小山作之助・夏は来ぬ

6月1日 夏は来ぬ 上品な世界。

2024年6月1日(土曜日)

本日6月1日、よく晴れて夏が始まる。殆どの年にこの日、卯の花の写真を掲げ「夏はきぬ」の動画を掲載してきた。本日また小生の大叔父・小山作之助作曲の「夏は来ぬ」を掲載させていただいた。

美術館付近の高速道路ののり面に
咲く卯の花。

本日花に取り付いていたクマバチ。


下のホトトギスの鳴き声と一緒に
曲をお聴きになってみてください。

後日追加です、爽やかな「夏は来ぬ」がありました。

明治期、斬新な作之助の曲調と対比的な佐々木信綱による大和調の詩もまた素晴らしい。数日前、ホトトギスが遠くでキョキョと鳴くのを聞いた。
果てしない世界で花や鳥、そして人や蛍もまた共に季節を揃えながら移ろって行く。ある面世界は洗練されている。

夏は来ぬ。

2023年6月2日(金曜日)

本日6月2日。ウロウロ過ごしている間に暦はさっさと夏に変わった。庭で3本のヤマボウシが白い花をつけている。この花は少し可哀想で、皆を向いて咲くl。それで気を付けて見るか、幾分上から見るかしないと上品な白い花が良く見えない。

大抵すでに開花している木なのに、ああ、もうヤマボウシが咲いたということになる。先日の軽井沢では、近場の山という山、新幹線の沿線は白い花でいっぱいだった。

庭の奥の方のヤマボウシ。この木はまだ背が低いため花を間近にみることが出来る。山の木なのでどんどん大きくなり日陰を広げるので毎年下枝を切っていく。その結果花は上へ上へと行ってしまい、余計気づきにくくなる。

そして卯の花。当市大潟区ゆかりの小山作之助作曲の代表歌の一つ。やや北側の庭と駐車場脇で咲き始めた。

 

ヤマボウシや卯の花の白い花は初夏の清々しさにぴったりだ。エゴノキの白さも美しいがこれも大木になるのでもう美術館では植えられない。繁殖力が強く低木の卯の花。挿し木やヒコバエから採って駐車場に沿ってもう少し増やしてみたい。

先日上越妙高駅で下車すると、ホームのチャイムが夏は来ぬの一節を奏でた。耳をそばだてる人は少ないと思うが、作之助の母トヨは当家の人。縁者の一人として雑踏のなかでチャイムを耳にするのは密かな喜びだ。

夏とはいえ一日中しっかり雨が降り肌寒かった。過日のこと、日陰で伸び悩む小さなカシワバアジサイをさらに二つに分けて陽が当たる二カ所に移植した。その時一緒にタイワンホトドギスも一部分けて移した。今日の雨はこれらの草花には恵みの雨だった。

「汽車」の作曲者、大和田愛羅氏のご縁者から雀の写真の所望。

2023年1月30日(月曜日)

過日千葉市のある方からお手紙を頂いた。
その方は東京音楽学校のご出身で音楽家、作曲者大和田愛羅(1886年3月24日 – 1962年8月11日)のお孫さんだった。 数年前に音大の草創期の指導者小山作之助の墓参と中学校の作之助胸像をご覧になられ、樹下美術館を訪ねていだいていた。

ご自分はチェロを教えておられ、後にお仲間と再度樹下美術館をお訪ね頂いた。来訪のたびに大好きなスズメの絵はがきをお求めになられたという。
このたびのお手紙には、大和田氏の没後60年を記念して氏が手がけた曲から110の楽譜を選び出版することになったこと。当時の唱歌、童謡は山河、鳥や動物など自然のテーマが多いこと。そこで楽譜集の裏表紙などに好きなスズメの写真を載せたいがお願い出来きないか、という主旨がしたためられていた。

このところの寒波でひもじいスズメ。そんな時スズメを愛する人から可愛い写真をというお話はなんとも温かかいものだった。私の雀ファイルには沢山写真はあるが、いざ可愛いものとなると中々難しい。なんとか7,8枚を選び2L版にプリントして、明日投函することにした。


大和田氏作曲の「汽車」

4才と6才年下の弟妹は幼き日の春秋、野尻湖行きの車中、片言交じりでこの歌を歌った。

大和田氏のご尊父は都内の医師だったが、事情により愛羅氏は新潟県村上市で養育されている。東京音楽学校の卒業後は国立音楽学校、東洋音楽学校で教鞭を執られ、これらの間に多数の童謡、唱歌および学生歌や校歌を作曲されている。

