社会・政治・環境

猫ちゃん  そして平和

2011年4月3日(日曜日)

少しお天気がでるようになった。

ボール遊びをしていると猫ちゃんが相手をしにきた。

しかしなんか集中しません。

猫ちゃん1 
よそ見ばかり。

猫ちゃん2 
やっぱりやっぱり。

猫ちゃん3 
ボールやーめた。

猫ちゃん4いい雰囲気ですね。

 

“猫ちゃん、ちょっと聞いて下さい” 

 

主な人間の一人、キュリー夫人は立派な人だったようです。

今やだれかは原子力で安全保障などと語ります。

悪賢くて立派に見えません。

主な人間は立派なのですが、、、。

 

だれかの安全保障は

主な人間の不安全保障になっていませんか。

100年後の世界などもうどうでもいいのでしょうか。

主な人間は立派なのですが、、、。

 

近々だれかが地球を食い尽くすのでしょうか。

今たらふく食えればそれでいいのでしょうか。

最後は自爆ですか。

主な人間は立派なのですが、、、。

 

神話の東北 失神した子ども 温かく着実に

2011年3月28日(月曜日)

  夜半過ぎ、仙台で二泊した妻が帰宅した。バス(仙台→新潟)と電車(新潟→柿崎)を乗り継いで“ただいま”と言って帰ってきた。

 

 どこか別の国から来たような印象。仙台に2家族、南三陸町に1家族、話を聞くと親たちはみな再出発に直面して大変そうだ。

 

小さな子どもたちはそれぞれに打ちのめし、喪失、怒りなど複雑なダメージを受けてる様子。 高学年の子ども達には、ある種挑戦の芽生えを感じたという。

 

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妻が撮った写真
アーティストの一部は昨日までこのような光景を作品などと呼んでいたように思う。

 南三陸町の小学生である姪の一人はこう話したという。学校は町を見下ろす高台にある。

 津波が来て、先生は子どもたちが外を見ないように教室のカーテンを急いで引いた。しかし、そっと覗いた子どもがいて、あー、と叫けぶと気を失ったという。

 

 荒波に水没する我が町と子どもの感受性、胸が締め付けられる。親を失った子供たちも少なくない。辛い親、悲しむ子どもを無理矢理笑わせるようなことは慎重にしたほうがいい。

 

“私たちは一緒“は、はたして通じるだろうか。

現地の人は心身が裂けるほど疲労している。

“頑張れ”というのは加虐的であり耳障りな雑音かもしれない。

 温かく手応えある支援と、着実で夢いっぱいの復興計画が待たれる。

妻は仙台へ 大阪の救援車輌群 神話的な災害 

2011年3月26日(土曜日)

寒かった三月、今後の暦は三月までを冬と名付けては、と考えた。新潟市の拙作品展は厳しい環境の中で間もなく終わる。後半は圧倒的な震災によって作品展どころではなかった。

そんな中、お見えくださる方がいらっしゃて感謝している。午後会場を訪ねた。閑散としていたが、やむを得ない。

   給油

 道中では大阪、堺、なにわ、、、など大阪府ナンバ-の復旧車輌が多数給油していた。パーキングエリアの売店は休みと間違えるほど暗く節電してあった。
半分くらいの自販機に使用中止の張り紙。

 ところで私たちには宮城県に住んでいる親族が三組いる。昨日妻は大きな荷物を持って高速バスで仙台へ向かった。7時間はかかったようだ。二泊3日の強行軍、深いショックを受けないか心配だ。

 

          夕焼け
帰りの夕焼け。

毎日知る過酷な状況、神話とはこのようなことなのだろうか
神話から世界が生まれるとして
よい国づくりが始まることを祈りたい


昔の音楽を聞いてみた。
ジェームスディーンの写真とFausto Papettiの“小さな花”

現場は精神論なのか 復興でなく政治闘争なのか まったく泣きたくなる

2011年3月25日(金曜日)

 前回の左網膜剥離からおよそ10年がたっていた。このたびは新潟の作品展のために数点の花の絵のリメイク、そして被災地の弟の安否を知るため多くの時間をインターネットに費やした。眼にいいわけがなかった。

 

