花頭窓、二十三夜塔、庚申塔、社寺
髙田公園、春の庚申塔(庚申塔その18)、根上がり松。
今冬あこがれていた髙田公園内の庚申塔を見たのは1月下旬だった。
小林古径美術館の宮崎館長にお聞きしたその石塔は、意外にも良い場所にあった。新雪があった日で、場所を聞いた髙田育ちの妻が果敢に先導した。
雪の日の庚申塚(塔)参り。池にかかった橋を渡った後小高い場所へと向かう。
それから一ヶ月少々の本日、所用で通りがかり気になって寄ってみた。公園は雪も消え、春陽のもと大勢の人が思い思いに憩っていた。
蓮弁風の台座、三猿。合掌する青面金剛は残りの4臂で弓矢、斧、剣を握っている。
上方左右に日月紋様が彫り出され、なかなかの格調。
たまたま下を二人の女性が通りかかり、上がってこられた。これは何ですか、と訊かれ、簡単にお話すると、知らなかった、面白いですね、と仰った。
ところで、むかし猿の檻があった場所の背後に築山がある。通ると、かなり見事な根上がり松が見えたので近づいてみた。
根上がり松は土が自然に流出して根が現れるものと、庭園で意図的に土を盛って育て、順次土を除きながら仕立てる二通りがある。
果たしてこの松はどちらだろう。山のテッペンにあり、かなり傾斜が急なので自然に現れた印象を受けた。幹が微妙に反り、バランスを取っているようも見える。
本日公園の帰りに、芝生の肥料を50キロも買い美術館の庭に撒いた。例年晩秋に行っていたのを、今年は春先に試みている。まだ半分ほど撒いたところだが、今年は回数を増やし、よりきれいな芝生になるよう関わってみたい。
冬の連休は急ぎ足で京都と奈良へ その3(庚申塔その17)八坂と奈良町の庚申堂。
庚申信仰、あるいは庚申行事に興味を持ったのが昨年6月。
このノートにカテゴリーまで設けて気ままに地元周辺を見聞していた。その中で、庚申信仰と関係行事が盛んだったのは地方であり、長く政治文化の中心だった京都、奈良には何故か少ない、という事を知った。
そこへこの度の京都、奈良行き。調べで、京都および奈良市内に庚申堂、あるいは庚申信仰に関係する社寺があることが分かった。いずれも訪問予定の範囲に収まっているので是非もなく訪れた。
以下は去る10日日中の京都は右京区の猿田彦神社と、東山は金剛寺の八坂庚申堂、そして夕刻の奈良市の奈良町庚申堂の様子です。
山之内庚申と呼ばれる平安時代の創建になる猿田彦神社。
訪問日はやや閑散としていたが、庚申の縁日はとても賑わうという。猿田彦神社は私の地元ではまず見ることが無く、リアルな猿のお迎えは嬉しかった。さすがは京都、京洛3大庚申の一つとして古式漂う神社だった。
ところで、
猿は庚申(こうしん)の民間信仰で重要な位置にある。関係としては、まずその名から申(さる)として直結。また国造り神話における尊(みこと)を天上から地上へと導いた猿田彦の道しるべ、および農耕と生産の司としての意義。さらに人の身中にあって悪事の元凶とされる三尸(さんし:三匹の虫)を制止する青面金剛(しょうめんこんごう)の働きを手助けする存在(見ざる、言わざる、聞かざるを以て)などであろう。
しかし、神道から発した猿が何時、何処でどのように道教の三尸説と、さらに仏教の青面金剛と交わり、一大信仰と行事に結び付いたか私にはよく分からない。事実は、60日に一度集う守庚申、のちの庚申待ち行事は平安時代の貴族、僧侶から鎌倉の武士へ、そして広く江戸期の庶民、さらに明治、大正へと、長きに亘り継続されている。
信仰の内容は現世利益、先祖供養、地域存立、娯楽に親睦など多義的である。そのなかで猿田彦神、猿、青面金剛のそれぞれは、存在理由を最大限に発揮し、時代と地勢にストーリーを合わせながら、人々を引きつける力(特に地方の農漁村において)を有していたのは本当のようだ。
何かくどくなってしまいましたが、以下今日の京都、奈良の庚申堂は幸福そうだった。
まず八坂庚申堂。
平安時代の創建という庚申堂。門前に庚申尊の石塔。
上部に三猿(さんえん)があしらわれ、日本最初と読める刻文がある。貫禄十分な碑だった。
くくり猿を買い、願い事を記入して奉納する。みな率直で愛らしい。
“欲を捨てると願いが叶う”とは、上手く考えられているフレーズ。
猿田彦神社は庚申日以外は閑散なようだが、八坂庚申堂は地の利を活かして大賑わいしていた。着物の若い女性が沢山いて、彼女たちから中国語が聞こえてくる。しかし言われるほどの大声は控えられているように映った。庚申信仰の三尸思想は元々中国の道教に由来しているのと春節でもあり、人気になるのだろう。
