花頭窓、二十三夜塔、庚申塔、社寺
庚申塔その13,なぜか安心どこか楽しい笠島の多聞寺。
長い正月休みが明けて本日から仕事。
患者さんに合うとほっとする。
もうムチは打てないが、心身を温めながら仕事を
して行きたい。
さて昨日は柏崎市笠島の事を書かせて頂いた。
当日ほかに多様な石仏石塔が見られたため、続き
を記してみたい。
不動明王(憤怒の表情が失われていますが)。
真言密教らしい雰囲気。
二体仏。 子供あるいは夫婦の一人などを失い惜しんで
彫られたのでしょうか、道祖神ではないような印象を受
けた。
宝篋印塔(ほうきょういんとう).。昨秋板倉区を訪ね
て初めて知った仏塔。五輪塔より複雑で背が高い。高
い石垣の上に立っているので余計立派に見えた。
もともとは経の一部を収めたものだったようだが、次第
に供養碑や墓碑として定着したという。
当日は寒く、写真に雪が写っている。
手(臂:ひ)が多いので千手観音に似ているが、にわ
か調べで准胝観音(じゅんていかんのん、じゅんでい
かんのん)菩薩らしい。
仏としては珍しくちゃんとした母性を有しているようで
あり、行く先を考えこの仏に帰依するのも良いかなと思
わせる(未定です)。
そう大きくは無い多聞寺境内は、様々な石仏が安置され
ていて、やや地味ながら何故か安心でどこか楽しい。
庚申塔その12、笠島の庚申塔と三日月塔? 長い休み 岩をはむ波。
年を言い訳に本日まで休みにさせていただいていた。
昭和50年に開業して以来、正月は4,5 日休ませても
らっていた。
これまで発熱とめまいで何度か半日休診をしたくらい
で、入院などもせず何とかやってきた。
もとより頑丈でもない身体考えれば一種不思議な感じ
がする。
皆様にはご迷惑をおかけしたが、この度の休みはとて
も長く感じた。
10日、15日どころではない、数か月も仕事をしなかっ
たような気さえする。
これも十分に休んだことの現れであり、皆様には心か
ら感謝したい。
さてお休み最後の本日日曜日、寒かったが柏崎市へ行
った。
本をみると柏崎市は各所に庚申塔がある。
下調べの後、正午前に出てまず柿崎海岸を歩いた。
寒風のため釣り人にも合わず、時折歌が口をついた。
そのあとは笠島だった。
小さな町のため多聞寺で容易に庚申塔と対面できた。
隣り合う十二社裏に小さな谷があり清流のせせらぎの
音が心地良かった。
ずらりと石塔が並ぶ。手前から文字塔が三基、その向こう
に二十三夜塔と“三日月”と彫られた石がある。
三日月塔と呼ぶのだろうか。
その昔、各地には13,14,15,16、、、21,22,23夜など
様々な月待ち行事(信仰)があったという。
しかし三日月待ちは全国でもわずかなようであり、笠
島で行われていたのなら貴重だ。
浅い見聞ながら、庚申塔や二十三夜塔のほかに色々な
石塔(供養塔)を目にしたが、わからないものばかりだ。
それにしても昔の人たちの一種熱狂とも感じられる石塔
へのこだわりは一種不可解また不可思議な感じを受ける。
だが後年、何も知らない私のような者までそれらに惹か
れているのだから、さらに不思議と言わざるを得ない。
多聞寺、十二神社を後にすると高いところに墓地があっ
た。
そこから上がったところにも小さな墓地があり、見下ろ
してみた。
海にせり出すように狭い場所ぎりぎりに墓が建っている。
周囲に崖が迫り、へりを歩くと少々怖い。
山と海に囲まれた笠島は田畑が少ない。
漁業が主な生業なので、冬場は杜氏として出稼ぎをした
という(十二社で地元の方に聞きました)。墓地には杜
氏の頭だったという人を顕彰する立派な碑が建立されて
いた。
漁港へ下りた。
幼少のころお弁当を持って家族で何度か鯨波へ行った。
一度笠島も来たような気がする。
昔は海は砂浜で、堤防などあっただろうかと思った。
弁天岩に打ち寄せる波を飽かず眺め、車内からシャッター
を押した。
岩は私の代わりに冷たい波をかぶっているのかな、と思っ
た。
十二神社脇の小さな谷の流れ。
狭い高台の墓地と愛らしい漁港。
再度訪ねたい場所が見つかって良かった。
遅くなりましたので本日終了として、その先の柏崎のこと
を次回にいたします。
正月元旦と二日、増上寺、ビュッフェ、東京タワー、上野駅の彫刻、サンドウヰッチイッチ、新幹線の遅れetc。
新年は三日目となり、歳月の逃げ足はますます早い。
それを年々遅くなる足で追いかけるのだから大変だ。
この追いかけっこに参加するには唯一健康への配慮だけ
が条件であろう。
レース参加は生きている証し、または年取ってもなお続
くという成長をあてに、何とか追いついて行こうと一応
努力を試みる、そんな年が始まった。