 今日の受診で眼圧と視力は保たれていると聞いて一安心だった。院長には眼底を丁寧にみていただいた。網膜の一部に軽微な変化はあるが経過をみていくことになった。やや心を軽くしてもらい100%患者となって帰ってきた。

 

 

 

 ところでついに原発災害で作業員3人が治療の必要な被ばくをした。汚染水による足の直接被ばくだった。全身を防護することなく短靴!しかも若年世代が含まれ、彼らの精子と将来にも問題を残した。水、若者、被ばく、心配したことがあまりに簡単に起きる。

 

 わずか3人と言うなかれ。今や課題は我が国の科学と哲学をかけたシンボリックな国家的マターだ。それがチェルノブイリでなければ何でもありとは、あまりにお粗末ではないだろうか。恥ずかしくて泣きたくなる。

 

 毎日スタジオには無数の学者・専門家がズラリと並ぶ。しかし福島の現場は学問も理性もへったくれも無い精神論でやっているように見える。作業員の美談など全くいらない、上が、学者がもっと命をかけるべきだ。情けなくて泣きたくなる。

 

 そしてメディアは政治的ノイズをますます濃くしている。一大復興なのに一大権力闘争の場になりさがった。被災者を、国民を犠牲にして何のつもりなのだろう、薄汚くてまた泣きたくなる。

 

 時間はかかっても仕方がない、文字通り一丸となって科学と誠意に徹すれば克服できる。それが日本の価値だったのではないだろうか。

 

 最後に環境の放射線量は毎日変わる。情報開示を求めながら、振り回されると言って嘆くのは止めよう。科学は便利だが根気もいる。

 

最後の介護保険審査会 シェルブール  網膜剥離

2011年3月24日(木曜日)

資料が送られてきて、今年最後の介護保険審査会が来週で終わる。次年度中に70才になるので規定に甘えて今回を最後に委員を下ろさせていただくことにした。介護保険にはよく付き合ってきたと思う。

介護保険が産声を上げたのは平成12年度。その5年ほど前に突然、新潟県庁から何人かの役人さんが尋ねて来た。在宅医療や介護についてのヒアリングだった。色々聞かれた中で、保健婦さんの福祉マインドと介護技術を尋ねられた。あまりの急所に正直びっくりした。

来られた人達はみな若くよく勉強していた。何かが始まる気配を感じたが、まさか介護保険という壮大なシステムが想定されているとは思ってもみなかった。

昭和50年から総合病院の無い町での開業。忙しい外来のほかに往診用件が多く、在宅の看取りは当たり前だった。寒い部屋で糞尿にまみれ息子さんを待っていたおかあさん。一日中おかゆの手ナベ一個が枕元に置かれているだけのおじいさん。窓を開けて、お嫁さんの悪口を毎日叫ぶおばあさん、、、、。これでいいとはとても思われなかった。

欲を言ったらきりがないが、介護保険は世界に誇れる制度だと思っている。まがりなりにも理想が論じられた結果ではなかっただろうか。

 

シェルブールの雨傘:ピアノ・山田紗耶加さん

映画シェルブールの雨傘は

雪のガソリンスタンドと子どもの名前が切ない物語だった。

 今シェルブール一帯は原子力関連の施設を多く抱えていて、

別の意味で悲しい。

 ところで介護保険の前夜、福祉の事になると、以下のような話をよく耳にした。

 「福祉、福祉というけど、その前にまず経済をよくしないと」
「昔から地域には必ず気の毒な人たちが居たもんです、今さら騒がなくても」
「体を鍛えて介護保険などの世話にならないようにすることが大事です」

地域の慈善団体の長と、町の要人の話だった。
一番目の人は景気が良くても同じ事を言う。
奇異かもしれないが原子力発電のマターと福祉はどこか似ている。

不景気のアゲインストの中、ケアマネを育て社会のマインドを上げて
介護保険は頑張った。

数日前から右眼に網膜剥離の症状が出ている。

本日午後の眼科を予約した。

100発前後のレザーは覚悟しているが、手術だけは勘弁してもらいたい。

丈夫でもないのに、35年間病気を理由に仕事を休んだことがなかったので。

南三陸町から手紙 無視できない水汚染

2011年3月22日(火曜日)

南三陸町の拙弟から手紙が届いた。15日に出したというから一週間かかって着いたことになる。それにしてもこの段階で手紙が届くとは信じられない気持ちだ。一体どんなルートで来たのだろう。

