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西国の人 6 大潟の小さくて大きな宝 祝大潟商工会50周年

2010年11月13日(土曜日)

 西国の人5で書かせていただいたように、本日何とか無事に大潟商工会50周年記念式典で講演を済ませた。演題は「大潟の小さくて大きな宝」とさせていただいた。

 

 自分が親の後を継いで上越市大潟区に帰ったのは昭和50年の初夏だった。昼夜なく鳴り続ける電話、日曜日も平日もない診療。患者さんにまみれ地域医療の実践経験もなく精一杯のつもりでも皆さんにはご迷惑をお掛けしたと思っている。

 

 本日午後の大潟商工会50周年記念式典。地元への恩返しのつもりでお話をした。思えば35年前33才の若さで地元に帰った時に、ある種落ち武者の寂しさを禁じ得なかった。そんな自分を密かに勇気づけ頑張れと知らしめた石碑が町内にあった。

 

世界にはばたけ 新潟県上越市大潟小学校の貴重な100周年記念碑文

 

「世界にはばたけ」と刻まれた石碑。昭和48年に建立された大潟小学校創立100周年の記念碑だ。ああ、小さな故郷の町にこんなにおおらかな文言が掲げられている、自分も頑張ろうと元気づけられた。

 

 今日の講演では「西国の人5」までの概要の後、碑文「世界にはばたけ」を写真とともにお話しさせていただいた。

 

 会場
会場1

式典2 
 会場2

 現在石碑は場所を移され校内にひっそりと立っている。碑文のことを知らない先生もおられ、また今日初めて知ったという皆様も大勢いらした。
 碑文多しといえども、これほど立派でひらけたものがある小学校はざらに無いのではないか。スケール感のある教育エッセンスといえるだろう。

 

 現在いずこも地域は追い込まれ、存亡を賭けて頑張らざるを得ない。そんな中大潟商工会の生き生きしたホームページと、皆様の懸命なご努力を目にするにつけ頑張れ大潟!と叫びたかった。上越市へ合併して5年、ますますその思いがつのる。いま身を伏せて耐えてはいても心と意識を広くし、明日への希望へとなんとかつなげたい。

  

 平成の一億円のふるさと創生事業を学童の海外ステイに使っていた旧大潟町。多くの中学生がこの制度で海外を経験した。そのことは今でも生きていると確信している。
 地域振興は重要だ。しかし一過性のイベントで濁しているようでは真の振興にはななるまい。

 

 地域の根底を支え、かつ若者を育てはばたかせることこそ振興ではないだろうか。貴重な税は思慮深く使うべきだ。本日は私なりに日頃の思いをお話しさせて頂き感謝を禁じ得なかった。会場の皆さんの聡明な力感に触れて思いを新たにさせて頂いた。二次会三次会のお付き合いをして嬉しい夕べだった。

 

 ※「西国の人 1~5」は「世界にはばたけ」の碑文に繋げたい一心で続けてみました。お読み頂いた方に感謝申し上げます。

西国の人 5 大潟商工会50周年の記念講演

2010年11月12日(金曜日)

10月6日、ノートに西国の人を綴りはじめて4回まで来た。昔から在宅患者さんの急変などを考えてあまり遠くへ出ない生活が続いている。それで遠方から来た人や遠くへ出掛けてきた人の話を聞く癖がついた。今回のノートの三人もそのような中からのものだった。

記させて頂いた西国人4人のうち三人が広島県にルーツを持たれていた。ノーベル化学賞の受賞者・根岸英一さんは満州の生まれで西国のご出身と言えなくもない。いずれの方にも外に出る果敢な挑戦者の印象が共通していた。

 

思えば学生時代の知人友人も鹿児島、宮崎、高知、広島、兵庫、大阪、愛知、静岡など東海から西の出身者が多かった。彼らは一様に元気だった。

私の拙い経験によると、当地新潟では課題の取り組みに際し、何かと人間関係にエネルギーを費やす。一方西国人たちはリーダーを決めると一丸となって課題に直面し、人間関係はその過程や結果によって構築されたり、再構築される印象を受けた。このような気風が今日も維持されていれば、と遠くから望んでいる。

 

いま社会は閉塞し、萎縮・衰退の危惧が随所に漂う。そんな折々に心を広くして前に出る西国人を思い出す。
ところで明日午後、大潟商工会創立50周年記念式典がある。まことに恥ずかしながら小生が記念講演をすることになった。

 

実は大潟区に昭和48年建立の石碑がひっそりと存在している。単純かつおおらかな碑文で、当地へ帰った昭和50年以来その言葉に勇気づけられた。明日の講演では西国の人を話し、その碑文と希望へ繋げることが出来ればと、思っている。

