明け暮れ 我が家 お出かけ

マーガレット・チャン

2009年4月30日(木曜日)

 WHO(本部ジュネーブ)のマーガレット・チャン事務局長は29日、新型インフルエンザの警戒水準を4から5に引き上げた。彼女は「パンデミックが差し迫っているとの強い警告」と述べ人類全体が深刻な危機にさらされているという認識を示した。

 

 突然の大事に対して、チャン氏の一連の決定行動は素早かった。今後どうあれ、これまでの決定と結果の確度の高さに驚く。鳥インフルエンザ一色(一定の方向転換が始まっていた模様)の世界で、かつ経済減速のジレンマの中、畏敬を禁じ得ない。

 

 「国籍を忘れて任務にあたる」。就任時の彼女の言葉だ。氏は中国人で2006年から現職にあるという。また過去、香港における最初の鳥インフルエンザで、猛反対のなか大規模なニワトリの処分を行い、SARSの苦い経験ではその渦中にあったと書かれている。たぶん現場で火中の栗を拾い続けた人なのだろう。氏の警告には耳を傾けていたい。

 

 本日国内でも疑い者が出た。このほか体制が追いつかず、水際で相当数の検疫漏れがあった模様だ。残念だがこれが現実なのだろう。そして自衛隊の医療部門が投入された。検疫の現場はすでに疲労が始まっているのではないだろうか。ぜひ二次感染も回避して欲しい。地域医療の担い手の一人として緊張して備えたいと思う。

時の流れが二つ

2009年4月29日(水曜日)

 祝日、久しぶりに車いすの母を連れて美術館へ行った。爽やかに晴れて空気が味覚を潤すようだった。ああ気持ちがいい、と母の一声。

 

 カフェで一番良い場所に座った。チョコレート菓子を分けて、レモンティーを飲んだ。母はまた故郷佐賀の昔話をする。近くに焼き物窯が二カ所あって、あたりに散らばるかけらでままごとをして遊んだ。磁器の土をこしらえるのに水車が回っていた、と。

 

 帰りに菜の花畑を見た。”菜の花畑に入り陽うすれー♪”二人で歌って帰ってきた。初めてハーモニーをした小学校4年生の時の唱歌だ。

 

 ところで目の前の時は盛んに去るが、昔の時はしきりとこちらへ近づく。昔話を繰り返す母にあってはなおさらだろう。

 

 美術館は三々五々お客様がこられた。見知らぬ方たちがくつろがれる様子を見ると少し変な気持ちになる。皆様本当に有り難うございます。

新緑の樹下美術館

近くの大潟水と森公園

新型インフルエンザの第一ラウンド

2009年4月28日(火曜日)

 28日、WHOは前回に続いて再度の緊急委員会を開いた。そこで豚インフルエンザの警戒水準をフェーズ3から4に引き上げた。名称も豚インフルエンザから「新型インフルエンザ」へ。H1N1変異ウイルスの同定からわずか1週間。第一ラウンドで一気にパンデミックへのルートが開けてしまった。

 

 ブタのH1N1はヒトと共通していて、相手はすぐ近くに居たことになる。スペイン風邪から続くH1N1由来の亜型であり油断出来ない。鳥とともにアジアのブタも当面の鍵となりそうだ。
評価はともかく、昔読んだライヤル・ワトソンの「生命潮流」をふと思い出す。ウイルスにも集合無意識(ミーム?)のような同時現象があるのだろうか。地球の表裏から出発した複数の新型が交雑するようなストーリーで。

 

 相手はまだ若く変化自在と考えられる。後追いを余儀なくされるワクチンが安定するのに年単位の時間が掛かるかもしれない。抗ウイルス薬はどうだろう。薬剤感受性とウイルス変異へのモニターは欠かせない。当面タフな根くらべが続く。

 

 好材料が乏しい今、スペイン風邪の徹底した解析は一部で有望なようだ。願わくばこの規模で一旦終息し、時間を稼ぎたい所だろう。一連の経緯は人間があざ笑われているようで悔しい。


右下のルートが如何にもと見えてくる。 

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咳エチケット(大きくしてご覧下さい)

※再び美術館から離れてしまい申し分けありません。

豚インフルエンザ

2009年4月26日(日曜日)

 長くなりますがすでに昨夜、豚インフルエンザについて報道されていた。メキシコで4月23日までに854例を越える感染者と死者は59例ということ。加えてアメリカでも7人の感染が報告された。(当初メキシコの死亡報告は疑いも含めて発表されていました:後日追記)
さらに本日、ニュージーランドでメキシコから帰国した複数の学生と教職員が疑われ、フランスでも2人が疑われていて事態は深刻に見える。

