食・飲・茶・器

夕陽の四ツ屋浜でお弁当

2010年9月9日(木曜日)

 台風は曲がってしまって新潟県は直撃を免れた。一日中、気温は30度に届かず、澄んだ空に雲がさわやかだった。

 米山と尾神と雲 
 午後の頸城平野(山は米山と尾神岳/広角レンズで撮りました)

 以前ノートに書いて以来、夕暮れの海で食事することが私たちの課題だった。午後から休診、雲も良く、急遽今夜は海で食べようということになった。

 

 夕刻、家内は母の食事をチャッチャと作り、2人とも少しドキドキしながら近くの四ツ屋浜へ行った。食事はほか弁で、家内は缶ビール、私はノンアルコール缶だった。 入り陽  雲が少いためダイナミックな夕焼けにはならなかったが、まるまる入り陽が見られた。開けたドアから海かぜが入り波の音が聞える。想像以上にリラックスしながら食べた。580円のお弁当はオカズが沢山でご飯もいっぱい。十分に楽しめた。

 四ツ屋浜の道
暮れた四ツ屋浜の海、向こうの高いところで食べた

 海のそばに住んでいるとこんな楽しいことがあるんだ、と家内。暗くなるまで50分間の海辺。お金も掛からず事故にも遭わず、手間も要らず、と喜びつつ車で3分足らずの家に帰ってきた。

  午前中、50名様の団体でご来館頂いた北陸三県の浄土宗寺庭婦人会の皆様、ご不自由ございませんでしたか。ご訪問に心より御礼申し上げます。

鈴木秀昭さんの壮大な侘び、大幹堂の御菓子

2010年8月11日(水曜日)

 連日の猛暑、日干しにされていると仰った人がいました。今夜も脱水による入院や、めまいの方の往診が遅くまでありました。夜間にお願いした病院さんの対応に感謝を禁じ得ません。 

 さて世更けて気まぐれな風が空を鳴らし、古い家がミシッと音を立てました。台風が近づいているようです。

御菓子

古代を感じさせる御菓子

 数日前にある方から滋賀の御菓子を頂いていました。土用の蕗(いわくがありそうです)と金柑(キンカン)の砂糖漬け、そして鮎を模した焼き菓子でした。近江市猪子町「大幹堂」の製です。素朴で古代の風味を伝えるような御菓子でした。 

鈴木さんのお茶碗と御菓子
鈴木秀昭さんのお茶碗に近江の御菓子

 台風を前に気を鎮めようと、鈴木秀昭さんのお茶碗で抹茶を服しました。我が手で世界を現さんとする鈴木さんのお仕事は本当に衝撃的です。器は口縁から見込み、胴、高台内まで一点の隙間なくおびただしい文様が絵付けされています。余白を重んじた従来の抹茶茶碗にはあり得ない形態です。
 焼成は、色グループごとに行い、最後は金や銀で焼くのでしょう、何という手間なのでしょう。

 伏せた茶碗 
神話的な「金銀彩綺麗星茶碗」

 当お茶碗には夜とその反対側の昼が描かれていました。黒を効かせた濃密で壮大な器です。鈴木さんの宇宙をたなごころに服する茶に深い静けさが漂いました。氏ならではの侘びにちがいありません。

 

 今度はぜひ茶室でお点前を、と思いました。

 

鈴木秀昭さん。
1959年東京に生まれる。1986年アメリカ ユタ州立大学社会学部卒業。1991年石川県立九谷焼技術研究修卒業。1993年 アメリカ クランブルック・アカデミー・オブ・アート大学院卒業。以後 カナダ、オランダ、アメリカで研鑽と制作。
現在伊豆で制作。内外で数多くの個展と受賞歴および美術館・団体の収蔵。

見納めでもいいという夕焼け

2010年8月8日(日曜日)

 今日は雨を待って空が気になっていた。夕食中、カーテンを開けると東の空に小さな虹が出ていた。以前、不安定なお天気の夕刻に虹が出て、素晴らしい夕焼けがあった。

 

 「海へ行ってみよう」と妻に声を掛けて食事を中断した。車で着いた近くの四ツ屋浜はまあまあの夕焼けだった。それでも妻は喜んで、今度ここで夕焼けを見ながら食事をしたい、と言った。 

日没後の空 
そろそろ帰ろうか、という頃

 日も沈んで、そろそろ帰ろうというころ、佐渡の方がきれい、という声で振り向いた。北側が赤々と染まっている。出て写真を撮り、車に戻ってカメラを片付けていた。

「凄くなってきたわ」、とまた妻。

 

広がる夕焼け 
みるみる大夕焼けに

 見れば一面の群雲に鮮やかな陰影が付き、強くオレンジ色に輝やいている。わずか1,2分だろうか、息を飲むような夕焼けが展開された。

 

「これなら末期(まつご)の眺めでもいい」。
三人の老親の間で何かと多忙を極める妻は、まじまじと夕焼けなど見ることが無かったのだろう。食事を中断して見に来てよかった。

 

