社会・政治・環境

季節は進み白い花 作業員の健康を守って

2011年5月18日(水曜日)

 月日は早く、ついに5月は半ばを過ぎた。美術館隣接の庭で白い花が目立っている。赤や紫もあるが、当庭はしばしば白がよく目につく。美術館を設計した大橋秀三氏の一言「白い花なんてどうでしょう」が効いている。

 

このあとはキョウガノコやアスチルベ,そしてシモツケの紅白がチラチラフワリと足許を彩り、あちこちに赤系の芍薬がポカリポカリ。その後にまた白を中心に色々と百合が続き、さらに梅雨が来てアジサイたちに変わっていく。まごまごしているうちにもう夏だ。

 

チューリップ 
チューリップ
ソデカクシ 
ソデカクシ(椿) 
 
スズラン
スズラン 
ヒメウツギにシジミチョウ 
ヒメウツギとベニシジミ

ボタン 牡丹 

 花の季節は順調だが原子力発電所の処理は進まない。後退さえもしている。奇怪な姿を現したモンスターを前に、先端技術の誇りは捨てられ、あたふたと行われる手作業。

 

現場はおびただしい大小のケーブルや管が散乱していることだろう。慌ただしい交替作業。苦しい防護服、走る人もつまづく人もいることだろう。劣悪な作業環境と住環境。現場の皆さんの被ばく対策と健康管理も十分に顧みられているとは言い難いと伝えられる。

 

随分前のこと、よく診断書を頼まれた方がいた。あまり詳しくなくていいという書類だったが何度か書いた。作業員として全国の原子力発電所をまわっている、と仰っていた。

 

その人はとても印象に残っている。その後どうされただろうか。福島で作業する方たちの健康管理はもっともっと踏み込んだ配慮を切に切にお願いしたい。

福島県のお子さんたち こじんまりした未来社会

2011年5月11日(水曜日)

一日中雨がしとしと降った。今日は18度ほどだが、先日の夏のような日があったせいか肌寒く感じる。

 

午後、小学校1,2年生の内科健診があった。150人も診たので耳が痛む。このくらいだと数人は心臓に雑音が聞こえる。ほとんどが無害な雑音と考えられるが念のため記録して頂いた。
 

大潟小学校には福島県から避難されているお子さんが30人近く通っている。大潟区の雇用促進住宅(サンコーポラス大潟)が学童のいる家庭に無料で開放されたので多くの皆さんが移ってこられた。

 
入学以来一ヶ月が経ったが、差別やからかいも無く、穏やかに過ぎているという。一旦他県に移ったが大潟がいいと、戻ってこられたお子さんもいるらしい。様々な事情でしばらく出入りが続くようだ。

 
津波の被災も絡むが、原子力発電所事故がこれほど広く深く人々の生活と人生に影響を及ぼすとは。

 

国情を考慮すれば、原子力発電所の推進や再開は軽々しく口外できまい。産業は腕力から離れて、理性・知性によるある種制限のもとで、いっそうこまやかな研究開発へと舵を切るのではないだろうか。その中から新たな価値と本領が生まれることだろう。

 

懐かしんでもバブルは来まい。一般的な生活も3・11以前より地味になるのでは。今後は、小さめの利益を分け合うややこじんまりした社会へと向かう予感がする。自粛などではなく、自然に。

チューリップ 
診療所の道路ぎわ、チューリップがきれいだ。

 

眼科受診 夕映えの山桜 四十九日

2011年4月28日(木曜日)

午後定期休診で、前回から一ヶ月が経ったので眼科の受診をした。

 

あれは小さな出血だったようです、血圧は高くないですか、と先生に聞かれた。はい、と答えたものの自信があるわけではなかった。

 

帰って測ってみると134-74、人のことは気になるがほとんど自分を構わない。 恥ずかしながらこれを機会に何年ぶりだろう、また点検をしてみよう。

 

ヤマザクラ夕映えに染まった樹下美術館の山桜 

 

寄った美術館で妻の知人にお会いした。しばし加わるとやはり震災の話になる。冷たい雨風が続いていたが、閉館の後カッパを着て草花を植えた。

 

人去りて後(のち)に見せたや夕映の色ぞ惜しけれ山桜花

 

