花頭窓、二十三夜塔、庚申塔、社寺
京都滋賀の旅 最終日は延暦寺。
4泊5日の京都滋賀旅行は本日延暦寺を参拝して終わる。この日は延暦寺のみなのでいつもより遅く出発した。
この度はケータイにSuicaを入れてきた。初めのうちは不慣れだったが、次第にさっさと改札出来るようになった。ちなみに全部で13回の改札、4670円を電車代に使った。
一方タクシーは12000円ほど乗っている。がめつく言うと二人とも昼食を摂らない分およそ2600×4日=9200円を節約できているので、一定分タクシーの埋め合わせにはなっている。
比叡山ケーブルカー坂本駅。
京阪電駅からバスで10:30ころ到着。
昭和2年に建てられた駅舎は国の有形文化財に登録されている。
時々現れる晴れた琵琶湖を眺めながら11分で延暦寺駅に到着。
護摩祈願が行われる根本中堂は2026年まで10年がかりで大改修中。受付で二人分の祈祷を申し込む。ともに「家内安全」と「健康祈願」にした。間もなく暗い堂内で20人分ほどの護摩祈祷が始まった。
私達はやや高い所の椅子に並んで座る。不動明王を祀った祭壇の前に僧が座り読経を始める。こちらから見えないが6、7人の若い僧が堂内に居て経を唱和する。
祭壇に小さな火が灯され、僧は経を唱えながら絶え間なく印を結び法具を操る様子。大勢の僧の唱和が堂内に響き荘厳な雰囲気になってくる。前段は辺りを清め、不動明王をたたえながら呼び寄せる儀式と思われた。
読経の響きが高まると護摩の火は一段と大きく立ち上り明王が現れたらしい。
祈願を申し込んだ者の県と名、祈願内容が読み上げられていく。終盤、私達一人一人の祈祷になった。祈願を書いた護摩木が焚かれあらためて炎が立ち上った。唱和のなか何とも言えぬ有り難みがこみ上げ胸が熱くなる。終わってお札とお守りを一式もらい暗い堂から出た。妻は目を赤くして感動したと言った。
護摩供養
延暦寺ホームページから。
まさにこのように見えていました。
外でずっと梵鐘が鳴り続けている。祈祷を終えて鐘楼へ行くと次々に参拝者が撞いていた。
私達も列に並んで撞いた。
さて以下は中学二年生の秋に行った関西修学旅行における延暦寺・根本中堂の写真です。
当持は二眼レフが大流行。みな親にせがんだカメラをぶら下げて歩いた。私は父に連れられ柏崎のカメラやさんで買って貰った。
如何にも山中の寺院に見える。
周囲は狭いが正面はどうだったのだろう。
根本中堂は大きくて恐らく二眼レフには入りきらなかったのであろう、右手に回って斜めから撮っている。
比叡山を占める延暦寺は150余の堂塔があるといい世界文化遺産になっている。他にも魅力的な所があったが、護摩祈祷を受けたあと鐘を一つ撞くと晴ればれとしてしまい、他所を見ることなく下山することにした。
早いか遅いか、長いか短いか、歳月はどちらも合っている。修学旅行から70年近く経ったが、振り返ってただ一言“何とか生きて来ました、本当に有り難うございました”としか言えない。
私達の旅行は不思議と買った切符よりも早く帰ることになる。このたびも買い換えた。
どっとお腹が空いたので京都で買ったお弁当を車中で食べ、帰宅すると延暦寺のお札を並べて妻作のはりはりとお蕎麦を食べた。
はりはり。
祈祷と祈願のお札、それとお守り。
運転、作業、健康にいっそう気を付けけよう。
濃茶を練って旅行の無事に感謝。
石山寺で求めた井筒製のお菓子が美味しい。
旅行中は慌ただしい晦日にも拘わらず、2日もお付き合い頂いたAさんご夫婦には感謝に堪えません。お陰様で何倍も楽しい旅になりました。どうかお元気で、またお会い致しましょう。私達も身体に気を付けその日を楽しみに致します。
何日も長々と書き連ねて失礼致しました。今年もどうか宜しくお願い致します。
本日は終日風と共にみぞれが降り辺りは再び白くなっています。今後の二日間寒波の再来です。
2024年大晦日の 渡岸寺十一面観音、八幡掘、ラコリーナ近江八幡 日本という国は。
さて12月31日大晦日は旅行4日目となり、滋賀県・湖北地方の 長浜市高月(たかつき)を目指した。
渡岸寺は高月駅から徒歩10分ばかりの所にある。一帯の寺には優れた観音像が安置されているというが、特に渡岸寺の十一面観音は日本屈指と称され明治30年に特別国宝指定となっている。
旅行前に、ここは是非という知人の言葉もありこの日は特に早く出かけた。懐かしい米原で東海道本線を北陸本線に乗り換え7駅目が高月。 風景は山が近い京都と違ってとても平坦だった。
高月、 渡岸寺の地図。
一帯に賤ヶ岳や姉川の古戦場があり往時の戦渦は過酷だった。
目的の十一面観音は他の仏様とともに収蔵庫に収められていた。
極めて繊細緻密な国宝十一面観音。
衆生を救わんと圧倒的な聖気。
( 渡岸寺発行の絵はがきから)
奈良時代に作られた本仏像は室町時代の度重なる戦乱の際、地域の人々によって土中に埋められたという。寺は向源寺だが、今も積極的に観音を護る土地の名が冠され「渡岸寺の十一面観音」と称されている。
