明け暮れ 我が家 お出かけ

二代陶齋のお茶碗で濃茶

2010年1月7日(木曜日)

 今日も終日荒れ模様、濡れた雪があちこち乱雑に溜まっている。

 

 今夜は正月の〆とて濃茶を飲んだ。茶碗を二代陶齋(斎藤尚明さん)の鉄釉。お茶は裏千家宗匠・坐忘斎好み「緑毛の昔(りょくもうのむかし)」(宇治・上林春松本店)。御菓子は患者さんに頂いた上越市安塚区の秋山菓子店の壽羊羹を。

 

二代陶齋の茶碗で 
菱垣文が刻まれた端正なお茶碗
 

 行儀を考えずにテーブルで練った。湯を注ぐと茶の香りが高く登り、滑らかな濃茶になった。茶の緑をしっかり受け止めた茶碗。服すると明日からまた頑張ろう、という気持ちになってくる。

 ※ちなみに緑毛とは長生きをした亀の甲羅尻に生える毛のことで、目出度さの象徴と聞いています。

 

 今夜、間もなくNHKで「日本の名峰 ふる里の富士」がある。妙高山が出るそうなので是非見たい。それに鳥海山も。
 ほとんど旅行をしていない自分は、せめて鳥海山を見に行きたいと思っている。できれば母の故郷佐賀県へも。

猛烈に吹かれて

2010年1月5日(火曜日)

 早朝、猛烈な風音で目覚めた。激突するような風で家が揺れる。普段ヒューヒューという樹がシューシューと不気味な音を立てている。遠いはずの海鳴りが耳元まで迫っていた。

 冬の季節風に慣れてはいても、これほどの風は珍しい。古い家に寝ていたので心配で起きると妻も起きてきた。一瞬、中越沖地震の時とダブった。

 電車が止まったために、部活の子を車で送ってきたとスタッフの一人に聞いた。暴風の高速道路は怖かったらしい。ワクチンにきた高校生は運休を口実に模擬テストをサボれたと苦笑いをした。

 

  往診で見た鐘楼がしゃんとしていたのは、さすがだった。降らなければ吹かれる。みな無事で良かったが冬の気象には鍛えられる。 

 

仕事が始まり、インフルエンザは?

2010年1月4日(月曜日)

 看取りや往診もあった正月休みがあっという間に終わった。仕事始めとなる今日、大人のインフルエンザの方が何人か来られた。皆さん高熱だった。 

 新型インフルエンザが多い分、通常のインフルエンザが少なめという報道が12月にあった。A型の場合、すでに現場では両者の区別が付かない。はたして新型の強毒化や耐性など進化はどうなのだろう。遅れたワクチンとウィルスのせめぎ合いが続く。公的な情報だけが頼りだ。減少傾向とあるもこれからが本番、油断は出来ない。

 

 夕食後遅くに陶齋の茶碗で抹茶を飲んだ。梅と笹が書かれた大きな茶碗。笹はそれぞれ雪をかぶり、如何にも富本憲吉一門といった文様が描かれている。

 

 小康となっていた雪は今夜あたりからまた降るようだ。予報は暖冬だったが大雪を覚悟したほうが気持ちは楽ということもあろう。 

お茶

母のむかし話:綿

2009年12月10日(木曜日)

 少々前のことで恐縮です。もう半月ほど経ちますが北陸園芸に寄りました。その時たまたま店に綿の枝がありました。これはと思って、白く美しい綿を買って帰りました。綿の話を何度も母から聞いていたからです。

 

買ってきた綿。
 

 その後、先週の日曜に「うみなり」のコンサートで大潟区のコミュニティプラザに行きました。今度はそこで初めて「綿くり機」を目にしました。これも最近の昔話にたびたび登場していました。母の説明だけではどんな道具なのか分かりませんでしたので、目の当たりにして一瞬胸が熱くなりました。
  大変恥ずかしいのですが、今回は綿や着物にまつわる母喜代と祖母ヤイの昔話を記させて頂きました。

 

あるご年配の女性が小さなお子さんに説明していましたので「綿くり機」だと知りました。

 

 

 先回のむかし話では、佐賀県の古枝(現鹿島市内)という小さな村でのこと、家屋の倒壊事故でヤイが夫を失った所まで綴った。夫の死後三人の子を抱えて、ヤイは魚の行商を始めた。ほかにも一家を守るため身を粉にして働いた。 

 

 わずか一反ながら家に田んぼがあった。行商のかたわらで田植えから稲刈りまでヤイは一人で行い、暮には一人でモチをついた。田のほかに畑もあった。

 

  春になると、ヤイは家族の着物の分だけ畑に綿の種を撒いた。秋に綿玉(コットンボール)がはじけて白い繊維が吹き出す。それらを摘んで綿くり機に掛けた。綿くりのハンドルを回すと種がポロリと落ちるのが喜代には面白かった。綿は糸車で紡ぎ、出来上がった糸はカセにして紺屋へ運んだ。