 

WHOではこの度の感染が
①動物からのものであること。
②患者は若年者に多いこと(乳幼児と老人は少ない)。
③地域を越えて発生していること。
などから新型インフルエンザの可能性を示唆している。

 

 25日のジュネーブにおけるWHOの緊急委員会で、フェーズ1~6段階の警戒水準で3(人への感染は無いか、非常にまれ)としている。一方フェーズ4(小さな集団で発生)への移行を真剣に懸念している模様。フェーズ3はすでにパンデミックを視野に置いたレベルであり、4・5に入ればパンデミックの可能性が現実味をおびてくる。はたしてどう動くのだろう。当面最高度な課題にちがいない。

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20090426ddm001040104000c.html?link_id=RAH05

 

 ところでニュージーランドで確定診断がつけば、アジアへの拡大が心配され、そこでの流行はパンデミック(フェーズ6)のカギとなるかもしれない。
それにしても何故メキシコだったのだろう。鳥インフルエンザの報告が無かった国で。ウイルスの専門家ではないけれど何か奇異な感じを受ける。これはウィルス自身が生き残りを賭けた大きなストーリーのほんの始まりなのだろうか。ならば人の英知は?

http://idsc.nih.go.jp/disease/avian_influenza/map-ai2009/tori090424.gif

 

 予防と治療では、すでにワクチン製造に向かっているはずだが、当面存在しない。一方タミフルとリレンザは有効らしい。
まずは体温と急なだるさのチェック、帰宅時のうがいと15秒以上の石けん手洗い、鼻水・くしゃみ・咳の清潔対応など念のため丁寧にしていたい。

Img_7004_2

写真は診療所に入った公式連絡のファックス。内容が重複して大量だった。

・厚労省の関連ホームページ
http://www.mhlw.go.jp/

・外務省の関連ホームページ
http://www.anzen.mofa.go.jp/info/info4.asp?id=264

齋藤さんと我が家 6 別れ

2009年4月18日(土曜日)

  前回の齋藤さん(陶齋)と我が家5で、父が齋藤さんの作品蒐集を急に止めてしまった所まで進んだ。父の陶齋熱は昭和23年頃から30年代後半までおよそ15年ほどだった。

 

 昭和50年6月、私は父の仕事を継ぐため帰郷した。すでに父にはパーキンソン病が進行していた。帰郷後、何度か齋藤さんの窯を見に行こうと父を誘った。しかし動作や言語などが乏しくなった父に色良い返事はなかった。それがある日、行ってみると言った。

 

 私にとって初めての齋藤さんの展示室は、民芸調で雅味溢れるものだった。長くお目にかからなかった齋藤さんにお年を感じた。齋藤さんも父の変貌を驚かれた事だろう。互いのあいさつの後、父はほとんど言葉もなく背を丸めて佇むだけだった。あれだけ夢中になった人の前なのに、、、。
「年を取ったら華やかな色が好きになりました」、と齋藤さんが話した。父が微かな笑みを返した。

 

 この日、私は牡丹が描かれた辰砂の偏壺を取らせてもらった。やっと父の真似ができて嬉しかった。帰りの車中父と壺を乗せて、父達に過ぎた時間のことをぼんやり考えていた。

 

 仕事に忙殺されて何年か経った。昭和56年7月、齋藤さんが亡くなった。そして翌年は父も。齋藤さん68才、父78だった。68才はいかにももったいない年だ。齋藤さんはみんなに愛されすぎた希な人だったと思う。

 

最後に陶齋に会った日の牡丹紋辰砂偏壺(ぼたんもんしんしゃへんこ)

 今回、樹下美術館の開館まで行くつもりでしたが、うまく出来ませんでした。次回はすんな終わりたいと思います

景虎の鮫ケ尾城

2009年4月12日(日曜日)

 今夜の天地人で景虎ともお別れ。終焉の地・鮫ケ尾城は何度も車で付近を通過しているが、現地を訪ねたことがなかった。にわかファンでもこれではいけないと、午後思い立って鮫ケ尾城へ向かった。40分ほどで着いた駐車場には随分車が多かった。夕暮れ時なのに本丸への坂道を行き交う人は絶えない。

 

 花期を惜しんでカタクリが延々と続く。途中、道を外れた暗がりに景虎清水という小さな井戸があった。またこの山中には白いカタクリがよく見られると聞いていたので、花を見ながら登った。

 

