明け暮れ 我が家 お出かけ

7月、圧倒的水田そして母へ

2008年7月2日(水曜日)

 とても早いのですが7月になりました。ここ頸城(くびき)平野の稲々は溌剌と成長し水田は圧倒的な景観となりました。以下の写真はよく往診で訪れる上越市大潟区、米倉(よねぐら)付近からの眺めです。このような田園風景は樹下美術館のデッキでも眺められます。
先日、ネットで当美術館を見つけられた女性がわざわざ東京から訪ねて来られました。「もっと東京の人に知らせてください」と仰り、建物、展示、さらに庭や水田風景を激賞して下さったそうです。 心から有り難く、地に足付けて頑張りたいと思いました。それにしましてもますます大切な農。よく手入れされた水田は地方の貴重な品格にもなっているのではないでしょうか。

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水田と立葵(タチアオイ)、お似合いです。

 


米山と尾神岳

 頸城平野の北東を守る二山。右奥に尾神岳、左は霊峰米山(よねやま)です。昔、尾神岳には子供たちを連れてよく遊びに行きました。いっぽう米山は「米山さんから雲が出た、今に夕立が来るやら、、、」の三階節(さんがいぶし)で知られています。
三階節は昭和10年の小唄勝太郎の歌によって全国的に流行したそうです。ところで佐賀県出身の母は九大の看護学科で二十歳のころに三階節を歌って踊ったことがあると言います。学校を出た母は満州で満鉄病院医師だった父と結婚しますが、敗戦後、夫以外に知る人も無い新潟の父の実家へと入りました。待ち受けていた因習と辛苦のなか「ああ、あれが米山、、、」と、歌で覚えていた山を見て慰められたそうです。
圧倒的な水田と山の力に揺さぶられ、なぜか思いはふらりと母へ傾きました。開館一周年の記念に、母への感謝を込めて二十歳と今日93才の写真を掲げることにしました。


二十歳の頃の母


93才、新聞3紙を読む母

 

 

 

夏布団

2008年6月20日(金曜日)

夏布団本一冊の枕元     sousi

糸魚川うるわし

2008年5月30日(金曜日)

 さる5月25日(日)、隣接の糸魚川市でお茶会がありました。知人の奥様の初お手前です。実は私たち夫婦には合わせると要介護度が8になる三人の親がいます(4人で16!もの知人がいます)が、糸魚川への50キロはokでしょう。で、初お手前の応援団で駆けつけました。まず訪れた会場は雨上がりの翡翠(ひすい)園。多くの名石があしらわれた壮大なお庭付きの茶室でした。「葉々起清風」のお軸に、黒船の花器で笹百合とヤマボウシに迎えられました。さわやかな長久窯、和やかな席主様、初のお手前は息整え真心込められて満点。美味しいお茶とお菓子に大安楽でした。
次いで近くの玉翠(ぎょくすい)園へ移って立礼(りゅうれい)席に座りました。こちらは同業の大先輩ご夫妻のお席でした。風炉(ふろ)の灰景色がまた素晴らしく、二碗をはじめ諸器まことに麗しかったです。お二人から家族のようにしていただいて幸せでした。
その後、隣接の谷村美術館へ。久しぶりにお会いした曼珠沙華、天彦、聖観音、、、。仰ぎ見る仏は、年とともに有り難みが増して名残は尽きませんでした。帰宅しますと親も無事。これまた大安楽でしょう。

 

翡翠園の門

 

翡翠園内

 

谷村美術館の回廊

 

谷村美術館

茶も石もみどり麗し糸魚川 仏もおわして名残尽きなし

仙台で高野長英の絵に出会う

2008年4月14日(月曜日)

 先週末、身内の法要で仙台に出かけました。13日午後に仙台市博物館を訪ね、伊達家の文書・武具、支倉常長などの資料を見ました。そのおり館内の片隅で仙台支藩水沢出身の高野長英の絵を見つけました。渡辺崋山らとの「蛮社の獄」(天保10年・1839年)で入牢4年余。さらに脱獄後6年余りの苛烈な逃避行の開国論者・医師長英。事件以前の作でしょうか、なんとも愛くるしい目をした猫の絵でした。館員のお許しを得て撮影させて頂きました。
 ところで長英は脱獄した最初の年に群馬県から清水峠を越えて新潟県に入ります。塩沢、松代などを経由、夏に直江津今町(現上越市)へ逃れました。そこで高名な和算家小林百哺の助けを借りて大肝煎(おおきもいり)・福永七兵衛の家にかくまわれます。前後して幕府の飛脚が到来し長英の手配書と人相書が藩下に配布されました。一帯はにわかに緊迫します。たたみかけるように早飛脚が再来し、携えた書面には「高田在杉田玄作と申す医生有之、兼而お尋ねの高野長英と別懇の由如何、厳重取調可申事」とありました。
 長英の立ち回り先として名ざしされた玄作とは文政元年(1818年)生まれの筆者の曾々祖父です。玄作は長崎と江戸で蘭学を学び当地・高田藩主榊原政敬(まさたか)より証を与えられた医師でした。長英と面識があった可能性があり、長英が訳したオランダの産科書「産科提要」を筆写し、所有していたなどから強い嫌疑がかかったと考えられます。数日間入牢のうえ厳しい取り調べを経て恩師の援護もあり玄作は釈放されました。一方長英はその後密かに舟で出雲崎へと逃れます。以後、捕らえられて亡くなるまでの6年間、さらに厳しい逃避行が続くことになります。
 ところで長英が養子として入った高野家は上越市・春日山城から米沢に移封された上杉家に仕えた武将の家柄であり、川中島の戦いでは謙信のもとで武勲を立てた名家ということです。またこのたび博物館の庭でかつて仙台に学んだ魯迅の胸像を見ました。魯迅は上越市出身の第3回芥川賞作家・小田獄夫の重要な研究対象です。ヒガンザクラ満開の仙台で長英、謙信、魯迅、小田、それに不肖筆者の祖先などわが上越市に縁ある先人たちと眼と心の出会いができて、胸いっぱいでした。
 ちなみに玄作の二女トヨは「夏は来ぬ」の作曲者小山作之助の母です。上越市大潟区にある作之助の墓は立派ですが、玄作のは人がつまずくほど小さなものです。
(参照:「長英逃亡」吉村昭著 毎日新聞社1997年7月5日発行、「大潟町史」大潟町 昭和63年5月30日発行)