 

 紺屋のお母さんはとても面白い人だった。母に付いて行くと冗談を言ってはからかわれたが、喜代はその人が好きだった。カセは樫の棒に架けられ手早く瓶に漬けて染色された。
 後日、糸ができあがるといよいよ機織りだった。ヤイは遅くまで機をあやつり、親子が着る全ての反物を織った。ヤイの仕事は鮮やかで、喜代は母が扱う様々な道具の音が好きだった。綿くり、糸くり、機織り、、、母の足許に寝そべってはよく宿題をした。

 

 喜代はヤイがこしらえたものの中で、白地に赤と緑の薄い縞がある着物が一番気に入っていた、という。

 

  ところで、小学時代の喜代に母は三つの言いつけをした。子守と勉強と洗濯だ。子守では毎日のように幼い弟を背負って古枝小学校へ通った。幼児をおんぶして登校する子は他にもいて、学校には子どもを預かる部屋があった。
 母の言いつけもあって喜代は勉強をした。勉強は好きだったので毎年鍋島賞をもらった。旧鍋島藩の華族が出している賞で、鏡台をもらった記憶がある。 

 
 そんな喜代が一度だけ激しくヤイから叱られたことがあった。ある日、自らの勤めだった洗濯を放って、仲良しのおゆりさんと川遊びに行った。帰るとヤイは烈火の如く怒り、「お前の背にこんな大きな石をくくりつけて、その川に沈めてやる」と身振りをして迫った。ヤイは常に優しかったが、この時ばかりは人が変わったようで恐ろしかった。

 

 大きくなり始めた喜代が裸で遊んだことも、母の怒りを買ったのだろうか。

 

 さて高等小学校を終えた喜代は、九州大学で看護学を学ぶことにした。試験は厳しく佐賀県からは3人だけ合格した。遠く広島からも入学者があった。
 喜代が笑って話したことだが、入学式には自ら縫った袴を着けて張り切って出た。しかし当日、同級生達のあまりの身なりの良さにびっくりしたらしい。彼女たちは上等な純毛の袴を履いていたのに自分は安っぽいメリンス。皆のは足首が隠れるような丈なのに、自分のは寸足らずで足首の上まで丸見えだった。

 

 さらに他の生徒達は時計をしていたが、自分はそれも付けていなかった。

 

 母は急いで送金するようにヤイに電報を打った。一家の生活はとてもつましかったが、家にはちゃんと蓄えがあることを喜代は知っていた。小さい時から家の通帳を扱っていたからだ。
 届いたお金を持って博多のデパート「イワタヤ」へ急行した。そこで生地を買うと一晩で袴を縫いあげた。時計は皆に負けない物が買えたらしい。看護の仕事では時計が大切で、ずっと長く使った。
 

 

 ところで当時、未曾有の不景気が始まっていた。佐賀の小さな村にも、信州で糸引きをする女工さんを集める周旋屋の姿があった。彼女たちの悲劇は伝わっていて、喜代には娘を漁る男達が忌まわしく写っていた。

 

  口癖で喜代は言う、自分の家は貧しかったかもしれない。しかし綿から作るヤイの着物をいつも着れて「自分は幸せだと思っていた」と。

 

 
 

※大変長くなってしまいました。実は以前、私は母の昔話が嫌いでした。どこか突飛で、作り話かもしれないと思ったりもしました。しかし車中などで仕方なしに聞いているうちに、面白いと思うようになりました。94才の親を相手に、最近では「それから?ほかに?」と言って聞いています。
 いつも身内の事で恐縮です。機会がありましたら、大都会博多に出た喜代の学生時代などを書かせて頂ければと思います。

※文中のイワタヤ(岩田屋)は今もありました。

二つの催しが終わって

2009年12月6日(日曜日)

11月26日から始まった拙い小生の作品展が11月30日で終了しました。思ったより沢山お見えになったと主催者からお聞きしました。新潟市だけでなく、遠くに行かれた懐かしい人達や上越の友人も訪ねて下さって嬉しかったです。

 押し詰まった多忙な時節にご来場頂いた皆様、心から御礼申し上げます。また作品を快く提供して下さった皆様、まことに有り難うございました。

 

 
ホオズキ

 
笹にからむエビズル

昨夜は大潟区のコミュニティプラザ・ホールでコーラスグループ「うみなり」のコンサートを聴いた。「生きる」の洗練されたハーモニーを歌いきって、さすがだった。「明日に架ける橋」はホールを振るわせて、最終アンコールも同曲となった。また「雪と炎」のピアノはドビュッシー風で良い伴奏だと思った。杉みき子さんの詩に深く胸打たれた。