終了するころに空が晴れて一瞬陽がさした。庭のヤマザクラが強く照った。きょうは震災四十九日だった。

経済支援と言って騒ぎ出すのもいいが、まだ悲しむ時でもあろう。
 

田が動く 知事には間違いのない判断を

2011年4月25日(月曜日)

午後、田を通って往診した。上越市大潟区の田は一斉にという様子で耕耘機が入っていた。

 

 耕運
今年も素晴らしい光景

 耕して田が黒くなる強くなる

それにしても原子力発電所の問題をいわゆる地元自治体だけに大きく任せるのはおかしなことだ。

 

県民が託せる最後の砦は知事であろう。泉田知事は賢い人とお聞きしている。今際の折りはどうか間違いのないご判断をお願いしたい。

福島を見ていて思い出した 新潟県で原発を阻止した町長

2011年4月19日(火曜日)

昭和53年から十数年間、個人的に辛い時期が続いた。高速道路で、トンネルが見えると入り口に激突したい衝動に何度も駆られた。

 

助けて欲しい、すがりたいと思いながら歯を食いしばった。そんな中で仕事と患者さんが一貫して自分を支えてくれた。皆様には今でも感謝でいっぱいだ。

 

魔の十数年、修行のつもりで本を読んだ。一日1,2ページしか読めないような本でもノートを付けながらかじりついた。遺伝/進化論、心理・行動学、フランス近代思想や評論。無理とわかっていてもエッセンスに触れたかった。

 

 今それらはみな忘れたが、合間に読んだ良寛と西行、それに啄木の味は淡く残った。

笹口さんのお酒 笹口孝明氏の家が蔵元とは知らなかった。

先日申し込んで到着した清酒、とても嬉しい。

 

また当時の週末はよく新潟の講演会や講習会に行った。当初高速道路がなかったのでしばしば海岸を走った。

 

日本海は変化に富んだ表情があり、柏崎から角田浜まで海沿いの景観には慰められた。ある春、刈羽から荒浜の先へ抜ける松林を歩いたことがある。なだらかな丘、清々しい松林、見えてくる海、とても素晴らしかった。

 

しかし間もなく一帯に高いフェンスが連なり、いつしか全貌叶わぬ巨大な原子力発電所となっていった。清々しい景観に代わっておびただしい鉄塔と送電線が巡らされ、無味無骨なコンクリートの巨塊が出現した。それはまた後の中越沖地震の煙によって、世界最大の原発であることを全国に知らしめることとなった。

 

さらに、あろうことかその45キロ先、新潟県が誇る景勝地、越後七浦の角海浜に、もうひとつの原発(東北電力巻原子力発電所)が計画されていた。佐渡に対面する無垢な海岸線に二つの原発とは何という粗暴。新潟県はどこまで落ちれば気が済むのだろう、と思った。

 

 この土地を遠くから訪ねる人は原発関係者以外いなくなるかもしれない。越後は麗しかったのではなかったか。

 

 結局、角海浜に原発が建つことはなかった。様々な曲折を経て1996年に笹口孝明町長が登場した。氏は国・県知事・元町長と議会与党・電力会社・推進地元など圧倒的な力を相手に、同調する住民と共に闘った。女性の力も大きかったと聞いている。

 

1998年8月、町長は自らの判断で炉心予定の町有地を建設に反対する同志に売却した。建設推進サイドはそれを違法と主張、提訴そして執拗な抗告へと推移した。しかし2003年3月、最高裁は合法の判断を下し、ついに電力会社は計画を断念する。

 

次々と襲った嵐の中でどんなに苦しかったことだろう。きわどい局面を迎えるたびに氏は明晰な言葉と行動によって乗り越えた。並外れた信念に感動して手紙を送ったことがある。

 

原発は緑の国土を損ない地域の創造力を減衰させ人を退ける。しかしまったく正反対のことを述べる人がいるのも事実だ。国土・生活・カネについて、感覚や認識の違いで分かれるのだろう。

 

10数年前、巻がもめている頃、ある会に所属していた。当時の講話で“新潟県に原子力発電所はもう要らない、都会に作ればいい”と話したことがあった。まばらな拍手だった。

 

 いま笹口孝明氏を振り返る。氏は巻町ばかりでなく、出雲崎、寺泊、弥彦、角田、岩室、国上山、見附・燕、そして新潟市の住民をひとまず安心に導いた。我々とて同じであり、来訪者もほっとした事だろう。
また、一帯の海岸を明治、江戸、鎌倉、平安・奈良、、、さらにその先人達が見てきたであろう風光として保全された。巻原発が建たなくて本当に良かった。