 夕焼けならこれからもっと素晴らしい日があろう。そんな日にこの丘で食事をするのはいいかもしれない。私は飲めない口だが、その時は代行を頼もう。

 

 帰って食卓に戻ったが、もう十分だった。

 

 今日は小千谷からもお客さんがお見えになった。私の植物画やシーグラスの絵はがきが一週間で150枚ほど出たと聞いた。 

南摩羽峰の屏風に紅茶

2010年7月29日(木曜日)

 降ったり止んだりしながら雨脚が強まっている。気温も下がり、生ける者みな一息つける。ただ降りすぎだけは許してもらいたい。 

 

屏風の前で 
夏の午後會津藩士の屏風引き 冷えた紅茶を影に浮かばす   sousi

 

 南摩綱紀(羽峰)の屏風を居間に置くようにした。二曲一双を開くと藩士の静かな高揚感に包まれる。こうすることも先日朴斎記念館を訪ねたお陰か。それにしても再三のアイスティーで恐縮です、逆光が気に入りました。

板倉、そして増村朴斎記念館

2010年7月19日(月曜日)

トースト

 

 ピクルス

  樹下美術館のトースト。暑い日のピクルスは格別だった。

今日の熱い昼、樹下美術館でトーストを食べて所用の妙高市へ行った。用事の後、母が三泊のショートでお世話になっている板倉さくら園を訪ねた。

まあまあの母を明日迎えに来ることにして、気になっている近くの増村朴齋記念館に寄った。しかし施錠がされて入場は叶わなかった。予め電話が必要なようだった。

ところで、増村朴齋は上越市板倉区に私費で有恒学舎(現・有恒高等学校)を設立した民間の偉人だ。朴斎の父・度弘(のりひろ)に影響を与えたのは高田藩で謹慎した会津藩士・南摩綱紀(なんまつなのり、号:羽峰)だという。また若き會津八一が同学舎の英語教師を勤めていることは有名。

もともとあまり詳しくはなかったが、拙宅に南摩羽峰の屏風と會津八一の短冊がある。また八一の揮毫になる巨大な朴齋碑の前で八一本人と齋藤陶齋が並ぶ写真を齋藤尚明氏からお借りしている。そのようなわけで、一度は訪ねてみたかった。

増村朴斎記念館
閑静な記念館、近いうちに是非。

ゼバスティアン

2010年7月18日(日曜日)

 ゼバスティアンはドイツの若者だ。7年前、彼が高校一年生当時、上越市の頸北ロータリークラブにおける交換留学生として責任者S氏宅を軸に一年間のステイをした。
 電車で上越高校へ通い、剣道にも励んだ。高校の担当者に恵まれて日本語を良く覚え、地域と家庭に親しんだ。

 

 私の所では一ヶ月半のステイだった。ある日、ドイツの子どもの遊びと言って、隣の雑木林にネズミ取りのカゴを仕掛けた。一週間も空振りだったが、必ず掛かると通した。後日見事に捕った時は大はしゃぎだった。
 大好きな囲碁では負けると床を転げ回ってくやしがったが、すぐに私を負かすようになった。

 

 帰国して2年後、家族5人で当地を訪ねてきた。我が家の訪問の際に拙いテネシーワルツを弾くと、皆でダンスをはじめた。仲の良い家族の情景は眩しかった。

 

南側の農道で

成長した彼。樹下美術館裏の農道で。

 

直江津の夕焼け 
昨日の直江津の夕焼け  

 

 それからさらに5年、このたび自国の大学院進学前の休暇で三回目の来日を果たした。昨日午後、樹下美術館を訪ねて熱心に展示を見てくれた。5年前の時、私がここに美術館を建てたいと言ったのを覚えていて驚いた。たくましく成長していたが、優しさは変わりなかった。
 今回、夕食は直江津の知人宅でお世話になった。夕陽を見ながら心ゆくまで楽しい夜をすごさせて頂いた。

 

 ホームステイといえば、10年前にはニュージーランドの高校生を3ヶ月ほど預かった。彼は吉川高校へ通って、放課後には剣道に精進した。帰国後、彼も再来日し、ついには日本で日本人と結婚して可愛い子どもにも恵まれている。 

 

 二人とも個性的で心ひろやか、時折真っすぐな道徳の芯を見ることがあった。彼らの果敢な交流には平和への一灯として十分な意義がある。また斯く交流は、何かと排他的で硬い政治の下では為し難いものとして写る。若き日の頸北の一年、何かが彼らを惹き付けたにちがいない。

実況!20分で晩ご飯

2010年7月14日(水曜日)

 夜九時すぎ、少し離れた部屋のテレビから絶え間ない男性の声が漏れてくる。時々妻の笑い声も聞こえるので、行って見た。

 

 NHKの今日の料理だった。目がぎょろりとして愛想顔の料理人がおしゃべりしながら忙しく振る舞っている。タイトルは「実況!20分で晩ごはん。キャベツ混ぜ混ぜぶっかけそうめん」。刻々残り時間を告げられながら、説明に追いつかない手が宙を舞ったりする。

 