ところで館長のノートと名付けた当ブログに元旦と2日
の記事を載せていた。
元旦は新年の挨拶、2日は以前に訪ねた板倉区の庚申塔
に関する記事だった。
実は元旦に一泊で上京したため、いずれも大晦日に書き、
投稿予約して出かけた。
そこで本日、実際に過ぎた1日と2日を振り返って記して
みたい。
1日は東京の縁者たちと会うことが急に決まり、30日に
急いでホテルと切符をあたった。
年末年始の人の流れと逆になるため、ホテルも新幹線も
思ったより簡単に取れた。
1日は夕刻の集合時間前に早く到着した者たちで近くの
増上寺へ参詣に上がった。
増上寺は山門を「三門」と呼ぶらしい。赤くとても元気の
良い門だった。
嬉しい事にその左右に続く棟に計四つの花頭窓があり、歓
迎してくれていた。
何度も門前を通ったことがある増上寺だが、参拝は初めて。
門から先も壮大だった。
本殿(大殿)へ広い階段を上がる。色鮮やかな東京タワー
が背後に見え、この景観が人気の秘密の一つかもしれな
い。
大殿内に読経が流れている。見ると向かって左脇檀に法然
上人像があり、そこで読経が行われていた。一日中続ける
のであろう。新春の寺院に相応しい声と光景だった。
さて参拝でお腹が空いたところで、食事になった。
東京のホテルの正月は往々にしてビュッフェスタイルにな
るようだ。
冷菜温菜、飲み物などなんでもある。
久し振りの現況を温めあい、励まし合い、美味しく頂いた。
会食後参集者を送った帰路、東京タワーを通過した。
スカイツリーよりも人気があるかもしれない、とタク
シーの運転手さんが言う。
昭和の親しみ易さと安心感が人を惹きつけるのだろう。
二つの理由は大切なことだ。
翌日もう一軒の縁者を訪ねて帰路についた。
お元気な様子をなにより嬉しく思った。
さて帰路の上野駅。
構内17番線手前に朝倉文夫作「三相 智・情・意」の彫刻
がある。
よき時代の素朴かつ強靱さが生き生きと現れていて、ます
ます好きになった。
余計なことかもしれないが、1958年発表ということで、モ
デルさんが20代であれば現在80代になられている。
優れた芸術の生命力を思わずにはいられない。
広い切符売り場の上方に掲げられた同じく文化勲章作家の
長大なステンドグラスよりもずっと良いと思っている。
車内で買った昼食は大船軒のサンドウヰッチ。
何のおもねりも無い超シンプル品、迷い無く手が伸びる。
これも昭和の親しみやすさと安心が決め手。昔から食べ
物で迷うのは苦手。新鮮そうであれば適当に選び喜んで
食べる=食べれるだけでうれしい。
※昭和30年代に、かって満州で生活した母が何度とな
く作った餃子より美味しい食べ物に出合っていなのと、
今どき美味しくない物など売られてないと思っているこ
ともありそうだ(少し変かもしれません)。
ところで復路の2日、新幹線はくたかは飯山で長時間の
停車を余儀なくされた。
金沢で停電しているためとアナウンスされた。
一時間半ほど停まった車内で過ごし、庚申塔の本が読め
た。
慌てたのは発車直後のアナウンスだった。
「大変お待たせ致しました。次は糸魚川、糸魚川」と告
げる。
うん?降りるべき「上越妙高駅」が飛ばされている。
まさか停車していたのは飯山ではなく、上越妙高だった
のか?
さらに、「終点まで停まる駅と到着時刻をご案内致します。
次の糸魚川には○○」とまたしても上越妙高が無い。
これだけの雪で長時間の停電も問題だが、一体車掌には
何があったのだろう。
乗客の中には慌てて車掌室へ向かう人もいたし、一瞬、糸
魚川からどうやって帰ろうか、と心配もした。
上越妙高には大勢が降りた。構内で駅員が次を待っている
乗客にアナウンスをしていた。まだ影響が残っているのだろ
うか。
停電と言えば過日、妙高市でオペラ「景虎」が上演された。
その日、かなりの雪降りに見舞われて新幹線が遅れ、東京
からの公演関係者が間に合わず、30分開演が延びた。
混乱は停電が原因ということだった。
今回も豪雪レベルではなかった。
停電、、、、大丈夫なのか、北陸新幹線。
交通不運はこれで終わりでは無かった。
東口で10数人がタクシーを待ったが、10分、20分経っても
一台も来ない。
タクシーを待った東口の光景がきれいで癒やされた。
タクシー会社に電話をすると間もなく妙高営業所からやって
来てくれた。他の方達も各自電話をして次々と車を呼ぶのだ
った。
当日、髙田での会合には大幅な遅刻となった。
目出度いはずの日に往々にして面倒が起きる。
人生ではよくあることだろう、こんな程度で良かった。
新年にお会い出来た皆様、有り難うございました。
今年また頑張りましょう!
