念ながら来訪時に聞き漏らしました。

以後10年ほどが経ち私達は二十歳を迎えました。幼年だった同級生は郷土の希望、新しく出来た鵜の浜温泉の一室に集まって祝いをしました。

時間がかなり過ぎましたので続きは次にさせてください。

小3の凄まじい体罰 その1。

2025年9月7日(日曜日)

時々ここに書いている小学校低学年(昭和23年:1948年入学)の3年間通った分校時代。そのなかで特に記憶に残るのは体罰(教育?)事件です。もう75年も前ですし、時代は変わり私も年取り、不思議なことに関係する方たちはみな亡くなりました。もう書いても構わないかなと感じるようになりましたので本日机に向かった次第です。

小3になると担任は優しい佐藤先生から怖い顔の男性B先生に変わりました。B先生は軍隊上がりで図工が専門、浪花節が得意という方でした。

ある日、国語(読本)の授業でC君が当てられました。C君のことは皆知っていましたがかなり重度の吃音(きつおん:どもり)がありました。私達は固唾を飲んで見守りました。
C君は最初の字はおろか続く文もまともに読めません。ただ「ス、ス、ス、、、」などと顔を歪めて苦しそうにするばかりでした。
どうしたんだ!と先生が急かします。

しかし先生が手本を示そうが、落ち着け!と言おうがC君は進めません。
困った先生はショックを与えれば直ると考えたのでしょう、C君の胸や背中を叩きましたがそれで変わるのでしょうか。悪いまま事態は続きました。

先生はC君を階下にある小さな運動場へ連れて行きました。柔道で直してやるというのです。私達はゾロゾロと後に続きました。

運動場では凄まじい場面が始まり、みな唖然となりました。
背負い投げだ!と言って痩せたC君は床に叩きつけられ、巴投げだ!と言っては激しく投げ飛ばされました。柔道ワザは繰り返されワーワーと泣き叫ぶC君。
何度か「勘弁してくれ」と言ったような気がしましたが、もしかしたらそれはC君の代わりに皆が心の中で叫んだ声かも知れません。

普段は独特の楽しい雰囲気を醸し出しみんなにCちゃん、Cちゃんと親しまれる彼は嗚咽をもらしながら先生の足許にうずくまっていました。先生に帰るように言われたのか、残酷な出来事をみた後私達は三々五々家に帰りました。

しかし実はこの後もっと大変なことがあったというのです。それを語ったのは7年ほど前、東京から樹下美術館を訪ねてきた非常に優秀な級友D子さんでした。

続きは次回に、本日はここまでにさせてください。

去る9月5日、前々日の大雨の後の空。

小学校に上がるまでジャンケンを知らなかったAちゃん。

2025年9月6日(土曜日)

去る9月3日の豪雨が上がると一両日は涼しくなり本日は30度止まり。長く続いた厳しい暑さとは別の空だった。
あの激しい雨は患者さん達の菜園を襲い,出水を免れたがせっかく世話した秋野菜の苗や種を流し、盛り上げたウネを平にしてしまったと聞いた。

ところで私の所には小学時代の同級生たちが10数名通って来られる。もう83と84才になるが、短い診察ながらそれぞれ年取った姿に小学生のあどけない面影が重なり、何だか愛おしいような不思議な気持になる。

そんな昨日Aちゃんが見えた。亡きお母さんは和裁の先生で、冬になると遠くの里の生徒さんたちは泊まりがけで習いに来たと聞いたことがあった。Aちゃん自身は洋裁が上手く、母が残した着物を洋服にしたりバッグにして人前に出るほど腕が立つ。

診察を終え、分校時代のB先生がC君に行った凄まじい体罰(教育?)の事を知っているかと尋ねると知らないと言った。その時目にした現場の話に目を丸くしたあとAちゃんは分校の1,2年生の受け持ちだった佐藤先生の話をした。

初めて聴く話は短いながら心温まるものだった。
以下Aちゃんの話です。

 私は小学校に上がるまでジャンケンというものを知らなかった。担任の佐藤トシ先生はそれに気がつき、わざわざ家まで来て母と私にやり方を教えてくれた。母も知らなかったとみえ習った後で二人で練習をした。
大通りには同級生が沢山いたが通りから離れた家の周りには遊ぶ友だちがなく、ジャンケンを知らずに育ったのだと思う。

 

筆者はジャンケンをしますがそれを何時覚えたかなどはまったく思い出せません。しかしAちゃんのようにきっかけが明瞭で心温まるエピソードを持つ人は珍しいのではないでしょうか。聞きながら羨ましく思いました。