続いて彦根へ。是非ともお城を見たかったが大変な混雑。時間を区切って入場するようになっていて長時間待たなければならない。残念だが非常に立派なお堀を見て近江八幡へ向かった。彦根城は一大観光地化していた。
近江八幡は先ず遠い湖畔の曹洞宗長命寺へ参り、駅に戻りながら観光することにしてタクシーの客になった。
運転手さんには、いかつい外見とは裏腹にこまやかな対応をしてもらった。
寺院は湖畔から240ートルの高さにある。車は幾つも曲がりながら坂を上り駐車場に着いた。そこからは徒歩で三つの急な石段を上らなければならない。上ろうとすると運転手さんが事務所から専用の杖を2本持って来てくれた。
それを手に上り始めるなり妻は、私には無理と言い、写真を撮ってくるからと私一人が行くことになった。
170段ほど上り長命寺境内に着いた。赤く塗られた諸堂は丹精され、冬なのに杉とともに濃い緑に囲まれていた。照葉樹林文化という言葉を思い出した。
向こうに鐘楼が見える。
建物配置のリズムと
赤が印象的な境内。
当寺の建造は3,4世紀、開基は聖徳太子と言われる由緒があり、建物はじめ阿弥陀仏、勢至菩薩、釈迦三尊像、十一面観音などは重文指定されている。
鐘楼を回ると目の前に開ける琵琶湖。
そろりそろりと下り、待っていた妻にカメラのモニターを見てもらい、良かったよと伝えた。
因みに前回触れた1818年生まれの高祖父・杉田玄作じいさんが40ページにわたって綴った文久2年(1862年)の「上京日記」には近江八幡(八万)のページがあり、本日出かけた長命寺を記した図が見えた。
※この時代の上京は京都へ行くことですね。
遠くの山に長命寺、手前の集落は八万(八幡のことであろう)と記されている。小舟木という地名も見える。
やはり私達は文久時代に祖先が旅した同じ場所を移動していたようです。
身内のことで大変恐縮ですが、見聞する玄作さんは何かと立派で、恥ずかしい私は穴があったら本当に入りたい。あの世から何てヘマな奴だと腹立たしく見られていると思う。
実際どう生きれば良いのか、残りの人生を何とか頑張ったら勘弁してもらえるだろうか。
さて現実に戻り、駅へ向かう車は途中八幡掘へ。
運転手さんに撮ってもらう。
江戸の設定である鬼平犯科帳はよくここで撮影されたという。吉右衛門の犯科帳が好きだった弟に見せてやりたかった。
以下は当日最後の訪問地
“土や水、自然とともにあるお菓子づくり”という「たねや」。裏手の広大な敷地に栄養たっぷりと見受けられる用土作りの一角が見られた。
人口的な社会構造が進む反対則で「自然」「健全」「健康」のコンセプトはいっそう一般化すると予感した。
日本は世界の何処よりも平和志向が強く健康な質と可能性を有する希な国だと信じられる。
よそ見をせず、そのことに価値と自信と希望をもって大晦日の振り返りとした。
この度の京都・滋賀旅行は明日1月1日の比叡山延暦寺が最後の目的地。延暦寺では護摩炊きをしてもらう手はずになっている。
本日1月6日、実生活の仕事始め。長い正月休みだった。診療所スタッフに石山寺のおみやげと僅かなお年玉を配った。
本日の外来は平穏だったが、休み中本当に無事だったのか気がもめる。
京都、滋賀の旅 3日目の大津。
申し分けありません、本日の分は量が多く全てが終わらないうちに出てしまいました。一度公開をお休みにして記入を続け再度公開致します。
ブログ再開です。
山科に宿泊して3日目、12月30日はいよいよ初めての滋賀県見物となる。以前から石山寺、三井寺、坂本、近江八幡、彦根、湖北などには興味があった。観光すべく地図をみると着目すべき名所旧跡のあまりの多さに戸惑いをおぼえた。
限られた日数に照らし30日は石山寺→三井寺→坂本を巡る予定にして出発した。ぽっと出の田舎者がまず利用したいのはJR.線だ。当日もそうして大津まで行き、タクシー利用で石山寺へ向かった。この日初めから京阪線を使えばタクシー代をかなり節約出来ることが後で分かった。
タクシーはお金が掛かるが、特にドライバーさんが年配なら土地の人の本音が聞けるので勉強になる。この日田舎者の私達を乗せたドライバーさんはご機嫌で、真面目で大人しい滋賀県人を盛んに誇り、あちこち指さしながら琵琶湖の景観を損ねた大手デベロッパーの悪口を連ねた。
交通の要所、瀬田の唐橋や琵琶湖大橋では車を止めて撮影させてもらった。
最初の目的、東寺真言宗の石山寺はかなり遠くに感じられたが、参拝者は多く今なお大河ドラマの影響が続いているのを実感した。
石山寺東門。
この時期を旅すると花や緑が乏しい。しかしどこの社寺も正月を前に清々しく掃除され、晴れやかに飾り付けられているのが唯一良い所。簡単なようだがあの降り続いた落ち葉の片付け一つとっても、ここまでのお掃除は大変だったのではないだろうか。
参道からチラリと見える牛車が大河ドラマの雰囲気を伝えている。
石山寺の名の通り境内には荒々しい岩石が随所に顕れている。居ながらにして幽山の赴きが味わえるこの場所はかって貴族に喜ばれたのも頷ける。紫式部が源氏物語を書いた小さな部屋を開いた花頭窓から覗けるようになったいた。