庚申塔その11、上越市板倉区の庚申塔、山寺薬師と三尊像。
昨年10月下旬の魚沼行き以来のマイブーム庚申塔。
あっちこちしながら庚申塔その11になった。
新年2日は昨年を振り返り、11月12日および17日に
訪ねた上越市板倉区の庚申塔についての見聞を記して
みたい。
そもそもなぜ板倉区だったかといえば、魚沼から帰り、
ネットで上越市の庚申塔とひくと、新潟県で最も古い
とされている庚申塔が板倉区にあると知ったからだっ
た。
魚沼の頃は、まだ二十三夜塔を見るだけで精一杯、庚
申塔は魚沼の女性から聞かされただけ、写真なども偶
然ほかのに写り込んでいたというレベルでしかなかっ
た。
サイトにあった板倉の塔は如何にも素朴、可愛い猿が
二匹青面金剛になつき、2鶏と日月の文様も彫られて
いて塔の諸要素をあらかた満たし、魅力的だった。
場所は福王寺と記され、地名も良かった。
訪ねた11月12日すぐには場所が分からず、ゑしんの
里記念館へ行き、場所の手がかりを尋ねた。
スタッフの皆さんのお陰でおよその場所が分かった。
福王寺を歩いているとあるご夫婦と出合った。
話をすると、すぐそこということ、ご主人が案内して下
さった。
場所は十二社だった。
案内された右端の石祠を覗くと小さな像が認められた。
左右に猿とおぼしき像が手を差し出している。
石祠に収められている庚申塔もあるんだ、と少々驚い
た。見づらかったせいもあり、鶏と日月の紋様は判然
としなかった。
これが板倉区紹介サイトに掲載されていた写真。
単体として光背を有し、金剛、猿、鶏、日・月などくっ
きり彫り出されている。
当日十二社で見たものとかなり違い、ほかにこのような
石塔があるのだろうと思った。
※後で分かったことですが、私が見た石祠の像はまさに
この石塔であり、それが石祠にはめ込まれているような
のです。
いつかこの写真のように取り出された庚申塔を見てみた
いと思っています。
案内して頂いた方は上石さんと仰り、自分より父が詳し
いとのこと。そのお父様はあいにく歯科の治療に出てい
るが、電話をしてみます、と言って話を進めて下さった。
電話から十二社のすぐ下に公民館があり、その裏手に石
塔などがまとめられているという事だった。
※その後、上石さんのお父様・孟さんは地元の石仏や地
域の信仰史を研究されている方と知り、後日貴重な資料
を沢山届けて頂きました。
公民館で初めて全貌が分かる石仏の庚申塔を見た。
キリッとした眼差しが印象的。
六臂(六つの腕)の金剛は弓矢を持ち、上方の手の玉の
ようなものは宝輪か、もしかしたら日・月なのか、私に
は分からなかった。邪鬼と鶏は認められなかったが、両
側の猿といい、しっかりと彫られた庚申塔を見る事が出
来て大変に幸せだった。
小さな集落でこのような石塔まで残す庚申の行事とは何
なのか、像が象徴する意味とともにますます興味がつの
った。
当日、区のホームページにあった像を見ることができな
かったが、再度来訪し探してみることにした。
公民館の傍らに可愛いい四角形の二十三夜塔があった。
もしかしたら江戸の後半期か、この集落の女性たちは
二十三夜の月待ちをどのように過ごしたのだろう。
小ぶりな塔を見て、慎ましくも楽しかったであろう情
景を思い浮かべてみた。
この日の帰路板倉区曽根田で文字塔にも出合った。
大廣寺境内の庚申塔。上部に日・月が彫られている。
古い庚申塔あるいはゑしん尼のイメージせいで、板倉
区にそこはかとない仏気(造語です)漂うのを感じてい
た。
以上が11月12日、一回目の板倉訪問だった。
当ページ四番目の写真のような可愛い石塔を是非とも
自分でみつけたいと(前記※以下のように、実は見て
いたのですが)思い、11月17日に板倉区を再訪した。
前回ゑしんの里記念館を訪ねた折、同区山寺薬師近く
には幾つか庚申塔がある、とも聞いていた。
行き馴れない場所であり、自分でも地図を描いて訪ね
た。
土曜午後遅く出たのと、牧区の宮口古墳に寄ったため、
ゑしんの里 やすらぎ荘通過が4持半過ぎ、夕のとばり
が降り始めていた。
初めて通る暗がりの道に幾つか急カーブが続く。
途中、頸城地方で最も古い石塔の一つと言われる応永5
年(1398年)建立の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