ちなみに担任の亡き佐藤先生はクラスの誰もが懐かしい表情になり、良い先生だったと述懐します。
良い先生とは、少なくとも生徒たちを毎日学校へ行きたくさせる人のことではないでしょうか。

2年生の記念写真。
佐藤トシ先生は右端に座っている。
Aちゃんはそのそばに立っている。

佐藤先生のすぐ後ろに立ったAちゃんにとって佐藤先生は特別な存在だったかも知れません。
本校、分校の教室事情があったにしても、これだけ大勢(60人)のちびっ子を先生一人がみていたとは。しかも生徒たちはみな佐藤先生が大好きでした。

夕刻に登っていた月。
満月はあさって9月8日ということ、
皆既月食だそうです。

次回から文中触れたCちゃんに対するB先生の激しい体罰をDさんのことと共に記してみます。

週末の上京 小5の築地と叔母の周辺そして「横浜事件」。

2025年8月17日(日曜日)

親族の見舞いで出た妻と東京駅で落ち合い海と隅田川が見える豊洲のホテルに一泊してきた。子ども達に会うためだった。約一年ぶりだがより元気に現れた。
子ども達の元気は安心だったが果たして年取る私達のほうはどのように見えたかが問題。

本日午前はホテルから近い築地へ行った。

懐かしいかちどき橋。

そして築地本願寺。

丁度法話が行われていて聴いた。
三蔵法師と孫悟空の逸話だった。

昭和28年、小学5年生の夏、東京から一番末の叔母が訪ねて来て、帰りに姉私弟の3人を連れて上京してくれた。長時間の汽車の旅はウトウトしては目が覚めるを繰り返し、東京(多分新橋駅)へ着いた。

車中、次々と募金箱を抱えた傷痍軍人がやってきたし、大宮駅の機関車庫の大きなレンガの建物は爆撃を受けて大崩れしたまま残っていた。

築地で幼稚園を営んでいた別の叔母のところで数日世話になった。幼稚園への道すがら乾いた川底に幾つも浮浪者が住むという小屋があり、橋(もしかしたら数寄屋橋)の欄干にそのような人達が寝ていた。落ちないかと心配すると叔母は「目をつむっているだけだから大丈夫」だと言った。

道すがら少し飛んでいる叔母は「ルンペン」や「パンパン」という言葉を教えてくれ、「エヘヘ、私共産党に入っちゃった」と言った。
泊めてくれた三番目の叔母は築地界隈の窪地のような所で、コンクリート壁に囲まれた、小さな中庭のある幼稚園を営んでいた。
この人のご主人は戦争中特高警察に捕まり終戦直前まで「横浜事件」と呼ばれる大規模なでっちあげ事件で長期にわたり激しい拷問を受けた。最後は瀕死状態で釈放され間もなく亡くなっている。

忙しい幼稚園の叔母に代わって一緒に上京した叔母が神宮球場や読売新聞の子供音楽会などに連れて行ってくれた。銀ブラしようと誘われた銀座は随所に進駐軍が闊歩し、道端にはテント屋台が並んでいた。

屋台では樟脳を挟んだセルロイド製の小さな舟がタライの水の上をスイスイ走っていたり、きれいなボンボン売りが沢山見られた。私達は買って欲しいのを必死に我慢した。

上掲のかちどき橋と築地本願寺は幼稚園の従兄弟と行った。一緒に近所のお風呂屋さんに行ったのも懐かしい。

近くに大きな病院(現聖路加国際病院)があり当時は米軍に接収されていた。叔母はそこへ通う看護婦さんたちの子供を大勢預かっていて、彼女らが病院の免税店から買ってきてくれたラッキーストライクのタバコに火をつける時に機嫌の良い表情を見せた。

叔母はメガネを掛け女優さんのようにきれいな人だった。因みに拷問の犠牲になったご主人は早稲田大学卒の壮健なラガーマンだったが釈放時は両膝が挫滅し見る影もなく衰弱していたという。

戦後長きにわたって事件の真相究明と被告人の名誉回復の裁判がおこなわれた。
平成20年4月、ようやく横浜地裁は特高警察による拷問を認定し、反政府活動の証拠は存在せず、特高警察による思い込みや暴力的捜査から始まった警察、検察、裁判所の故意、過失は重大と結論づけ、冤罪であったことを認めた