当日午後遅く、前記した本願寺伝導院を最後に、京都を発って奈良へ向かった。
以下はその日、夕食までの時間に出かけた奈良庚申堂と奈良市奈良町の様子。
奈良庚申堂にて。一帯は元興寺の伽藍だった地域。
町の庚申信仰は、奈良時代の元興寺における天武天皇と青面金剛逸話に発しているようだ。
三猿が水飲みの水盤を支えている。本尊という青面金剛は良く見えなかった。
軒下に仏を記した提灯。庚申さん、青面金剛、吉祥天女、地蔵菩薩が左右に並ぶ。
青面金剛と地蔵菩薩は分かるが、なぜ吉祥天女なのだろう。
すっかり暮れ、月が上っている。屋根の猿が凍る空を見上げていた。
以下は奈良町の一角。
下町の風情が漂い、町の明かりが寒さを和らげてくれる。
身代わり猿(京都ではくくり猿)を軒下に吊すのが奈良町の流儀らしく、とても良かった。
そういえば京都の八坂庚申付近でも、そこここに軒下のくくり猿を目にした。
街角の吉祥堂の看板。ここは奈良町資料館でもある。大きな身代わり猿が下がっている。
脇からみた資料館。吉祥天女が冴えている。ここは店舗でもあり、猿の人形ほか土産を売っている。
資料館のホームページに吉祥天女と奈良町の関わりが出ていた。
宴の振る舞いに吉祥天女が関係して奇跡が起きる話は、どこか庚申待ちに於けるご馳走とそのご利益を思わせた。いにしえの貴族版庚申さん?に繋がる話なのか。
来る時は道に迷ったが、帰りはスムースにホテルに戻れた。
以下はその時の町並み。
7時から宿で夕食。老舗ホテルはビーフシチューが似合う。昼食を摂らなかったのでゆっくり噛みしめて食べた。
庚申堂と古い町並み、、、。しっくり安心の取り合わせだった。
京都奈良で三カ所の庚申堂を参拝した。小ぶりながらいずれも参内できる境内と堂を有している。普段地元で庚申塔の石塔ばかりを目にしているため、規模の大きな庚申堂と神社を訪れ、信仰の原型と歴史の深さに触れて満足だった。
再三の冗長をお許しください、次は最終回、奈良の寺にします。
冬の連休は急ぎ足で京都と奈良へ その2 京の窓めぐり、深く優しい詩仙堂。
午前9時にタクシーさんと待ち合わせてホテルを出発。窓から窓へ忙しい京都見物となった。
西本願寺からスタートした。本当はここで遠目にでも、映画「利休にたずねよ」で聚楽第として撮られた飛雲閣を見ることが出来ればと思ったが、そもそも普段の公開はなく、さらに修復中とあって叶わなかった。
しかし壮大な境内で華麗な唐破風門を見て、転輪蔵の花頭窓を見ることが出来た。
転輪蔵。中に赤い回転式の書架があるという。どんなものだろう、一度は目にしたい。
西本願寺を辞して金閣寺へ。
鹿苑寺金閣。私の中で銀閣寺と共に元から花頭窓の寺として漠然とあった。
輝かしいのに静かに見えるのは不思議だ。黄金が邪悪を跳ね返しているからか。
次は大徳寺。大徳寺内の各塔頭は公開日など特別な日以外は参内出来ないが、門と玄関は眺める事が出来る。
大徳寺塔頭の光臨院の外部。
大徳寺塔頭、梅がほころびかけていた光臨院の唐門。客待に設えられた花頭窓が爽やか。
他に三玄院など、いつか公開日に訪ねて禅味茶味の院内を拝観したい。
続いて東山は銀閣寺へ。
金閣ほどではなかったが賑わっていた銀閣寺。庭は頑張っているものの、建物は大丈夫だろうか、やはり古い。いずれ全面修復が必要では、と心配した。新しい銀閣というのもイメージしづらいが。
銀閣寺を出て哲学の道を眺めた。
銀閣寺近傍で見た半円の窓。わずかに裾が広がっていてこれも花頭窓か。
詩仙堂へ。
昭和43年早春の夕、大学を卒業した生徒全員が京都に集まった。私は前泊して嵯峨野を巡り、最後に詩仙堂を訪ねた。バスを降りた道中、着物を着た二人の女性と出会った。就職が決まり、京都で着物を着たくて東京から持参したと、晴れやかに話をされた。時代は巡り、いま大勢の外国の人がレンタルで着物を着て、楽しそうに歩いている。
詩仙堂の上品な窓を眺めるのは、このたびの目的の一つ。
庭は思ったよりずっときれいに手入れされていた。季節は違うが、昔はもっと草木が茂っていた印象がある。
非常に複雑な屋根の構成そして窓。庭の静寂と建造の複雑が対比的。
堂内に架かっていた「関」の一文字。関は禅の重要な概念の一つで、悟りのために越えなければならない境地の関門。
茶席でもよく関の掛け軸が架かる。この額も“ここにたやすく入るな”という喝を表している。