小山作之助とはほぼ二世代後の音楽家に相当され、新潟県にゆかりもあり、わざわざ当地をお訪ねされた。そしてこのたびは拙スズメ写真をと仰る。何とも有り難いことと感謝に堪えない。

どこかで繋がっている方達。

2020年10月8日(木曜日)

夕刻近く、遠くから五人のお客様が見えてお話をした。
ご高齢の紳士は一目見てDrだと思った。お尋ねすると、そうですと仰った。父と同じ大学出、お父様は、小山作之助のことを〝叔父さん〟と呼んでいたということ、どこかお互いが繋がっているようであり、不思議な親しさを覚えた。

大潟区や直江津のご先祖がおられ、私どもも知っているお名前や地名、そして旅館にお寺などが出て、初対面にも拘わらず近しさを共にした。
それにしてもマスクを着けたり外したりして飲むお茶。
厄介なウイルスのお蔭で、ややもすると斯く出会いにもどこか寸法が足りないのを否めない。
閉館近く、再会を述べ合ってお別れした。

閉館後、西空低く帯のように茜が射している。
車で5分、いつのもほくほく線の場所へ行った。いっとき美しい夕焼け空が現れ、やや遅れて電車が下っていった。

夕暮れ時に見る電車の黄色い窓明かりは懐かしくも平和。

週末にやってくる台風が気になる。

小山作之助を訪ねられた方 傷んだ蝶 本日のモズ 天草のウルメ鰯。

2020年9月22日(火曜日)

本日、ご先祖が小山作之助に縁のある方が遠方から来館された。大潟区西念寺にあるお墓と大潟町中学校の胸像のある庭園にご案内した。
ブログで作之助と私どものことをお知りになって訪ねて下さった。

百何十年も前の縁が代を隔てて人を合わせる。明治人の力の働きにちがいない、と思った。
お帰りはご無事だったでしょうか、お訪ね、まことに有り難うございました。

 

以下は今日の蝶とモズです。

翅がボロボロのヒョウモンチョウ。

正面からは力強く健常に見える。
昆虫や鳥なども正面はとても単純でしゃんとした印象がある。
傷ついていても、正面がしゃんとして見えるのは生存戦略の一つかもしれない。
普段蝶の飛翔は力強いと感じるが、さすがこの蝶はふわりふわりと飛んでいた。
落ち武者のようであり、生き切っているとも感じられ、立派だと思った。

本日のモズ。
一昨日は遠くの木でしたが、本日は近くの電線に来ました。
キキキキーッ、キキキキキ-ッと激しく鳴きます。
およそ決まった木などを回って鳴き、一生懸命縄張りを主張していると思われます。
カエルなどを尖った枝に刺して冬に備える「はやにえ」を行うモズ。
どう猛な行為や激しい鳴き声に比べて姿は可愛い。

さて昨日夕食に、お客様から「天草のうるめ鰯」を頂いていた。
ちゃんと写真を撮ったが、カードが入っていなかった。使っているカメラはカードが入っていなくてもシャッターが切れ、それをモニターで見られる。
ただそれ以前のものを見ようとすると、初めて「カードが入っていません」が表示される。
私は小さなリーダーをPCに繋いで写真をみているので、時々そこに残したまま、カメラを持って出てしまう。これまでなん度か貴重なシーンを撮って帰り、家で「カードが入っていません」、と告げられる事があった。昨日のイワシは食べ終わってから撮れてなかったことが後で分かった。

以下本日の天草のうるめイワシです。昨日全部食べなくてよかった。

妻と二人分。小振りで身が締まり、味が濃い。
暖かいうちが特に美味しいし、冷めても風味がある。

食通のNさん、ご馳走様でした。
益子風のお皿まで付けて頂き恐縮しています。

後からでは遅い「もっと親に聞いておけばよかった」。

2019年1月16日(水曜日)

過日ある方から明治13年、小山作之助16才における上京について、長野まで徒歩だった事は分かっていますが、その後はどうやって行ったのでしょうかと訊かれた。
私たちの家は作之助の母トヨの実家であることなどから、よくこのような質問を受ける。だが祖父の顔もしらない私にその13才年上の兄作之助の事などまず分からないというのが正直なところだ。
但し父は生前作之助を叔父さんと呼び、学生時代の東京生活で度々自宅を訪ねた事が作之助の日記にも記されている。作之助はある程度研究されているが、青春期になぜ親に黙ってまで上京したのか、如何にして音楽を志したのか、などはやや判然としていない部分がある。
このような事は生前本人に会った人であれば直接詳しく訊けたはずであろう。だが残念ながら私は亡き父に詳細を尋ねたことがなく、一方小山家の方でも細かに話す人がいなかった模様だった。今なら少なくとも父には一種執拗に尋ねてみたいところだが、残念というほかない。

