明け暮れ 我が家 お出かけ

WBC、ギリシャ彫刻といわないまでも

2009年3月25日(水曜日)

 16カ国が参加した野球で日本が世界の頂点に立った。行き詰まってしまった世界にあって二つの示唆を感じた。一つは偉業が民間人によってなされたこと。社会に元気を与えるものに政治や制度と別の、もう一つの軸があることを改めて知らされる。個人の軸は頼もしい。社会のお互いからプロたち、そしてノーベル賞などとも同じ。

 

 もう一つ、選手達の体型が格好よかった。そのうえ悲喜のなかに邪気はなく、一貫して素直な表情が印象的だった。やや幼さな気ともいえるがそれが良かった。

 

 「逝きし世の面影」という本を以前読んだ。江戸時代に日本を訪れた欧米人たちの旅行記を丹念にまとめた本だ。600ページもあったが面白くて読みやすかった。そこには手入れされた美しい自然。気の利いた小道具。なにかと人なつこく風呂好きな人達。こまやかで芯のある女性たち。そして侍の品格などとともに、働く男性の体つきが賞賛されていた。小柄だが、引き締まってギリシャ彫刻のように魅力的だった、という記述まであった。

 

 過剰な膨張に続く今日の収縮は自然律であろう。問題の原点はエネルギーと生活の相互関係にちがいない。無駄のない選手たちの体型と素直な表情は、かっての先人たちに通じるように思われる。もしかしてそれは明日の世界のモデルかもしれない。行き詰まったら戻ってみる。唐突だが、内視鏡でもそうしながら慎重に進めて行く。

 

※野球のダイジェストをいくつか見ていましたら、日をまたいでしまいました。

桑取(くわどり)

2009年3月22日(日曜日)

  春弥生、語感は優しいが気象は少々荒っぽい。初夏の陽気が翌日には北風に,それが南に戻ったと思えば今日は春雨から強風。その夕刻の小雨の中で、30株ほどのチューリップの芽と5株のツボザンゴを植えた。何組かのお客様にクリスマスローズの庭を誉めて頂いて嬉しかった。

 

 そして今夜の天地人。緊迫した状況のわりに何故か全体が軽い。特に景勝方はどうしてなのだろう。そんな中で桑取は良かった。桑取の人物達は一種幻想的で、なかでも村おさの斎京三郎右衛門と母に物語の力を感じた。草笛光子の健在は心強かった。

 

 桑取は古来の諸行事が伝承されていて民俗学の見地からも注目される地域だ。特に写真家濱谷浩氏の「雪国」で知られた。私の近くに桑取出身の人もおられ、桑取というだけで貴重に思えてしまう。謎めいた魅力に惹かれて30年ほど前の早春、桑取谷を車で訪ねたことがある。有間川(ありまがわ)から桑取川に沿って山あいを進むと最後にわずかな平地が現れた。歴史を感じさせる民家が点在していて、小ぶりな田んぼとポツンと立つお堂が印象的だった。

 

 林道をさらに山へ向かうとすぐに道は雪に閉ざされた。海辺から川を遡行するのに比べて、頸城平野へ抜ける山道は険しくて大変だろうと思った。天地人の現季節は5月中、下旬か、残雪があってもおかしくない。兼続の道中は険しかったにちがいない。

 

 手もとの「雪国」(著者:濱谷浩 発行所:毎日新聞社 昭和31年3月31日発行。題字は詩人堀口大学)

 

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 雪国のページの一部見開き。濱谷氏は昭和15年から10年間桑取へ通われた。桑取(詳しくは当時の桑取村西横山)の小正月行事は昭和29年に国の無形文化財に指定されたという。当写真は同地区におけるサイの神行事での一服のようだ。これを見ると大河ドラマの考証に真実みをおぼえる。

 

※文中の堀口大学、濱谷浩両氏は疎開や取材で高田市(現上越市)に住まわれたことがあります。樹下美術館の常設展示作家・齋藤三郎は両氏と親交を結びました。

齋藤さんと我が家 5 エッグベーカー

2009年3月20日(金曜日)

 筆者は年の近い5人兄弟姉妹の一人です。昭和30年代半ばから私たちは進学のために次々と上京しました。ところが平行して、あれだけ熱中し親しんだ父が突然のように齋藤さんから離れるようになった。不思議に思えて、何故と問うても父は言葉を濁すだけだった。

 