時を知らせる巡照板(じゅんしょうばん)は禅寺で用いられる鳴り物の一つ。
「生死事大」は「光陰可惜」が続く禅語。生死は頭脳・感覚ある者の絶対命題であろう。仏道を歩む者はなおさらであり、寸暇を惜しんで修業せよ、と告げている。禅であればさらに作務を行い座れ、と取れる。
病院時代に再訪したので、この度三度目だった。寒さもあろうが、場所の空気が深く染みこむ気がした。
深くて優しい詩仙堂から近傍の野仏庵へ。
下地窓の外腰掛けは大きな石仏と隣り合わせ。野仏庵はかってのある事業家の庵。門をくぐり少々急な路地を上る。
ここがこの度で最も北に当たる。
再度下って禅林寺(永観堂)へ。
禅林寺境内のお堂。左右の丸窓がのどか。
モミジの名所ということ、変化に富んだ広大な境内を再訪したい。
さらに近くの南禅寺へ。
湯豆腐も食べずに時は過ぎる。
法観寺まで来た。
陣笠を被ったワンちゃんと一緒。尺八はとても良い音色で、妻はおひねりを渡しに行った。
最後に失念していた本願寺伝導院に寄ってもらった。
三階部分の拡大。花頭窓の原型を思わせる窓を見ることが出来た。
ついに奈良行きの時間が近づき、京都駅でタクシーとお別れした。我がまま勝手な駆け足を助けて頂いた運転手さんに感謝を禁じ得ない。
何十回と訪京する人がいるけれど私は七度目で、みな駆け足。機会があったら禅林寺と南禅寺でゆっくり過ごし、大徳寺は芳春院、光臨院などの公開日に是非再訪したいと思った。
さてこの日ほかに、庚申関係の山之内猿田彦神社、八坂庚申堂を廻った。その模様を奈良の庚申堂と併せて次回記載させて頂きたいと思います。
とりとめなく非常に長々となりました。
冬の連休は急ぎ足で京都と奈良へ その1 宵の八坂や中華など。
平成31年が明けた正月、新年の計に京都、奈良行きの計画が何となく上っていた。
急だったが切符と宿が取れて、去る2月9日午後、上越妙高駅を発って出かけてきた。予報どおりの寒波で寒かったが、奈良京都に一泊ずつした。
初日夕刻に京都駅に近いホテルに到着したものの、チェックインカウンターは何筋も長蛇の列。中国の春節に相当する時期で、大変な混雑だった。
列に並ぶヒマがもったいなく、クロークにカバンを預けて宵の街へ出かけた。宿から近い八坂神社→八坂庚申堂はこの度の目的地の一つだった。
30数年前の大晦日に、子ども達と夜の八坂神社を訪ねた折の煌々たる提灯と渦巻く人出が脳裡に残っている。この日も若者を中心に賑やかだった。
帰路の食べ物屋さんの二階の窓。所変われば窓変わる?窓を見るのも目的の一つ。
八坂神社からの帰路、入ってみた細い路地。両側にひっそっりと割烹が並ぶ。
その静かな路地に「静」の張り出し。お静かに、ということなのだろう、徹底している。いつかこの通りの店に入ってみたい。一見さんで大丈夫だろうか。
京都で中華というのも変かもしれないが、7時に四条河原町の店を予約していた。初めてなので見つけるのに少々迷ったが、良い散歩だった。
四条河原町のビルの五階が店。京都の人達が普段使いされている雰囲気の店だった。片隅に座り、空いたお腹を満たした。
京都だからと言って、おばんざいや京料理への執着は全く無い。京都で中華を食べてみたい、それだけのことだったが、期待以上に爽やかな料理で、美味しく頂いた。
中華なのに店はずっとジャズが流れている。
帰りのレジでは誰が歌うのか「My One And Only Love」が聞こえていた。
お目当ての一つ八坂庚申堂を明日に持ち越しにして、ホテルに戻ると、チェックインカウンターはすっかり空いていた。
※2月9日と11日の記事は、出かける前に二日分を予約投稿したものです。実際には出かけていて、ややこしくなってしまいました。大変申し分けありません。
上越市立歴史博物館・宮崎館長 髙田公園の庚申塔(庚申塔その16)遊心堂 なかに寿司 寒行 髙田暮景 大坂なおみ選手。
昨夜から降雪があった上越地方、日中ひと止みしたが寒かった本日土曜日。
午後から再び上越市立歴史博物館を訪ねた。お忙しい宮崎俊英館長にお目に掛かり、大切な話が出来た。
来る3月15日から樹下美術館は今年度の開館を迎える。齋藤三郎と倉石隆を常設展示する当館は毎年二人の作品からテーマを決めて展示を続けてきた。同一作家のテーマを考え、見せ方を工夫するのは気を遣うが、楽しい作業でもある。