話変わって、日頃あれこれ親に聞いておけばよかった、と思うことは多い。晩年の母にはかなり聞いたが、父には満州でのことをはじめ祖父母、さらに曾祖父母の人ととなりなどを、ほとんど聞いていなかった。
一つ言えることは、若き私自身それらに熱心な興味を抱いてなかった、ということがあり、もう一つ、父は煙たい存在だったというのもあった。
万一父にも私と似たような事情があったならば、その親や祖父母についてもあまり訊いていなかったかもしれないが、どうなのだろう。
ただ、12人兄弟姉妹の長男だった父の学生時代、帰省するとまた新しい兄弟が生まれていてイヤだった、と聞かされたことがある。また祖父の度々の事業加担と失敗、祖母の贅沢などで借金がかさみ、その返済のため現金を求めて満州に渡らざるを得なかったことを苦々しげに話したことはあった。
お盆になっても父は墓参りをしなかったのは、そんなこともからんでいたのだろうと、思っていた。
何かと口を閉ざす父に代わって、叔父叔母たちが曾祖父の断片的な逸話を話すことがあった。
写真なども無い曾祖父・貞蔵については、医者であり、生前幼い孫達を座らせては漢文を教えていたことを聞いた。語られたのは、不勉強の際、掛け軸を掛ける竹棒でピシャリと叩かれたことばかりなので、せがんで容姿や仕事ぶりなども訊けばよかった、と振り返っている。
(※貞蔵の作之助への生活支援に対して、作之助から送られた月々の小遣い帳が一通だけ残っています)

冒頭の作之助の明治13年の上京に戻すと、村上一郎著「おもかげ(伝記・小山作之助)」には吹雪の大田切小田切を倒れそうになりながら懸命に歩いたとある。ほかに父か叔父叔母から、ある日の宿泊は旧信濃追分の油屋旅館、その先は安中という話を聞いたような気がするが、自信はない。だが作之助の上京当持、高崎線、信越本線の開通はまだ先のことなので、すべて徒歩だったのは間違いないことだろう。

現在寿命はどんどん延びている、そのどこかで親に聞きたいことがあれば遠慮なく尋ね、親は伝えたいことがあれば、つまらない話と言って喋ってみるのも悪くないはずである。

東西遠方からの人。

2018年11月20日(火曜日)

本日村上市の帰路と仰る大阪の女性がお見えになった。
小山作之助に興味を持たれている方で、このたび二度
目の来越だった。
当地でコーラスをされるSさんが案内された。
拙家は作之助の母の実家にあたる。
診療が終わる時間、お寄りになり昼休みに作之助の墓
をご一緒した。

その後直近の大潟町中学校に併設された作之助の胸像
とそこの庭をご覧になり校内の記念室に伺った。
音大のご出身で、こどもの音楽に携わられるなか、唱
歌運動の礎である作之助に興味をお持ちになっている。
越後から徒歩で上京した作之助の志への共感を口にさ
れた。
資料室では明治前半の音楽指導書に目を止められた。
古来の日本音階から西洋音階へ、子ども達がどのよう
に教えられていたのか、確かに興味深いことだ。
時間が来て、大阪への帰路を急がれるのを見送った。
すらりとした人だった。

そしてその後、東京都町田市からY氏が来館された。
今春開催した塩﨑貞夫展の際お見えになった方だ。
生前、塩﨑画伯はある時期に焼き物もされ、作品集
で拝見したことがあった。
塩﨑氏と親しかったY氏は絵画とともに焼き物作品も
所有されている。
このたびは抹茶茶碗を持参してのご来訪だった。

拝見したお茶碗の実物は素晴らしかった。

 

1
鉄釉茶碗。
黒に焦げ茶がほんのり混じり、上品な古色の風合いが漂う。
薄手な作行きが何とも言えずお洒落だった。

2
灰釉茶碗。この碗も薄さ加減が良い。うっすらと釉薬の垂
れが景色になっている。口縁のゆっくりした山道も穏やか
だ。

 