にも寄り、その後の沿道で二つの庚申塔に出合った。
最初の文字塔。私の背丈よりずっと高い。
頂の○は日月(にちげつ)のシンボルなのか。
文字デザインもおしゃれだった。
山寺に近づく頃に現れた文字塔。これも高く上方に○
が彫られている。角柱型の石に深く堂々と彫られていた。
山寺薬薬師到着は5時だった。
暗がりのなか、まっすぐ急な石段が伸びている。
転ばぬよう207段を上ると薬師堂。
闇のなか堂内に明かりが点き、大きな木彫の仏像三体が
窓の格子越しに浮かんだ。
迫力の薬師三尊像(釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来)。
(いたくら観光ガイドから引用)。
当仏像建立も応永年間であり、前記した宝篋印塔とほぼ同
時期に当たっている。
“応永2年に三善氏によって寄進されたものであるというこ
とが、作者である京都六条の仏師築後法眼と共に胎内に銘
記されています。仏像は桧の寄せ木造りで、遠く京都から
運ばれたといいます。昭和33年に県文化財の指定を受けま
した”(上記サイトから引用)。
真っ暗なお堂で突然見た大きく立派な仏像にとても驚き、
かつ圧倒された。
まだ木の香りがしそうなほど、あるいは出来たばかりと紛
うほど生き生きと感じた。
再びここを訪ねることにして、急な階段をソロリソロリと
降りて帰途に就いた。
庚申塔その9,浦川原区の二カ所の庚申塔 陛下のお考えとは。
寒かったが風雨はなく比較的過ごしやすかった本日は
天皇誕生日の振り替え休日。
樹下美術館は明日で休館になるので来られた方達との
間で良いお年を、また来年、の声かけが交わされた。
この所、穏やかな休日がなかったため思うように庚申
塔探訪が出来なかったが、午後お客様にお会いした後、
以前にも行った浦川原区へ出かけた。
調べによると有島と東俣という集落に複数の石塔があ
り、それぞれに石像の庚申塔があるということで訪ね
た。
いずれも地図なし、ナビの地名検索だけで行った。
そもそも庚申塔は道路脇にあるため、それらしい場所に
着くとそう歩き回らなくとも、案外車内から見つけるこ
とが出来る。
本日の二カ所とも人に尋ねることなく行きつけた。
有島の石塔。
体格の良い六臂の青面金剛(しょめんこんごう)の庚申
塔。下段の両手で太くニョロッとしたものを掴んでいる。
ヘビを持つものもあるというが、胴に巻き付いたのを掴
んでいるのか。下方に約束通りに三猿が彫られていた。
力強い文字の二十三夜塔。弘化二年(1846年)と記さ
れている。小生の高祖父玄作28才ころの時代になる。
弘化年間の女性たちの悲喜とはどんなものだったのだろ
う。
ここの設えを記した板には昭和53年有島庚申講一同と
墨書されていた。当時まだ講が存在していたものか。
次は東俣だった。
以前庚申塔のことなど何も知らない時分、この辺りへ入
って行ったことがあった。
今ならば道路から良く見えるので気がつくが、当時は全く
眼に入っていなかった。
場所は谷あいの小高い所で、時おり陽が射した。
大変気持ちの良いところに並んでいる。
青面金剛の本尊。猿は判然としなかった。
左手にショケラと称される小さな像を握っていた。
ショケラは半裸の女性と言われ、髪を掴まれている。
その呼称や像の解釈で幾つか説があり、調べが必要だ。
金剛に踏まれている邪鬼。悪辣というより小ずるく、幾ば
くかの愛嬌を感じさせる。
列から少し離れた所に二十三夜塔。
庚申塔と二十三夜塔は兄弟姉妹のごとく共に存立してい
るのを多く見てきた。
背後は田。ほかに石祠が二つ並んでいる。
山に囲まれ、一帯に仏性、神性が漂い、大気が清らかに
感じられる。
左端の像の台座に念佛と刻まれているので、いわゆる念
仏塔とよばれるものであろう。
ここに天明(1782年-1788年)四年八月吉日と記されて
いた。
この時期は近世最大の過酷な飢饉に見舞われた期間に相
当する。
8月なら雨乞い念仏だったのか、あるいは飢饉による死者
の弔いだった可能性もあろう。
よく見ると念佛と刻まれた台座は小さく、石仏と石の質
が異なっているように見える。
角形の念仏塔の上に後から石仏を載せた事も考えられる。
庚申塔の先を上がって見下ろした眺め。家の煙突から煙