ここで文筆し、万一詰まったならば寺院の何処かを歩き、夜ならjば月を眺めればまた筆が進んだことだろう。
私に石山寺と言えば多宝塔。この優美な塔を中高の歴史教科書や切手で何度も見て、いつか本物を観たいと思っていた。
あちらこちらから眺めて撮った。伸びやかに翼を広げ、待っていましたという表情だった。白い部分は高貴な鳥のようで美しい。
どうしても地図だけでは分からないのが境内の山坂。当寺はかなりきつく少々疲れて参拝を終えた。
2021年夏、心筋梗塞を起こして以来1日2食の生活。妻もそれに習ったので二人とも旅先で昼食が頭に浮かぶことは全く無い。
次の三井寺駅までの帰路は先ずバス、そして便利な京阪電車に乗った。
三井寺についたは良いが寺までの長い坂道に驚き早々と参拝を断念した。
代わって美しい琵琶湖疎水の脇を
ゆっくり歩いた。
豊かな水の流れは春を思わせた。
大津市役所。
それでも三井寺を諦めきれず
ここで降りて再び目指してみることに。
たまたま降りた市役所前の通りはさながら公園だった。植え込みは良く手入れされ、植栽された並木の樹木は生長に配慮して根部は以下のように処理されていた。
こんなに手間の掛かることをしているのはここくらいではないだろうか、さすがである。樹木も植え込みも市民も幸せであろう。
通りがかった地元の人に聞いてみたところ、まだ遠いらしい三井寺を本当に諦めた。歌舞伎にもなっているあの梵鐘くらいは眺めたかった。
まあいい、再び電車で楽しみな日吉大社の比叡山坂本駅へと向かった。到着すると昨日夕食をご一緒したA氏ご夫妻が待っていて下さった。私達を寒さに晒さぬよう先々で待っておられとてもかたじけない。
坂本駅から南側一帯は山に向かって緩やかな坂道が続き、左右に多数の社がある。当地は山王神社、日吉大社、日枝神社の総本山格の神社ということ。各摂社なども多く祀られ一大聖地と見受けられた。
延暦寺の里坊が混じり、各所に神仏習合が現実のものとしてみられる。紆余曲折や諍いはあったことだろうが、日本独自の緩やかさが今日両者を上手く共存させている。果たしてそれを宗教と言うだろうかは後にして、緩やかさもはや妥協を越えた心の習慣の如く、私達にしみ込んでいるように実感される。
いよいよ本日のハイライト、かってA氏がメールで知らせて下さった樹下神社へ来た。明らかに「樹下宮」と示され、この世に「樹下神社」は本当にあった。
随所に金をあしらった美しい樹下神社。
左右の勾欄にどんと構えた狛犬が頼もしい。
名は同じ「樹下」だが、こちらは「じゅげ」と読む。調べると驚いた事に大津~湖西一帯に十数もの「樹下神社」がある。他では先ず無い神社名を、何も知らないまま偶々私達も名乗り「樹下美術館」とした。
長い歴史を有し、晴れ晴れとして眼前に鎮座する神社と同じ名であることに何とも言えぬ有り難みと密かな誇りをおぼえた。
広大な日吉大社の参道の多くに重厚な石垣があしらわれている。当地坂本一帯は全国の城郭をはじめとした土木事業に於ける石垣造成で名を馳せた石工の集団「穴太集(あのうしゅう)」の本拠地だ。
広大な日吉神社境内と出入りする大小の通りには立派な石垣が連なっている。重厚だが白い石肌ということで、他では見られない明るさが印象的だった。
五角形の大きな石が積まれている。
不正形な周囲を小さな石がしっかり
囲み何とも楽しく仕上がっていた。
現在お城は修理程度、新たな垣の石積みも耐震の問題があり昔のように繁忙ではないようだが、海外で新たに評価され依頼があるという。
樹下美術館では地元柿崎は黒岩の石を使い駐車場や南側の土留めに石積みをした。作業を見ていたが滑車を組み立て、時には一人で器用に作業が進められていた(事故が起きないか心配だったが)。
清々しくも師走の日吉大社の神社を一回り、最後に延暦寺の本坊である滋賀院門跡を訪ねた。上掲2枚の写真はそこまでの通りの一角です。
院内には比叡山ゆかりの品々が
展示されている。
閉門ぎりぎりの滋賀院は格式高い門跡だった。しかし何故か童心に返り、そっと忍び込み、わくわくしながら観て回った印象がある。
坂本を堪能したあとA氏夫妻の車で湖西は志賀にもあるという樹下神社へと案内して頂いた。
日吉大社と異なり、ひっそりとして厳か。
目の前の琵琶湖と漁業の守り神
だったかもしれない。
このあたりまで来ると琵琶湖も奥まっていることが実感された。車を返して大津市内の逢坂にある食事処「佳山(かせん)」へ。長時間の運転をされたAさんには感謝を禁じ得ない。
さて「佳山」は小さな古民家で、雪国の者からするととても軽々した構造だ。しかし十分に使われた美しさと、オーナーの趣味の良さが現れている。
年末の難しい時期にA氏の奥様が探しに探し当てた店だった。
手作り風な机に古く簡素な椅子。それが皆ばらばらなのも「味」に感じられるのだから不思議だった。ガラス戸越しに懐かしげな坂の街道が見え、あの百人一首の蝉丸を祀った神社がすぐ裏を走る京阪線を挟んで背中側にある。意識するともなく遠い時代に包まれた。