 イベントは主催者、会場、演奏者が各区を横断して催された。こうして人が交わるのは、合併のせめてもの意義ではないかと思った。初冬の心温まるコンサートだった。

つかの間を楽しんで

2009年11月27日(金曜日)

昨日、恥ずかしながら小生の作品展が初日を迎えて、レセプションがあった。主催者からは、心づくしのしつらえが伝えられていた。深夜の往診が続いた患者さんに落ち着きがみられたので、新潟へ車を飛ばした。

会場は作品が展示されているお宅の室内だ。レセプションではジャンニスキッキが歌われ、お仕舞いもあって楽しかった。電子ピアノは青木昌己さんだった。氏は長い間イタリア軒のラウンジでピアノを弾いておられ、かつて上越にお招きしたこともあった。15年振りの再会となり、懐かしいEarly Autumnを弾いて下さった。

 

音階を忠実に辿るリチャード・ロジャースの名曲「Where or When」の素晴らしさなど、楽しいお話が聞けた。主催された悠さん、本当に有り難うございました。

帰りは妻の運転。一眠りのあと、前のトラックにカメラを向けると面白く写った。モニターを見ながら、ああもうクリスマスだと思った。
後日の追加です:少し冒険をしてEaerly Autumn の曲を動画で付けてみました。うまく掲載されているでしょうか、歌っているのはジョー・スタッフォードです。写真画面なので動かずに申し分けありません。
私の中学時代に彼女の「霧のロンドンブリッジ」が流行りました。当時オルガンでこの曲を上手に弾く生徒がいて、弾き始めると同級生達が沢山集まりました。ご存じのように、ジョー・スタッフォードはほかにも多くのスタンダード曲を歌っています。
今どきEaerly Autumnでは季節が少々合いません。しかし時には後戻りもいいのかな、 ということでお許し下さい。以前の「少し遠い岸海のEast of The Sun」にも曲の動画を付けてみました。

ブラッシングノックアウト フロリバンダ

2009年11月25日(水曜日)

 

 この時期にしては珍しいほど良いお天気が続いている。しかし冬至が近づいているので、昼でも日差しは夕方のようだ。

 

 短い陽の中で、仕事場の庭にバラが咲いていた。淡く薄い花びらの主は「ブラッシングノックアウト フ ロリバンダ」。長い名前のバラは、2000年にフランスで確立された品種だという。病虫害をノックアウトする大変強いバラなので、そのことも名前に加わっているらしい。

 

 大丈夫かなと思うほどはかなげだが、芯が強いからこんな時期でも咲いていられるのだと思った。年末に向かいはじめたこの頃、目に優しい姿かたちだった。

海を歩くのはもう一つの睡眠?

2009年11月23日(月曜日)

 

連休最後の夕刻も海へ。

荒れたがる海を夕陽がなだめていた

ゆっくりと変わる雲と陽の色,飽かず打つ波

海は命のみなもと、絵画も音楽もなにもかもの

  

向こうから犬を連れて現れたのは古い同級生だった 

そしてリューボも入り陽を見ていた 

海を歩くのはもう一つの睡眠のようだ。

渚のリューボ

2009年11月22日(日曜日)

 連休のなか日。在宅で重症の方を抱えているので外出は近くだけ。それでも小康を見て携帯持参で海へ赴いた。  

 

 晴天の海で一体の老いた流木にまた出会った。この流木は先週の日曜日,波打ち際で見ていた。それが今日は砂山の上の方に横たわっている。あれからさらに海が荒れて、上へと押しやられたのだろう。

 

先週の写真 

 

 実はこの流木を見たのは今回が初めてではなかった。今年の三月頃、荒天続きの後にちょうどこの辺りで見た。それがいつしか居なくなり、半年以上も経ってまた現れた。とても不思議に思ったが、再会を喜ぶことにした。

 

今日の様子 

 

 春と比べてやや色あせているが、さして傷みもなく言うならば元気そうだ。ぐるっと回って眺めると、ただの流木とは思えなくなってくる。心なしか暖まっているようでもあり、海を懐かしむ風でもあった。さて今度はいつまで居るのだろう、試しにリューボと名付けてみた。  

 

 追加です:今夜、天地人が終わりました。欠かさず見ていた訳ではありませんが、最後のシーンはうるうるとしました。  峠で景明の位牌に「越後じゃ、我らのふる里じゃ」と言う兼続。直江家の終わりをお船に告げる兼続。ドラマと分かっていても、すがすがしさに涙が出ました。一応ファンにさせてもらった景虎も今は懐かしく、ゆかりの鮫ケ尾城跡は間もなく雪に覆われることでしょう。

荒海(つかの間のカタルシス)

2009年11月15日(日曜日)

 

 昨日からの強い季節風が止まらない。残っていた花の移植をあきらめて海へ行った。猛烈な風波はカタストロフィーを想起させ、いつしかカタルシスめいた感覚を覚えた。つかのまの放心状態、浄化?

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