明け暮れ 我が家 お出かけ

ああ小島真(おじま まこと)校長 58年後の有り難み。

2015年8月1日(土曜日)

私は昭和32年(1957年)に新潟大学教育学部附属高田中学校というややこしい名の学校を卒業した。
入学したばかりのころ、自分で書かなければならない書類の学校名にうんざりしたのを昨日のように思い出す。

本日昼、その学校の同級会があった。
前回はいつだったか思い出せないほど間が空いていた。
(よく覚えていないが15年前?)

この中学校の卒業生の多くは高田高校と北城高校に進学する。
両校は大規模で、そこでの同窓、同級会は盛んに行われている模様だった。
しかし私はこれに参加したことが一度も無い。
病による留年で高校の卒業が一年遅れたことと、大勢がどうも苦手である。

このたびは〝いくら何でも、死ぬ前にもう一度〟というような密かな本音によって誰かが言い出し、高田の貴重な有志が幹事を引き受けて実現した。

105名の卒業生のうち40名が参加した。
73,4の年令を考えれば、良い出席率ではないだろうか。

さてクラス会は、過ぎた年月の威力をひたすら知らさせるばかり。
誰が誰やら、美味しい料理も立派な会場も、どこか浮き世離れして見え、
なんだかあの世で集まっているような気がしないでも無かった。

これが年月、これが現実、、、。
但し、但し時間と共に段々とクラス会らしくなってきた。
忘れがたい顔があり、遠慮がちにニックネームが聞こえ、その人らしい人生がささやかれ、
自分の恥ずかしいエピソードを聞き、いまだ変わらぬ優しさや語気に触れた。

誰かがぼろぼろの卒業記念文集を持参していて、それが回された。
末席に居たので時間が無く、何故か気になった校長の巻頭言を拾い読みし、急いで写真に撮った。
私の呑気な駄文はどうでも良いが、巻頭言は胸を打った。

 

巻頭言巻頭言「卒業生によせる」

 昭和29年の入学式で、負けて8年も経つのに「国破れて山河あり」と述べられた校長。
膨大な仏教美術の詳細を関西修学旅行の宿題とした校長。
恐らく初めて読んだその巻頭言「高田の町」は以下の主旨で進められていた。

いわく〝高田というところは世に知られた雪の町である。そこでの生活は何事も雪を中心に固く希有なバランスで形成されている。バランスは小さな地域に平和と調和を約束するものであるが、近年、受験の狭き門に晒されるようになった。このため個人が前に進もうとすればこのバランスを破らなければならず、背後の世評や失敗の苦悩と憂うつさを背負うことになる〟と述べる。

最後は次のように締めくくられていた。
「せめての願いは試験を受ける人に、このようなあせりを抱かせない様温かい思いやりをよせて、のしかかる運命を、苦悩を少しでも軽くさせたい」

ああ何という含蓄、何と暖かな言葉だろう、親以上ではないか。
偉くなれ、世に尽くせとは言ってない。
あの大きな両眼を窪ませ、痩せてまるでガンダーラ仏のようだった小島校長。
卒業する私たちにこんな言葉を贈っていたとは、58年経って今更ながら有り難かった。

牧区から届いた野菜 ムクゲにベニシジミ。 

2015年7月28日(火曜日)

本日牧区の親戚からずっしりとした箱が届いた。
中からトマト、胡瓜、トウモロコシ、ジャガイモ、ピーマン、茄子、枝豆が次々出てきた。

丹精込められた野菜は雨土の恵みを現してとても美味しそうだった。

053ご夫婦の脚力が伝わる山の幸。
明日からの食卓が楽しみです。

 

036美術館の庭をアゲハチョウたちが忙しそうに横切って行った。
ムクゲでゆっくりしていたのはベニシジミ。

本日貴重な更正福祉に携わられるご婦人方が大勢でお寄り下さった。
近くで催された研修の合間、休憩をかねてのご来館だった。
展示、お茶とも喜んで頂き、本当に有り難うございました。

みんなで遅刻 ケータイを持たない外出で陸の孤島化。

2015年7月27日(月曜日)

昨夕、東京からの客である知人と食事をするため、高田のホテルで待ち合わせをした。
17:45ロビー集合。
万事妻任せの私は財布もケータイも持たず診療所を出て、妻が待っているはずの美術館へ向かった。
ところが着いてみると妻の姿は無い。

「どうしたのだろう」美術館の電話を使って妻のケータイに掛けたが伝言設定だった。
「少し待ってから、先に出る」と伝言、返事が無かったためやむなく高田に向かった。
客人は几帳面な人だ、美術館で手間取ってしまい焦った。
それにしてもこんな時にケータイが無いと陸の孤島に居るようになる。