 

斯く間一髪新潟県は救われたのではないだろうか。笹口氏いなければ新潟は最も近づきたくない県の一つになっていたかもしれない(現にそうでないことを願うばかりだが)。

ネットで見た現在の笹口氏は、死にものぐるいの当時と異なり穏やか印象だった。いつかお目に掛かってみたい。

新潟県の片隅で小さな地蔵さんが 仙台、南三陸、気仙沼、陸前高田、大船渡、釜石、山田、、、

2011年4月16日(土曜日)

家の玄関脇に小さな(可愛い)お地蔵さんがある。平成に入って間もなく家にやってきた。佐渡の石彫作家さんのものだったと記憶している。

数日前から、向きが気になっていた。東北を向いているような気がしたからだ。昨日見たらちょうど米山(よねやま)を向いていた。

地蔵さん

お地蔵さん

もしやと思い、地図上で地蔵のある場所と米山を結ぶ線を引いてみた。線を次々に延長していくと新潟県長岡市を通り、県境の飯豊山を抜け、蔵王をかすめて仙台市の北方から三陸海岸へ出た。

 

向いていたのはほぼ被災市町だ。仙台、南三陸、気仙沼、陸前高田、大船渡、そして釜石、山田、、、。少々驚かざるをえない。

東北祈りの線

本日あらためて地蔵を見た。幼げな地蔵は東北の子どもの無事を祈り、失われた命を悲しみ慈しむように見えた。

やってきた頃は何て愛らしいのだろう、と思った。その後、次第に椿とアジサイの影に隠れるようになった。前を少しどけて写真を撮った。

 

震災を知っていたなどとは思わない。しかし上越市の片隅から東北へ向けて小さな手足を合わせる姿に心打たれた。

ところで地蔵さんの作者を思い出せないし、記録もなかった。本日午後、当時運んで頂いた新潟市某デパートのA氏に尋ねてみようと電話をした。すると少し間があって「申し分けありません、Aは亡くなっています」と告げられた。

 

なんとも言えないショックだった。アクも曇りもなかったあの人が?!すっきりして若きエースだったのでは、、、。5年前のメールが最後だったとは、、、知らなかった。

幼き地蔵は自分を運んだ人のことも祈っていたのか、飾り物などではなくまがいなき仏だったのか。明日は初めてだが是非ともお線香を供えたい。

梅と畑 朝日池「宮の袖」 進化 最後は女性 安心・安全の愚

2011年4月14日(木曜日)

 畑の梅1 

 

畑の梅を見る 

一作日の雨の日、畑道の行き当たりにある梅を見た。今日は晴れて、周りで仕事をする人達がいた。生活には色々な形があろうが、ここで過ごされる人の時間を羨ましく思った。

 

ところでこのすぐ向こうに朝日池の入り江の一つ「宮の袖」がある。中学時代のある曇りの日、こんな日は大きな鯉が釣れると聞いて、一人で「宮の袖」へ行った。

 

宮の袖は足場が悪いうえ濃い雑木に糸が絡む。さらに降りだした雨に濡れて苦労した。一、二匹大きなフナを釣ったような記憶はあるが、その日一人の大人が浮かぶ。

 

私の並びの少し向こうで釣っていた人がその大人だ。はじめから蓑傘(みのかさ)をまとって非常に格好良く見えた。ガボッと水音がするとヒュンヒュン糸鳴りがして大きな魚を何度も釣り上げた。雨降りでとうとう仕舞った自分、しかし格好良い大人と居たことに満足して帰った。

 

さてここへ来てふと思う。
雨中に蓑傘、こんな服装はもう見られない。そして今放射線防護服。比べるのは酷だが、これも進化だと本気で言う若い人は多いはず。何かと強い現実肯定、自分が生きている間のスパンで損得を考えたがる男の癖。

 

世代ギャップはどうしょうもないが、この先の主だったことは、母性を内包する女性に任せるのがいいのかもしれない(但し男の悪い面だけを備えたような女性もいるので注意が必要か)。

 

 