これを何とか維持出来たのは、お二人の作品が比較的豊かなバリエーションを有していたことがある。また展示スペースが小さいため、数多くの作品を準備せずに済むという事も大きかった。
今年の展示についても新鮮を意識し工夫をこらし、皆様に楽しんで頂くよう準備をしている所です。
本日宮崎館長にお会いして是非お尋ねしたかったことがもう一つあった。髙田公園の庚申塔の所在である。すると、ありますよと即座のお返事。「ぶら髙田」を持ち出され、すぐに場所が確認できた。
「ぶら髙田」 著者朝倉有子(代表) (有)北越出版 平成26年3月31日発行。
帰路、本町の春陽館に行き、最後の一冊と仰る本を求めた。
書物の一部。
髙田公園内の55基の碑・モニュメントの場所が写真とともに地図に明示されている。
使う人本位の真に親切な一冊。
一大懸案であり、あきらめかけていた髙田公園の庚申塔は身近にあった。髙田に庚申塔があることもそれが公園にある事も貴重である。
有り難い、さっそく向かった。
30㎝近い新雪の公園で左上方の庚申塔を目指す。
私は短い街中ブーツ、妻は長靴。
高田生まれの妻は、雪と言うと基本張り切って動き、本日先導した。
合掌し、弓矢に剣と鉈?を持つ青面金剛。
上部に日月文、見にくいが下部に三猿が約束通り刻まれていた。
塔ではなく塚と表されている。
塚の基壇部分の側部に寄進者の記銘。「 いろは高山千三」と刻まれている。
いろは肉店のご先祖であろう。
他所のものをここへ寄進されたのか、あるいは実際に庚申待ちをされた供養なのか。
ちなみに手許の「越後の庚申信仰」に以下の掲載写真がある。
昭和41年発行の本。髙田城址公園と記され、現在と同じ場所なのか。
日は春陽を思わせる。50数年経って実物に出逢えるとは。
今日まで大切にされていて感激した。
その後本町4丁目は「アートサロン 遊心堂」へ行った。
新旧の茶道具が見栄え良く並んでいる。上品な変化を付けた棚(茶道のお点前で用いる棚)が見つかり、値段も手頃だったので購入した。
店主と齋藤三郎の話をした。熱心な主から沢山質問を受け、スリルがあり非常に楽しかった。
その折、昭和二十一年作という齋藤三郎作品の写真を見せて頂いた。樹下美術館で最も古いものは二十二年の染め付け菓子鉢だ。それを更に1年のぼった箱書きは線が細く当時の三郎の筆そのものである。時期は近藤悠三への師事を終え、富本憲吉門下となって二年目に相当している。
楚々とした染め付け香合で、春蘭を描き、鉄絵の具でふち取られていた。
23才、まだ入門中だった時代であろう。しかし署名が許される作品を制作していたとは。それを認めた師の大きな懐と眼力に驚き、まことに良い勉強をさせてもらった。
主はまた一昨年、当館が発行した「樹下美術館の齋藤三郎」を念入りに読んで下さっていて、緊張を禁じ得なかったが嬉しくもあった。
遊心堂で長居をするとすっかり暮れていた。帰路たまたま「なかに寿司」の暖簾が目に入った。
賑やかな店に運良く二人分の席があった。
お寿司屋さんにいると太鼓の音。寒行をする方たちだった。とても懐かしい。
帰宅すると大坂なおみさんが全豪オープン決勝の最終セット。それを見事に取った。
彼女の言動は率直で新鮮、とても好感が持てる。一般に欧米の授賞式における挨拶は、まず敗れた相手やライバルへのリスペクトを十分に表す。この日、大阪選手は長年の夢、などとは一切言わず、クビトバ選手への賛辞とサポートチームとファンへの謝辞に終始した。王者に相応しく真に洗練された態度だった。
ほのぼのとしたユーモアもあり、ずっと愛される選手であることを心から期待したい。
上越市歴史博物館と雪の髙田公園 頸城区は日根津の庚申塔(庚申塔その15です)。
木曜日午後は休診にさせてもらっている本日、妻と上越市立歴史博物館を訪ねた。時折激しくみぞれが吹きつけが、積雪にはならず道路は何とか普通の靴で歩けた。
昨年7月、名前も新たに新装なった当館を初めて訪れた。たまたま知人と出合い楽しく一緒に廻った。
残念ながら展示物はすべて撮影禁止のため、パワーショットで施設の一部を撮ってみた。下手な写真だが撮影出来ればお見せしてみたい展示物は多かった。
上掲2枚はカフェに飾られていた名椅子。上が帝国ホテル東京の設計を引き受けたフランク・ロイド・ライト1902年デザインによる「ミッドウエイ」。下はチャールズ・レニー・マッキントッシュによる1924年の「ラダー・バック(はしごの背中)」です。両方とも大変に斬新。