立地といい建物造作といい、こんなに趣味が良ければ料理は美味しいに決まっている。
きれいな人が急で簡素な古い階段を音も無く上って料理を運んでくる。
マグロの赤身のひと皿から始まった。
深い藍の皿に赤身が映え濃厚な刺身だった。
以下お料理のなかから。
美しい碗に甘鯛の汁物。
鮮やかな京野菜のあしらいも嬉しい。
室内の随所に生活骨董が見られた。これは簡素ながら呼び鈴のようだ。仏具かもしれない。京都は骨董の宝箱であろう、とても羨ましい。
マダラ白子の揚げ物。
いずれの料理のツマも見事に細く、
心入れが嬉しかった。
料理はまだあったが、心根の澄んだお二人との楽しさに多分撮り忘れている。
最後は甘味とお抹茶だった。
実はこの場所は今から160年ばかり前、私の高祖父・杉田玄作が歩いた街道沿いかもしれないという話になった。車が行き交う店の前の暗い谷間のような場所を通過する長い坂道が、京都へ入る古い街道だと聞いたからだ。
1818年(文化15年)生まれの医師玄作は関西の薬問屋まで途中予約した病人を診ながら旅し、道中日記を付けている。文久2年(1862年)44才で明日訪れる予定の近江八幡を通過していることなども記されていた。
本日は大変に長くなりました。今後これ以上長いのは無いことでしょう。
蝉丸ゆかりの逢坂で食事したことから、古い先祖の足跡に近寄ってしまい、どこか村上春樹の小説のような時空を体験した食事でした。玄作の上京日記は古文書に詳しい方に読んで頂き、後日また触れたいと思いました。
最後に蝉丸の歌
これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関
当夜の会食に相応しい一首です。いずれにしてもまたここで逢いましょうと理解しました。
次回は高月渡岸寺と近江八幡です。飽きたと言わずにどうかお付き合いください。
京都、滋賀の旅 2日目の京都。
京都滋賀の旅、12月29日、2日目京都です。宿の山科近辺から勧修寺、随心院、長岡京へ飛んで粟生光明寺、戻って智積院、涉成園、京都庵an、清水寺、八坂庚申堂を回るてんこ盛りの予定、ダメなら中止も交えた予定で朝早めに出発。
初めに庭を観たかった勧修寺が年末のため閉門ということで小野小町の随心院へ。
更衣として宮仕えをした歌人小町は死後平安時代後期にはすでに美女、恋多き女として語られ始めたらしい。当院は小町が住んだ山科区小野にあることなどから小野小町ゆかりの寺院として今日に到っている。
金剛菩薩と薬師如来。
上掲は百人一首九番目、
古今集から採られた小町の
「花の色は」の歌碑。
“花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせしまに”。つまるところ春の長雨をぼんやり眺めている間にも私は老いていく、という心境を歌っている。恋多き絶世の美人ならではの嘆きかもしれない。
因みに、我が身世にふる:時の経過とともに、花が冒頭にあるため春の雨降りが想定され、最後にこの寺の創始者が「雨降り僧正」と呼ばれていたことへも掛かるのではないかと想像しました。巧みな歌作りは小町の凄さを伝えているようです。
上品でどこかなまめかしい随心院を後にJR東海道線の電車で長岡京へ。ここでは時代劇の斬り合いシーンで好んでロケされている西山浄土宗総本山「粟生(あわお)光明寺」の石段を観ることが目的。
粟生光明寺の幅広い石段。
時代劇俳優が颯爽と
殺陣を行うシーンジが浮かぶ。
東京の寺院であるはずの階段ロケがここでよく行われている。それほど広く、段差の低い石段と静かな寺院の雰囲気は時代劇撮影にぴったりだったようです。
長岡京はタケノコでも有名らしい。全国的に名を知られた筍料理の店があるというのでいつか連休などに来てみたい。
JR東海道本線で京都駅へ。駅の最も奥まったところに関空行き特急「はるか」専用ホームがあった。老いも若きも行き交う人の殆どが外国人なので異国にいる感じ。
近くの庵anで行われる舞妓さんによる抹茶のお点前体験に参加するため烏丸通りへ。
コンパクトデジカメの充電ケーブルを忘れて来ているのでヨドバシカメラで買った。上掲写真の椅子に座り、飲み物を求め一服、烏丸通りを上る。
午後1時に始まる舞妓さんとお抹茶体験場所に向かう。東本願寺の近くだったので時間通り着いたが、あいにく舞妓さんの都合がつかないため中止になったと知らされた。とても残念だったがお坊さんも教師も舞妓さんも忙しい年の瀬は仕方がないのか。
早々に勧修寺と舞妓体験の予定が飛んで、午後は東福寺又は智積院→清水寺→八坂庚申堂→夕食のコースになった。出来るだけ清水寺に近ずくため智積(ちしゃく)院へ。
五色幕の色は釈迦の身体を表し、緑(青)は髪、黄は体、赤は血液、白は歯、紫(黒)は袈裟を表しているという。
私はお抹茶。
良く点てられていた。
京都に来るたび清水寺に寄った。しかし智積院で乗ったタクシー運転士さんは「今日は清水寺には近づけない」と言い、行ける所までにましょうとなった。
やっと七味屋本舗の角まで来たが、その向こうは人であふれかえっていた。