が出て如何にも山村の情景。
急坂を上っていくと間もなく田が一枚あり、行き止まりに
なる。
小さな集落だが、石塔付近に屋敷跡が幾つか見られた。
石塔を目の当たりにすると、谷あいの奥まった所で営まれ
続けた生活の苦楽が伝わり、胸打たれる。
庚申塔、二十三夜塔などに目が行くようになり、年取るの
も悪くはないと実感する。
一応今夜はクリスマスイブ。
鶏と小さなケーキを食べた。
写真を撮ったものの、天明の大飢饉がよぎり、掲載する気
が起こらなかった。
夕のニュースで在位最後の誕生日を迎えられた陛下のお言
葉が心に響いた。
皇后陛下への感謝を述べられる中で、わたくしの“考え”を
理解し、と仰った。
このご時世、象徴とされる方にとって敢えて“考え“と言う
言葉を口にされる事には勇気がいたであろう。
しかし、“人間”天皇は名だけではない事を明らかにされた
お言葉であり、民を思い長年行脚を続けられた陛下ならで
はのご発言だと思った。
次の天皇にもご自身のお考えとして平和の“絶対性”と行脚
が受け継がれていくことを願ってやまない。
庚申塔その8、庚申待ち(庚申さまetc)の前編。
今秋になって火頭窓と二十三夜塔および庚申塔につい
てしばしば書くようになり、カテゴリーも新設した。
わけても二十三夜塔と庚申塔に出合う事は、昔の人々
の純朴な生活感に触れることであり、かっての時代へ
の旅情も去来して心はずんだ。
これまで二十三夜の月待ちについては以前にわずか言
及したことがあった。一方庚申塔は写真を載せるばか
りで、行事内容について殆ど書いていなかった。
本日にわか調べを禁じ得ませんが、庚申塔にまつわる
ことがらを少々書かせていただきました。
●庚申とは
旧歴は月の満ち欠けを12ヶ月の暦に応用している。
さらに各日は、中国古来の陰陽五行説などに則り「甲
乙丙丁、、庚、、」の10干(かん)と「子丑虎巳、、
申、、」の十二支の組み合わせで表されている(十干
十二支:じゅっかんじゅうにし、あるいは干支:えと
、と言われる)。
干は10日に1度、支は12日に1度巡るため、例えば庚申
(かのえさる)の日は10と12の最小公倍数である60日
に一度巡ってくる。
※年も十干十二支で表し、各組み合わせは60年に一
度巡る(例:還暦は誕生年が60年を経て巡る年)。
●庚申の日と三尸(さんし)。
そもそも人間の体内には災いや病を司る尸(し)と呼ば
れる三匹の虫が住みついているとされた。
この考えは中国の道教から始まり、古くから日本に伝え
られた。
尸は頭、胴、下肢にそれぞれ一匹ずつ住み、絶えずその
人を監視し、災禍をもたらす元凶とされた。
尸は60日ごとに巡ってくる庚申の日の夜中、人が眠って
いる間に体を抜け出して天に昇り、天帝にその人が犯し
た悪事の告げ口をするという。
それを聞いた天帝はその内容によって寿命を短くしたり、
死後の行先も決めるといわれた。
※現在、“虫の知らせ”、“腹の虫が治まらない”、“虫がい
い”、“虫の居所が悪い”、“虫が好かない”などと用いられ
ているのは、古来の三尸の名残でしょうか。
●庚申待ちの行事へ
かく庚申の夜の三尸の行動は忌み嫌うべきものであり、
それを回避するための行事が生まれた。
つまり庚申の夜、尸が天に行かないよう、大勢が集い眠
らずに夜を過ごすことが始まった。
集まる仲間・組織を講、その行事を庚申待ち、あるいは
庚申さま、講を組んでいる人々を講中と呼んだ。
庚申の夜の行事は平安時代の貴族や僧侶のあいだで詠歌
、酒宴の楽しみごととして始まり、江戸時代中・後期に
は農山村を中心に庶民のあいだに急拡大したようだ。
本日はここまでで終わり、後日庚申待ちの具体的内容、さ
らに庚申塔について書いてみたいと思います。
以下は参考にしている資料です。
板倉区の上石孟さんから頂いた資料(右三冊)と上越「医
師会報」(昭和59年5月号)。
右から上石孟編「庚申塔」(平成28年6月編)、「平塚神
社分霊碑」(平成26年編)、「福王寺石仏往来」(平成26
年再編)。
書籍。右「頸城新風土記」(石田耕吾著 図書刊行会 昭和5
7年12月15日発行。左「越後の庚申信仰」(尾身榮一、大
竹信雄共著 庚申懇話會 昭和41年10月28日発行)。
庚申塔その7、ああ我が町にもあった!
