明け暮れ 我が家 お出かけ

上下浜に花を置いた。

2014年5月7日(水曜日)

返す返すも痛ましい上下浜の海難。
昨夕花を作ってもらい現場を訪ねた。

いつも車を止めるまさにその場所。
ここで夕陽を見ながら妻と車中でお弁当も食べた。

075

 

081

その場所で5人もの命が失われ、目の前に献花が並んでいる、、、。
花に混じってお菓子やジュースが沢山置いてあった。
しゃがんで手を合わせたがやはり涙が落ちる。

ここが好きな人は少なくない。
良い季節ばかりでなく真冬でもだれかが車を止めている。
みな心いためていることだろう。

夕暮れはうすべに色の雲をまとった半月が昇っていた。
尊い魂を慰める風だった。

祝日朝寝の夢 行いの根拠 ユング ジューンベリーを植える。

2014年4月29日(火曜日)

28日月曜日の当ノートを書き終えた時間は午前0時01分でした。当日のつもりで書いていましたが日付の方は翌日29日火曜日になっていました。

記事はそのまま読みますと事実と日付が合わず混乱を否めません。
ブログは便利と言いますか、都合が良いと言いましょうか、日付を訂正出来ます。
そこで本日29日になって記事の日付を28日に修正させていただきました。

さて本日29日は昭和の日ということで祝日でした。
以前にも書きましたが、私はしばしば間近の祝日を知らずにいます。
前夜妻に言われ、突然休みのプレゼントを貰ったような気持ちになるのです。
それが頻回となりますと呑気を越えて働き過ぎあるいは実態は認知症、もしくわ精神の病かもと心配されます。

実は本日が祝日であることを、目覚めて初めて暦で知りました。
目覚めたのは午前10時半近く、妻は美術館の当番で既に居ませんでした。
寝ている間、何度か不十分な覚醒をして〝誰も起こさないのはまだ仕事の時間ではないからだろう〟
と思い、二度寝をくりかえしました。

どうもおかしいと実感し、時計を見ますと10時半、慌てて見た暦が祝日を告げていました。
寝てても良かったのだ、と深く安堵した次第です。

以前にも何度か似たようなことがあり、朝寝の間にしばしば夢を見るのです。
夢は同じような内容で、たいてい大勢でどこかに泊まりに来ています。

皆は自信に満ちた自然な表情で黙々と行動していますが、私は始終うろうろしています。
忘れ物か捜し物のため身が入らないという状態なのです。
捜し物は色々あるようですが、多くは靴です。
その場合、裸足なので余計落ち付きません。
探そうにも脱いだ場所が分からず、取りにも行けずずっと困っています。
そうこうするうち、帰りの列車の時間が近づいてきて焦りながら目が覚めるという案配です。

他人の夢など不興を買うばかりですが、上記の夢はもう起きろという信号とともに私自身を如実に物語るものと思っています。
〝日常の根拠の不明〟
私は日々色々な事に関わって暮らしていますが、
問われれば「根づいているものが曖昧」、もしくは「生きている意味が曖昧」という事かもしれません。
恐らくこのことは本当でしょう。

ところで本日午後、昨年の秋遅く買ったままになっていた「ジューンベリー」の樹を美術館の庭に植えました。
今朝の夢は樹が「植えて」と催促したのかもしれませんし、「私の根を見よ」と言ったのかもしれません。
こうなるとまるでユングの話のようですが、それもまた根拠が曖昧なのです。

連日の好天で庭は乾き、昨日は樹を植えるに適した状態ではありませんでした。
それが今夜半過ぎ、久し振りにしとしとと降り出して、良い雨になってきました。

ジューンベリーの苗木は2メートル少々の株立ちで雑木風です。
4月小花を散らし、6月に黒い実がなるという愛らしい樹です。
根拠に乏しい毎日ですが、上手く根着いてくれることを心から願っています。

ああ昭和29年潟町小学校卒業同級会。

2014年4月20日(日曜日)

本日早く施設の肺炎の方の入院があったが、医師会のゴルフに出れた。メンバーに恵まれ110ほど打って楽しくラウンドした。

その後17時集合で昭和29年卒業の旧潟町小校同級会が鵜の浜ニューホテルであった。
数回出てはいたが名も顔も分からない人が多く、ともすれば60年振りとなる。
それでも、誰それと名乗り合えば、ああ懐かしくも共に学校へ歩き、楽しく過ごした顔が蘇る。