本日三つめの訪問中止で懐かしの八坂庚申堂へ三年坂を下る。
天台宗金剛寺境内の庚申堂は入り口に「日本最初 庚申尊」と彫られた碑がある。当寺の本尊が庚申信仰の本尊・青面金剛菩薩であるため、古来その寺として親しまれている。
お堂は2019年2月、庚申信仰への興味から寄った所で、以後来5年が経った。お堂は「光る君へ」で新たに取り上げられ、映えをねらって訪ねる若者の様子も変わり無かった。ただ私は年を取り少しく変わり、お目出度くなっている。
きれいなくくり猿に願い事を書いて写真のように奉納する。「生きがいを見つけられますように」「頭が良くなりますように」「成長できますように」などと書かれている。我が幸せよりも真剣に書いた若者たちの幸せを祈った。
さて、てんこ盛りの予定のうち三つを達成できなかった京都2日目。お陰で夕食の6時まで余裕が生まれた。八坂神社前から祇園花見小路へ出て時間まで一帯を散策した。
花見小路は混雑していたが裏の通りは静かだった。何時か来てみたい食べ物屋さんをなどを見つけては夢を膨らませた。
次第に食事の時間が近づく。
四条通りを渡り向こうの花見小路へ。
入ってすぐの中華「青冥(ちんみん)」が食事処。
小ぶりなビルの5F にある。
食事は中華で相客は大津に住んでいらっしゃる大手企業の要人。かって上越市に赴任された4年間、ご夫婦と親しくお付き合いさせて頂いた。去られた後も樹下美術館を訪ねて頂いたりメールを交換したり親交が続いた。
先様お二人は奥ゆかしくも楽しい常識人。最初のピータンを撮ったものの再会に夢中になり後の料理をすっかり撮り忘れた。このたびは忙しい時節を顧みず、私の方からお誘いして明日また二度目の会食をすることになっている。
食後地下鉄駅まで皆で歩き宿の山科へとご一緒させて頂いた。
すっかり更けた夜の祇園四条。
地下鉄入り口は明日に通じる明るさだった。
長くなりました。
去る22日(木)および23日(金)の梅見物 その3 鎌倉の梅。
冷たい雨がそぼ降る23日午後、道中タクシーを依頼し、降りては傘をさして鎌倉の梅巡りをした。若い運転手さんは親切で、回りたい社寺のメモを渡すと順序よく走ってくれた。
初めの寺は宝戒寺。参道入り口に数基の庚申塔が保存良く並び、献花もされていて感激した。
お菓子屋さんはありますかと運転手さんに訊くとすぐ連れて行ってくれた。
古い店内一杯に餅や飴のお菓子が並ぶ。品の新鮮さへの配慮が良く伝わった。
続いて明月院へ。
道順は北へと移動し北鎌倉で終わった。小さな北鎌倉駅から横須賀線に乗り東京駅へ。
写真をご覧になってお分かりだと思うが各地の梅は盛りを終えていた。熱海、鎌倉はさらに東京よりも早いようで、いわば残花巡りの様相だったが、冷たい雨の両日よく回ったと思う。
有名観光地といえども通年にわたって人を集めるのは難しかろう。それでもこのたびの各地は社寺を中心に四季の花に力を注ぎ、冬は梅として努力を続けているのは立派なことだと思った。
その梅も終わりとなればクリスマスローズや馬酔木、椿、ミツマタ、マンサクなどを混ぜて何とか応えようとするのは有り難いことだった。
花は仏の化身、特に古都鎌倉の吹き出すような梅の盛りを想像し是非再訪したいと思った。
扁額「第一義」は母校高田高等学校にも。
昨日ここで、身体など不自由な方や高齢者が鉄道を利用する際、それを手助けをする幾つかのシステムを書かせてもらいました。
ところで先般の旅行記の1月11日当欄で黄檗宗・万福寺を訪れた際に見た総門の扁額「第一義」について記載しました。
総門の扁額「第一義」。
その時「第一義」は小生の地元、上杉謙信公ゆかりの寺院春日山林泉寺の山門にも掲げられていること、さらに出身校髙田高等学校の体育館にもあったような気がすると、記しました。
その折、母校の「第一義」はうろ覚えで自信がないのでどなたか教えて欲しい、と書き、いわば宿題になりました。
すると去る1月中ば、所用でお会いした特別養護老人ホーム「しおさいの里」施設長竹田氏がブログを読んでおられ、「第一義」は確かに体育館の正面右手の壁にありました」と仰るではありませんか。
同氏は私より3世代は若く、同じ髙田高等学校の卒業生です。さっそく明解にお答え頂いて有り難うございました。
実は現在林泉寺山門に掲げられる「第一義」は元の扁額から複製されたものだそうです。こうなれば是非謙信公が揮毫したとされる原物を見たいところです。
近いうちに林泉寺を訪ね、収蔵されているという宝物館で謙信公筆のものに出会えればと期待しています。
正月の旅の宿題はまだ続くようです。
ちなみに「第一義」は禅の教本「碧巌録(へきがんろく)」にある重要な公案ということで、これまた宿題でしょうか。
正月旅行の最終日、聖僧良寛が修行した備中玉島円通寺。
備中(岡山県)倉敷市の西南端である玉島は北前船で大いに栄えた商都です。瀬戸内海を望む玉島の高地に正月旅行の最終地、曹洞宗円通寺がありました。