 まず浮かぶのは子どもの学費が嵩んで蒐集が続かなくなった、ということだ。ほかに齋藤さんへのひいきの自負などが折れたのか。なにしろ当時齋藤さんの人気は文化人、茶人、市中へとますます伸びていた。こうなるとかえって一途だった熱が冷めることもあるのだろうか。

 

 以後、父は上京すると銀座にある民芸の店「たくみ」へ寄るようになった。時々同行したが、鳥取県「湯町窯」の素朴なエッグベーカーなどを選 んでは笑顔を浮かべていた。

 

 ※次に「6別れから開館へ」を記して陶齋と我が家を終わります。

 

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湯町窯のエッグベーカー、随分使いました。

 

   

黄色

2009年3月12日(木曜日)

 前回黄色のシーグラスを拾ったと書いた。日頃あまりツキを気にしていないが、このグラスには何か出会いを感じる。美しいイエローで見飽きない。上手に旅をしたのかまったく角が無く、とてもピュアに晒されている。

 

 軽く曲がっているので器の一部なのだろう。しかし私には黄色い瓶は思い当たらない。書物「Pure  SEA GLASS」にやはり黄色はextremely rareと載っている。一応欧米には黄色の瓶はあるようだ。まさか欧米からではないだろうが、元は何でどこからここへ着いたのだろう。ぽつんと現れて、自分みたいで親近感もおぼえる。

 

 ところで高校生の頃、黄色いカラスという映画が評判になった。子どもが用いた黄色が寂しさの表象として話題となった。この映画のためになんとなく黄色が使いにくくなった記憶がある。それが今でも何処かで尾を引いている。しかし黄色は進出色であり本来前向きな色なのだ。

 

 少々疲れているせいかこの小さなシーグラスの存在感には癒される。夜の時間、海辺のもので子どものようにあれこれ並べてみた。タイトルは黄色の誕生。こんなにしているとおじいさんになった自分を感じる。

 

ルネッサンス風、アールデコ調?

 

めでたい鶴、福寿、松で和風、文字はシノワズリ?

齋藤さんと我が家 4 餃子

2009年2月27日(金曜日)

  前回の齋藤さんの湯飲みに続いて、今回は我が家への訪問を記したい。
多忙な齋藤さんだったが、時には我が家を訪ねてこられた。両親が上機嫌なのが何よりで、私たち子どももよく同席した。先生の声はよく響き、世の大家の話題から古美術のこと、地域の話など快活に語られた。万事自然で、座に笑いが絶えず、子どもでも楽しかった。

 

 ひもとけば氏の18才からの10年余の生活は関西だ。しかも近藤悠三から富本憲吉へと、きら星たちへの師事だった。両師との出会いは齋藤さんの才能を開花させて余りある幸運だったにちがいない。さらにサントリー創業者鳥井信治郎氏の庇護で、いっそう文化への磨きが掛ったことと思う。

 

 そんな齋藤さんが戦後、新潟の高田(現上越市)で仕事を始められた。作品、人柄とも人気があり、あっという間に内外の人々を魅了して、多彩な交流が生まれた。あるときなどは棟方志功氏を伴って我が家へ来られ、非常に驚いたことがあった。

 

 齋藤さんは食通としても知られていた。その氏が当家で特に好んだのが餃子だった。昭和30年代なか頃まで、当地で餃子は珍しかった。満州仕込みの母の餃子は、皮が厚く具と油がたっぷりで美味しかった。応召で大陸へと渡られた齋藤さんは、ことのほか母の餃子を喜んだ。

 

 何度かお子さんと甥子さんたちを引き連れて、賑やかに来られたこともある。私は餃子作りが出来たので、母と並んで台所に立った。ある時などは、出しても出しても皿は空となり、止めどなく焼き続けた記憶がある。

 

  満腹のあとは子ども同士で海へ行った。高田はやや内陸なのでお子たちは海を喜ばれた。一行を後ろから写した古い写真があるが、懐かしい。二代陶齋の尚明氏とは時々お会いするが、そのたびに餃子のことは忘れられないと仰る。

昭和34、5年。大潟町の浜、帝国石油の人工島桟橋で。

齋藤さんと我が家 3 湯飲み 

2009年2月25日(水曜日)

 前回では父が我が家へ運んだ齋藤作品の多様さを記させて頂いた。ところで齋藤さんの作品で、最も多く作られたのは湯飲みだろう。小さくとも一器一器に才気と暖かさが現れ、齋藤世界そのものだ。ここでは形状について書いてみたい。