一階の広いフロアーは床に上越市の地図が描かれている。向こうに大きなヒマラヤスギと濠。
博物館は大きなガラスが随所に使われている。ガラスは汚れが目立つので管理が大変。しかし気象の悪いなか、大変きれいに磨かれていて感心した。
二階が受け付になっている。らせん階段があると写してみたくなるのは癖。
展示は安土桃山時代、つまり謙信公が関係する春日山の時代から堀氏の福島城、そして髙田城から現代へ書状、絵図、現物が資料として丁寧に示されてている。
以前はあっけらかんとして味気ない陳列室の趣きだった館内が、テーマごとに動線を変化させ、それぞれがコーナーとして楽しめるるように工夫してある。
専門家でないので文字資料は苦手、絵図・写真や品物に目が行く。春日山城の復元図で、描かれていた天守閣風な建物を興味深く観た。一方、当持国内有数の城下の様子は想像するしかなく、それが難しい。かって部分的にイメージ出来たのは大河ドラマ「天地人」であり、幾つかの今町シーンは新鮮だった。
立派だったのは日枝神社の山車飾りである大きな黒漆の孔雀像で、実に優美だった。また雪下駄の制作過程、町屋模型、克雪の道具類、豪雪写真などは、やはり風土独特の博物として当館の貴重な展示物になっていると思った。
雪国の哀切と美を象徴するものとして、瞽女杉本キクイさんに関する資料と齋藤真一氏の瞽女油彩が印象的だった。齋藤作品はサイズが小さくとも、小ささゆえ求心力があり、見る度に素晴らしさを増す。
町屋の台所の写真は懐かしかった。土間のスノコ、流しとかまどはモノクロ写真にピッタリ。どこかに手押しポンプは無いかと見れば、隅に写っていた。中高生時代、寺町の下宿でポンプを押して水を汲み、歯を磨き顔を洗った。
展示最後の生活家電、電話、オーディオなどでみる時代の流れは、新しい世代にとって驚きではないだろうか。年代ごとに生活感と手わざの風合いが感じられ、親しめる。
明るいショップで本を買った。
「懐かしのわが街 上越」岡観妙著 新潟日報事業者 2008年10月1日発行。
遠足、祭、バス、下駄、宣伝カー、いずもや、しながわ、、、。
懸命な生活の中にあふれる精一杯の楽しみと将来への希望が切り取られている。
見終わって帰路はいっとき吹雪きとなった。以下は髙田公園の様子。
あらためて当地の冬はモノクロだと思った。齋藤真一氏ではないが、そこにあって最も鮮やかな色は、人間の熱い血の色なのだろう。
いまだ探訪つづく庚申塔。樹下美術館から最も近い場所が頸城区日根津に見つかった。それまで大潟区は内雁子の塔が7,3キロだった。それが日根津で7,0キロに縮まった。日根津は今の所知り得た、頸城区内で唯一の庚申塔でもある。本日日は暮れたていたが折角の外出、妻を連れて再度訪ねた。
日根津は願成寺境内入り口に、六地蔵と如意輪観音と共に手前に建っている。
以下は過日訪ねた時の写真です。
上部に日・月が彫られ、合掌する青面金剛は宝剣と羂索それと体に巻き付いた?何か太い物を後ろ手に掴んでいる。この手は弓と矢を持っているものが多いが、まさかヘビなのか。浦川原区有島でも似た形を目にしていた。
有島の庚申塔。六臂の腕の出方や角度、持ち物、太い足腰の三猿などは両者でかなり似ている。
太いものを二重に撒いているが、まさか同じ石工(いしく)ではないだろう。この地方の一種定番だろうか。
過日の柿崎区は密蔵院彫刻の作者が江戸彫りの五代後藤茂右衞門であれば。
去る1月17日に柿崎区は密蔵院護摩堂の彫刻を掲載しました。
実は彫刻は二つの部分があり、お堂の周囲の広縁に沿った壁面は中国の故事に由来する物語が、高い軒下には天女が彫刻されていた。210×260㎝(縦×横)の彫刻が4面ある壁面部分は容易に手が届くため金網で保護されている。一方天女たちは高所のためであろう網はなく、じかに観ることが出来る。
掲載した写真はいずれも女性の像で、表情豊かであり特に興味深く観た。お堂脇に護摩堂の説明板にあり、末尾に彫刻の作者として、浅草、茂右衞門 髙田、又吉 万吉 重五郎 と書かれていた。
面長うりざね顔の女性達は浮世絵で見慣れている平板な姿と異なり、血が通い豊かでリアリティがある。また色塗りされていないため、木目が活かされていっそう動きや陰影に面白さが出ている。
作者が気になり、説明板にあった浅草、茂右衞門をググってみた。すると当時の社寺の木彫は江戸彫りと呼ばれ島村、後藤、石川の各家が三大系譜として上がっていのが分かった。中でも後藤家は中心的な位置づけにあり、後藤正網は初代茂右衞門を名乗り、代々襲名され幕府御用彫物師を継承する一門とあった。特に文化年間のはじめ頃の五代茂右衞門は優れた人で、多くの門人を輩出している事がうかがわれた。