昨今スパイ防止法を掲げる政党や政治傾向が生まれている。戦争準備は平和な時代に密かに進行し、いざ戦争が近づくと人は狂う。スパイ防止法は政治的冤罪事件の根っ子を隠している。

※父の兄弟姉妹で成人したのは11人。男性4人、女性7人でした。上記で私達を東京に連れて行ってくれた叔母は7番目の末っ子で幼稚園の叔母は3女でした。

保育園時代の記憶その1、巡幸列車のお迎え。

2025年6月19日(木曜日)

終戦後昭和天皇は全国を巡幸(じゅんこう)されました。調べると昭和22年10月8日、長野県→直江津→長岡→新潟へと回られたとありました。私の5才の時です。

巡幸当日、列車が通過する松林へ万歳をしに皆で行った断片記憶があります。その時、分校(中学校)の脇から松林を下って線路に出ましたので分校時代と記憶してました。しかし巡幸は昭和22年ということなので5才の保育園の時という事になりました。

当時の潟町では西念寺さんの坊守(ぼうもり)、徳山ミサオさんが保育園を開園されておられ、私も入学前の一年間、お世話になりました。ちなみに西念寺さんと中学校(分校)は目と鼻の先でした。保育園時代の記憶は二、三の断片しかありませんが、巡幸列車(お召し列車)のお迎えはその一つです。

園長の徳山先生は小柄ですがキリキリとして上品な方。先生には騒いで叱られた記憶がありますので、陛下を迎える礼や万歳は厳格だったに違い無いありません。

実際松林の小道を清々しい気持で下りましたが、線路脇の整列あたりからとても緊張しました。普段危ないと言われている線路に沿って並ぶのも緊張なら、列車に向かって万歳をするのも初めてです。

緊張のほか特にこの日のことが頭に残っているのは“長く待った“からでした。待っている間礼や万歳の練習をしたように思うのですが、とにかく長く待ちました。

そうこうするうち列車がやって来ました。 何両か客車が連結されていますので何処で礼をし万歳をすればいいのか分かりません。ゴーゴー!と近づく列車に向かって頭を下げたあと、万歳!万歳と大声を上げました。

私達は陛下の姿が見られるとばかり思っていました。しかしどの車輌も窓が閉ったまま通り過ぎるではありませんか。諦められ切れず去って行く列車に向かってまた万歳、万歳と叫びました。爽やかに下りてきた松林を、見えなかった、見えなかった、と言いながら帰ったという訳です。

ちなみに徳山ミサオ氏は上越夫人協議会会長を歴任され、懸案の髙田養護学校設立に大変な尽力をされました。

次は保育園時代の記憶から「豚小屋の雨宿り」か「映画 鐘の鳴る丘」を載せてみます。

暑くなり、夕刻の海が恋しくなってきました。

私の幼少 自他の個性が気になる。

2025年6月18日(水曜日)

過日は戦後間もなくの映画「晩春」と「麦秋」の感想を載せました。映画の発表は昭和24年(1949年)と昭和26年(1951年)です。
私の学年で言えば小学2年生と小学4年生に当たっています。映画が大人の事情を描いていたにしても、鎌倉の土地と映画の時代の違いには驚かされました。

以下は昭和24年、2年生の記念写真で映画「晩春」と同時代です。

一クラス61人もいます。
担任は優しい佐藤トシ先生。
大抵下駄ですが裸足の子もいます。

私です。
何の変哲もなく無個性。
個性的なほかの子が羨ましい。

皆の顔はそのままにしました。ともにひもじい時代を懸命に生きたすべての級友に敬意を表して、ぼかしやモザイクを入れませんでした。

当時を現すのによく「分校時代」と書きますが、写真の様に校舎は大きくしっかりしていて分校には見えません。私達の世代前後に生徒が増え、一方中学校には教室が余っていたため、近くの小学1年から3年生まで1クラスずつが分校として間借りしていたのです。ほかに本校までやや遠かったというのもあったのかもしれません。

お弁当コロコロ」や「バスにさらわれる」もおよそこの頃の出来事です。

勉強は何を習っていたのか、記憶に残るのは遊びばかり。紙芝居、ぱっち(メンコ)、釘飛ばし(地面に四角い線を書きその中で太くて長い釘を打ち合い、枠から出すとその釘を貰う遊び)、缶蹴り、トンボ取り、海水浴、相撲、後は漫画や雑誌のほか川上、靑田、大下などの野球選手に夢中でした。