 

 齋藤さんの湯飲みの形状はおよそ二つに分けられる。ずんどうに近い筒型と、胴がふくらんだ太鼓型の二種である。筒型には高台が無く、中を削ってあるだけ。太鼓型は高台があり口辺(こうへん)が反る端反(はぞり)りが加えられている。前者の多くは磁器が主体であり、後者はほとんどが陶器だ。

 

 形のほかに絵付けの違いがあった。筒型は呉須(藍色顔料)による染め付けはじめ色絵も上品の気があった。一方、太鼓型は灰釉や鉄また辰砂(しんしゃ)を地色として、呉須や鉄でラフな文様が刺されていた。

 

 このような形状の違いは、番茶向きと煎茶向きへの配慮だったと思われる。煎茶は、温度が低く量は少な目だ。左手に乗せ右手で軽く握って飲む茶となる。番茶に比べて上格だから絵付けも染め付けなど細筆が合っている。

 

 一方番茶はくだけた飲みものであり、熱くて分量も多い。気楽に片手で握ってぐっと飲む。端反りがあるため一口で多く飲め、ここを持てば熱も避けられる。そして高台だが、番茶の高熱が卓の塗りなどに伝わらぬよう配慮されたのかもしれない。あるいは器に豪快さを与え番茶の趣を高めたのか。こうなると両者の違いを、齋藤さんに聞いてみたくなる。想像だが器を手に、立派な鼻に響く声でにこやかに説明されるお顔が浮かぶ。

 

 思えば我が家では食事には齋藤さんの大きな急須でどかっと番茶が出た。そして菓子を食べる時は煎茶だった気がする。父は煎茶の時に湯冷ましを使って自分の分だけ丁寧に出した。そして母や私たち子どもは出がらしに湯を注いで適当に飲んでいたように思う。そして父は気心あう人には惜しみなく湯飲みを上げた。

 

 ※齋藤さんは湯飲みと別に、煎茶専用の宝瓶や煎茶器揃えも作られています。

 

以上、齋藤さんと我が家ではなく、「齋藤さんの器と我が家」の趣になってしまいました。次は我が家を訪ねた齋藤さんを書いてみます。このたびは急須も予定していました。しかし分量が多くなりましたため、以後にさせて頂きます。色々と申し分けありません。

 


筒型で磁器。きっちり描いて高台が見えない。

 


太鼓型で陶器。呉須や鉄でラフな絵付け、高台と端反りがある。

 


裏面から。大きさ、高台、土の様子。

 

 

齋藤さんと我が家 2 セメダイン

2009年2月21日(土曜日)

  前回は齋藤さんが我が家にもたらした灯のことを書いた。齋藤さんの器は父の手でせっせと運ばれるようになった。いつしか我が家の飯と汁碗以外ほとんどの食器は齋藤さんのものとなった。朝食のパンや果物は草模様が蝋抜きされた黒い鉄釉の皿に乗り、牛乳も鉄絵のマグカップだった。大きな手が付いたマグカップは民芸調の筆でムギワラ、草、文字など様々な文様が描かれていた。

 

 蜂蜜が我が家のブームになった時に蓋が付いた灰釉の壺が登場した。この器の蓋は本当に滑らかで、開けるときは一瞬すっと吸い付くような感覚がした。やや地味だった器は蜂蜜ブームの後で梅干入れに変わった。

 

 小さなものではつまようじ入れがある。普段のものは立てて入れる筒状の形で、呉須(藍色の顔料)でざくろが描かれていた。楊枝入れはもう一つあって、これは来客用だった。長方形の器に楊枝を横に置く物で色絵の蓋が付いていていた。この楊枝入れはとても可愛くきれいで、父の部屋の奥深くにあった。しかしいつしか紛失か破損かで失われ、非常に残念に思っている。

 

 ところで食器は陶器が多い。陶器は磁器と異なり柔らかく暖かみがある。その分、欠けやすい。子ども5人を入れた7人家族のを、毎日出して使って洗って仕舞う母。手早に過ぎる母はしばしば器をカケさせた。父にはその都度「齋藤さんの器は壊れやすいから」と言い訳をした。よく母を叱る父だったが、あきらめたのか案外黙っていた。そして多くは、当時流行のセメダインで接着して再び使った。

 

次は齋藤さんの真骨頂とも言える湯飲みと急須にします。

 