江戸後期、我が越後の人良寛(以後良寛さん)は、生地出雲崎で巡り会った円通寺の高僧国仙和尚に付いてはるばる玉島まで旅し和尚のもとに入門、22才から11年間にわたり禅の修行をしました。
国民宿舎「良寛荘」
団体さんで賑わっていました。
タクシーで坂道を上り良寛荘に到着すると、地域振興と良寛顕彰に熱心に取り組まれる葛間さんと早川さんのお二人に迎えて頂きました。
良寛荘を出て見た瀬戸内海。良寛さんの当時、海岸線はもっと手前まで接近していたそうで、埋め立ても無く眺めはさらに絶景だったに違いありません。
円通寺境内には老いて樹勢が衰えつつある「良寛椿」と呼ばれる白椿の古木があります。良寛さんの修行時代からあるといわれ、現在それを挿し木などで増やし、上掲の場所で「良寛椿の杜」を目指して植樹されていました。
円通寺の山号は補陀洛山(ふだらくさん:観音様の降りてこられる場所の意味)です。寺院があるのは白華山という山の中腹で参道は少々急な山道でした。
国仙和尚に従って参道を上る図。
右下に師と良寛が描かれています。
参道途中、納骨堂である覚樹庵の前に太い幹の良寛椿。白椿だそうですが、これだけ太く大きな木が椿とは。しばらく前から花が途絶え、関係者の努力で僅かながら開花をみるようになったそうです。現在新たに採った苗は前述の「良寛椿の杜」で熱心な植樹に用いられています。
円通寺の竹林のことは、禅のシンボルの一つとして良寛研究家の小島正芳先生からかねて伺っていました。
創建当時のままの端整が維持されている壮大な茅葺きの本堂は倉敷市の指定重要文化財。良寛堂への角に良寛像が安置されていました。
良寛さんが杖と共に
国仙和尚から印可の偈を
附与された高方丈南間。
1790年(寛政2年)良寛さん33才の時、この部屋で修行の終了を宣言する印可の偈を国仙和尚から与えられました。聖僧良寛の誕生です。偈とともに頂いた杖を頼りに世俗に飛び込む新たな修行が始まりました。
仁保哲明ご住職から
お話を聞いた一室。
ご住職には貴重なお時間を割いて頂きました。静かな自然体が滲むお人柄で、いっときでしたが修行をさせて頂いた気持ちがしました。
若き良寛像。
新潟県内で見る彫像より
ずっと若く溌剌としている。
岩のよろしさも良寛さまの思いで
昭和11年、円通寺を訪ねた山頭火。石庭で修行に勤しむ良寛さんを偲んで詠んでいます。
さてもっともっとと思いましたが時間が迫り泣く泣く円通寺を後にすることになりました。帰路は「新倉敷駅」まで早川さんが車を出して下さいました。途中の市内で越後長岡藩の名家老河井継之助の若き日の足跡を案内してもらいました。
河井継之助逗留地の碑。
倉敷ロータリークラブなど
によって建立されている。
河井継之助は1859年(安政6年)、当時借金に苦しみ続けた備中松山藩を劇的に再興させた漢学者山田方谷の門下として学ぶべく隣接する港町玉島へ上陸しています。児島屋はその時に逗留した船宿ということでした。
さて正月旅行の最終地、備中玉島円通寺の見聞を終了する時間となりました。私の準備不足で新倉敷-玉島の交通を、倉敷-玉島にしたため滞在時間を短縮せざるを得なくなりました。
にも拘わらず、早川、葛間両氏と仁保ご住職には大変手厚くして頂き感謝に堪えません。また旅行に先立ち、円通寺でお世話になったお三人に連絡をして頂いた全国良寛会会長、良寛研究家・小島正芳先生に深く御礼申し上げます。
話変わりますが40年前、自分には少々悩み多き時代がありました。なんとか越えなければと色々本を読んだり考えたりしましたが、畏れ多くも良寛さんには幻のように手を差し伸べてもらった気がしています。
当時、もしもこの目で見ることが出来るなら、次の三人を見たいと思っていました。
一人は良寛さんの少し前の時代、1818年生まれの我が高祖父玄作で、火鉢に手を焙りながら来客と話すのをすぐそばで。もう一人はイエス・キリストで、使徒を連れ荒野を歩くのを遠くから。最後は夕暮れの山裾の村を一人帰る良寛さんを遠くから、でした。
このたび円通寺から見た瀬戸内の冬陽は春のように明るく海は軽やかな青色でした。どんより重く暗い日本海との違いに師はどんなに驚いた事でしょう。険しい石庭もありました。ここで思いっきり修行しよう。若き良寛さんは勇んで意を決したにちがいありません。
悟り、強靱な足腰、師の教えと杖。印可の偈(いんかのげ)を授かった後、これらをを拠り所に、いずれ帰りたい越後を胸に仕舞い長い旅路に就いた良寛さんの円通寺。深い感慨をもって正月旅行の最終地玉島を後にしました。
後日早川さんから届いた良寛椿の苗。とても楽しみです。失敗する人もいるようですが、是非ともちゃんと育てたい。
御地倉敷市はじめ玉島および円通寺は諸行事、記念碑および像の建造、椿の杜づくりなど良寛さん顕彰の熱心さがとても良く伝わりました。古来豊かな商都であり茶の湯が盛んで戦後早くから「良寛茶会」も催されているとも聞きました。
晴れの国と雪国の妙、北前船の寄港地同士。良寛さんが繋いだ岡山県と新潟県は良縁にちがいありません。
さて以上、正月の拙い旅行記は長くなりました。一方で年明け早々の大地震。大災害は日が経つに連れ新たな問題が深刻化しています。