近隣の庚申塔を探訪しながら、我が上越市大潟区に
は無いかもしれない、と思っていた。
それらはおよそ山間か、山を背にした農村集落にあ
ったため、沿岸で砂丘地の当地を諦めていた。
45年近く、知らない所は無いほど区内を往診して回
ったが、それらしいものを目にしたことはなかった。
だが諦めきれない。
この方が見えたら、庚申塔(こうしんとう)の有無
を尋ねようと思っていると、昨日その人が来られた。
それとなく訊いてみると、「確か内雁子にひとつあ
りますよ」と仰った。
何と嬉しいお返事!一つというのも如何にも貴重だ。
内雁子は区内の東端で田に面して小高く、清水も出
ている、確かにあるかも知れない。
教えて頂いた場所の見当はつくので、さっそく午後
行ってみた。
集落の東、何度も通っていた場所に石段。その上
に石塔らしきものがちらっと見える。
確かにありました、しかも文字塔ではなく、光背が
ある石仏塔です!薬師のある米山を向いて合掌して
いるではありませんか。
ああ、知らずにいて申し分けありません。
ずっとここにいたのですか、お会い出来て嬉しいで
す!どこかで見た事があるような素朴なお顔ですね。
風雪に耐えて矢と宝輪をしっかり持しておられます
ね。
正面が見ざる、右が聞かざる、左ははっきりしませ
んが、言わざるなのでしょう、人間のようで、とて
も良いです。
三つに割れているのが痛ましいのですが、直してもら
っていますね。
この町は文字度どおりの半農半漁、それほど豊かでは
ありませんでした。
それでもあなたをこしらえた昔の人は庚申講を守り楽
しんだのですね、本当に嬉しいです、とても感激しまし
た。
運もあるが長生きはするものだと思った。
大潟区は風は強いが災害は少なく雪も少ない。
この石塔と昔人(せきじん)のお陰かもしれない。
診療所から3,8キロ、美術館から7,3キロは最も近い
庚申塔となった。
週末の上京、目黒区の庚申塔(庚申塔その6)と旧友との会食。
一昨日は雪山の一件などあったが石塔探訪は続いてい
る。
庚申塔をググると東京都は目黒区に彫像された石塔が
沢山あることが分かた。
昨日土曜日、二組の旧友夫婦と食事をするために上京
した際、先に目黒の庚申塔を見るべく午後は早めに出
かけた。
目黒区内には21カ所(約70基ほど)の庚申塔がある
という。
時間に余裕が無く、かつタクシーを利用するため互い
の距離が近そうな5カ所を選んで臨んだ。
山手線目黒駅下車、駅前でタクシーを呼び止めて、区
内に詳しい運転手さんの車を選んだ。
ある方が熱心に話を聴いてくれ、“それらしいものなら
見た事がある”と仰り、ナビをあやつりながら走ってく
れた。
地図で見るのと実際は大違い。一方通行や狭い路地、あ
まつさえ行き止まりがあり苦労もするが、“多分ここ”と
運転手さんが停車すると、目指す石塔があった。
田道(でんどう)庚申塔群。
最も憧れていた場所へまず着いた。
くっきりと掘り出された仏像塔がずらり、感激だった。
瓦屋根の下で整然と立つ青面金剛の庚申塔は本尊の表情と
三猿、日月の文様も鮮やかで、鶏が見えるものもあった。
閑静な宅地に堂々の存在感。
真新しい花が塔ごとに添えてあり、私たちを待っていたか
の如くだった。
後方に今年3月に新調された青い幕が掛かっている。
新潟からお上りさんの夫婦二人、想像以上の素晴らしさに
傍目も気にせず喜んだ。
教育委員会が設置した説明プレート。平成18年2月とあっ
た。
経年の劣化も見えず鮮やかで、しっかり判読出来る。
ともするとこのようなものはは板に白ペンキで書かれ、た
ちまちボロボロとなり読めなくなる。しかるにアルミ板に
よる設えは手入れも良く非常に有益だった。
次が「さわら庚申」。運転手さんが「あそこでしょう」と
ハンドルを切って到着した。
↑交通量の多い場所に建つさわら庚申塔。
立派な屋根が付き、欄間などに木彫が施されている。
右の板碑型(文字だけの塔)をいれて三体が肩を寄せ合っ
ている。
↑中央が舟形、左が駒形と形状の分類が書かれていた。
右端は文字による道標であり、それぞれ港区方面、大田
区方面、五本木から先世田谷方面?に分けられ、詳しい
地名が標されているようだった。
お堂の欄間などに彫刻が見られ、三猿や獅子が見事だった。
こんな立派な庚申塔など他にあるのだろうか。
猿は神様の使いとして神性を帯びる一方、見ざる聞かざる
言わざるの3要素は、庚申の夜に天に昇って人の悪口を天
帝に告げ口しようとする身中の虫を制するものとして重要
な意味があったらしい(もう少ししらべてみます)。
三つ目は「天祖(てんそ)神社の庚申塔」
↑二体の庚申塔。右の塔は道標を兼ねており、九品仏(くほ
んぶつ)、世田谷、目黒不動への道が示されているという。
次第に食事会の集合時間が迫る中、まだ二つ残っている。
「宿山(しゅくやま)の庚申塔」に着いた。宿山はかって
のあざ名。
正面と両側面にそれぞれ一体ずつ猿が彫り出されている。
ここも片側が賑やかな通りに面していた。花は鉢植えだっ
た。
いよいよ最後、「五本木庚申塔群」となった。