当密蔵院の建立は文化11年から足かけ4年を要しているので、もしかしたら五代茂右衞門の可能性もある。説明書きの浅草、茂右衞門がその人であれば、同寺の彫刻はいっそう貴重なものに感じられるが、果たしてどうなのだろう。
ちなみに説明板にあった髙田、万吉 又吉 重五郎は分からなかった。しかしいずれにしても三人の彫工は江戸の名工茂右衞門を頭領として喜び勇み仕事に励んだことだろう。文化、文政の自由で一段と豊かな文化が花開いた時代は人の往来も活発で、地方と中央が盛んに交流しあったことが窺われる。
ところで五智国分寺の三重塔の彫工は髙田の倉石正義と記されている。あるサイトで倉石(後藤)正義と記されていたので、やはり後藤流の人だったのか。先の三名から少し時代が下るが髙田文化の一端が垣間見られて嬉しい。
上述の三大家の一つ石川流にはあの魚沼は西福寺の開山堂などを彫った雲蝶がいて、明治、大正時代を通して近代彫刻へと道を拓いた高村光雲は後藤流の系譜の人だという。
暖かくなったらまた密蔵院を訪ねてみたい。
上越市は寺町、浄興寺(歓喜踊躍山浄土真宗興行寺)さんの窓。
年6月に火頭窓から始まった二十三夜塔と庚申塔巡り。しばらく窓から離れていましたが、本日その変わり形と思われる窓を記してみたいと思います。
実は昨年秋に上越市寺町の浄興寺を訪ねていました。胸がすくような規模の大きい名刹ですが、拝堂と本堂、拝堂と宝物殿を結ぶ回廊に変わった窓の設えがあることに気がつきました。
大きくしてみました。これまで見てきた火頭窓は上から二つ波を描いて下へ真っ直ぐ、あるいは広がって下がり、底は水平でした。
しかし上掲の窓は下部が曲線を描き、底の部分に変化を付けて、全体を丸く横長にしています。色々検索してみても、中々このような形が見当たりませんでしたが、とても上品な印象を受けました。
ところが過日の柏崎行きでは、二カ寺で少々似たような窓に出合いました。
左右が下に向かって丸くなり、底の部分に二つ返すようなた変化が付けられています。
さらにその後の市内西本町の専念寺で以下の窓に出合いました。
装飾窓のようですが、上掲した二つと同じく左右は丸みをおび、下枠に二つの波のようなあしらいがあります。当寺院の宗派は浄土真宗浄興寺派とあり、本山である髙田寺町の浄興寺に少々ならったのかな、と当日思いました。
ネット検索の結果、ふとしたことから茨城県常陸太田市の古刹、佐竹寺本堂の両隅に以下のような窓があることが分かりました。
拙いスケッチで申し分けありません。前記した三つをまとめたような形状でした。
さて以上本日示しました窓は、いずれもてっぺんの宝珠を思わせる丸みに続き、以後の丸みが下ですぼまり、左右結ばれています。また下の枠部分に波のようなあしらいも共通し、一般的な火頭窓とは異なっていました。
何か名前があるのかと思いましたが、唯一見つかった佐竹寺では火頭窓と記されていました。
普通の火頭窓よりやや手が混み、かつ上品に見える窓はどこか雲をも思わせましたので、雲居窓などと読んでみたくなった次第です(もちろん雲居窓でググっても出てきません、、、)。
最後におまけですが、浄興寺さんの門前に久家堂という仏具屋さんがありました。
前と脇で形が異なりますが、いわゆる花頭窓風でしたので少し驚きました。
これまで話題にしてきました火頭窓ですが、火灯窓、花頭窓、華頭窓ほかいろいろな書き方があるようです。
次から花頭窓と記載したいと考えましたので、どうか宜しくお願い致します。
庚申塔その14,三度目の柏崎に歴史と信仰の重量感、そして貞心尼の墓。
本日如何にも降りそうな空が我慢をしてくれた日曜日、再度柏崎を訪ねた。このたびは妻も一緒で11時に出発した。まず過日の笠島は多聞寺で庚申塔はじめ石仏を見て港へ降りた。
出がけの柿崎で、雲が退いていく米山を眺める。
今日はこの山の向こう側を訪ねる。
降りて行って岩に登ってみた。
高い所へ上がると童心に返り、とても楽しい。
笠島を後に柏崎市街へ。念願の貞心尼の墓碑がある常盤台(ときわだい)の洞雲寺(どううんじ)をはじめて訪ねた。
貞心尼は寛政10年(1798)に長岡藩士の娘として生まれ、23歳の時柏崎で仏門に入り、明治5年75歳でその生涯を閉じている。29歳で晩年の良寛を知り和歌を通じて細やかな師弟関係を続けた才人であり、容姿も非常に美しかったという。