 時間で責めて、料理人をイジメているように見えなくもない。しかしジャストでゴマだれ味のソーメンにサラダ、炒め物とデザートが出来た。サッと短時間で作られたためよけい美味しそうに見える。

 

 終わって「あー、疲れた」、「しかし楽しかったー」と、とても正直な講師だった。NHKのこと、特殊な材料も使わず誰にも作れる料理のはず。優れた創意工夫が求められる仕事にちがいない。助手も付けずにさすがだった。

 

 講師は齋藤辰夫氏。パリなど日本大使館料理長の経歴が載っていた。

 

ダルマバノリウツギ 
美術館隣接の庭のダルマバノリウツギ

チマキと笹餅

2010年6月29日(火曜日)

 

笹餅
 
チマキ 
   

 梅雨の盛り、連日頂き物をして恐縮を禁じ得ない。昨日は笹餅、本日はチマキを頂いた。いずれも梅雨時の越後の味覚だ。

 

  ところで一昨日の夕刻から夜にかけて上越一帯も豪雨に見舞われた。移植の穴堀りをしていた庭で、突然放水を浴びせられるような雨にあってずぶ濡れになった。梅雨の終盤、気温の上昇と共に雨は油断できなくなる。

 

 田では、晴れ間をみてあぜ道や農道で草刈りが盛んに行われていた。梅雨が明ければ一帯の水田は生気に溢れ、頸城平野は壮大な美観となることだろう。収穫まであと3ヶ月、無事なお天気であってほしい。

淡路の先輩から鯵、そして西方の人

2010年6月26日(土曜日)

渦潮の海 
一年中荒海の鳴門の渦潮(同封されていた写真)

 

 昨日、学生時代の運動部でお世話になった淡路島の先輩からトツカアジが届けられた。他所のアジとは「まるでレベルが違う」としたためてあった。外見は普通のアジに見えるが名は初めてだった。

 

 送り主のA氏は昭和30年代後半、母校の軟式庭球部を医学部リーグの団体戦で全日本制覇させたエースだった。氏の身体能力と勝負勘は文字通り群を抜いていた。 

 振り返ると学生時代に交わった西日本(関西・四国・九州・一部東海も)の級友、先輩は私などとは随分違っていた。男っぽく勝ち気、顔立ちも精悍。同じ日本人なのに異国の人の印象さえあった。

  「いいか、相手がこう来たらこう行くんや」、部員たちを見回して檄を飛ばすA氏。眼差しには熱さと冷静さが共にあった。

 

 さて頂いたアジを昨夜は手巻き寿司に、今夜は塩焼きにした。添えられた手紙に寿司メシの要点が記されていた。その通りに作った妻は出来上がりの加減を絶賛した。淡路のお寿司屋のレシピに準じているらしい。

 そして今夜、こんなに美味しいアジがあろうとは、と声を揃えて塩焼きを食べた。

 

 鯵は普段でも関脇以上の美味しさだが、この度のトツカアジは明らかに横綱を倒そうという勢いがあった。親交ある王元監督にも送ると書いてあった。

 

 A氏は仕事をセミリタイアして釣りを始められた。同じ部活で、補欠を争っていた私などを忘れないで下さり光栄だと思っている。また全日本を制した当時のA氏のペア(前衛)が新潟県・県北の先輩だったことも密かな誇りだ。

 

 電話で礼を述べると、塩焼きを今日に遅らせたのは正解だということ。また、鳴門の荒潮で揉まれた魚は日本海の上品な魚とは違うんだ、と先輩らしい言葉を頂戴した。

 

 所変われば品変わる、そして人も。私が知った西方の人たちは、おしなべてハキハキとして勝負強く、情が厚い。こちらへ帰って35年、たまに電話や手紙でA氏に接すると、ただただ有り難く元気になる。

尾神岳、浦川原、桑取、そして秘密。

2010年6月23日(水曜日)

 尾神岳、浦川原、桑取、そして秘密。これらはいずれも今年頂いたヤマタケノコ(ヒメタケノコ)の産地だ。毎年決まった方が得意の場所に出掛けては分けて下さる。ある方は決して場所を明かさず、秘密ですと仰る。

 

タケノコ
 そろそろ最後、今日の桑取のタケノコ。

 

 昔、子どもたちとさかんに出掛けた尾神岳、浦川原は月影小学校と雅楽、濱谷浩さんの桑取、そして秘密の場所。それぞれ何がしかの思いを絡ませて楽しませて頂いている。麗しい山の土と水が育てたタケノコは味・香り・歯ごたえ、見た目、みな良くて飽きることがない。

 

 その昔昭和30年前後、毎年家族で池の平へ出掛けて池廼屋さんに泊まった。翌朝おにぎりを作ってもらいイモリ池を通って先へ歩く。すぐ右手に東大の寮があって、そのあたりから小さな谷川に沿ってワラビやタケノコが沢山採れた。持参した飯ごうに川の水をすくって味噌を溶き、コッヘルで炊いてタケノコ汁を作った。カッコー鳴く草原の昼食は美味しかった。毎年採り続けても無くならないタケノコに少々驚かされる。

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