 

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仙台のヒガンザクラ

 

高野長英の絵

 

魯迅胸像

 

長英逃亡

太田先生、有り難うございました

2008年3月19日(水曜日)

 去る3月15日午後、上越教育大学で今期をもって退官される太田將勝教授(東洋芸術史,美術教育学,美術館教育)の盛大な最終講義を聴講しました。
 講義では、ご自分の道程とその過程で影響を受けた主要な美術評論家について著書を示して概説されました。小生には難解な部分もありましたが最後に「争わないこと、比べないこと」と述べられ、美しい孔雀明王のスライドで終了されました。「自らと他者との幸福に貢献する美術(造形)」への深い理解と謙遜の徳を備えられた先生らしい良い講義だったと思います。夕刻の賑やかなお別れ会も多彩な顔ぶれで始まり、席が先生のお隣りで大変光栄でした。
 美術の詳細もさることながら先生にはそのたたずまいを通して人のありようを一貫して教えられました。貴重な教養人を失うことはとても残念ですが、多くの人が受けた薫陶を少しでも当地に生かすことで希望に繋げるほかありません。この先、穏やかな東風の日に仙台から発せられる先生のかすかな香を嗅ぎ分けてみたいと思っています。恥ずかしがり屋さんの先生、本当に有り難うございました。

 

 ○太田將勝:東京都銀座生まれ。東北大学大学院卒業。和歌山県立近代美術館主事学芸員、富山県立近代美術館主事学芸員、岡山大学助教授、上越教育大学教授などを歴任。

 

最終講義

 

孔雀明王像(東京国立博物館)

正月三ヶ日目

2008年1月4日(金曜日)

美術館は現在冬季休館ですが、ただ今周囲の積雪は10cmほどの小雪です。時折陽が差した1月3日昼、あたりを歩きました

 

踊り子草の道

春の開花が待たれます。

 

カフェの雪止め

ここに雪が集まりますので木枠を設えてます。

 

クリスマスローズ

隣接の庭で花たちの声が聞こえそうです。

 

かすり模様

稲刈り後の雪の田。粋な紋様に見えました。

秋好日 歌舞伎を観に行く

2007年11月11日(日曜日)

私たちから見れば東京もわが周辺と言えなくもないということで、11月2、3日の上京を掲載しました。

 

荒川に遊ぶ水鳥

直江津の川に遊ぶ水鳥。橋のたもと、水鳥、そしてこれから向かう東京。さい先よく業平(なりひら)の風景が。

 

直江津駅構内の駅弁売り

はっぴに鳥打帽でレトロな風情。

 

歌舞伎座の提灯

夜、4演目の歌舞伎を見た。出そろった15人ほどの役者たちが無言でゆっくり舞台を動き回る不思議な演目「宮島のだんまり」は印象的だった。全体を通して菊之介は美しく、仁左衛門はきりりとして良かった。

 

クレープシュゼットの火

同夜の食事の最後は初めてのクレープシュゼットだった。 暗闇に炎が立ち上がって出来上がり。

 

銀座WAKOのウインドウ

翌日の銀座WAKOのウインドウは魅力的だった。午後は東京都美術館で印象派からピカソ、レジェまでみた。私が子供の頃、家で初めて飼った犬の名がレジェだった。父が付けた名だったが、胴長な犬なのでチュービズムと言われたレジェに符合していたのか、と急に思いついた。

荒天の日 -根知の色-

2007年10月21日(日曜日)

10月20日、直江津駅前のフリーマーケットへ出かけました。
季節風吹きすさぶ通りで、暖かみのある包装の寿司を買いました。
糸魚川市根知谷の笹寿司とありました。家で開けてみますと当ページ9月3日掲載「根知山寺の延年」の鮮やかな装束色を思い出しました。
ところで現NHK大河ドラマ「風林火山」で信玄に追われる村上義清は謙信を頼って越後に逃れます。謙信の厚い信頼のもと義清が任されたのは根知城でした。
根知はその後も様々な時代の波に洗われるようですが、美しい延年や素朴な寿司の色に、ふと人々の変わらぬ願いのようなものを感じました。雲たれ込める荒天の日に再会した素朴なハレの色でした。

 

行水の花 -姫檜扇水仙-

2007年7月23日(月曜日)

梅雨から盛夏へ庭隅、路傍によく見られる花です。佐賀県出身で92才の母は、「子供のころ、行水をするといつもそばで咲いていた」と言います。
この花に似つかわしい話だと気に入っています。姫檜扇水仙(ひめひおうぎずいせん)と言うそうですが、長い名なので私の中では「行水の花」です。

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