食・飲・茶・器

実況!20分で晩ご飯

2010年7月14日(水曜日)

 夜九時すぎ、少し離れた部屋のテレビから絶え間ない男性の声が漏れてくる。時々妻の笑い声も聞こえるので、行って見た。

 

 NHKの今日の料理だった。目がぎょろりとして愛想顔の料理人がおしゃべりしながら忙しく振る舞っている。タイトルは「実況!20分で晩ごはん。キャベツ混ぜ混ぜぶっかけそうめん」。刻々残り時間を告げられながら、説明に追いつかない手が宙を舞ったりする。

 

 時間で責めて、料理人をイジメているように見えなくもない。しかしジャストでゴマだれ味のソーメンにサラダ、炒め物とデザートが出来た。サッと短時間で作られたためよけい美味しそうに見える。

 

 終わって「あー、疲れた」、「しかし楽しかったー」と、とても正直な講師だった。NHKのこと、特殊な材料も使わず誰にも作れる料理のはず。優れた創意工夫が求められる仕事にちがいない。助手も付けずにさすがだった。

 

 講師は齋藤辰夫氏。パリなど日本大使館料理長の経歴が載っていた。

 

ダルマバノリウツギ 
美術館隣接の庭のダルマバノリウツギ

チマキと笹餅

2010年6月29日(火曜日)

 

笹餅
 
チマキ 
   

 梅雨の盛り、連日頂き物をして恐縮を禁じ得ない。昨日は笹餅、本日はチマキを頂いた。いずれも梅雨時の越後の味覚だ。

 

  ところで一昨日の夕刻から夜にかけて上越一帯も豪雨に見舞われた。移植の穴堀りをしていた庭で、突然放水を浴びせられるような雨にあってずぶ濡れになった。梅雨の終盤、気温の上昇と共に雨は油断できなくなる。

 

 田では、晴れ間をみてあぜ道や農道で草刈りが盛んに行われていた。梅雨が明ければ一帯の水田は生気に溢れ、頸城平野は壮大な美観となることだろう。収穫まであと3ヶ月、無事なお天気であってほしい。

淡路の先輩から鯵、そして西方の人

2010年6月26日(土曜日)

渦潮の海 
一年中荒海の鳴門の渦潮(同封されていた写真)

 

 昨日、学生時代の運動部でお世話になった淡路島の先輩からトツカアジが届けられた。他所のアジとは「まるでレベルが違う」としたためてあった。外見は普通のアジに見えるが名は初めてだった。

 

 送り主のA氏は昭和30年代後半、母校の軟式庭球部を医学部リーグの団体戦で全日本制覇させたエースだった。氏の身体能力と勝負勘は文字通り群を抜いていた。 

 振り返ると学生時代に交わった西日本(関西・四国・九州・一部東海も)の級友、先輩は私などとは随分違っていた。男っぽく勝ち気、顔立ちも精悍。同じ日本人なのに異国の人の印象さえあった。

  「いいか、相手がこう来たらこう行くんや」、部員たちを見回して檄を飛ばすA氏。眼差しには熱さと冷静さが共にあった。

 

 さて頂いたアジを昨夜は手巻き寿司に、今夜は塩焼きにした。添えられた手紙に寿司メシの要点が記されていた。その通りに作った妻は出来上がりの加減を絶賛した。淡路のお寿司屋のレシピに準じているらしい。

 そして今夜、こんなに美味しいアジがあろうとは、と声を揃えて塩焼きを食べた。

 

 鯵は普段でも関脇以上の美味しさだが、この度のトツカアジは明らかに横綱を倒そうという勢いがあった。親交ある王元監督にも送ると書いてあった。

 

 A氏は仕事をセミリタイアして釣りを始められた。同じ部活で、補欠を争っていた私などを忘れないで下さり光栄だと思っている。また全日本を制した当時のA氏のペア(前衛)が新潟県・県北の先輩だったことも密かな誇りだ。

 

 電話で礼を述べると、塩焼きを今日に遅らせたのは正解だということ。また、鳴門の荒潮で揉まれた魚は日本海の上品な魚とは違うんだ、と先輩らしい言葉を頂戴した。

 

 所変われば品変わる、そして人も。私が知った西方の人たちは、おしなべてハキハキとして勝負強く、情が厚い。こちらへ帰って35年、たまに電話や手紙でA氏に接すると、ただただ有り難く元気になる。

尾神岳、浦川原、桑取、そして秘密。

2010年6月23日(水曜日)

 尾神岳、浦川原、桑取、そして秘密。これらはいずれも今年頂いたヤマタケノコ(ヒメタケノコ)の産地だ。毎年決まった方が得意の場所に出掛けては分けて下さる。ある方は決して場所を明かさず、秘密ですと仰る。