3
灰釉であろうか、上掲のものと異なる鉄混じりの灰ぐすり
が掛かっている。
正面の素朴な絵は山か、向こうの見込みが同じ鉄色を帯
びている。茶碗が置かれているふくさは、パッチワーカ
ーが古い着物をほどいて、こしらえたものだと仰った。

茶碗はいずれも腰から高台にかかる部分が潔く削がれ、真
横からの眺めも気持ちが良い。
こんな茶碗を画家が作るとは全く驚きである。己の審美眼
に任せ何度も試行錯誤されたに違いない。
一つに秀でる人は何を作っても味わいを外さない。
シャイで多弁だったという塩﨑氏。その人に見込まれ可愛
がられたY氏は、ごく一般的なサラリーマンだったという。
魚心あれば水ごころ、、、。
人の道も芸樹のそれも、お金だけでつながるものではない
ことが、ちゃんと具現されていて何とも頼もしかった。
そしてお菓子を食べる時に取り出された菓子楊枝がまた素
晴らしい。
根本曠子(ねもとひろこ)さんの楊枝だ。
根本さんは芸大出の漆芸家で切貝の優品を作られる。

4
同じ茶や菓子でも、どんな人とどんな器で、どんな風に飲
食するかで美味しさや有り難みが異なる。
余計な出費を切り詰めれば、自分なりに満足のいく美的
生活を創り出すことができることをY氏が現している。
もしかしたら金にあかせるより、楽しい世界かも知れない。

美味しい茶菓子を持参され、居あわせたお客様達と頂き、
それぞれの茶碗で晩秋の庭を見やりながら茶を服した。
新幹線→在来線「さいがた」駅下車の道中でこられた。

大阪と東京の人。
お二人ともまた来たいと仰った。
有り難うございます、心待ち致します。

えんぴつの会の皆様 今を生きる子どもたち。

2016年10月25日(火曜日)

風強く時々雨が吹きつけた日、文芸に勤しまれるグループ
えんぴつの会から14名の皆様が来館されました。

児童文学作家、杉みき子さんを囲みまた薫陶を受けられて
いる皆様。
大潟区の小山作之助の足跡を訪ねてその墓所や、大潟町
中学校にある資料室を見学、同区の「魚蝶」で昼食の後、お
寄りになりました。

作之助の孫の一人が当館の展示画家倉石隆の夫人であり、
作之助の弟直次郎の孫の一人が不肖館長であることを写
真と共に説明させて頂きました。

作之助兄弟と孫

左・明治20年頃の作之助と直次郎兄弟。右・倉石氏アトリエ
における2002年の夫人と小生(資料としてお配りしました)。

齋藤三郎の陶芸では氏の鮮やかな赤、シンボル的な椿、味
わいある文字、年代に於ける作風や父との交流などをお話さ
せて頂きました。

作品を観た後でカフェでお茶になりました。

IMG_7676
カフェで。

皆様の熱心な視線、生きた個性、軟らかな人柄、なによりグ
ループとしてのまとまりに強い印象を受けました。

カフェでは松本竣介や司修の話題も出て私自身楽しませて
頂きました。

杉先生は何度も来館されていますが、とてもお元気で、美味
しそうにお茶とケーキを楽しみ、談笑されました。
皆様のますますのご活躍をお祈りし、ご来館に感謝いたしま
す。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日、午後1時から園医をしている保育園の健診に赴いた。
春より明らかにみな大きくなっている。
疾病や事故などを克服しながら成長するこどもたち。

この子たちは良い大人になるためではなく、かけがえの無い
今を無心に一生懸命に生きいている、それだけでいいんだ、
とふと思った。

IMG_7683
強風の空に大きな白鳥が飛んでいるような夕刻の雲。

 

祖母の遺影の裏 父と祖父母。

2016年8月29日(月曜日)

一昨日の話で、しかも仏壇のことで申し分けありま
せん。
実はある高校生の縁者の宿題で家系図を作ると
いうのがあり、それについてこちらで調べたものを
作成してお手伝いをした。

いわゆる描いたものではなく、戸籍をもとに作成し
たので大昔まではさかのぼるものではないが、か
なり手間どった。
念のため滅多に見ない仏壇の位牌を裏返したり没
年月日など出来るだけ確かめた。

先祖たちのことはともかく、お壇の中の1枚の写真
が気になった。
写真は全部で4枚あり、祖母、父、叔母、母の遺影
が見える。
父のは弟が撮ったスナップで、母のは私が撮った。