 裕福な鎌倉の子ども達。
素の鎌倉が見られた
映画「晩春」のスクリーンショットから。

春の連休に「分校時代の思い出」を二篇書きましたところ案外好評でしたので、次回から幼少のことを少し続けてみたいと思っています。幼少には年齢的な定義がないそうですが、12才あたりまでを指すのが一般のようです。

幼少時代の驚きは、何といっても各人各様の個性です。顔つき、体力、得意のものなどみな異なる事に密かに驚いていました。このことは時に自分を不安にしましたが多くは面白くかつ楽しいことでもありました。

次回は「空振りのお召し列車」の予定です。

良いご一家の話。

2025年4月10日(木曜日)

新学期が始まり小学一年生が横断歩道を渡る様子は何とも初々しい。
私は昭和23年、姉は21年に小学校に入った。入学の日姉が学校から持ち帰った教科書のあちこちはべったりと墨が塗られていたのを鮮明に覚えている。
戦後の一時期、新たな教科書が間に合わず戦前のものを用い、新制度にそぐわない部分は黒く塗られていた。お祝い気分だった姉はじめ家中ががっかりしていたのが蘇る。

ただ姉が買って貰った「下敷き」をきれいだと思った。初めて見た下敷きは、緑の丘の上に三角屋根の家とそこへ続く道が原色で描いてあった。簡単な図柄だったので真似てよく描いた。

ところで過日カフェでお会いした私と同年代の男性が語った教科書はそれどころではなかった。かつて父親の仕事で遠い西の地へと移られたご一家。お聴きした当持の話は逞しくも涙ぐましく、かつ微笑ましい戦後昭和のエピソードだった。

転地された時期は今ごろで小学校の教科書が間に合わなかった。そこで学校から借りると、字が得意な母が文字を写し、絵が得意だった父が挿絵を描いて何冊か教科書に代わるものを作ってくれたと聴いた。貧しい時代、遠くへ移られた皆さんの懸命な勤しみと時代ならではの灯下の幸せが浮かぶ。

その方は次のような話もされた。母は演歌が好きで上手かった。そんな母のために父は中古のアコーディオンを買ってきて独学で母の伴奏をはじめた。
両親の演奏を聴きながら自分も歌とアコーディオンを覚えた。アコーディオンは体力の無い小学生には重すぎたので仰向けに寝そべり、楽器をお腹に乗せて弾いた。

公園のベンチでもよく演奏したがある日通りかかった人が、坊や上手だね、と言ってお小遣いをくれた。家に帰って話すと父は、子供はいいな、私が弾いてもだれもそんなことをしてくれない、と嘆いた。

この方のご兄弟の何人かを知っているが、皆さん底のほうに明るさを秘めそれぞれ個性的。この日初めてお会いしたお兄さんも個性十分とお見受けした。
当館のお茶で、最初に字の話になった。すると居あわせた妹さんが「私は父親似で字が下手なんです」と仰った。
すかさずアコーディオンのお兄さんが
「それは違うよ、子供はどっち似ということはあり得ないさ、半分半分だ」
と、ぼそりと返された。
そこへ不遜にも私が入り、
「お兄さんは理系ですか、お話が科学的ですね」と言った。
「そうです、親子は半分半分。私は理科系で長く自動車のエンジンの仕事をしていました」と仰った。

面白い話をポツリポツリと語られるお兄さん。今では独学で覚えたチェロを子供達に教えているという。妹さんは絵画に関係され、この日皆さんは普段通りだったようだが亡き親御さんをはじめお話の人たちはみな一生懸命。内容もユニークで何て雰囲気の良いご一家なのだろうと思った。

二つの臨終 朝日池、ハクガンのねぐら入り。

2025年1月24日(金曜日)

毎日付けていたブログが四日空いた。この間何もしなかったわけではなく看取りが二件あり緊張して過ごしていた。
看取りは本当にさまざまでそこに到る道筋も色々だ。場所も自宅、福祉施設、病院、昔は事故まであった。あまり話題にしたくないことだが、以下二つのケースは30年近く経ってまだ明瞭に脳裡にあり、古い事になりましたので記載してみました。

一人目の方は通い続けた高齢の女性だった。夕過ぎて亡くなりましたと連絡があった。伺うと患者さんの顔に白布が掛けられ、お線香も上がっていた。数人のご家族と一緒に顔見知りの弟さんであるお爺さんが枕元にいて、長々お世話になりましたと仰った。