 海上の虹
いつか見た海上の虹

西国の人 4 早よ出んかい

2010年11月8日(月曜日)

 10年振りにお会いしたM先生はお変わりなく元気だった。長身の先生は教養人の穏やかさの中に信念の骨格をにじませる人だ。また人をとても大切にされる姿勢は、故郷を遠く離れた人ならではなのか。このあたりに広島県出身者は自分くらいしかいなかったとも仰った。温かい西国から一人雪降る越後へ、寂しい夜も悔しい昼もあったことだろう。

 

 当夜、芝居の同窓会はせっかくの大参集にもかかわらず、ある人間のせいで方向も見えない散漫な時間となった。それでM先生に広島県人のことや、新潟県の田舎にある旧吉川高等学校に赴任された訳などを耳を澄ましてお聞きした。

 

 ご自分が広島におられた50年も前の当時は、学校を出て家に居ると「まだ居たんか、早よ出んかい」、と言われたという。出るのは国内ばかりではない、明治から第二次大戦まで、西国の人達、特に広島県民の海外移住は沖縄、熊本、福岡などを離して断然トップだ。彼らはアメリカ(ハワイやロスアンジェルス)、ブラジル、カナダ、ペルー、アルゼンチンそのほか広く世界へ飛び出している。

 

 そして当日驚いたことに、「実は私はハワイ生まれなのです」と先生は仰った。太平洋戦争前夜、ご一家は渡ったハワイから故国へ戻る決断をされたという。帰国後の終戦まぎわ、故郷・広島で被爆を体験をされ、後に広島大学をお出になると1000キロを一飛びして当地に赴任された。

 大学の卒業に際し、日本では珍しい高等学校の醸造科が旧吉川高等学校に設置されると聞いて、即決されたと聞いた。当夜のM先生は、明らかに果敢で独特な広島県人のほぼ全てを備えて座っておられたことになる。幸せな時間だった。

 

 気の大きさ、果敢さ、何が西国人を、そして広島県民をそうさせるのだろう。広島に関してはその昔、瀬戸内海ばかりでなく、海さえあれば国外へも出て行ったいわゆる海賊・村上水軍の気風が残っているのでは、と先生は仰った。

 

 「まだ居たんか、早よ出んかい」はM先生にお聞きした言葉だ。そしてこのたびノーベル化学賞の受賞者、根岸英一先生は「若者よもっと海外へ出よ」と強調された。
 さらに日本のノーベル賞受賞者18人のほとんどが東海以西、西国の人だとあらためて知って、ある種愕然とした。

 海と鳥

 拙ノートは西国の人 3 の続きです。いずれ5へ続けてみようと思います。

いくつかのささやかな文化

2010年11月3日(水曜日)

 時に風雨時に陽がさす不安定なお天気だった。ヒマがあれば海が見たくなる自分、午後の雁子浜で佐渡汽船を見た。

 

 二日余り続いた強風の余波が残る海上を遠ざかる汽船の果敢さに感心した。西風は追い風のはずで、航行はより不安定なことだろう。色々あろうがずっとずっと頑張れ佐渡汽船。

 佐渡汽船 
 果敢な佐渡汽船

 

 午後から寄った樹下美術館。荒れ模様の日にもかかわらずお客さんたちがこられていた。中に、テーブルの紙ナフキンで素敵な細工を残された方がいらして、スタッフに見せてもらった。初めて目にしたがにわかに信じられない出来映えだった。

バレー 動き、表情,,,素晴らしいです

 

 それから昔一緒にお茶の稽古に通ったAさんにもお目に掛かった。俳句をなさっていて、カフェで魅力的な句を聞かせて頂いた。お仕事に趣味に、昔の仲間が頑張っていることはとても嬉しい。こんな再会が出来るのも美術館を営むことの果報にちがいない。

 

 良い文化の日だった。

台風予報の東京へ

2010年11月1日(月曜日)

 年に一回、学生時代の同級生三人が夫婦して集まる会が一昨日東京であった。もう十数年続いていて、上越でも三度集まった。

 

 今回は台風が接近しつつあった東京へ。土曜午後、直江津駅に着くと予定の特急は運休。後発するほくほく線の各駅停車まで待って、何とか予定の時刻に間に合った。ほくほく線のⅠ時間半は、日頃敬愛している上越の先輩と思いもかけずご一緒して、あっという間だった。

 

 一年に一回の会合、年取っていく私たち。シェフ岸本直人氏の料理を4時間堪能した。みなで何を話したか大方忘れたが、高知出身のAは兵隊と虎のことなどを、静岡県のBはショパンは天才など、私は新潟県・頸城平野の水田の素晴らしさを話した。