140420昭和29年潟町小学校同級会もう73才の人もいるはず。卒業時230人ほどだったが今夕およそ60人が参加した。
普段診ている人たちに沢山飲まされた。

私たちの頃はまだ中卒の集団就職があった。
高校へ行かなかった同級生も列車で上野駅に到着し苦労した人達がいる。
それが今いい顔になり、なるほどと言う話が聞ける。

女子は女子で小6の担任のY先生が素敵だったので、褒められたくて競って漢字を勉強したと聞いた。
やはり女子は早熟だったのだ。

およそ40年前の開業なので既に多くの皆さんの親御さんを看取った。
そして今同級生の血圧などを診ている。
もう誰一人面倒な事を言う人も居ないし、誰の話も心に響く、

最後に不肖小生のバンザイだった。
3年頑張り、是非ともまたお会いしましょうと述べて声をはり上げた。

すでに30数名が亡くなっている。
戦後の空腹時代を過ごした小学校同級生との再会はやはり胸が熱くなる。
先日は分校、本日は本校同期卒業生の同級会だった。

27年目の桜 長男の中学校入学記念樹。 

2014年4月15日(火曜日)

上越市高田の盛大な桜が半ばを過ぎた。仕事場の大潟区は数日遅れて満開を迎えている。
今、長男が中学校に入学した時に植えた桜が咲いている。満開の桜

頼りないちびちゃんだった苗が27年経って連日の好天を謳歌している。
植栽した当時、ゲームばかりしていたのでそれを畑に埋めたら泣いた長男も、
いまや30代後半で子持ちだ。

大正の窓から二階の大正時代の窓から見た夕映えの桜。

 

2014すみれ子さん講演会バナー楽しみな堀口すみれ子さんの講演会が近づきました。
あと少しお席があります。

第22回 いのちの電話チャリティー茶会が無事終わった 亡き宗好先生の眼差し。

2014年4月13日(日曜日)

早くからお客様が来られたため、予定の開始時刻を30分早めて9時半から「いのちの電話チャリティー茶会」が始まった。
永年協賛を続けられる(株)有澤製作所の茶室「一期庵」で、広間は野村宗幽先生、小間は恥ずかしながら小生宗玄。

満座が続き、有澤宗香先生とお社中の絶大なバックアップを頂いた。
お陰様で一席ほぼ30分、合計12~13席(詳しく数えられませんでした)が無事に終了した。

席主として若いお社中と交替で6回は点前座に、6~7回は亭主座に座った。
終日のどかな日和、茶を愛する200人近くの暖かな皆様に囲まれた。

思えば20年ほど前、亡き師渡辺宗好先生が当茶会の席主となられた。
稽古を初めて4年目だったか、会は私のお点前デビューになった。
上がり性の自分は衆目の小間で手の震えを押さえられなかった。
そのことを言うと、師は「震えるのもご馳走のうちです」と慰めてくださった。

そして本日、何とか落ち着いて茶杓を置き湯を注いだ。
何度も樹下美術館を訪ねて下さった師は、最後の入院直前もカフェに座られた。
本日忙しかったが、宗好先生の眼差しと過ぎた年を思った。

最終席は広間から宗幽先生が加わられ、庵主の宗香先生とお社中が座られた。
お二人の先生が交わされた会話は素晴らしく、改めて茶の深さと楽しさを知らされる思いだった。

待合で点心や飲み物をお仕舞いまでふるまわれた有澤製作所会長さん、スタッフの皆様、真に有り難うございました。
お庭の桜もぴたりと満開でしたね。

 床床は方谷浩明(ほうこくこうめい)の扇面「雪寒北嶺 梅薫南枝」を架け、
齋藤三郎の辰砂鶴首に姫辛夷とクリスマスローズを生けた。
方谷浩明:臨済宗大徳寺派512世。昭和41年に管長
(写真・妻のスマホです)

花生けのほかに待合掛け物、水指、菓子器(三器)、お茶碗(2碗)で陶齋の作品を用いました。

茶室にて茶室にて。(どなたかがお撮りになり送って下さいましたのを4月15日掲載)

月後片付けをして帰りの車中は一挙に疲れが出て居眠り寸前、大潟スマートインターを通り過ぎようとした。
帰宅して見た月がにこやかに笑う風だった。

教科書と帛紗(ふくさ)一日活躍してくれた帛紗(ふくさ)とお世話になった教科書。

「第22回いのちの電話チャリティー茶会」 ポスターの女性。

2014年4月11日(金曜日)

明後日4月13日(日曜日)の有沢製作所茶室に於ける「第22回 命の電話チャリティー茶会」が迫りました。
関係者のご努力で長年継続された由緒のお茶会で小間の席持ちが不肖小生、宗玄。

大層なお道具はありませんが齋藤三郎(陶齋)さんのお茶碗や水指、花生けなどを用い、有澤宗香先生社中のお力をお借りして一日頑張りたいと思っています。

ところで当茶会のポスターに茶室の庭で桜を見上げる二人の女性が写っています。
かっての茶会ののどかなスナップ写真です。

いのちの電話茶会ポオスター

ところが写真の手前の女性は、偶々(たまたま)先日行われた潟町小学校分校同級会に参加された級友でした。
彼女の亡きお母様はその昔裁縫の先生をされ、冬期は東頸城郡などからも生徒さん達が泊まり込みで勉強に来られた、
と聞きました。

