明け暮れ 我が家 お出かけ

ああ図録 お雑煮 休み中の運動。

2015年1月4日(日曜日)

貴重な年末年始の休みが終わる。

休みのあいだ映画を観たがおよそ机で倉石隆と齋藤三郎の「収蔵図録」と取り組んだ。
図録、これが8年過ぎてもまだ出来ない。
昨年の今頃は5月の拙個展か6月の開館記念には出すつもりと書いたはず。
しかし立派な表紙も出来たのに、個展が近づくにつれ絵に追われて図録は放られた。

その後夏が来て秋が過ぎたが、手は付けられなかった。
さぼりのほか色々理由がある中で一番は、内容がごちゃごちゃして気に入らない事。
直すにしても編集に使っていたエクセルが非常に不便で鬱陶しい事などがあった。

それで昨年12月に入るや、1作品だけのページを増やし、
編集は使い慣れた「一太郎・玄」を用いた。

陶齋、倉石隆それぞれ一冊ずつの予定だが、両方で10ページほど増える見込みとなった。
(陶齋79ページ、倉石隆63ページ)
ようやくすっきり気持ち良く見える。

費用はかさむが、替えてはいられない。
何しろ、これが出来たら死んでもいいと、いつしか思うようになってしまったのである。
とはいえ、印刷会社によって2ページに亘る挨拶文の英訳も上手く出来上がり、とても嬉しいのです。

雑煮本日の雑煮。「できました」と言われたが机上の作業に切りが付かず餅が伸びてしまった。
(柚子が沈んでタケノコが威張ってます)
暮れに牧区や平丸方面から頂いた物も美味しそうに出ていた。
グラスは義兄から頂いた貴重な現代九谷の器。ガラスと磁器が合わさっていてとても変わっている。

6日間の休みに外出が少なかったので階段を昇降した。合計3600段にはなった。
(上り下りが入りますので合計7200段でしょうか)
また最近軽めのダンベルで筋トレを行っているが、冷え性にも効くとは思わなかった。
閉眼片足立ちの平衡トレーニングは頭の為に良さそうだ。

十重二十重の駅伝見物 近くの「とくっと」で夕食。

2015年1月3日(土曜日)

年末は妻の母の逝去や急患の用件で慌ただしかった。
新年になったて三日目、ようやく少し落ち着いてきた。

昼間の箱根駅伝の様子を時折見たがいつも通り現地は晴れ上がっている。
沿道の応援も驚くほど多い。

青山学院大学が大幅な時間短縮で優勝した。
上位常連校と言われ、おすましの都会的なイメージだった大学の幅広さを知らされる。
私の学生時代、試しにと言って同大学の学食でカレーを食べたことがあり、広くてびっくりした。

コブシ表紙差替用 002復路の都内。十重二十重の応援で、はたして中に居る人は見えるのであろうか。
中にはスマホ片手にテレビカメラに向かって手を振る人もいる。
選手が見えなくとも、手中の映像と次々変わる現場の雰囲気で特別な臨場感があるのかもしれない。

夕食は亡き母へのご弔問客や片付けで忙しかった妻と近くの「とくっと」へ行った。
ある方のブログを見て行ったのだが、このあたりは雪がほとんどない。

コブシ表紙差替用 017

コブシ表紙差替用 019サラダと味噌ラーメンを美味しく食べた。

とくっと照明店内の照明。この程度で大好きなアールデコを感じてしまう。

診療の年始休みは明日まで、どうか晴れますように。

なくし物が出てきた 次の午年とは。

2014年12月30日(火曜日)

いよいよ2014年も押し詰まって来た。
そんな折の4,5日、キーホルダーを紛失したままだった。

車は予備の鍵で運転出来たが家の鍵やセキュリティのスティックに不自由していた。
合い鍵の製作を覚悟した本日昼、自分が座っている椅子の背もたれと座布団の隙間にあった。
鍵を失くしたまま年を越すのは心細かったが、出てきてほっとした。
幸せは(真実の)光を当てればすぐそばにある、、、秋に読んだ「青い鳥」を思い出した。

039もっと隠れていました。

私は子供時代から失くし物忘れ物が多かった。
小学校でしばしば本やカバンを持たずに登校したり、中高生で週末の下宿からの帰りの汽車で何度も荷物を忘れた。

仕事をするようになり、往診先から忘れた聴診器が届けられたことが二三度はある。
このことは私だけでなく、亡き父も聴診器や往診カバンが届けられていた。

遺伝かなと思っていたところ、長男が小学一年生になった新学期、何かあだなが付いたかと尋ねた。
「忘れ物キング」
驚くと共に気の毒になった。

そんな自分は干支がちゃんと言えない。
昨年まで「ね、うし、とら、う、たつ、み」が限界、今年になって「うま、ひつじ」を覚えた。
今年は私の干支の「うま」だったので覚え、語呂が良いのでひつじまで行った。
しかし再び忘れそうな気がする。