政治は各自懐にしたパーティー券代をまとめ、一刻も早く被災地へ届けたらどうでしょう。政治改革とはこのようなことから始まるのではないでしょうか。
黄檗山万福寺を訪ねた、その2。
午前早くから訪ねた平等院のあと近くのお茶の店「神林」でお抹茶を頂き、同じ宇治の万福寺までタクシーに乗った。
同寺は主要建物23棟と諸回廊を有する中国の明朝様式を取り入れた黄檗宗の大規模な禅宗寺院。
寺は江戸前期開山の隠元禅師から長く中国渡来の僧が管長を務め、徳川幕府からも大切にされた。
12月恒例のランタン祭で使われた飾りが参道の随所にあった。
最初の像、天王殿の「布袋尊像」
でびっくり。
中国では弥勒菩薩の化身とされ、
実在した高僧のようだ。
明朝式を伝えるなかで特に驚かされるのは大雄宝殿の十八阿羅漢(羅漢)だった。和風の釈迦三尊像を囲むように安置され、釈迦の国インド風というのであろうか、異国の容姿、風貌が目を引いた。
賓頭廬(びんずる)尊者。参拝者が自らの不自由な部分を触ると患部が良くなると伝えられる。
“山門を出れば日本ぞ茶摘うた” 境内にあった句碑。
前後しますが、宇治一帯は古来茶の一大生産地。上記の句は江戸中期、松尾芭蕉を慕い全国行脚をした尼僧の俳人・田上菊舎のもの。私達は平等院のあと門前通りでお茶の名店「上林(かんばやし)」で抹茶を服しました。
通路で見た茶箱と茶壺。
普段同店のお抹茶をよく飲んでいる。
とてもしっかり点てられていた。
万福寺はお煎茶で有名。
さて万福寺を辞しJR「黄檗駅」から電車で京都に戻った。
京都から12:43のこだまで岡山へ。岡山で山陽本線に乗り換え、14:25倉敷着の行程を無事に終え倉敷国際ホテルに到着した。
かなり前から私達の旅行はまず昼食を食べない。そもそも昼食を摂ると眠くなったり疲れが出る、普段そうしていることや、食事場所を探す、待つ、食べるで費やす時間が勿体ないことがある。浮いたお金はタクシー代にもなり、お腹が空くので美味しく夕食を食べれるということもある。
その日、夕刻まで大原美術館を観る、夕暮れの美観地区を散策、近くの店で食事の予定だった。次回その様子を書かせていただければと思っています。
平等院のあと黄檗山万福寺を訪ねた、その1。
だれに訊いても勉強の虫としか返ってこなかった父は、昭和11年に大学を卒業すると学問を捨て、渡満し満鉄病院に勤務医として就職した。祖父が知人友人の事業協力などの結果莫大な借金を負い、債務返済のため現金を求めて泣く泣く大学での研鑽を諦め望みもしなかった満州行きを選んだ。
高祖父、曾祖父とも医師で文化の人だったらく、家には貴重な書物や書画が沢山あったという。しかしそれらは借金返済の金作りに東京から呼んだ商人がみな整理し、家にはほとんど何も残っていないと、父母から何度も聞いた。
くだんの商人は客用の布団まで持って行ったようだが、田舎にこんなに良い書画や書物があるとは、と驚いていたとも伝わっている。そして当の祖父母もまた返済を埋めるべく現金を求め、公が募集した北海道の寒村の診療所へと転地している(二人には借金のほかに11人も子供がいて父は長男でした)。
満鉄病院で勤務医となった父は佐賀県出身で看護師の母と知り合い結婚。後年母は父について「病院に賢そうだが年を食い貧しい風采の独身医師がいた。なぜ結婚しないのかと聞くと、“大きな借金を背負っているから”と答えた」と述べている。
そんな訳で父には、江戸末期、高野長英を匿った嫌疑で取り調べを受けた蘭学医の高祖父・玄作や叔父に教育音楽の母・小山作之助がいる一方、人の良い医師である祖父(祖母の見栄や贅沢もあったようだが)によって苦しい前半生を余儀なくされたという因縁があった。
幸い借金は10年掛かって戦後間もなく完済された。
返済ですっからかんになった我が家だが、かろうじて残ったものに臨済宗黄檗派(おうばくは)・万福寺二代管長・木庵性瑫(もくあんしょうとう、1611年- 1684年)の掛け軸と良寛筆と伝えられた書があった。
良寛と伝わるものは品が良く終生父の寝室に掛けられていた。落款は無いが父の死後良寛のお墨付きが付いた。無落款のため商いを逃れたと思われる。
逆に木庵と無落款ながら良寛が残ったということは、ほかに如何に良いものがあったか、ということになり、一方で布団が選ばれたのは当時を被った不景気の深刻さを覗わせる。
父は子供の私でも分かるほど祖父を恨み、私が知っている限り墓や仏壇を参るのを見たことが無かった。
ただ一度変わった事といえば、普段の寡黙に反し大勢の親族が集まった祖母の通夜で、丸めた座布団を背負い東海林太郎の「赤城の子守歌」を歌いながら踊ったことだ。
みな転げるほど笑い私も笑ったが、なぜ父が踊ったのか、なぜ皆があれほど笑ったのか小学5年の私にはよく分からなかった。
昭和19年に祖父が亡くなっていて、祖母は昭和27年だった。振り返れば思いも寄らない父の歌踊は祖母の死をもって借金の呪縛から開放された酔いだったとしか思われない。