 

タケノコ
 そろそろ最後、今日の桑取のタケノコ。

 

 昔、子どもたちとさかんに出掛けた尾神岳、浦川原は月影小学校と雅楽、濱谷浩さんの桑取、そして秘密の場所。それぞれ何がしかの思いを絡ませて楽しませて頂いている。麗しい山の土と水が育てたタケノコは味・香り・歯ごたえ、見た目、みな良くて飽きることがない。

 

 その昔昭和30年前後、毎年家族で池の平へ出掛けて池廼屋さんに泊まった。翌朝おにぎりを作ってもらいイモリ池を通って先へ歩く。すぐ右手に東大の寮があって、そのあたりから小さな谷川に沿ってワラビやタケノコが沢山採れた。持参した飯ごうに川の水をすくって味噌を溶き、コッヘルで炊いてタケノコ汁を作った。カッコー鳴く草原の昼食は美味しかった。毎年採り続けても無くならないタケノコに少々驚かされる。

チマキ

2010年6月12日(土曜日)

 午後、お年寄りの急な腰痛を往診した。骨折でなくてほっとした。

 

チマキ 
 

 大おおおばあちゃんの診察を終えると、年配のご夫婦はちまき作りに戻られた。奥さんが笹にお米を詰め、ご主人が巻いていく。近くの作業所で出荷用を作り、家では自分たちのを作るという。

 

 立派な笹が使われていた。銅鍋で煮ると笹の色が青いまま褪せないと聞いた。見てると呼吸のあった仕事ぶり、出来たらお持ちしますと仰ってくださった。
 これからの季節、梅雨空とチマキはうるわしい田舎の風物詩だ。お宅のまわりの田んぼがいよいよ生気を増していた。

 

 その昔、アカシアの花などを食べようとした私たち。後によそからチマキを頂くことがあった。砂糖入りのきな粉を付けて、あまりの美味しさに頭がヘンになりそうだった。

淡紅色のアカシア、そして大連など

2010年6月6日(日曜日)

赤いアカシア 
珍しいのではないだろうか。

  

 15年くらい前、当時上越市大潟区は大潟町で、町の広報誌にリレー随想というコーナーがあった。次の人を指名してコラムをつないで行くもので随分続いていた。思えばこんなところも合併前の良いところだった。

 

 私の番になって、町の貴重な樹木というようなタイトルで書いた。その中で赤いアカシア(ニセアカシア)を一つとして挙げた。

 

 赤といっても薄い赤むらさき色である。よく見ないと分からないが、大潟区蜘蛛ケ池(くもがいけ)の県道沿いに二本ある。かなりの巨木で、久しぶりに花の時期を通ったらやはり赤っぽく咲いていた。心なしか香りを強めに感じたのも15年前と同じだった。
 大潟区はアカシアが多い。あたり白一色の花に囲まれてひっそりと色を帯びる姿はけなげだ。

 

 ところでアカシアといえば、昔、家の庭のへりに厄介者のような感じで樹があった。戦争後、中国から引き揚げてすぐの頃、母がそのアカシアの花を炒めて食事に出したことがあった。
 真っ白でいい匂いの花を母と採るのは楽しかった。花がフライパンの中で茶色に炒められていく様をありありと覚えている。
 しかし食卓に出たものは食べられなかった。苦かったのか家族全員がダメだったように思う。

 

 この時のことは素晴らしい期待が見事に外れる人生最初の記憶かもしれない。

 

 それにしてもサツマイモのツル、アカシアの花、たぶんほかにも、、、。当時母に知り合いもなく、家にはお金も無かった。それで普通は食べないようなものを美味しいよ!と言って料理にした。アカシアの炒め物も初体験だったようで、もしかしたらと思って作ったらしい。最悪の結果に、空腹の家族の落胆と母への非難は如何ばかりだったろう。

 

 ところでその昔、若い母の看護婦として最初の赴任地が旧満州大連だった。大連は大都市で、黒々とした木肌のアカシア並木やヤマトホテルがあったと聞いた。父と出会う直前だったらしい。それが耳に残っていて学生時代に「アカシアの大連」(清岡卓行著、1969年度芥川賞受賞作品)を読んだ。良い本だった。

 

 済みません、話が色々になりました。

陶齋最初のお弟子さん、志賀重人氏のお茶碗で、そして豊かな昔の写真。

2010年5月20日(木曜日)

 午前中は田植え盛りの静かな雨。それが昼には上がり、落ち着いた光が窓から差した。その逆光を肴に母の日に届いた鶴屋八幡の棹ものをお相伴して抹茶を飲んだ。御菓子にはもうアジサイの色が付いていた。

  