ところで年月のスピードは猛烈に速くなっているのに、次のうま年など気が遠くなるほど先に感じられる。
不思議なことだが、生きているかどうかわからない事。
あるいはそもそも干支に無頓着。
何より、早く来てほしくないという深層心理が正解らしい。

優れた華道教授だった義母の逝去。

2014年12月29日(月曜日)

長年、華道「古流松應会 深雪支部」を担った義母が去る12月26日夕刻に亡くなった。
幾つか終末の起伏を越えて頑張られた末の清々しい旅立ちだった。

華道教授として、必要なことを即座に答え続けられた優しく立派な方だったと思う。
多くのお弟子さんたちと8人の孫ひ孫、そして丁重な読経に送られた旅立ちだった。

夕空28日夕刻、斎場から帰りのバスで見た南葉山、春日山方面の明るい夕空。
すでに日の入りがわずか遅くなり、日が長くなり始めている。

手厚くして頂きました全ての関係者の皆様に心から御礼申し上げます。

古流松應会「深雪支部」の益々のご発展を心よりお祈り申し上げます。

キューバと米国 大人の国へ 暖かなルーベン・ゴンザレスのルンバ。

2014年12月22日(月曜日)

雨交じりのみぞれの一日、美術館の周囲で20㎝、診療所では10㎝ほどの積雪で推移している。
しかるに現在夜8時半すぎ、数回昼間のような稲妻がカーテンを染めて大音響が響き渡った。

過日農産物を届けて下さった方の山間地区は一時2メートル近く積もったという。
雪に阻まれ帰宅できなくなった身内のために、家族が除雪機を乗せて救出に向かったとも聞いた。
さほど遠隔でなくても、地勢によって雪の状況は非常に大きな違いがある。

さて寒気の真っ最中、キューバとアメリカ合衆国が国交正常化に向けて動き出した。
反米の社会主義国と米国フロリダ南端とは、わずか150キロ足らずの距離だ。
近くの者同士を敵対させるような悲しい政治では本当に困るのである。

胸傷むニュースばかりの中、このたび両国が恩讐を越えて関係改善に向かうことになった。
これには米国の部分的な寛容さもあろうが、カストロ政権の(フィデル→ラウル)洗練さが、ものをいっているのではないだろうか。
当事者には複雑な要素もあるようだが何とか粘って上手く行ってほしい。

そもそもキューバは偶像やモニュメントなど指導者の美化崇拝を避け、貧しいながら医療に全力投球をしてきた。
そして野球や音楽が大好きなうえ親日国家である。

このたびのことは突然始まったことではなく、おそらく長く忍耐強い外交交渉が生み出した成果ではないのか。
好き嫌いの感情論のあげく、力を頼りに必死に固まるばかりのどこかの国々と違って、大人(おとな)だなあと感じるのである。


キューバのピアニスト、ルーベン・ゴンザレスの「Melodía del rio」。
川のメロディーという意味でしょうか。

 

明日は火曜日、定期休館日ですが、祝日ですので開館いたしてます。

上越市沿岸の雪 円安どきに孫の海外土産。

2014年12月17日(水曜日)

昨日に続く強力な低気圧と寒波で東京と静岡県から雪見舞の電話を頂く。
ところが幸いなことに、上越市頸城区の樹下美術館で積雪15㎝、診療所の大潟区はほぼゼロなのです。

丸一日の強風と雨は、沿岸に消雪作用をもたらしました。
しかし今夜、風が止めばシンシンと積もることが考えられます。

駐車場今夕、仕事場の駐車場。屋根も地面も雪は見られません。
小さな駐車場が三カ所ありますので、雪はいつも心配です。

孫のみやげスポーツイベントで出かけた高2の孫のニュージーランド土産。
サクサクとしたクッキーは美味しかったが、$15が目に止まった。
超円安の時節、気遣いが心に沁みる。

投票へ行った人の貴重。

2014年12月14日(日曜日)

昨晩の予報ほどは降らなかったが、雨交じりのみぞれの一日。
衆議院選挙があった。

暮れる美術館本日閉館間際の樹下美術館。

除雪がいまいちの駐車場の雪かきをしてから投票場へ行った。
投票場の広い駐車場は待ちが必要なほど混んでいた。

悪天候の中、これだけ人が来る。
黙々たる分、選ばれる人よりむしろ選ぶ人の方が立派ではないかと感じた。

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25日が今年の最終日、本日ご来館の皆様から名残惜しさが伝わった日曜日でした。