最後の様子などを訊ね念のため診ようとすると胸が僅かに持ち上がるではないか。慌てて顔の布を取り、胸を押仕上げたら不規則な呼吸が出現した。
まだ生きてんねか、とお爺さん。
線香消してください、と言い心臓マッサージを繰り返した。
始まっては止む呼吸。そのつど「あっ息した」「いよいよダメか」と呟くおじいさん。
一定時間が経って反応が無くなり、諸所見から臨終を告げた。

もしかしたら一件は誰も気づかず事は進行していたかもしれない。しかし私が言いなりに宣告し後で誰かが気づくようなら大騒ぎになろう。
同夜酒飲みのおじいさんには早くも一杯入っている気配があった。

もうひと方も脳裡にある。しばしば看取りは家人が観て電話をしてくるが、この方には一時間近く添いながら手を尽くした。ほぼ最後まで意識があり苦しい息のなかで頷くなど意思表示をされた。
床の回りを数人の妻子、親族が囲んでいたが、ある時から僅かに手を動かす動作を繰り返された。何かを訴えているようなので、訊きますから頷いて下さいと耳元で幾つか尋ねてみた。

すると苦しいお顔でいずれも違うと反応され再び手を動かす。何かを払うような動きに見えたので、もしやご家族に部屋から出て欲しいのかと思った。確かめるとはっきり頷かれた。皆さんに説明し外で待って貰うことにした。

だれも居なくなると手が止まった。
「私は居てもいいですか」と訊ねた。
肯定的な表情を浮かべられ、手を握りなおすとしばらくして安心したように息を引き取られた。

おじいさんは最後の苦しみを家族にを見せたくなかったのか。あるいは周囲の泣き叫びなど聞かずに一人静かに逝きたかったのか。生前は円満のなかに侍のような風貌を漂わせていた職人さんで、さすがだと後々も振り返った。

以上2例ですがあとお二人、いずれも大学病院時代の60年も前、20才くらいの方の時、お母さんが取った行動、あるいは老人ご夫婦の看取りで出された申し出など印象的なことがありました。本日の話はこれでお終いにさせて下さい。

以下は昨夕の朝日池です。17時ころハクガンが帰って来てしばらく鳴き合った後休んだようでした。


私は夜横になってから考え事をしては眠れないことがあります。神経質なマガンをよそにうとうとするハクガン。いずれにしても眠れないという鳥はいないようです。

かって認知症だった人、晩年の「ありがとう」は「すき」と書かれた。

2024年11月19日(火曜日)

本日は寒い日となった。午後の在宅回診時の車の外気温は9度を示していた。雪の目安になる米山にはまだ雪が無く平地の初雪ももう少し先の模様。

午後のひととき風が止んでいたのでシーグラスを探しながら柿崎海岸を歩いた。まだ波浪が強くシーグラスが含まれるような砂利自体が少なかった。

数日来の風によって
本日まだ高い波浪。

寒い日に温かい話を一つ。
ある方は長年遠隔地で働き、定年後久し振りに実家の母を訪ねた。帰るなり認知症になっていた母に「あなただれ?」と言われて強いショックを受けた。しかし一旦帰る別れ際「嫁さんに宜しく」という言葉を聞き、まだ望みがあると思った。
その後毎月1週間から10日ほど滞在しては母を看た。あえて外出を試みスーパーや公園など様々な場所へ一緒に行った。旧知との出会いや買い物を喜ぶうち周囲への関心が広がり、表情と反応が豊かになるのが分かった。
必要を感じ勉強して介護福祉士(ヘルパ-)の免許を取った。年とともに認知症は改善されたが、身体の衰えに従って下の世話から食事や入浴、移動、受診などの介護量が多くなった。それでも一貫して外出を心がけた。

寝たきりとなった最晩年のとある日、お礼を書きたいから紙を用意してと言われた。「ありがとう」と書くつもりらしかったが用意出来た紙は長さが足りなかった。
短い紙に書かれたのは「すき」の二文字だった。
思いつけも無い言葉に驚いたが「ありがとう」よりもずっと嬉しかった。

以上はお聴きした話の概要です。
ありがとうが心の言葉なら好きは感情であろう。お母さんの「好き」には「ありがとう」も含まれていたことだろうし、せがれさんも全く同じだったにちがいない。自分が好きで無ければ相手も好きにはなってくれない。

心と感情の満足。人間関係にこれほどの幸福があるだろうか。
短い紙しかなくて本当に良かった。
母亡き後、その方は地域の茶の間や外出、送迎の支援を仕事にしていると仰った。

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