彼の家は山あいにあったのでなんとか無事でいられた。清水を利用する簡易水道が使えて、薪を焚いて暖をとり風炉も入れるという。町で避難生活をされる方たちを交替で迎えているらしい。

届いた封書の切手 手紙には服用している薬の依頼が書かれていた。

共同の土葬を見守るご家族の氷る表情が胸に突き刺さる。

 ところで19日に心配した東電原発周囲の水と海水は、無視できないレベルで汚染されていると本日報じられた。一帯の農水産業や飲料水への長く深刻な影響が危惧される。

 また放射線は生殖器官を好んで標的にする。現場処理に赴く隊員の防護服はいっそう機密が厳重になるだろう。お子さんを作りたい若い隊員達を任務から外すか、著しい短時間などの配慮がされていることだろう。

 防護服の着用は相当つらいはず。現場に関して言えば、夏でなかったのがせめてもの救いではなかったか。重大な被ばく事故がさけられることを切に祈りたい。

アイソトープ  そして水 

2011年3月19日(土曜日)

 一週間が過ぎて仮設住宅が着工した。何よりの知らせだ。きっと被災地の見えない所に建設されるにちがいない。

 

 明るい知らせの一方で、今もって親族を探す方たちや避難所の人たちの辛さが浮き上がる。

 

 そして懸命に続く原発の冷却作業。一定の効果が伝えられているが、予断を許さないとも報じられる。その通りだと思う。私たちは台風や大雨、大雪に地震など自然をコントロール出来ない。人が作り出したもう一つの太陽、原子力もまた管理を越える本質を見せている。

 

 17日に、フランスがホウ酸100トン、放射能の防護服1万着、手袋2万組、防護マスク3000個を日本に送ったと報じられた。悪戦苦闘する現場で直ちに助けになる支援だと感じた。

 

 フランスは原子力大国と呼ばれている。しかし芸術と思想の国のこと、強いジレンマも内包しているのではないかと思うがどうだろう。

 放射能といえば、小生も大学病院時代の研究室で放射性物質を扱っていた。写真のノートは1968年のもの。フランスと聞いて、押し入れの奥を探すと出てきた。

 実験ノート

 人のホルモン濃度は血清1ミリリットル当たり10億分の何グラムというレベルのものが少くない(中には一兆分の数グラムも)。その超微量のホルモン測定また方法の開発が仕事(研究)だった()。

 

 当時の測定では、アイソトープで標識した抗原(ホルモン)と動物から得た抗体の相に人の血清を加え、競合的な免疫反応を利用して測定する方法(ラジオイムノアッセイ:RIA法)を用いていた。

 

 時にはアイソト-プ(放射性同位元素)をフランスの原子力機関から直接購入することもあり、この面の先進性をやや奇異に感じていた。

 

 私が使用したのは主にヨウ素125で、時には131を用いた。線量は許容範囲で、ガンマー線を測定したのは懐かしいウェル型シンチレーションカウンターだった。トリチウムなどの液体シンチレーションカウンターは半ば自動化されていたが、ヨウ素は一本一本試験管を小さなウエル(井戸型穴)に入れて測定した。
 当時の認識と管理はまだ甘かった。

 

 ある日の測定でスイッチを入れるといきなり異常に高い数値がカウントされた。普段私が測る10倍近い値だった。まさか誰かが汚染させた?それとも私?何もしていないのに?

 

 ウエルの内壁も、試験管も手も、考えられるもの全てをペーパーで拭いた。しかし異常なカウントは続く。深夜の鉛の部屋に1人、パニック同然だった。

 

 突然ある先輩医師が入って来た。部屋は紙クズだらけ、カウンターに異常な数字、慌てる私。

 

「まだ時間かかる?じゃ僕は後で」と先生は言った。そして入り口の机から10数本の試験管を立てたケースを取り、部屋を出て行かれた。

 

 そこに試料があったの?初めて気がついた。異常なカウントはピタッと止んでいた。空のカウンタホールは数メートル先にあった先輩のサンプルを測っていたことになる。放射線の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。学内でコンプライアンスを高める作業を進めているころの話だった。

 

