明け暮れ 我が家 お出かけ

潟町村立小学校、分校の同級会。

2012年2月26日(日曜日)

間もなくの開館、新潟市の団体への寄稿、胸突き八丁の図録など、休みは一歩も出ない日がある。

そんな日の本日、日曜日夕刻、潟町村立(現上越市大潟区)小学校分校の同級会があった。

 

分校二年生
優しかったS先生と一緒、昭和24年、分校2年生の記念写真。
60余名、これで一クラス。

 

上掲は分校2年生の時の写真。背景の立派な校舎は潟町村立中学校。当時小学校は土底浜に本校があった。恐らくそちらが一杯なため、潟町にあった中学校の空き教室へ私たち潟町、九戸浜、雁子浜 の生徒が分校として通った、と考えられる。

 

この記念写真には元気な同級生に混じって、すでに他界した仲間が居る。ひもじくも真剣な眼差しの彼ら彼女らを涙なくして見ることができない。

 

本日集まったのは12人だった。遠くへ行った級友もいるが、写真を見るに付けあらためて胸がつまる。私には、この分校同級会は如何なる会合にも増して心を無にして過ごせる。

 

分校は3年生までだったが、大きな行事があると本校まで行列して歩いた。記憶に無いが私はひ弱で、2キロ足らずの本校への道中でよくしゃがみ込んだという。

 

「お前、覚えているか。オレはお前がしゃがむ度に背負って歩いたのだぞ」、いつも聞かされたA君の言葉だ。そのA君は昨年夏他界してしまった。

 

私たちの幼年期はいつもサツマイモがおやつだった。そんな栄養事情が今日影響するのか、A君といい、まことに残念でならない。

 

来年の幹事は私がすることになった。

弟がイタリア行から帰った

2012年2月15日(水曜日)

昨年三月、南三陸町で放し飼で養豚を行っていたすぐ下の弟たちを、地震が襲うとは悪夢のような出来事だった。極めて幸いなことに居住が山間だったことと、学校の適切な避難対応によって一家は深刻な被災を免れた。
震災後、家を失った人達を泊めるなどしたが、昨年11月から一家四人は二ヶ月間イタリアへ行った。

イタリア行きは震災前からの計画の実行だった。弟は20余年前、スペインで羊飼いと暮らすなど、探求と称して何でも地で行く。このたびのフィレンツェもかなり強固?な主張をもって家族を連れて行った。

過日、滞在を終えて無事南三陸町へ帰還した。みやげは現代もののタイルと美しいノートだった。

タイルとノートタイル(手前)とノート

ノートを使うさっそくノートを美術館用に使い始めた。

二ヶ月の滞在はアパート暮らし。8畳ほどの部屋が三つ、それに家具一式と食器、シーツの替えなども付いて家賃は月8万円ほどだったという。

 

もとより経済に余裕などないが、そこの生活が気に入った弟は「オレの前世はイタリア人だ」と言ったらしい。

 

フィレンツェの店々のたたずまいが素晴らしく、もともとカメラマンでもあり沢山写真を撮ったと聞いた。店は仕事場を兼ねていて、食品、楽器、家具、道具類、等々みな魅力的であり、店内には美しい音楽が流れていたという。

無事に帰ったが、新たな計画もあるやに聞いている。そろそろ年でもあろう、健康には気遣ってほしい。

バレンタインデーは春の行事?

2012年2月13日(月曜日)

いつも娘さんとこられるおばあちゃんからチョコレートを頂いた。チョコレートはルッコラに添えられていた。よく新鮮な山菜や野菜を頂くので恐縮している。ルッコラもきっと自宅のもので、青々としたプレゼントに貴重な春を感じた。

 

バレンタインデイ二つのプレゼント 

 

夕刻に美術館のスタッフからも頂いて、厳しい冬は半ばを越したのかもしれない、と思った。昨日から寒波が緩んでいて、今日は久しぶりにしっかり陽が差した。息をひそめて春を待つころとなった。

可愛いごみ箱  燃やす?燃す?