 関連する隣のデセール(デザート)専門店のパティシエ森田一頼氏は新潟県のご出身だった。森田氏ともお会い出来て、ご活躍をお祈りした。

友人 ワインを選ぶB

 夜更けて河岸をを変えた。臭い物が好きだという友人はさらに粕とりブランデーからマールを選んだ。それから一年に一本、恒例になったダビドフの葉巻を楽しんで日曜深夜のビルを眺めた。

深夜のバー 
マール、グラッパから選ぶ
3シガーセラー 
甘い香りのシガーセラー
   

  ごたんの小児科 
ごたんの小児科

 翌日曜日午後は新装なった根津美術館で宗時代の青磁を満喫した。その後皆と別れて、五反野に開業した息子のクリニックを訪ねた。愛らしい診療所を見て胸がいっぱいになった。夕食は彼ら夫婦と一緒の貴重な時間だった。

 

 台風もさして影響なく、何かと重かった頭が軽くなった週末だった。

西国の人 3 貴重な先生

2010年10月29日(金曜日)

 去る10月10日のノート「西国の人 2 新潟の大学院生さん」で、二年前の秋新潟から訪ねてこられた青年の話を書かせていただいた。彼の果敢な印象は心に残った。

 

 それから一ヶ月少々、ある会があった。そのおよそ10年前、大潟町(当時)の有志で結成された一座「しおさい」で芝居「人魚塚」を公演した。今回はその仲間が集まる同窓会だった。全て手作りの素人芝居「人魚塚」は恥ずかしいことに小生が台本を書いて演出した。あらゆる事で様々な方のお世話になった。

 

 困難な照明は地域の高等学校で学校演劇をリードされた元教師・M先生のご指導を仰いだ。三度の公演のうち最終となった希望館は専門機器が整備されていて、いっそう綿密なご指導を頂いた。美しいだけではダメ、ある種灰色といってもいい色までしっかり出しましょう。先生の言葉だった。役者、裏方みな一丸となり大入だった。

 

 同窓会にはM先生も出席される。先生は当地ではとても貴重な広島県のご出身だ。そのことは芝居の時にお聞きしていた。それにしても祖父が広島県人のポルトガルのKさん、広島から来られた先日の大学院生、海外移住と広島県民のこと、、、。私の頭は広島のことから離れられなくなっていた。
 その広島市で育たれ広島大学ご出身のM先生とお会い出来る。少々異風に感じられる西国の、そして広島県民の気質とは、是非ご本人からお聞きしたかった。
 

 10年振りにお会いした先生はお元気だった。懇親会当日、先生のお隣へしっかり座らせて頂いた。そしてなんと言うことだろう、自分はハワイで生まれたと先生は仰った。

 

午後の海 
今日午後の海、素晴らしい夕焼けの予感。
外出していた妻が夕刻、私の携帯に夕焼けがきれいだと電話をしたらしい。
ちょうど仕事中だった。

 

 当ノートは前回の「西国の人 2」の続きです。4へ続けてみます。

 

母と農道へ

2010年10月11日(月曜日)

農道で 
 二日続きの良いお天気だった。休日のこの日、午後4時ころから久し振りに母を連れ出した。およそ40分、夕暮れの農道はこよなくのどかだった。

 

 私が知っているAさんは毎週日曜日になると、90才を越えた母親の車いすを押して2時間も町内を歩く。雨の日は、どうしてますかと聞いたことがある。

「イトーヨーカ堂を2時間くらい歩きます。たまにみやげも買いましてね」とにこやかなAさん。

 外は素晴らしい。親子にこれ以上の幸せはなかろう、お母さまにはいつも福相が現れている。なかなか出来ることではなく、Aさんは地域のパイオニアだ。

 

西国の人 2 新潟の大学院生さん

2010年10月10日(日曜日)

 二年前の秋、新潟市から当館を訪ねてこられた青年と話す機会があった。カフェでご挨拶すると、「よろしかったらどうぞ」と隣の椅子を引いて勧めてくれた。突然の積極的な振る舞いに少々驚いた。
 わが新潟県人が初対面でこんな風ににするのをあまり見たことがない。どこの人かな思って隣に腰掛けた。やや小柄できりきりとした黒目の人は果敢な印象だった。

 

 彼は都内の大学を卒業してから新潟大学の大学院へ来たと仰った。しかし元々は地方出身との事。出身地が気になって尋ねてみた。
「何処から来たと思われますか」と彼、西の方ですか、と私。
「ええそうです」
「もしかしたら広島ですか」
「そうです、よく分かりましたね」
東京の大学を経由してなぜ新潟へ、ともう一度尋ねた。すると彼は木立の向こうのどんよりとした空を指さして明快な口調で言った。
「こういう空は考え事をするのにいいではありませんか」
思いつけもない返事だった。自分が忘れていた青春の感性と力のようなものが思い出された。明快さといい、異国の、私なりの西国の人のイメージと重なっていた。