志賀さんのお茶碗で 
 お茶碗は陶齋(齋藤三郎)のお弟子さん、志賀重人さんの昔の作。陶齋ゆずりのおだやかな器だ。半年前たまたま上越市の道具屋さんで見つけた。え!と驚

くほど安価で、非常に幸せを感じた

 そこで思った、一般に品質が良くて価格が安ければ作品はもっと動くのではないかと。売れれば作家の作業は回転しさらに優作も期待できる。しかしこの時代、相変わらず法外な値札によって多くの展示会は冷え切っている。これほど作家、来場者ともに不幸なものはない。買い手に手が出るまで安くして頂ければどれほどファンは有り難いことか。価格次第でつらい時代であっても双方が幸せになれると思うのだが、、、。多くの場合不幸が続いていて残念だ。

 

 さて気をとり直して、、、。お茶碗の作者、志賀氏は戦後高田で作陶を始めて間もない時期の陶齋に師事した。熱心な修行を終えると京都へ赴き、後にオーストラリアに招かれて同国で長く陶芸を指導された。

 

後谷の筍狩り 
高田市(現上越市)後谷(うしろだに)の一行:濱谷浩氏撮影と考えられる。
実際はもっと大きいサイズです。 

 

 掲げた写真は陶齋、志賀氏ともに写る貴重な一枚だ。二代陶齋・齋藤尚明氏からお借りしたアルバムに後谷・筍狩と記されていた。今からおよそ60年前、季節は5月初旬だろうか。右端にリュックを背負った若き陶齋が休み、左端で荷を負った志賀さんが笑っている。
 右の姉さんかぶりの女性は写真家・濱谷浩氏夫人朝(あさ)さんと思われ、撮影者は濱谷氏にちがいない。

 

  国敗れて山河あり。若き日の一行にこれ以上ない角度で遅い午後の春陽が注ぎ、陶齋は正面からそれを受けている。貧しい時代だったのに人々のなんと生き生きしていることか。文化がそうさせていたと思いたい。映画も凌ぐ素晴らしい写真だと思う。

 

 志賀氏からは、樹下美術館開館に際して貴重な資料やご助言を頂き感謝に堪えない。

空の器が気持ちよさそう

2010年4月29日(木曜日)

 

テーブル

 

  連休初日のカフェでアンティークのトリオにコーヒーとケーキ。最後に陶齋の湯飲みでお番茶、、、、カフェのフルコースでしょうか。女性のお客様たちが去られた後で空の器が気持ちよさそうでした。

庭のヤマザクラ

窓外にヤマザクラ、話の花も沢山咲いたことでしょう。

 

金沢で婚礼

2010年4月25日(日曜日)

    昨日午後金沢で身内の結婚式があった。温かで心こもった婚礼だった。年をふるにつれ永い縁の貴さをいっそう感じる。私などよりよほどしっかりした新郎新婦を見て希望を新たにさせてもらった。

 

手を重ねて 
手を重ねて。
  
デザートが始まる 
  デザートが始まる。

 

 最近の習い性で今回も観光なしの日帰り。丁度良い電車がなくて22:29発の臨時急行・「能登」で帰る予定にしてあった。到着まで随分と時間あるので妻と映画を見た。 「ビクトリア女王 世紀の愛」を途中から。ストーリーはともかくシューベルトの音楽に時代のリアリティを感じ、服装とファブリックやテーブルウェアに目が行った。映画館に入るのは、むかし子どもたちと見た「ペンギンズ・メモリー 幸福物語」以来およそ25年振りだった。

 ※文中ペンギンズ・メモリー 幸福物語は修正しました。

 

  見終わってまだ時間があったのでクリームあんみつを食べて一息ついた。

 

 金沢駅から懐かしい急行に乗って、日付をまたいで夜中過ぎに直江津駅に着いた。能登は代替わりしたのか車内は昔よりもきれいになっていた。家に帰って95才の母の寝息にひと安心。

 

  車中のトイレで楽しい発見をした。日が明けたら写真を載せてみたい。  (4月25日夜更け)

アンティークも楽しんで

2010年3月3日(水曜日)

カフェではアンティーク食器を楽しんで頂けて喜んでいます。

  

お客様

カップ&ソーサー

 

春まだ浅き窓辺にて 古き器を手にとれば  

見知らぬ事も懐かしく 見知らぬ人までゆかしけれ      sousi

                                 

 

             

  器につきまして2月27日のコメントを以下に再掲させていただきました。

「アンティークカップは今から10余年前、樹下美術館を決心した頃から集めました。そこで使いたかったからです。今はもう収集の余裕はありませんが、皆様にお使い頂ければ有り難く思います。」 

 「陶齋の湯飲みもこのような形で使って頂けること、集めた亡き父の願いかもしれません。」

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