2012年2月7日(火曜日)

まる三日降雪を免れた。今日はよく雨が降り外気温も7℃前後まで上がった。雪は相当に(2,3割?)減っのではないだろうか、良いタイミングだった。週末には寒波が来るが、期間がさほど長くはなさそうだ。 

 

 さて午後から保育園で入園予定児の健診をした。置かれていたゴミ箱のかわいらしいこと。

 

ゴミばご大変可愛いゴミ箱

 

保育園も小さな社会だ。子どもたちの出すゴミもきっと可愛いにちがいない。

 

さて箱の表示「もやせるごみ」はちょっとしたクイズだ。「燃やす」「燃す」、どちらが正しいか?ひらがなだったので余計気になった。私には幾分似たことで「消す」「消やす」があった。

 

小生は上越市大潟で「燃やす」と言って育った。東京へ出て「燃す」と言い始るとすぐに「燃やす」が言いにくくなった。もしかしたら「燃やす」は方言かなと思ったが両方共通語ということだった(このたびネットによる)。

 

但し「ファイトを燃やす」と言うが「ファイトを燃す」とは言わない。ファイトを燃すではファイトが尽きる懸念が生まれ、反対になる。

発生の「燃ゆ」からすれば「燃やす」が順で「燃す」は派生的、あるいは口語の一般化ともとれる。
また語感の「燃やす」には動作も含まれるようだが、「燃す」は無に帰する結果が強調されているようにもとれるが、どうだろう。ゴミに関して言うと関西、東海などでは「燃やせる」、関東では「燃せる」らしい(ネットによると)。

 

もう一つ私に「消やす」と「消す」がある。東京へ出て「消す」を言い慣れるとそれまでの「消やす」がやはりおかしく感じた。しかし今では当地大潟で「消やす」はお年寄りだけの言葉だろう。「消やす」はやはり関西、北陸系統の言葉らしい(ネット引き)。

 

上越市髙田出身の妻は“燃やすと言わず燃すと言ったような気がする、また消やすとは言わなかった”と述べた。

 

「燃やして消やす」、「燃して消す」。火に関係した言葉は変化もワンセットと考えられる。後者には江戸ならではのニュアンスがあるのでは。

 

「もやす」も「もす」も検索すると「燃」が出る。しかし「けやす」では「消」が出てこなかった。言葉には飛び地もあるので少々複雑だ。

藍染かつら 時代とは何と大きな流れなのだろう

2012年2月5日(日曜日)

豪雪続きの空が、昨日の立春に続いて今日も穏やかに暮れて行った。

 

いつしか日曜日の夜は妻が見ているテレビ映画を途中から見ることが続いている。今夜のNHKは愛染かつら総集編(昭和13年・1938年:松竹大船制作)だった。

昭和17年生まれの自分には、映画の名や主題歌をどれほど耳にしたか分からない。しかし途中から(後半を三分の一ほどですが)ながら実際に見たのは今日が初めてだった。

 

小生の父母も同時代の主人公たちと同じ医師と看護婦(看護師)であり、短い時間だったが映画には他人事とは思われない不思議な気持ちがした。以下若干の雑感です。

 

●白衣:妻の指摘だったが、主人公の医師の白衣が現在と全く同じなのに驚かされる。白衣は進化なき服装の代表格かもしれない。

 

白衣70年前の映画でも全く同じ、医師の白衣。

 

●アールデコ調:映画の時代はアールデコ席捲の時代。日本もしっかり洗礼を受けている。女の児の極端なおかっぱから女性の着物に見られる大きな幾何学模様までも潮流のうちであろう。

 

アールデコ調椅子、女性の服装、暖炉、楕円の壁飾りなどアールデコ調満載の場面。

 

●婦長・寮長の絶対:母が学んだ九大の看護学校の寮生活において、寮長である婦長(師長)は絶対者だったという。就寝時の長の巡回では5,6人の同室者は全員正座して待ち、伏して「何事も変わりございません」と言ったと聞いた。