そのようなことなどもあって、すらりとした彼女は着物がお似合なのです。
縁あってお茶の稽古も共に亡き渡辺宗好先生の許へ通いました。

茶会が終わったらポスター頂戴、とその人。
上げますとも、短くも貴重な人生ですから。

教育世代の違い? 「学校で何をして遊びたいですか」「勉強したいです」

2014年4月7日(月曜日)

本日のニュースで多くが入学式を報じていた。
以下のようなコメントやインタビューが興味深かった。

●夜のニュース。新潟市のある大学の入学式で〝ゆとり世代の初めての大学入学〟という趣旨のアナウンス。
※ゆとり教育が実施された2002年に小学校へ入学した人達のことらしい。

昼のニュース。新潟市の小学校の入学式で新入生へのインタビューのやりとり。
インタビュアー「学校で何をして遊びたいですか」
男子「勉強したいです」
インタビュアー別の生徒さんに「学校で何をして遊びたいですか」
女子「色々勉強したいです」

インタビュアーと生徒さんの答えがかみ合わない。
もしかしたらインタビュアーは途中からゆとり教育を受けた世代の人なのか。

夜のニュースで同じく小学校入学式の映像を伝えたスタジオキャスターのコメント。
「今年は勉強したい、という生徒さんが多いようですね」

ゆとり教育世代と脱ゆとり、、、小学校のインタビューはある種象徴的に写った。
あるいは偶々(たまたま)だったかもしれません。

※脱ゆとり教育:小学校で2011年度、中学校で2012年度、高校で2013年度から導入された。
今年小学校入学の生徒さんと親御さんには、
3年前からの小学校の方針転換が保育園、幼稚園などを含めすでに全体的に反映されているのか。
となると文科省の影響力はやはり凄いという事になりますが、、、。

 

2014すみれ子さん講演会バナー

 

4月1日の春風。

2014年4月1日(火曜日)

昨夜来の風が弱まり穏やかな日射しの一日だった。

昼休みに絵筆を動かしているとカサ、カサッ、、、カサ、カサッ、、、と小さな音がする。
ガラス戸が開かれていてカーテンがわずかにレールを行ったり来たりしていた。

四月の風

 

昨晩のタモリはつまらなかったが仕方が無い。前の晩勝手に彼のエンディングを空想して楽しませてもらった。

届いたデジタルフォトフレーム ITは第二のDNA。

2014年3月29日(土曜日)

ようやく子どもが出来たせがれ夫婦が東京から妻の携帯(私のより上等)に盛んに写真を送ってくる。
8ヶ月になったばかりの孫の写真であり、妻は携帯から私のパソコンに送っていた。

ところが本日デジタルフォトフレームという物が倅から届いた。
9インチの画面に孫の携帯写真が随時入るという今時のシステム。

デジタルフォトフレーム1ぼんやりした家の片隅がしゃきっとした。

横から横から。

 

デジタルフォトフレーム2バイクに娘を乗せて喜んでいる。

テレビは見るが録画はしない、ビデオやDVDも先ず見ない我が家。
この度のはしつらえによって時計、カレンダー、場合によってテレビまで見れるという。
画像専用の卓上タブレットというようなものか。

今まで送られた写真はパソコンから中々出なかった。
不思議な事に今回一度見ると、また来ているかな、と見たくなってくる。

説明書によれば〝仕事場の机に置いてボーイフレンドの写真を〟など幾つも用途が書かれている。
その6番目に〝定年後の夫婦のコミュニケーションに孫の写真を〟と言うような事があった。

デジタル、ウエブ、クラウド、、、。ITは世界の隙間という隙間を細分化して埋め尽くす。
飽くなき拡大志向は〝第2のDNA〟というべきある種生命体ではないのか、と思った。

子猫ちゃんに見えたが、、、、。

2014年3月24日(月曜日)

昨日に続いて晴れ、気温もぐっと上がって午後の在宅回りで車が示した外気温度は16度だった。
畑を耕す人やランナーが急に目立つようになった。

お陰様で樹下美術館はこの二日間で52人の来場者さんがあったという。

19才のミーちゃん

 

ところで在宅訪問のお宅の帰り、玄関先に小柄な可愛い猫ちゃんがいた。
美人な子猫ちゃんですね、と言うと
もう19才、人間ならうちのおばあちゃんと同じ100才なんですよ、と奥さん。
そう聞けば確かに腰部の筋肉が少ない、、、。

猫を良く知っている人は一見して年が分かるのだろうが、私は幼い風貌にとても驚いた。

2025年1月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031  

▲ このページのTOPへ