路地のような道は、その昔鎌倉道と呼ばれた要路だったと
区の説明板に書かれていた。
最初と最後に群が付く立派な石塔の列を見ることが出来た。
庚申塔5基のほか地蔵尊と念仏塔が祀られている。
ここの石塔は建てられた場所に残っていることが想定され、
保存状態とともに貴重だと説明されていた。
さて
・見学した庚申塔の多くは青面金剛を本尊としていた。
・猿は金剛に匹敵するほど明瞭に掘り出されていた。
・鶏はあっても比較的平板で、よく見ないと見逃されそう
なものも多かった。
・多くの塔の頭部の左右に丸い日と半月が雲の紋様とと
もに彫られていた。
・金剛は合掌するほか、弓矢、宝剣、宝輪を手にしていた。
輪を左手に持っているものがあったが、それが何か分から
なかった(羂索:けんさく、でした)。
ところで学生時代に住んだ場所が目蒲線の大岡山で、山
手線を目黒で乗り換える。また叔母が住んでいたため大
変馴染み深かった。
本当に久し振りに降り立った目黒はすっかり様変わりして
いた.。ただ周辺の坂道だけが懐かしく映った。
何十年も経て、いま夢中の庚申塔がかくも多数あったとは。
落語「目黒のさんま」に登場するように、大都市江戸の麗し
い山村だった目黒。
庚申塔として歴然と残ったかっての庶民信仰の足跡は、
それを後世に伝え続けた住民の、先人に対する畏敬と
親しみを明瞭に現わすものだった。
当日それぞれの場所に供えられていた新鮮な花のなんと清
々しかったことか。
庚申塔の保存場所には掃除道具が備えられているのを度々
見た。
住民の方々が清掃を続けているのだろう。
区教育委員会による説明プレートも誠に有益だった。
区を上げて石塔を維持伝達しようとする熱意は、他所から
ら訪ねた私たちにもひしひしと伝わった。
案内して頂いた運転手さんも熱心に対応して下さった。
見聞しながら目黒区の庚申塔は今も生きていると思った。
目黒をお終いにすると、年一度三組の同級生夫婦が集う食
事会の時間となった。
昨年と同じ店が予約されていた。
ひと皿ずつの分量が少なくて私たちには嬉しい。
蒸しウニや海老が入ったパイ包み。
(近づいて大きく見えますが、実際は小ぶりでお腹に優し
い)近況、級友のこと、どういうわけか小保方さんの事、
実家の宗教、身体の具合などを話しあった。
年に一度の会食は名残惜しい。
場所を移してカクテルを賞味し、例によって年1度の葉巻
を味わった。
翌日曜日のことは後で書こうと思います。
庚申塔その5、ヒヤリとした雪の山道、光明真言。
今冬一番の冷えだったと思われる日。
三条市から折々来館されるご夫婦が午後お見えになっ
た。
舞子高原から山越えで十日町、松代経由で上越に出た
と仰った。
先般、私たちが魚沼行きで走った同じルートをこられた
ようだ。
途中の山越えは雪道で、怖い思いをして抜けて来たと
仰った。
スタッドレスタイヤにしたばかりで助かった、とも。
ご夫婦とご一緒の後、吉川区は尾神集落まで行き、源
地区などを回って帰るつもりで車を走らせた。
午後3時半近くの雨まじる中、道すがら庚申塔に出逢え
れば、晴れた機会に写真を撮ろうという目論見だった。
しかし目星を付けた場所に目指す石塔が無く、尾神集
落を右折し、村屋→国田を回って帰ることにした。
平場と違い、目指した場所は雪が積もっている。
集落に初冬の風情を見る余裕があった。
帰路、普通なら川谷、石谷、名木山、などと通過するはず
だった。
それがどうしたことか、いきなり大賀(おおが)への標識
が出てきた。
大賀?ここ出身の方と昔お合いしたことがあった、と思い
ながら進むと、名木山に出た。
名木山はこんなに近かったか?
何かおかしい、疑問がよぎったが石谷→川谷と現れる。
知っている方ならお分かりだと思うが、村屋の手前の直進
すべき三叉路を、下りに導かれて左折し、帰路ではなく山
に入って行く状況が生じていたのだった(後で分かったこ
とです)。
細い山道に入ってマイクロバスと出合う。おっかなびっく
りバックしてすれ違ったものの、かなり怖かった。それが
最後の対向車となった。
誰も来ない道が続く。ナビから集落らしきマークは消え、
道は一本だけになっている。何度か引き返そうとしたが、
自宅へのナビはそれと違う方向を示すようになった。
下るはずの道は上りが続き、いつしかかなり高い山道に入
り込んでいた。
スリップが怖くじわじわと極めてゆっくり走ったが、時折
後輪が振られる。
日は暮れ、見当が付かない雪の山中に一人取り残されたよ
うだ。
そろりそろりと走る道は盛んにくねって心細い。転落、遭難、
不安がよぎる。
ハンドルの手に力が入り、動悸が止まらない。
“南無大師遍照金剛 (なむだいしへんじょうこんごう)“
弘法大師空海への帰依が口をついた。
唱えは35年前父の葬儀で繰り返された文言だった。
“おん、あぼきゃ、べいろしゃのう、まかぼだら、まに、は
んどま、じんばらはらばりたや、うん”
一人の車中、どうかしていると思ったが繰り返した。
これも父の時に覚えた光明真言で、何とか言えた。