「スギちゃん、あのころは呑気だったなあ」、と毎年会うようになった研究室の同僚は言う。彼は私のヨウ素よりずっと半減期の長いトリチウムを扱っていた。笑っていはいるが長く不安だったにちがいない。

 

 今回、懸命な消防士や自衛隊員は私たちよりも浴びている可能性を否定できない。40数年経って防護や養生も進んでいる。それでも生々しい映像にあらためて心配を禁じ得ない。

 

 ついでの心配は水。発電所の容器や管に漏れはなかったのか、放水された水は海水は?現場の水について知らせる報道をまだ見ていない。

 

希望

2011年3月15日(火曜日)

  二回にわたって当ノートで弟の安否を尋ねさせていただきました。ウェブや携帯には様々な安否確認サイトがあり、出来る限りをしました。そこで多くの方たちが弟を心配して下さっていることも知りました。

 

 ようやく今夜になって無事を知らせる短い記事が見つかった、という連絡が入り始め、それを見ることが出来ました。

 

 当ノートに書いたばかりに皆様にご心配をお掛けしてしまい、申し分けなく思います。今日の情報が出たのも皆様のおかげと感謝しています。

 

今日は早くやすみ、いずれ本人達の声が聞けることを待ちたいと思います。

 

 知らせは避難所に提供された衛星携帯電話→twitter→GoogleのPerson Finderを経由していました。

 

感謝に堪えません。

ハートのシーグラス 復旧に向かう車輌群 教授 原発

2011年3月13日(日曜日)

 今日は温かくよく晴れた。新潟市の個展会場へ出向く日。海へ寄るとハート型をしたシーグラスに出会った。

 

ハートのシーグラス 

 途中のサービスエリアには自衛隊の災害派遣車両群と、おびただしい一般の重機・工事用車輌が途中補給していた。これまでとは次元の異る復旧活動になるのだろう。いよいよ始まろうとしている、心を強くしてもらった。

 

救援車両 新潟県・高田駐屯地の災害派遣車輌 

  新潟市の会場で今年をもって退官される新潟大学の相澤教授が待っていて下さり、大変恐縮した。3年前まで新潟県医師会の理事会で毎月お会いしていた。学問と愛情の先生は以前とお変わりなくお元気で、とても嬉しかった。

  

 このノートを書いている途中、甥から電話が入った。志津川小学校の生徒達は無事、という情報があるという。そうあってほしいと心から願った。ある記者さんの言葉のように静かに待ってみよう。

 

 それにしても復興は、新しい国を一つ作るくらいの仕事になるのでは。

州が意識されるかもしれない。

 

 足をひっぱているのが東京電力原子力発電所。急峻な私たちの国がなぜ水力発電に特化しないのだろう。原子力発電所は一帯に人を拒絶するうえ、広範囲に渡って農水産業や観光などの地場力を低下させる。水力発電所ならいくら作っても日本の風景に馴染むにちがいない。
 被爆リスクに晒され続ける作業現場も余りに可哀想だ。もう身の丈を考えてみる機会なのではないだろうか。

壊滅の南三陸町・志津川(しずがわ) 弟は

2011年3月12日(土曜日)

 弟が居る南三陸町について、テロップやウェブで「病院以外、町が消えた。」「孤立した避難場所に火の手が迫っている」、「警察署も三階まで水没した」という情報が心配で眠れなかった。

 

 現在12日午後8時半をすぎた。弟の家族は八方手を尽くしたが安否が分からない。普段明るい一家なのに、一声も無い。山の家に集ってトランプをしているのならいいが、、、。夫婦で町へ出ていて、子どもたちは下校途中だった、などきわどい場面も考えられる。通信インフラのダメージもあろうが、一家のだんまりが心配される。

 

 弟・杉田徹・敦子夫婦と家族安否をご存じの方がいらっしゃいましたら、ご一報頂ければ有り難く存じます。

支度 
 夜更けから今度は当地で何度も続いた震度3~5。念のため土間に避難の支度をした。

 

※前回の拙記事「巨大地震 志津川は」はすでに200近い検索閲覧がある。一つの記事が一日でこんなに検索されて読まれるのは初めてだ。「志津川」と「地震」で検索されているようだ。志津川のご親族や美しい町を心配されている方が、いかに沢山いらっしゃるか分かった。 

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