それから70年近く過ぎたある日、何気なく仏壇を整理していると祖母の小さな写真立ての裏に隠すようにして祖父の写真が重ねられているのを見つけた。
「どんなに恨もうと親は親だった」。めまいのようなものを覚え異様に胸が熱くなった。
このたびの西国旅行に黄檗山万福寺と玉島円通寺が行程に入った。何とは無しにだったが、いずれも家に残った書に縁があることに気がつき、不思議なことだと思っている。
木庵性瑫筆「山雲石寺鐘」
黄檗の三筆と呼ばれた木庵。淀みなくゆったりしていてとても気に入っています。万福寺は毎年全国煎茶道大会が開催されるほど煎茶で有名です。宇治の寺でもありますので余計でしょうか。
万福寺総門。
軒下に「第一義」の扁額。
第一義といえば何をもっても我が上杉謙信公終生の信条。謙信公ゆかりの春日山林泉寺山門にその扁額が掲げられています。
林泉寺山門の「第一義」
門に同じ扁額を掲げる林泉寺と万福寺の因縁は分かりません。偶然でしょうか。ちなみに万福寺の開祖・隠元禅師は中国からの招かれた渡来僧で、木庵も同じく同国の渡来僧.、寺院は将軍家から重んじられました。
うろ覚えそのもので全く自信がありませんが、母校高田高等学校の講堂(体育館?)の舞台右壁に「第一義」の額があり、入学式に小和田校長がそれについて力説をした記憶がかすかにあるのです。
どなたか覚えている方いらっしゃれば教えて下さい。
さて万福寺を書き始めましたら書き出しで長くなってしまいました。申し訳ありません、万福寺は総門でお終いにし続きは次回にさせてください。
長きあこがれ宇治平等院で。
正月は8日となり本日月曜は成人の日。
かっての自分のその日は東京で浪人中で、受験を控え式の意識は皆無だったのではなかったか。
その60年前に夢想だにしなかった今年正月の短い西国旅行。本日は去る1月2日、幼少からの憧れ宇治平等院行きを記したい。
小学時代の高学年、切手を集め始めていた。安くても手に入る記念切手に混じって国立公園などの名所切手をあこがれとともに眺めていた。
中でも特に気に入っていたのが錦帯橋と宇治平等院だった。錦帯橋は2012年母の遺影をリュックに佐賀県の菩提寺を訪ねた帰路岩国に寄って念願を叶えた。
錦帯橋
昭和28年発行の観光地百選切手
そしてこのたび1月2日午前早く、80過ぎて初めて平等院を訪ねた。
平等院鳳凰堂
昭和25年発行国宝シリーズ切手
いずれの切手も今は手許にありません。
初めてこの目で見る平等院鳳凰堂は
想像を遙かに超えて素晴らしかった。
浄土か来迎か
「平等院雲中供養菩薩」の図録表紙
地下の鳳翔館の壁や美しいガラスケースで観た雲中供養菩薩像群には有り難くて言葉も無かった。展示されて20躯を越える菩薩はそれぞれ細い輪光を負い法衣をなびかせ、麗しい雲に乗って合掌し、楽器を奏で、法物を手にするなどして天から軽やかに降りてくる風だった。
鳳凰堂と庭園は浄土を表すようだが、雲中供養菩薩は一つに浄土の表象でああろうが、死を迎えようとする者を来迎し供養するために降りてくる大事な役割を負っているのではないかと写った。
これまで800例前後の看とりを経験したが、それぞれの場面は全く様々で、その都度“ああ今この人は自らの苦楽を終えられ冥界に入られた”と胸に刻み合掌してきた。多くの人でそうだったが、父、母の時は加えて人生のあまりの「はかなさ」に涙が止まらなかった。
しかし平等院で多くの慈悲に満ちた菩薩の来迎する様を見て少々考えが変わった。
老いや病でお終いの喘ぎの際に、どこからともなく漂い集まる菩薩たち。私達にはそれが見えないし聞こえない。だが見えも聞こえもしないゆえ余計に尊いのだろう。長く苦しんだ人も突然の人もそれこそ「平等に」そっと慈しみを受け供養される。
しかし私にはその後死者はどこへ導かれるのかはまったく分からない。
もう50年近く前のことある先人に尋ねた、私の祖先だけでも何千何万人もいて挨拶回りでけで明け暮れするかもしれない。まして全人口ときたら何億何兆の不死の先祖であの世はぎゅうぎゅうだろう、たとえ極楽でも、と。
日頃、死はただ一点、生命の終息現象であり、あの世は多分無く、この世で全てが完結していると思っている。そしてこの度の平等院の雲中供養菩薩をみて、死の床で最後に苦しむ者に対して、様々に麗しい菩薩たちがやってきて、経を唱え音楽を奏で苦楽の生涯を祝福(供養)し救済するイメージをこの胸に仕舞った。
臨終で死後数十分するとおよそ皆それまで見たことが無いような穏やかな顔になる。もしかしたらその間に諸菩薩が心込めて慰め供養してくれからではないのか。
その後を問うのは自由だが、少なくとも何千何億という人々の精一杯の苦楽や修行の末に生まれたであろう雲中供養菩薩の姿と振る舞いは人生の終末にまつわる形而上の曖昧さに対する一つの正解かもしれない。
※生前、諸菩薩に癒やされ励まされるのは勿論ですし、より安寧な死後世界があるとする考えも真っ当だろうと思っています。
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