間もなくナビが“8キロ先は雪のため通行止めです”と告げ、
画面を動かすとずっと遠くに柏崎市の集落が出る。
家とは真反対、尾神岳の西を迂回して高い峠道を走ってい
るらしい。
遅きに失したが引き返す決心がついた。
自分のわだちを辿りながら、おっかなびっくり下っていく。
雪の山中45分の迷走、ようやく巡り会った民家。窓明かり
が嬉しい。
振り返れば、
下りを見つけようとしながらどこまでも上ってしまう。
間違っていると思いながらナビに沿ってしまう。
引き返そうとしながら進む。
夜間新雪の山道を老人一人、危うく事故になりかねない状
況ではなかったのか。
午後お会いした三条の方たちも怖かったと仰った。
日が暮れていたのでこの度はそれ以上に危なかったかも知
れない。
私も昨日冬タイヤに替えたばかりだったのだが,,,。
“平地は雨、山沿いは雪”の予報とはこういうことだった。
庚申塔その4、柿崎区は猿毛の庚申塔、すずきせいこさんと出合う。
6月からの石塔マイブームはまだまだ終わりそうもない。
二十三夜塔と庚申塔では、浦川原は顕聖寺(けんしょう
じ)、柿崎は楞巌寺(りょうごんじ)の各門前、そして三
和区のとある神社を訪ね、それらを当ページで紹介させて
もらった。
以後板倉区福王寺や山寺および柿崎区は小村峠と猿毛集
落も訪ねた。
本日は小村峠と猿毛で見聞した石塔を記してみたい。
一帯の庚申塔について、今はなき大先輩である笹原作二
郎医師が「柿崎町黒川筋の庚申塔」という一文を当地の
医師会報に書いておられた。
昭和59年のその会報は手許になく、医師会から取り寄
せると4ページに亘る紹介文と6葉の写真が載っていた。
先生は写真に優れ、県展で特選されたこともあった。
昭和59当時の庚申塔が載った医師会報記事から冒頭の
2ページ。
モノクロ写真はドキュメント性を引き立て、石塔は魅力的
であり、在りし日の先生を思い出して胸熱くなった。
すぐにでもこの写真のところへ行きたい。
まずは去る木曜、午後休診日に猿毛と小村峠へ向かった。
峠からの眺め。眼下に柏崎市西部の集落が。
↑峠の高台にあった二十三夜塔。幅2メートル近くあろう
という巨大な石塔(もはや岩石)だった。
30年ほど前、ここにあった5,6軒の家はおよそ10年で
半分ずつ減って、いま全戸が無くなっていた。
残った大きな石塔は、二十三夜の下弦月の晩に女性達
が集い語り合った夜があっことを、なにより誠実な住民の
暮らしがあったことを如実に物語っている。
それは石塔が果たしている重い役割であるが、江戸期に
置かれた石は、“まさか自分一人になろうとは”と呟いて
いるのではなかろうか。
その日の帰路、猿毛(さるげ)に寄った。
道沿いで見た庚申塔。力強い青面金剛(しょうめんこん
ごう)は六臂(ろっぴ;六本の腕)。
お猿さんは中央に一匹、耳を押さえているのか、左右に
もいるようだが、はっきりしない。
そして本日、先掲の医師会報を持参して再度猿毛を訪ね
た。
先回は東側から入り、この度は西から入ってみた。
この辺りで60才くらいの方にお会いし、会報の写真を見
て頂きながらて話を聞いた。
男性は軽トラに積んだネギを納屋に降ろしているところだ
った。
会報の写真を見ると、“道路補修によって今ここには無い
がすぐ近くに移してあるよ”と仰った。
有り難い。
今年のネギはどうでしたか、と訪ねると「良かったかな」と
笑顔で仰った。
石塔は本当に近くの良い所にあった。
きれいに並んだ石塔群。手前は大きな二十三夜塔!二番
目に庚申塔。
記念碑を手入れ良く保存することは、それを残したかって
の住人の願いを大切にすることであり、山間の人びとの愛
郷心とその篤さが心打つ。
行政は各地域を総括する親あるいは子孫の代表機構であり、
他に代えがたい存在意義がある。
文化都市を謳うなら、先人を尊ぶ事業の一環として各地の
民の生活史である石塔や諸石仏を文化として手厚く保護し
紹介する義務を負っているのは論を待たない。
先輩医師が撮ったものと思われる青面金剛の庚申塔。
金剛の六臂と三猿がかなりしっかり浮き出ている。
十像十色、それぞれに特徴があって面白い。
猿毛から樹下美術館に戻ると女性がお茶を飲んでおら
れた。
糸魚川市からこのたび開催された上越市の名家巡りに
来られたという方。最後の頸城区森本の白田邸の帰り
に寄った、と仰る。
お話するうち、小生がよく見るブログの筆者すずきせ
いこさんだと分かった。
まさかである!
とても知的な方だ。
以前にも当館のことをお書き下さっている。
クラウドの人が眼前にいる不思議さと嬉しさで胸弾
んだ。
沢山お話したかったが、長岡市のコンサートに出かけ
る時間が迫った。
アシュケナージ指揮アイスランド交響楽団と辻井伸行
さんのピアノが聴けるコンサートだった。
忙しい午後は長生きして良かった日になった。
コンサートのことは明日の予定にしてみます。
ついつい長くなってしまいます。
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