 

1
上の矢印は父、下のは祖母の写真。

祖母のは写真好きだった父が撮り自ら現像したも
のと思われるが、それが気になった。
22,5×17,5㎝の白い額に入り、さほど大きくは
ないが、全体が白々しているので少々変わった印
象があった。

そもそも父は叔父叔母たちと違ってほとんど先祖
の話をしなかったし、仏壇も参らなければ墓にも
行かない人だった。

子供の頃、お墓や仏壇が好きだった自分にすれば
大変不思議なことだった。

その父は二つのことで両親を恨みに思っていたふし
がある。
一つは多産で、祖母は19才から44才までの25年
間に12人を出産している。
その事は兄弟たちの学費不足として長く影響したと
いう嘆きをを父から聞いたことがある。
あるいは寒い日、新聞紙をフトンに足して寝たという
苦学の浪人と学生時代、帰省するたびに小さな兄
弟姉妹が増えていて困惑したと、漏らした。

もう一つは借金だ。
祖父母は大正7年と聞いているが家を建てた。
二階建ての入院施設に続く住居は、部屋数が60畳
の広間を入れて13室の木造三階建てという普通で
ない建物だった。
現在でいう億単位の家、そうでなくとも素封家出の祖
母はお金の掛かる人だったらしく、田舎医者の祖父
に際限ない借金がかさんでいったらしい。

返済に行き詰まった夫婦は家の書籍、書画はじめ
フトンまで売り払い、現金を求めてここを捨て北海
道の寒村の診療所へ移り、父は大学の研究生活を
中断して渡満、満鉄病院の勤務医となって背負った
借金の返済につとめたという。
これは母から聞いた。

父は後々まで借金と祖父母を疎み恨んでいた風に
見えていた。

祖父は私が二歳になるころの昭和18年に亡くなり、
祖母は小学5年の春、昭和27年に亡くなっている。
祖母の火葬場で末の叔母がわんわん泣いて皆にか
らかわれ、お通夜で、普段静かな父が酔って枕を背
負い、「赤城の子守歌」を歌って踊った。

さて祖母の写真である。

2
↑父が撮って現像したと思われる遺影。

このたび仏壇の位牌を見終わり、眼前の祖母の写真に
手が行った。
撮影した父が裏に何か書いてないか、と思った。

3
↑写真立ての裏側。
裏板をはずしてみる。

4
↑別な紙が1枚挟まれていた。
厚さなどを調節する当て紙かと思った。

5
↑裏返すと祖父の写真が現れた。
この写真は初めてだった。

祖母の写真の裏に祖父が密かに重ねられている。
別々に置かず重ねた子、そうされた父母。
突然現れた祖父に驚くとともに、胸が熱くなった。

人の心の真意は分からない、開けて覗いても分
からないものは分からない。
だが何気ない所に形として残っていることもある
ということなのか。
物語は、終わればみな普通の人に帰るという事も。
思いもよらぬ父の行為にしばらく動けなくなった。

祖父の写真から思い当たる1枚があった。

 

1943年10月
昭和18年10月祖父を囲んだ写真。

病身となり北海道から家に戻った病床の
祖父を祖母と大勢の子、孫が囲んでいる。
満州から私たち子供を連れて里帰りした父母
も一緒だ。

あらためて見た祖父母の遺影の服装はこの時と
全く同じだった。
皆で撮る前にそれぞれ1枚ずつ撮ったのだろう。

生後8カ月の弟が後方で母に抱えられ、
1才8ヶ月の自分は父の膝の上に、
3才の姉が祖父母のそばにいる。
借金返済はまだ終わらず、
「簡易」の扁額が見えている。
(小山作之助の長男・藩氏が父の後ろに見える)

以上大変長くなりましたが、祖母だけ額に
入れ祖父を裏に重ねた遺影には、父の祖母への
思慕と思想の一面が現れているように思われました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ちなみに祖父・直次郎は日本教育音楽協会の
初代会長で唱歌「夏は来ぬ」の作曲者・小山
作之助
の弟です。
小山作之助:文久3年(1863年)12月11日~
昭和2年(1927年)6月27日。
祖父杉田直次郎:千葉医専出身医師、明治9
年(1876年)10月25日~昭和18年(1943年)
12月13日。
父杉田敬義:慶応大学出身医師、明治39年
(1906年)2月1日~昭和59年(1984年)11月
14日。

 

 

中島幸子さんの追悼文集から。

2016年7月23日(土曜日)