 

 ところで私の大学時代は6年間を同じクラスで進む。一学年1クラス、1クラスおよそ100人がほぼ一緒で、九州から東北まで出身地が散らばっていた。入学して間もなく地方ごとに性格や気風に独特さがあることを知るようになった。このことは6年間の軟式テニスの部活、その後8年に近い医局生活でも感じた。

 

 知り得た東海から西の人達は元気で果敢な人が多かった。特に部活の6年間、そちらの同輩、先輩は「オイ杉田!」などと言って気後れしがちな私の肩や背中を叩いた(叩いてくれた)。
 「所変われば品変わる、そして人も」。こんなことを携えて昭和50年初夏、東京から新潟県の現在地に帰ってきた。

 

 ところで広島県人について言えば、海外移住に注目した疾病と環境因子についての著名な研究がある。1950年代から始まってい同研究を読み聞きして以来、広島県民が広く海外へ出ていることを知った。海外移住には複雑な要因があろう。しかし若い頃に垣間見た西国人独特の元気、果敢さは払拭しがたく移住とダブル。

 

 出る人、広島県人。たまたまだったが、二年前にお会いした冒頭の青年のイメージもそこへ繋がった。
 

 彼と会って40日ほど経ったある日、以前大変お世話になった方と再会した。広島県ご出身ということは知っていた。
 (拙文は西国の人 1 から続いています。3へ続けてみます)

今日の雁子浜 今日の上越市大潟区の雁子浜。予報が完全に外れて空も雲も見事だった。

ヘルメット

2010年10月9日(土曜日)

 昨日、産業保健で関係している上越市大潟区の帝石トッピングプラント・頸城精油所へ行った。健康管理の講話と工場巡視の日だった。巡視ではヘルメットをかぶった。

 

 ヘルメットと言えば、上越市はつい最近地震に見舞われ、自宅でヘルメットに触ったばかりだった。それは三年前の7月、中越沖地震の時にそれぞれの家族用として買った。

 

 その地震当日、混雑するホームセンターで残り少ないヘルメットにありつけた時は正直ほっとした。ちょうど不肖小生は上越医師会の会長職をけがしていた。立場に従って上越市の被災地区を回り、夜間には柏崎市の西部地区も行った。現場のことはいまでもありありと蘇る。軍手に長靴、それにヘルメットがあればどこへでも行けそうな気がしていた。

https://www.juca.jp/blog/2007/07/post-31de.html
https://www.juca.jp/blog/2007/07/post-fdda.html
 

帝石トッピングプラントで 
 さて昨日の平時の工場巡視。安全のシンボル・ヘルメットをかぶって工場の保健婦さんと一緒の写真を撮ってもらった。

 そのあとで回った往診先のラジオが東北地方の新たな地震を伝えていた。私たちの国では平時に時として地震が起きるのではなく、続けて起きる地震のあいだに平時があるのではないか、と一瞬思った。 

 

西国の人 1 ポルトガルのKさん

2010年10月6日(水曜日)

 先日、京都のある医院から一通の封書が届いた。差出された先生に面識はなかった。手紙は小生が書いた紹介状を持参した患者さんが来院されたと、知らせていた。簡潔のうちに丁寧さがにじむ書面だった。

 
 三ヶ月前、私は一通の紹介状を書いた。当地を離れて京都へ移るというKさんの為だった。60代のKさんはお元気で少し血圧が高いだけだった。
「主治医殿」、宛先がこれだけの紹介状。不案内な遠くへの転地では、具体的な紹介先の代わりに主治医殿とだけ書くことがある。Kさんは京都へ行ったらご自分で医院を探すと仰った。
 あれからしばらく経っている。どうされただろう、と心配していたところへ今回の知らせだった。

 背が高く眼鏡に笑顔が似合うKさんを初めて診たのは2年近く前だった。顔立ちは私たちと同じ日本人、なのに言葉が片言だった。それでお国を尋ねた。
「ポルトガルだよ」、思いつけも無い国名が返った。語尾の「よ」が跳ね上がって欧米人のイントネーションだ。
「おじいさん達がポルトガルへ移民したのですか」
「そうだよ」
「もしかしたら貴方のおじいさんは広島県の人ですか」
「そうだよ」
人なつこい目をさらに細めてKさんは答えた。
 広島県のことは当てずっぽうだったが、もしやと思って聞いてみた。以前にこれと似たことがあったからだ。

 Kさんと合う少し前、新潟市から上越へ、樹下美術館を訪ねてこられた青年とお会いしたことがあった。その人のご出身は広島県だった。
ー続けてみますー

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