このたびの重要な国家的会議の委員に如何にもという男性が並ぶ(梅原猛氏は別格、この人に愛想を尽かされたらお終いかも)。しかもインタビューではさっそく「安心・安全」などとキレの悪い言葉が遣われる。安心と安全は趣意が異るがかぶることも多い。まず何が安心で何が安全なのか言ってほしい。

 

その前に、安心で安全なまちづくりや暮らしは目標として言うまでもないこと。それを得意げに話す。軽くて野暮な言葉は介護保険の行政用語からたちまち広がったと思う。明晰な現場はともかく、立場が上ほど政治家ほどよく遣った。子どもじみた言葉に進化でなく人間の減退を感じていた。 

 

馬鹿にされているようで、これを遣う人をあまり好きになれない。しかし今でも会った途端に“安全・安心”と言う人がいて悩まされる。

こちらこそどうか宜しくお願いいたします。

2011年4月10日(日曜日)

 新潟県上越市には福島県南相馬市や双葉町から、東京電力福島第一原子力発電所の事故によって約200人の方が集団で避難されているということです。ほかにこのたびの震災で被災地からご親族などを頼って上越市に来られている方も少くないと聞いています。

 

 先日は大潟区内に身を寄せられたお年寄りを往診しました。90才を過ぎたお顔に固い緊張が見られ、ここまでの厳しい過程が読み取られました。これからの安心にむけて精一杯させて頂きたいと思いました。

 

雇用促進住宅 車が沢山あった今日の雇用促進住宅(上越市大潟区雁子浜)

 

 ところで大潟区雁子浜(がんごはま)には30戸の雇用促進住宅が二棟あります。昨日、当住宅に福島県から集団避難されていた児童・生徒さんのおよそ半数(約30人)がご家族と入居されました。当面、大潟小学校と同中学校へ通うためということです。 

 

大潟区は昭和30年代に始まった帝国石油による開発で、秋田県を中心に多くの皆さんが移住され交わった経験があります。さらに上記住宅に隣接する鵜の浜温泉にはもてなしの気風が定着しています。

 

故郷を遠くにされた皆様はさぞ淋しさやご不便はあると思いますが、少しでも当区で安心してお過ごし頂きたいと願っています。

 

所変われば人も変わる、福島県の皆様には皆様なりの文化があることでしょう。遠くと遠くが交わることは貴重なことにちがいありません。

 

“私たちの方こそどうか宜しくお願いいたします”

じゃね 宿題  北斗星 雨

2011年4月7日(木曜日)

 夕刻、二人の女の子の声が聞こえた。曲がり角の向こうとこちらで大きな声。

「じゃね!」

「じゃね、すぐ宿題するから、バイバイ!」

「私もする、バイバイ」

「あっ、理由はあの二つだよね」

「そう、あのふたつ、じゃね、バイバイ!」

「バイバイ!」

小学校の高学年のようだった。二つの理由のことは分からないが、なんとも可愛く頼もしかった。

この子達は、ガングロやひどい茶髪などは歴史で習うだけになることだろう。

 

北斗星 夜7時半ころの天頂に近い北東。北斗星と下方に北極星とこぐま座。
被災地の人も見ただろうか、澄んだ夜空だった。

 

患者さんたちの畑がはじまってそれぞれに忙しい。

そろそろ雨がほしいところだ。

しかし東京電力による被災地の雨は洗浄、浸透、濃縮、拡散など複雑な問題があるにちがいない。時期、時期で影響は変わるだろうが、出来れば雨についても伝えられるべきだと思う。

風評 人は心理・感情にもしたがう 月が謝っていた。

2011年4月5日(火曜日)

どんどん薄められるから大丈夫。

こんな風に毎日いわれながら

次第に恐ろしさにならされている。

事実も恐ろしいがこのことも怖い。

 

そして風評、しかし怖いものは怖い

人は物理だけでなく心理・感情にもしたがう。

ぶつからなくとも向かってくる車はよける。 

選べるなら原発の近くでは泳がないだろう

 

都合の悪いことを風評と呼ぶのは

ある意味人を軽く見ることにほかならない 

東電事故は“当分”いくら真剣に考えても

考えすぎることはないように思われる。

 

全てを実害として認め

国は財をしぼって救済・復興すべきだ。

 

きょうの月 
月が精一杯身を縮めて謝っているように見えた。

可哀想に誰かの替わりに、せっかくの清明を。

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