この門をくぐって貞心尼の墓に上っていく。
冬真っ最中のため杉落ち葉が多い。
最も高い所に貞心尼(孝室貞心比丘尼:こうしつていしんぴくに)の墳墓。
墓は弟子の二人の尼僧、乾堂孝順比丘尼と謙外智譲比丘尼によって建立され、以下の辞世の歌が刻まれている。
「くるににてかえるに似たりおきつなみ立居は風の吹くにまかせて」
人生は沖の波のように行くも返すも似ている。私の身も立つ波と風に任せ、あるがままを受け入れよう、という主旨なのか。
貞心尼は長岡の少女時代に柏崎に連れてこられ、初めて海を見て感動、以来同地にあこがれを抱いていた。魚沼地方の医師と結婚するも離婚となった後、望み通り柏崎に移り住んだ。そこで二回の庵を編んだが、いずれも焼失の憂き目にあっている。
“くるににてかえるににたりおきつなみ、、、”
大好きだったであろう海を詠みこんだ歌には、勤しみと受容の人亡き師良寛の辞世とされる以下の句と似た観点を感じる。
「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」
良寛はもみじに貞心尼は波に生涯を重ね、二人とも自然と同一化している。最後まで固き師弟であろうとした心情が想像され、胸打たれる。
鐘撞き堂。触るように撞いてみたらぽーん、と柔らかい音がした。
洞雲寺を後にして、大洲に入り過日の大聖院で庚申塔群を拝観し、小久保1の西光寺へ。同寺は先日一人で訪ねた折、山門が印象的でまた周辺の様子が清々しく、門前の庚申塔と二十三夜塔が立派だったので案内した。
文字塔の中に青面金剛の石仏塔が入り、右端に二十三夜塔が建っている。
堂々たる揃い踏み。
色鮮やかな山門は昨年長崎を訪ねた時に見た寺の門を思い出させる。
西光寺を後に鵜川を渡ってすぐの御嶽山神社へ。
その後の西本町は香積寺であの猿が掘り出された庚申塔と柏崎勝長公の碑を拝観した。
柏崎市は至る所に社寺があり、予定の行程は忙しい。香積寺を辞して近くにあるはずの柳橋道祖神社を探したが、見つからず一息付こうとファミレスで遅い昼食をとった。柳橋は諦めて次の目的地比角(ひすみ)と日吉で目指す庚申塔を探した。来た事が無い場所のため、中々上手く行かない。
すると予定になかった所で庚申塔と出合った。
青面金剛(しょうめんこんごう)が左手にしているのはショケラか。
過日浦川原東俣で見た金剛は髪を掴んでいたが、この塔では胴を握っている。
荒ぶる仏、こわもての青面金剛はしばしば「女が嫌い」と伝えられている。
ショケラ(半裸の女性?)を鷲づかみしているのは姦通への戒めなのか。
男性本位の庚申待ちで、女性だけ乱暴に扱われているのは気の毒。
そんな空気の中で、女性たちが二十三夜の月待ちを行った気持も頷ける。
この金剛は邪鬼に乗っている(踏んづけている)。
その下に不見、不言、不聞の三猿。
浦川原と同じくどことなく可愛い邪鬼、猫みたいだ。
角形の文字塔にi刻まれていた「西野入村 石工(いしく) 善八」の記銘。
善八(ぜんぱち?)さんとはどんな人だったのだろう
こちらには比角村講中と彫られている。
※講中:庚申待ちごとに決まって集まる地域の仲間。
現在柏崎比角は街中だが、塔には村とある。
村とはいえこれだけの石塔を残している。
そこにどんな時が流れていたのだろう。
同社にあった石祠(せきし)は窓?がハート型になっている。
ほかの神社でこの形が逆さになっている石祠を見た。
若い人達が見れば喜びそうだ。
この形は古来社寺に於いて猪目(いのめ)と称され、魔除けの働きを附されているらしい。
イノシシの眼のことらしいが単眼を形容したものか、双眼を捉えたのか分からない。
比角、日吉で目指す護摩堂や地蔵堂が見つからず、時間を浪費した。8号線から252号線に入り南下して安田方面へ向かった。出発してすでに6時間近く経ち夕闇が迫ってきた。
探していた安田明神は無かったが、鳥越という場所で二基の庚申塔に出合う。
暮れる道をさまよう私たちを待っていたかのよな庚申塔。
右の屋根を冠したような石塔は珍しいかも知れない。
鳥越のあと、山沿いに帰路を取ると立派な寺院に出合った。如何にも寄って行け、という風情の慶福寺だった。
階段を上ると山門前に苔むす庚申塔。これも予定に無かったので嬉しい。
立派な本堂に火頭窓が三つ、朗らかに迎えてくれた。