不意をくらった雪の一撃 岩の原葡萄園着任の睦まじいお二人。

2014年12月7日(日曜日)

昨夜からの雪は冬将軍の今期最初の厳しい一撃でした。
スタッフのお陰で何とか確保した片側の駐車場、5人の勇敢なお客様も見えました。。

002昨日正午すぎの四ツ屋浜。
海辺がこれだけ積もるのも珍しい。

雪の玄関昨日午後、雪中の美術館。

さて昨夕は友人夫婦を交え、岩の原葡萄園の棚橋さんご夫婦と大潟区土底浜「都寿司」で食事をしました。
悪天候の夜、ご夫婦は西国からの新着ながらしっかりした長靴の出で立ちで、雪国の人になりきって見えました。

岩の原ワイン醸造を指導された坂口謹一郎博士が先の大戦の戦渦を避けるべく東大の研究室を資料ごと現・高田農業高等学校に移されたこと、当地で続けられる膨大な気象・地質データの収集分析、生きている農芸魂、暖かな上越の人々のことなど話尽きませんでした。

025目の前で逞しく成熟する深雪花・赤(左)、金色の豊かなレッド・ミルレンニュームのグラス、右・そのボトル。
写真にありませんが、最初から堂々としていたヘリテージ2011も文句なしでした。
スパークリングワインは泡が細かいほど良く、グラスを耳に近づけてその音を聞く楽しみを教わりました。

026後半食べ物は次第に優しくなり、デザートは意外にも「焼き柿」。
満を持してレッド・ミルレンニューム13が空けられ、天上へ導かれる心地になりました。

荒天の中、ご夫婦の自然な睦まじさは印象的でした。
果敢に上越に来られたお二人を心から応援しています。

冬を迎えるもう一つの密かな意味?

2014年12月5日(金曜日)

寒波が訪れていて午後車による車外気温の表示は2℃だった。
山陰~北陸は随分ひどく降られたようだが、上越市の樹下美術館周辺は痕跡程度だった。

雪本日美術館に残った雪。例のモミジの足もとです。

状況は上空の寒気の位置で一変する。
一方で気象予報士たちが日本海の海水温が高い、とまた言い始めた。

毎冬のことだが、雪は遅かれ少なかれと祈る毎日になった。
そのことで往診中、ふと雪と死は似ている、と思った。
死も雪も、
「必ず来るが、それまではまだまだ」と思っている。
「いずれ来るなら少しでも遅いほうがいい」と思っている。
「なるべくなら少ない(楽な)ほうがいい」と思っている。

なるほど似ている、もしかしたら、
「私たち雪国の人間は、死を迎えることに似た心境を毎年密かに経験している」
のではないだろうか。

それによって他所の人たちよりも
「死を不安視してあれこれ考え巡る度合いが幾分軽る目になっている」
ことが考えられまいか。

見方を変えれば、
「それだけ冬は厳しい」と言うことになる。

「私たちは毎年この厳しい冬を迎え、のり越えることで」、
「いつしか死を迎えそれを越えるに似た修養(修行)を毎年積んでいる」可能性がある。
ならば、
「つらい冬(雪)には、一種天の贈りものもそっと込められている」のかもしれない。

但しこれは終末に対する概念上のことである。
生きている限りの疾病予防は、すこやかな生と死への貴重な備えであることは論を待たない。

変妙な論を並べて申し分けありません。

紅茶本日午後に寄ったカフェで紅茶を飲んだ。二杯分のポットで550円でした。

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私が寄った午後、後からお入り下さった若いお二人さん、ブログを見て下さっていると仰り嬉しかったです。
本日は妙なことを書いて申し分けありませんでした。
皆様またお待ちしています。

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さて23時30分の追加です、静かだと思っていましたが本降りとなり積もり始めました。

風が残った日。

2014年12月3日(水曜日)

日中、昨日吹き残した風が止まなかった。
本日は概ね空の半分ほど青空が見えたが、雲は忙しそうだった。

1風強くレンズ雲に類似する大小の雲が生まれては消える。

43軒の在宅回りの水田地帯、いつしか沢山の雁類が来ている。
元気な冬鳥を見ていると「寒い」と言うのに気が引ける。

087雲間からいたずらんぼのような月が覗いていた。
6日が満月らしい。晴れてくれないかな。

夕刻ようやく風の音が止んだ。

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