悪いことに高田に入って高速道路を降りると、珍しくひどい渋滞だった。
何度も信号待ちした後、稲田橋を渡るのに10分以上を要して完全に遅刻である。
付近の関川で「直江津祇園祭」に向かう「みこし渡御」の祭事が行われていた。

6,7分の遅れでホテルに着いたがロビーに知人も妻も居なかった。
まさか私を残して出ることはないだろう。
財布が無いので妻へ公衆電話も掛けられない。
行く店も妻任せで名を聞いていない、そもそも集合場所がこのホテルだったのか。

駅前のロータリーを回って気を静めてみる。
戻ってホテル脇に停めると知人が慌てて出て来た。
「遅れて済みません、訪ねたお宅で長引いちゃって」
と盛んに謝る。

ひとまず私の車に乗ってもらったが、どこへ行けばいいのか。
すると知人のケータイが鳴り、妻からだった。
最初の待ち合わせ場所が美術館でなく診療所だったと言い、夕刻の用事にも手間取ったらしい。
いまホテルの駐車場に入った所と言うと、間もなくはーはーと言って妻が現れた。

やれやれ、最も用心の悪かった私が一番乗りだったとは。
全員遅刻となったが、なぜか皆ほっとしている。

来る途中の妻は店に遅刻の侘びを入れてあり、お陰で楽しい食事となった。

 1 県内産、地場産の凝ったオードブル.。
開店6周年記念メニューはみな口に美味しく胃に優しかった。

2

「私はなにかと数を数える癖がある。公園の木も年月や時間も」
「駅の階段は数えながら上り下りすると安全」
私と同じ年の几帳面な知人の幾分不思議かつ為になる話だった。

帰路、車が二台になったが、飲んだ妻は一晩高田の実家に泊まり、
飲まなかった私がそれぞれの所へアッシ-をした。
ケータイと財布を持たずに外出した私が最もいけなかったのは論を待たない。

昼寝に父が現れた 朝日池の蓮。

2015年7月17日(金曜日)

「ああ元気だったんだね」
やっと言うと嬉しくて言葉が出なくなった。
本日午後、短い昼寝に30年も前に亡くなった父が突然現れた。

パーキンソン病で背が曲がり、何も言わず悲しい顔ばかりしていた父。
それがにこやかに笑いながら部屋に入てきて私の隣に座った。

-こんなに元気だなんて-
-こんなに元気だなんて-
嬉しさのあまり目が覚めると涙が出ていた。

昼食を美術館で摂ることになっていたが、赤い目が恥ずかしい。
時間延ばしに朝日池を回った。
池にぽつんぽつんと蓮が咲いていた。

 

朝日池の蓮 この蓮が一番きれいだった。

忘れてた父を夢見た昼の蓮

亡くなって30年近く経つ父の夢をみるとは。
この年になって親に甘えてみたかったのか、と思った。

同僚の弔いの後で山間を少し走った。

2015年6月20日(土曜日)

先日亡くなった医師を送る通夜と葬儀が、昨夕と本日正午、妙高市で行われた。
読経や鐘の音のたびに故人の面影が仏のイメージへ昇華していく。
心込められた経や鐘、そして焼香には強い作用がある。
残された奥様の愛惜に接し、亡き人の幸せを思った。

葬儀のあと、送迎してくれた妻と県道飯山線の途中から関山方面へと少し走った。
雨交じりの山間に立葵(タチアオイ)が咲き、野菜畑はみずみずしかった。

1水田の立葵。

2沿道の立葵。

3茄子畑。

4トウモロコシ畑。

走りながら故人はこの辺りも往診したのではないか、と思った。

かって頂戴した美味しい蕎麦のことも思い出された。

頸南地方の流れと草花そして蝶 ある医師への冥福。

2015年6月16日(火曜日)

発熱をする方が高齢者を中心にみられている。

さて一昨日当地の頸南地方に向かって石垣を見に行った。
本日は、その折りに撮った路傍の写真を掲載させて頂きました。

斑入りどくだみ赤い斑入りのどくだみ。

 

流れとどくだみ涼しげな用水路にどくだみの白い花。

 

ヒョウモンチョウ林道からゆっくり舞い降りたヒョウモンチョウ。
本日亡くなられた医師の使いだったのか。

本日、ある医師が60代の若さで亡くなった。
私より5才若かったが、小生の当地医師会長時代を確固として支え下さった。
いつも覚悟のようなものを身につけ、「やりましょう、先生」と何度も助けられた。

私も身を削ったが彼は私以上だったかもしれない。
本当に残念です、衷心よりご冥福をお祈りいたします。

残念の中に快心もあったゴルフ 妙高山 素晴らしかった雲。 

2015年5月31日(日曜日)

11組ものゴルフコンペが松が峰カントリークラブであり、壊れた靴を新調して臨んだ。
曇りから晴れとなり、102という成績はビリに近かったが、中には快心の当たりもあり気持ち良い一日だった。