杉木立の上に細い月が昇っていた。
帰路を急がなければならない、鯨波へのバイパス?を走った。真っ直ぐだと思っていたが山中をかなり曲がりくねる。鵜川に出たところで、左・佐水、と記されている。暮れていたが佐水の名が良かったので左折した。
右岸(西)に見えていた米山に代わって遠くに尾神岳が見えてくる。見なれた山容の裏手を走り旅情がつのる。ひなびた旅館でもあればいいのに、と妻が言うが夢のような話である。
家に帰るとお腹が空いていて、妻は豚汁とお茶漬けを用意した。
わずか4,50キロ先なのだが、とても遠い所へ行ったような気がした。
三回に亘り、探訪したのは柏崎市の一部をほんのちょっぴり。
だが同地は随所に社寺があり、人と信仰の距離が大変近い印象を受けた。歴史が古く地域に重量感と物語を、また社寺の宗派、系統も多彩で人の寛容さを思った。
周辺に魚沼と似た空気を感じ、市街地は都会的でますます興味深い。よくスタッフさんやボランティアさんが樹下美術館を訪ねて下さるドナルド・キーンセンターは勿論、まだまだ多数あるらしい庚申塔、二十三夜塔、火頭窓、貴重な史跡などさらに訪ねてみたい。
また帰路に垣間見た整備された広大な湿地の自然にも惹かれた。
随分長々となり申し分けありません。
庚申塔その14,柏崎市は大聖院と香積寺の庚申塔。
昨秋の浦川原顕聖寺で謎めいた二十三夜塔を初めて見た。
その後の魚沼で二十三夜塔と共に建つ庚申塔にも興味が
広がった。
二十三夜塔は女性主体の二十三夜の月待ち、庚申塔は
男性主体の庚申待ちの行事を行った後、神仏への帰依と
家族、地域の安寧を祈願した供養塔だった。
信仰対象は庚申待ちでは主に青面金剛(しょうめんこんご
う)、二十三夜待ちは勢至(せいし)観音菩薩と覚えた。
庚申塔は文字だけを彫ったものと、青面金剛像を彫った
ものが見られるが、なぜか二十三夜塔はみな文字だけの
塔ばかりだった。
行事は、古くは貴族、僧侶の行いだったものが、江戸中~
後期には農漁村を中心に庶民信仰の下地に家内と生業
の安全と地域の親睦、さらに娯楽が加味されて非常に盛
んになっている。
庚申待ちが明治以後、姿を変えながら時代に即して戦後
一時期まで続けられたようだが、二十三夜待ちはそれよ
り早く姿を消していることも不思議だった。
さて美術館館長のブログとしては抹香臭ささを否めません
が、昔の人々への親しみとある種畏敬を禁じえず、宜しけ
れば折々に見聞を記してみたいと思っています。
さて本日は笠島の続き、柏崎市街の探訪を記させて頂いた。
みぞれ降る寒い午後だったので自然と急ぎ足、最初に大洲(
(おおす)の大聖院(だいしょういん)を訪ねた。
高台への上り口に安置された石仏、石塔。上っていくと墓
地があった。門碑に淡島神社と記されているが、大聖院と
いう寺院境内らしい。立体的な景観が印象に残った。
続けて同市西本町界隈へ急いだ。
以下の香積寺(こうじゃくじ)には初めて見る庚申塔があ
った。
重なり合う庚申塔。向こうが文字塔、手前に石仏塔。
石仏塔の下方に定番的な菱形手足の三猿が並んでいる。
左に二十三夜塔、向こうに庚申塔と賑やかでとても良い。
二十三夜塔は十を二つ並べて二十と読ませている。
そういえば齋藤三郎(陶齋)の色紙には二を二つ並べて四
と読ませる日付があった。昔の人のお洒落な機知は気が利
いていて楽しい。
さらに以下の塔に目を見張らされた。
下方の三猿の像が素晴らしかった。
聞かざると見ざる。
指や目までこまやかに彫られた猿は秀逸であり、果たして
市中の石工(いしく)によるものだろうか。作家の署名が
あってもおかしくない出来映えだった。
猿は庚申信仰の重要な要素で、青面金剛への救済祈願を補
強する役割があるようだ。
左に発願者閻魔町山岸儀右衞門母等の文字が見られた。
地域の篤志家による寄進だったのか。
読みは不得手だが、比較的新しい石塔なので何とか読めた。
(但し自信はありません)。
さすが明治、近代的な表現と、バランスを意識したデザイ
ンは非常に斬新で魅力的だった。
境内には本人と妻子の悲劇が謡曲「柏崎」となった柏崎
の長・柏崎勝長公を祀るお堂が設えられていた。重税に
対して救民を訴え出た勝長公の物語は哀切きわまりない。
去る日の柏崎市はもう一回分残っていますが、明日は都
合によりお休みさせて下さい。
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