晩年まで母は婦長の姓名をよく覚えていて、くすくす笑いながらよく巡回の話をした。
本日の映画の婦長も大げさに胸を反らし、看護婦(看護師)達はただひれ伏すばかりだった。

 

●時代と主人公:医師である主人公と看護婦だったヒロインの病院が閉鎖を迎えようとしている。時代は「大学を出たけれど」の歌が流行る絶不況。
私事ながら、小生の父は祖父の借金、母は看護師の就職難によって新潟と佐賀からそれぞれ満州に渡っている。満州の多義性と失敗は数え切れない現実ドラマを生んだことだろう。

 

父と母満州で出会った当時の父母。映画の1年後くらいではないだろうか。
温室のような場所で、母の着物の柄の大きいこと。

 時代とは何と大きな流れなのだろう。
映画の登場人物たちはみな懸命に発言し説明しあう。
間もなく始まる戦争、進む統制を考えると痛々しい。

70才、折々の後ろ向き 雪は一休みか

2012年2月2日(木曜日)

70才になり一日がより貴重に思われるようになった。本日は運転免許の更新申請に行った。受付で写真を撮り、簡単な書類に記入するだけで実にあっさり終了した。

 

「講習など何もないのですか」と尋ねると「高齢者講習をしっかりやっていただきましたから」と言われた。確かに何ヶ月か前に実技も行ってしっかり済ませた。

 

ところで70才は聞いていたようにあらためて重い。何かぬかるみや風圧に似た抵抗感を覚える。

 

昨年12月に初めてドッグを受けて多少ショックを受けた。かくなる上はさらに食事に気を付け体操を心がけたい。身辺などを単純にして身軽になろう。できればぬかるみは子どものように楽しみ、風が吹けば力を抜いて背を向け、来た道などを眺めながら進んでみよう。

 

折々後ろ向きになるのはいい考えだ。必要な前の様子は、過ぎていく後ろを見れば大体分かる。自然とそんな風になってきたような気もする。

 

今日の潟町午後から晴れた仕事場界隈。
内陸・山間は豪雪なのに、幸い大潟区は平年並みかという程度で推移している。

 

予断は許されないが雪は一休みと予報された。

今日の貴重まんさくの花 海霧 スズメ

2012年1月24日(火曜日)

夜半から朝にかけて降雪があった。20㎝ほどで止み午後半ばから薄陽が差した。外気温は0℃、風もなく夕刻には気持ちよく晴れた。

2窓辺のスズメ窓辺の手すりに置いた餌場にスズメ。三年目で初めて来るようになった。
窓から20㎝足らずの位置だが、カーテン越しなので安心している様子。

春、我が家の軒下の営巣はムクドリに大半が占領されてしまった。割を食っているスズメには特別な思いがあるので、冬だけでも助けてやりたい。見えないが右側にもう一つ餌台がある。

 

4四ツ屋浜
在宅回りの帰りに寄った四ツ屋浜、通りから30秒で来れる。
犬と散歩の人は知人。右手の海は立ちのぼる霧のためよく見えない。

1まんさくの花
これほどの季節照準はあろうか「まんさくの花」
秋田県は横手、日の丸醸造。 

 

午前に懐かしいO先生から寒中見舞いであろうか、お酒が届いた。純米吟醸 生原酒 中汲みという貴重なラベルだった。栗駒山の伏流水で作ったというお酒。栗駒山は7年前に仙台で亡くなった妹が大好きだった山だ。

 

かって上越で美術教育の教授をされた先生の教養はあまりに深く、恐くて覗けない井戸のような感じを受けていた。しかも謙遜と遠慮、さらにユーモアのセンスも同じくらい深かった先生。

 

当地を離れて三年、上越に何か火が消えたような淋しさを感じていた。本日、突然このようにされるのは先生がよく仰っていた「仁義」なのか。それもお元気な証拠であり、しみじみ有り難く思った。何をお返しすればいいのか、幸せな悩みだ。体を大切に頑張らなくてはと思った。

再びの寒波 そして半だるまとは

2012年1月23日(月曜日)