楊枝入れ(これにもセメダインが) 蜂蜜や梅干しを入れた壺
   
   

遅く来たドカ雪

2009年2月17日(火曜日)

 昨日から冬一番の雪となった。しかもドカ雪の様子。今ままで雪国とは思えないほどカラカラとしていたので、不意を突かれた感じがする。

 

 午後から雪の中を4軒の往診と訪問をした。車は右へ左へ歩行者と対向車をよけながら喘ぐように走る。毎年お年寄り達への冬の悪影響はこれから現れる。まさかのドカ雪はまだ続くらしい。

 

 あるお宅の庭でとても良く出来た雪だるまを見た。ケアマネさんも写真を撮って帰ったと、作者の若いおじいちゃん。大おばあちゃんの血糖値も落ち着いて、しあわせなおうちです。

 

齋藤三郎さんと我が家 1 灯り

2009年2月14日(土曜日)

 するすると時は過ぎて間もなく3月、今年の開館が近づきました。旧年に増して樹下美術館が愛されますよう一同励みたいと思います。
ところで樹下美術館では倉石隆氏の絵画とともに齋藤三郎氏の陶芸作品を展示しています。今回は齋藤氏と我が家の思い出を書いてみます。思い出といっても私の小学生から高校時代くらいまでですが、お読み頂ければ有り難く思います。

 

   齋藤三郎さんと我が家 1 灯り

 昭和21年春、医師だった父は、母と4人の子どもを引き連れてかろうじて満州から引き揚げた。戦前、祖父の借金返済のために渡満し、再び無一文に戻っての帰国。実母のほか疎開で留まっていた何人かの父の兄弟も加わり、戻った実家は楽ではなかったようだ。翌冬の私たちのゴム長も母が工面した借金で買ったと聞いた。

 

 まもなく、結核が得意だった父はわずかに残っていた田畑を売り払い、渋る銀行へ通ってレントゲンを買った。ようやく家に活気めいたものが漂いはじめたが、今度は診療の忙殺でトゲトゲしい緊張感が家を包んだ。父は険しく、母は硬かった。そんな我が家に突然のように明るさを引き連れて登場したのが齋藤三郎さんの器だった。

 

 戦後まもなく齋藤氏は戦地満州から帰国し、兄・泰全和尚の寺がある新潟県高田市(現上越市)で作陶を始めた。昭和23年ころか、父はある若い結核患者さんの紹介で齋藤さんと出会ったらしい。そしてすぐ氏の作品に夢中になった。当初、小さかった自分にはよく分からなかったが、まもなく齋藤さんの作品が特別な意味を持っていることを知るようになった。

 

 年に数回、窯出しのたびに父は汽車で高田へと向かった。そして夕刻、リュックサック一杯の作品を背負って帰って来た。皆の前で荷がほどかれると、新聞くずの中から皿、壺、湯飲みなどが次々と飛び出した。全ての器に絵付けが施されていて、花や文字の生き生きした文様は子ども心をも打つようになった。この時ばかりは、見たこともない笑顔が父に浮かび、母の声は華やいでいたのだ。 

 

 私たちでも頬ずりしたくなるような器の登場と両親の喜び。齋藤さんの作品は普段寒々としていた家に思いもよらぬ灯りをともすこととなった。

 

色絵色紙牡丹紋皿

 恥ずかしながら続きます。

飲み込み。そしてシーグラス。

2009年2月11日(水曜日)

  休日だったが午後に往診があった。比較的安定していた脳梗塞の方。しかし数日来ほとんど飲食をしなくなったという連絡。ご本人はまだお若い。よく聞けば飲み込み障害のためひどくむせた日の恐怖感が引きがねと考えられた。早めに専門的なリハビリを受ける事にして点滴をした。

  ところで日本は技術大国であり、とりわけ微細なテクノロジーに優れている。一方、飲み込み障害の裾野は広く深刻な課題だ。これには口腔、咽頭・喉頭、食道などの極めて複雑なメカニズムが関係している。ナノテクノロジーを進化させている今、飲み込みを補助するコンパクトな装置を願ってやまない。

 やや穏やかな昼間だったので、近くの海に寄った。昨年7月、浜辺でシーグラスと貝を拾い、秋には海に戻そうと書いた。しかしそれが子どもたちや孫に喜ばれて、シーグラスはそのまま我が家にとどまった。その後、私が一番気に入ってしまい、暇をみては海へ行くようになった。

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