前回7月21日に小山作之助のひ孫に当たる悲運のヴァイオリ
ニスト中島幸子さんについて書かせて頂きました。

彼女のバイオグラフィーはお母様の香織さんが1983年8月6日
に発行された幸子さんへの追悼文集「ヴァイオリンと共に」を主に
使わせて頂きました。

本書は幸子さんの恩師シャーンドル・ヴェーク氏、久保田良作、
板谷英紀の各氏、先輩の塩川悠子さん、ご友人たち、音楽関係
者など70人近い方々の寄稿によって構成されています。

 

ヴァイオリンと共に表紙
「ヴァイオリンと共に 中島幸子追悼文集」
画家・装丁家司修(つかさ おさむ)氏による表紙。
司氏は樹下美術館の常設展示画家・倉石隆の友人で、
倉石夫人・翆(みどり)さんは中島幸子さんの叔母です。

本日は書物から幸子さんの音楽と横顔についてかいつまん
で記させて頂き、最後に幾つかコメントを試みました。

【中島幸子さんの音楽】
ヴァイオリンは彼女の自然な生にの一部であり、楽器を完全
にしかも自然に自らの意のままに支配しきっていた/モーツ
アルト、シューベルト、ブラームス、バルトークはじめラベル
もものにしていた/モーツアルトに特別な親和力を有し、それ
は透明で清潔、軟らかく、生気に満ちた演奏だった/小柄だ
ったが楽器をとると数倍も大きく見え、信じられない迫力と大
きな音楽が湧き出した/音楽に対する自己規制の大きな力
を周囲に放っていた/厳しさとやわらかさのこもった演奏であ
り、伴奏をしながら心が震えるような感動を覚えた/優等生に
ありがちな偏った所がなかった/幼少から友人を大切にする
日常の中で完璧な基礎と専門性を身につけていたことが不思
議だった/神様がついているかのように成長し、才能を有した
者には人一倍の努力を行う義務がある事を具現していた/ブ
リリアントな音色、垢抜けしたリズ感覚/メンデルスゾーンの
ロマンを歌うに相応しく、パガニーニの閃光を自らのものとした
数少ないヴァイオリストだけに許された音楽/アンサンブルを
演奏していると桁が違いすぎると感じさせられた/最高のテ
クニック・深い精神生・音楽性・構成力・内的体験といったもの
の結合がみられた。/死はモーツアルトが神のもとへ連れ去っ
たと思うしか無い。

【幸子さんの人となり】
食通であり多彩な料理で人をもてなした/スキー、水泳から
野球、鉄棒、ボーリングをこなした/優しく、後輩をよく面倒み、
ザルツブルグでは日本の留学生の母のようだった/エキゾ
チックな風貌、キラキラ輝く大きな瞳/天真爛漫でお茶目だっ
たが、ヴァイオリンを手にすると別人のような鋭い眼差しに変
わり吸い込まれるような魅力を湛えていた/学ぶことも遊ぶこ
とも全力投球/物事の本質だけの世界に生き生きと生きる人
/筆まめ/みな内にしまって耐え、深い中心点から出てくる
恐るべき集中力/どんな時でも感情的にならなず、一言いう
と皆何も言えなくなった。

筆者からひと言。
早く父を亡くした幸子さんを音楽家として世界に輩出させた母
香織(かおり)さんの眼差しを思わない訳にはいかない。
幼少からの運動や遊び、学生時代の料理、円滑な友人間関
係などは、いずれも優れたヴァイオリニストへの全人的な養
育として意識されたものであろうと想像でき、大らかな中にも
厳しく困難な親子の日常が浮かぶ。
遠い目的地での成果の中で、突然訪れた幸子さんの急逝は
どんなに辛かったか、私などには想像もつかない。

それから30余年、失意に耐えられたお母様は数年前に亡くな
られた。
残されたお子、ヨナス・ルードナーさんはウイーンに於ける気鋭
のホルン奏者として活躍していることが伝わる。
またヨナスさんの父オラまたオーラ・ルードナー氏は、ウイーン
交響楽団のコンサートマスター,BBCほか交響楽団客員指揮
など活躍、経現在ウイーン・フォルクスオーパのヴァイオリン
奏者兼指揮者として活躍、度々来日されている。

長く仕舞っていた追悼本を取り出してこの度再読した。
作之助の音楽が死後90年近く経っても脈々と密かに、そして
輝かしく生きていることを喜び、この先へも希望を託したい。

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