晴天に恵まれた日の昨夜半、静かだった夜空が不気味にヒュー、と鳴った。今年二回目の冬将軍の訪れを告げる使者の声のようだった。

 

赤い壁の家出かけた先で見た赤い壁の建物。雪の日の風景は一種絵のように見える時がある。

 

今度はどの程度の寒波なのだろう。先週末テレビが知らせた上越地方の気象情報は今週は毎日雪ということだった。先週末そのことをある患者さんと話したら「大したことないかもしれませんよ“半だるま”ばっかりだから」、とおっしゃった。

 

初めて聞く“半だるま”とは、以下のようなことだった。

点々と降る雪が付いた雪だるまのマークは本降りだが、裸の雪だるまや雲が付いているのは“半だるま”。豪雪をもたらす本降りより弱めのマークということらしい。これは患者さんが思いついて、この方の家だけで通用している言葉だと仰った。恥ずかしそうに話されたがなかなかのものだと感心した。

 

どうか今週はその半だるま程度にしてもらいたい。

海沿い山沿いの雪  38(さんぱち)豪雪のこと

2012年1月16日(月曜日)

一般に海沿いは山沿いに比べて雪が少ない。今年はその違いが顕著に現れていて、16日は上越の山沿いで280㎝に届いたため市に災害警戒対策本部が置かれたほどだ。

 

もう頻回の雪下ろしが始まっているという、にわかに信じられない状況だ。

 

潟町の駐車場
いつまで続くか分からないが、ほとんど雪がない当院の駐車場の様子。

 

ところで当地海沿いでも雪下ろしは昭和30年代や60年前後の豪雪で経験している。中でも、38豪雪と呼ばれる昭和38年(1963年)の雪は出来事としても伝えられる。

 

雪は学生だった私が冬休みで帰郷した直後から降り始めた。あちらこちらで立ち往生した列車内の宿泊や炊き出しの様子が途切れがちな報道によって知らされた。

 

その年の町のたよりに「早く雪下ろしをしましょう」というような知らせが載った。記事の写真は我が家だった。山のような雪を乗せた木造三階建ての家は異様な光景だったと思われる。高い屋根に上がった職人さんたちのことが心配で仕方がなかったと後々まで母が言った。

 

豪雪によるたびたびの停電も印象に残る。帝国石油によって可能になったガス灯を点けたが、心細さを伴った小さな灯りがよみがえる。

 

その帝国石油の社員として秋田県から来られたご夫婦にその時の話を聞いたことがある。秋田の雪は非常に軽く、みな風で吹き飛んだしまう。しかしこちらへ来て初めて雪が重いことを知ったという。

 

豪雪のころ、自分たちは借り屋住まいだった。大家さんはお年寄りで、私たちに雪を下ろしてと言った。いざ屋根に上がったが恐くて仕方がなかった。一緒に上がった奥さんは長女を身ごもっていたので生きた心地がしなかったと、振り返られた。

 

降り過ぎる雪への忍耐にも限界があろう、行政のフル活動が求められている。

平清盛は見る予感  そして西行は

2012年1月15日(日曜日)

平清盛2話を見た。王家という言葉遣いあるいは汚いという非難、、、はなから注文が出た。

ひごろ事あれば「いずれ歴史が照明する」と言いつつ、後々色々に解釈される歴史。このたびのことなど、どちらも正解で決着してもらいたい。 

 

ただ衛生は良かろうはずはなく、疫病なすがままの時代だった事だろう。町も人もいわゆる「汚い」と言ったほうが当たっていよう。 そもそも貴族と勃興する武士の話だから、清盛たちは汚く見えたほうがいい(それにしてもあんなに野放図だと分かり易くて新鮮だ)。

 

ところで、登場人物に佐藤義清(のりきよ:西行)がいる。「重代の勇士」と言われる西行が如何に僧となり寂寥の、敬愛の歌人として描かれるのか。あるいは清盛とどのように再会をするのか。物語であってもいい、興味を惹かれる。

 

天地人は景虎への興味から続いてよく見た。おごうはほとんど見なかった。平清盛は見るよう気がする。

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