雲と妙高山ダイナミックな雲で山頂が隠れている妙高山(コースから)。
私が入れた池が見える。
〝裾を見て頂きを知る〟という言葉があるどうか分からないが、山の雄大さが窺われる素晴らしい眺望だ。

米山尾神岳家に帰る直前に寄り道した田んぼ(向こう左に米山、右尾神岳)
よく来ている所だが、用水路が合流しているのを初めて見た。
町のY字路(三叉路)と同じく、このような眺めは何故かわくわくする。

遠くの妙高山と雲振り返れば遠くに妙高山。

昭和40年頃か、今27ホールの松が峰カントリークラブが9ホールだった時、一人で訪ねた。
その日埼玉県から来たという知らない人と一緒に回った。
その人は紳士で、ヴィンテージ風のクラブを使っていた。
当時はただただプレーに夢中、妙高山などの景色を見ている暇など全くなかった。

貴重な水、貴重だったポンプ。

2015年5月27日(水曜日)

暑くなり、水が貴重な季節になってきた。
地元上越市大潟区は沿岸の砂丘地で、地域によって昔から水で苦労してきた。

私が小学校低学年の頃まで、我が家は100メートルほど先の井戸から水を運んでいた。
水を汲んだ桶をテンビンの前後に掛けて担ぐのである。
水汲みは嫁が行い、重い桶は揺れるし途中に坂もあって辛い仕事だった
佐賀県出身の母は「越後に来て雪で悩むのはいいが、水で苦しむとは思わなかった」と言っていた。

先祖が井戸を掘ったらしいが、出なかったと伝えられていた。
見かねた父は名人という「井戸源」さんに頼み、夏に向かって井戸掘りを始めた。

組まれたやぐらの滑車を使い、ロープをくくり付け、枠で囲った穴へ降りて行く井戸源さん。
やぐらの脇には掘った土砂が日に日に高く積まれていった。
学校から帰ると「出た?」と毎日母に聞いた。
出てもいい深さを十分越えても駄目で、母は井戸源さんが心配だとよく言った。

それがある日ついに「出た」。
きれいな水を期待したが、実際は茶色く濁っていた。
それでも何日かすると澄んできて、水はとても冷たかった。

鉄管と電動ポンプを取り付て高い水槽にくみ上げ、水道組合を作り近隣に配管した。
深井戸のせいでどんな年も涸れることなく、後々まで父は感謝された。

ポンプ (2)空き地に残されている手こぎポンプ。
ポンプは畑でよく見るが、旧国道沿いの空き地のは家庭で使っていたものだろう。

後に自治体の水道が整備され、わが家の井戸は厚いフタをされてそのままになっている。
事情によって家が壊された沿道の空き地に、ぽつんとポンプだけ残されているのを目にする。
貴重だった水、貴重だったポンプが潰されずに残っているのも分かる気がする。

樹下美術館のカフェに来た蓄音機 往診カバンのライオン。

2015年5月19日(火曜日)

去る16日のSPレコードコンサートの後、持ち主のS氏は小さなルミエールだけ持ち帰られた。
そして次回のこともあり、大きめ方はカフェに置きましょう、いうことになった。

本日見ると、カフェの畜音機は周囲の本や食器、庭や自然と気持ち良く溶け合っている。

008憩っている風のHMV163蓄音機。
英国から日本に渡り恐らく幾人かの持ち主を経て柿崎へ、そして樹下美術館へと旅した。
激動の昭和時代から平成へ、往時の持ち主たちはどんな思いでレコードを掛けたのだろう

午後S氏ご夫婦が見に来られ「ああこここそ相応しい」と仰った。

 

004さて、これはあるご夫婦から頂いた往診カバンのライオンのマスコット。
本日健診で訪れた保育園で、子供達に注目されて幸せそうだった。

亡き先生を偲ぶゴルフ。

2015年4月29日(水曜日)

本日昭和の日の祝日、30人が参加したゴルフがあった。
昨秋90才でお亡くなりになったある先生を偲ぶコンペだった。
先生は大変ゴルフがお上手で亡くなる半年前、ちょうど今頃もお元気にプレーされていた。

父と同窓ということもあり、小生の作品展に毎回お顔をお出しになり、よく樹下美術館にもお寄り頂いた。
希に見るスマートな紳士で、短歌を詠まれた。

その昔、ちょっと見てくれる?と仰って一首を取り出されたことがあった。
親しい方のご不幸が詠まれた思いも寄らぬ慟哭の歌だった。
悲しみの中、あまりに優しいお顔をされている事に驚きを禁じ得なかった。

ゴルフコースと妙高山

サンシャインランド

本日のゴルフは悪かったが楽しい競技同伴者に恵まれ、
残雪の妙高山に見惚れ、隣接の遊園地を懐かしんだ。

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