 はあはあと急な登りを約30分。孤立感ただよう山頂に本丸跡とその向こう下に米倉跡があった。急峻な山頂のため両方ともに小さく感じる。しかし小ささが、かえって物語のリアリティとイメージを浮上させて、胸が熱くなった。背後は深い谷と山々、、、。ここに追い詰められたら誰でも観念せざる得ないのでは、と思った。故郷を遙かに、景虎の無念はいかばかりだったか。

 

 そして今夜の天地人。景虎も華姫も哀れで、妻の前でうるうるしていた。両人が最後を過ごした場面は、夕方見た本丸跡の雰囲気に合っていた。死を前に強まる絆と浄化。最後、景虎にいいセリフがあって二人の御館の乱は何とか終った。しかし脚本家と演出家は苦労したのではないか。草場の陰で景虎はどう見ただろう。

 

 私が初めて御館の乱を知ったのは、高校時代の地域史の本からだった。一帯で繰り返された両軍の焼き討ちの凄まじさに慄然とした覚えがある。

 

 

景虎の清水はつとに悲しけれ 今はの水もここで汲みたか

 

 

 

景虎の無念を今に鮫ケ尾城 白きかたくり姫とあい咲く

(もっと真っ白な花もあるようです/思い→無念に後日直しました。)

 

山頂まで続くかたくり

 

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山頂(本丸跡)から。はるか左が御館だと思います。

敵中をよくここまでたどり着けたと感心します。関川を遡ったのか山道を辿ったのでしょうか。

※感想①せっかくの名所、景虎清水はもっと手入れをすればいいと思った。

※感想②鮫ケ尾城は春日山城よりもピュアな物語性がある。短時間の訪問だったが手頃に感じた。少し本気で取り組めば、さらに多くの人を魅了しよう。

 あちこちの天地人のノボリは現場を軽くしていた。少なくするか、早目に取り去った方が良いのではと思った。

 

 

春暮れて

2009年4月9日(木曜日)

 随分と日が長くなってきた。夕暮れにホームセンターでタイツリソウとツボサンゴを求めた。安くても威勢の良い芽で、花を想像しながら丁寧に植えた。庭のあちこちでノコンギクが猛烈に増え、ほかの花を飲み込む勢い。余分を取り去って庭のへりに移した。

 

 もう何日も雨が降らないため最後に水まきをした。これだけで7時をとうに回った。きれいな月が昇り庭を照らしていた。月明かりを頼りに見失ったスコップを探したが見つからなかった。

 

 ためしに月と自分の月影を撮ってみた。帰って影法師の液晶モニターを妻や母に見せると、二人とも見えると言ってくれた。

 

 今夜は小望月の14夜ということ、明るい月だった。明日晴れれば望月の十五夜満月が見られる。14夜と聞いて写真を見ると、月の左下がわずかに欠けているように見えた。

 

今夕の月 

春暮れて芝生に月の影法師   sousi

 近くを流れる上越市大潟区の新堀川(しんぼりがわ)で桜が見頃となっていた。訪れる人はわずかで、海風が川を渡る静かなたたずまい。

恩師を偲んで

2009年4月5日(日曜日)

 昨年春、二十数年お世話になった裏千家茶道の師が亡くなられた。まだお年を残した病は本当に残念だった。本日昼、ご遺族をお招きして先生を偲ぶ茶会があった。弟子は28人集まった。床(とこ)に古写経切れと小さな遺影。ご遺族の手になる黒釉の花生けに、バイモユリと利休梅が静かに入った。

 

濃茶(粘りのある抹茶)の一碗目をご遺影の前に運び、皆で合掌した。泪を禁じ得なかった。ご夫婦仲の良い優しい先生だった。わずかでも先生に誉められたくて稽古に通った。

 

昔、私が茶会で初めてお点前をした時のこと。見知らぬお客様に囲まれた小間で手の震えが止まらなかった。終えると、恥ずかしさから逃れるように水屋(点前の支度をする場所)に下がった。手の震えのことを先生に話した。

 

すると「堂々と見えていました。手が震えるのもご馳走のうちです」と仰った。この言葉にどれだけ救われただろう。慰めと茶の心が染みて、めげずに続けようと思った。かみしもを嫌われた先生の追善、老若揃って心から偲んだ。「遅くなりました」とご本人の声がして、戸口が開きそうな気がしていた。

 

帰りに美術館に寄った。バスが来ていて長岡市から大勢のお客様だった。カフェに入り切らず外のデッキに案内した。何人かの方はそこでも座れず、「構いません」と仰って立ったままお茶を飲まれた。朝日酒造の文化事業のお客様だった。恐縮と感謝を禁じ得なかった。

 

今夜の天地人。景虎から笑顔が消え、景勝は「まさか武田の姫と」。筋は絡み、本旨は何か戸惑う。二人でまとまることが出来なかったのが、かえって不思議な気がしてくる。これが戦国時代なのか。いよいよ次週、、、景虎美しかれ。

 

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日曜日の色々

2009年3月29日(日曜日)

 今日は妻と上越市寺町の名刹「浄興寺」で行われる茶会に出掛ける日。昼前、妻の友人を迎えに伺うと「トキが近くに来ているらしい、夫が行っている」ということ。とうとう見られるのか、現場に急行した。

 

 場所は美術館から車で5分ほどの近場。大型レンズを構える人たちや車が四方を遠巻きにしていた。私たちが居たのはトキから3,4百メートルの距離だろうか。トキは白い小さな点としか見えなかった。大勢に囲まれて気の毒だが、トキのオーラは大したものだった。遠くながらトキと共にした幸せを感じた。一日でも長く居てと祈る気持ちで去った。

 

 寒気のもとで晴れた茶会。まず浄光寺の奥様が支度された美味しいお昼を頂いた。それから濃茶席へ。しみじみとした良いお席でお茶が美味しかった。濃茶はいつも緊張するがご亭主が場を和らげて下さった。薄茶席は明るく溌剌としていて楽しませて頂いた。両席ともお手前が心こもり御菓子も美味しかった。帰りに見た境内の梅が茶会の最後を飾るように咲いていた。

 

夕方、美術館隣接の庭で3株の「京がのこ」の株分けをした。庭は寒かったが、昨年植えた百合が一斉に力強い芽を出している。沈丁花が香る庭でシジュウカラが盛んに巣箱を覗いていた。

 

 夜は天地人。武田側は直近まで迫っているはずなのに、あまり緊迫を感じない。また当ドラマは大勢のシーンが軽めで、人物が少ないほど場が生きる印象がある。うまい役者さんたちの本領なのか。
御館の乱は思ったより丁寧に進められているが、やはり難しそうだ。過酷な戦乱場面を避けて筋回しとせりふで越えていくのだろう。あっさり扱われた景虎がとても哀れに写った。

 追加です:昼間見たトキはno3の雌らしい。佐渡で放鳥されたトキ10羽のうち残った全ての雌(4羽)が佐渡を離れて本土に飛来してしまった。想定外のことと思われ関係者の困惑が想像される。No3は上越市から長野県に出て、千曲川を回って再び上越市に戻った。すでに500キロ以上を移動したのでは。
壮大な逡巡をみていると、雌たちは強い雄を求めてさまよっているように思われてきた。昼間感じたのは悲しいオーラだったのだろうか。佐渡に残った4羽の雄にも辛いものがある。今後どうすればいいのだろう。

WBC、ギリシャ彫刻といわないまでも

2009年3月25日(水曜日)

 16カ国が参加した野球で日本が世界の頂点に立った。行き詰まってしまった世界にあって二つの示唆を感じた。一つは偉業が民間人によってなされたこと。社会に元気を与えるものに政治や制度と別の、もう一つの軸があることを改めて知らされる。個人の軸は頼もしい。社会のお互いからプロたち、そしてノーベル賞などとも同じ。

 

 もう一つ、選手達の体型が格好よかった。そのうえ悲喜のなかに邪気はなく、一貫して素直な表情が印象的だった。やや幼さな気ともいえるがそれが良かった。

 

 「逝きし世の面影」という本を以前読んだ。江戸時代に日本を訪れた欧米人たちの旅行記を丹念にまとめた本だ。600ページもあったが面白くて読みやすかった。そこには手入れされた美しい自然。気の利いた小道具。なにかと人なつこく風呂好きな人達。こまやかで芯のある女性たち。そして侍の品格などとともに、働く男性の体つきが賞賛されていた。小柄だが、引き締まってギリシャ彫刻のように魅力的だった、という記述まであった。

 

 過剰な膨張に続く今日の収縮は自然律であろう。問題の原点はエネルギーと生活の相互関係にちがいない。無駄のない選手たちの体型と素直な表情は、かっての先人たちに通じるように思われる。もしかしてそれは明日の世界のモデルかもしれない。行き詰まったら戻ってみる。唐突だが、内視鏡でもそうしながら慎重に進めて行く。

 

※野球のダイジェストをいくつか見ていましたら、日をまたいでしまいました。

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