社会・政治・環境

幸福のパン種 増補版 「新春、人間に」から。

2012年4月22日(日曜日)

幸福のパン種
幸福のパン種 増補版: 堀口すみれ子編 かまくら春秋社 
平成23年10月11日発行

 

この度の堀口すみれ子さんのご講演に際して「堀口大學詩集 幸福のパン種」の増補版を戴きました。
幸福のパン種は1993年、大學の十三回忌に発行されました。昨年10月、「新春、人間に」および「そして今は」の2編を増補して改版されました。

 
昨日のご講演の最後にすみれ子さんは「新春、人間に」を朗読されました。この詩は1971年の産経新聞の元旦の特別版に掲載されたものです。その年に福島第一原子力発電所が稼働したということでした。

 

大學は生前“僕の詩は50年早かった、50年経ったら理解されるよ、君はそれを見届けておくれね”と話したそうです。

当版の末尾で、「何気なく聞き流していた言葉ですが、ああ、あの言葉は本当だったのだと実感します」、とすみれ子さんは述べられています。昨年の福島の事故を顧みる機運から、この度の増補がなされたのだと思いました。

 

以下は「新春、人間へ」です。

“ 分かち合え

 譲り合え

そして武器を捨てよ

人間よ

 

君は原子炉に

太陽を飼いならした

君は見た 月の裏側

表面には降り立った

石までも持って帰った

 

君は科学の手で

神を殺すことが出来た

おかげで君が頼れるのは

君以外になくなった

 

君はいま立っている

200万年の進化の先端

宇宙の断崖に

君はいま立っている

存亡の岐れ目に

 

原爆をふところに

滅亡の怖れにわななきながら

信じられない自分自身に

おそれわななきながら、、、

 

人間よ

分かち合え

譲り合え

そして武器を捨てよ

 

いまがその決意の時だ ”

 

元旦の特別記事にしては大変重い内容ですが、大學の先見性、詩人の良心の堅さをあらためて認識させられます。すみれ子さん、良い増補を有り難うございました。

 

今日は二つ良いことがありました。一つは放鳥されたトキのペアから初めてヒナが返ったというニュース。もう一つは書くのが恥ずかしいほど大量のハンディをもらってゴルフコンペに優勝したことでした。次回のハンディは29ということで、また挑戦したいと思います。

荒天の日に花束 志津川小学校の先見。

2012年3月12日(月曜日)

昨夕に続き一日中冷たい風が吹き荒れた日。明日にかけてさらに気温が下がり降雪が予想されている。そんな日にも僅かの来館者様が来られる。

 

大荒れの日、館内は返って静かに感じられる。お客様は作品を観てお茶を飲みゆっくり本を読まれていた。

 

春の花束外は大荒れ、静かなカフェにAさんからのお花。
すぐ前で水仙が伸びている。

 

この日、お二人の方とお会いした。Aさんは髙田の方でご夫婦ともよく知っている。今春から週一で庭や美術館を手伝って下さる。よい人にめぐり会えたことを感謝したい。

 

もう一かたは記者のB氏。昨年3/11では南三陸町の弟一家のことでお世話になった。その時の私のことをよく覚えていて、ああ自分はそんな風だったのか、と振り返った。弟は駄目でも小学生の二人の姪だけは、と私は必死だったという。

 

南三陸町の志津川小学校は町を見下ろす十分な高台にあった。しかし津波が襲ったのは下校時間。しかも直後からあらゆる音信が途絶する。だが学校が全校生徒を校内に留めたので間一髪みな助かったのだ。

 

過去たびたび甚大な津波被害を受けた風光の志津川。もとは低地の川沿いにあった学校を、昭和50年代?に高台へと上げたという。高台の不便を考えれば、建設には硬い反対もあったにちがいない。敢えて先見に徹した当時の関係者に今あらためて深い敬意を覚える。

 

一方、あの日低地に作った防災庁舎に職員を残こしたため、41人もの貴い犠牲者を出した惨禍はあまりにむごい。学校を移し人を救った先人に比べれば賢愚の差に言葉もない。

 

B氏は震災の話の後、一生懸命カフェの食器を写してから展示へと足を運ばれた。Bさんは、19世紀後半のイギリスにおけるアーツ&クラフト運動を語れる貴重な記者さんだ。 

すみれ子さん講演会バナー

たとえ翼があっても。  

2012年3月11日(日曜日)

貴重な平和

早春の頸城平野(本日の昼,大潟区蜘蛛ケ池周辺から)

 

日中の晴天は夕刻が近づくにつれて気温が下がり冷たい風が吹き出した。昨年の地震の時間が近づく頃に、美術館の近くで田の白鳥を見ていた。雪解けした田には北帰行を控えた白鳥が沢山集まって食餌をしていた。

 

一年経つのに映像の被災地は膨大な瓦礫の山に占拠されたまま。腹に響くような復興の足音が届いてこない。

 

ハクチョウが降りる
夕刻近く急に強まった季節風に向かって飛んできた白鳥。
黒っぽい若鳥も一人前だ。

 

 

ハクチョウの羽田んぼに落ちていた白鳥の羽。逆光のガラステーブルに置いて見ると美しい。

 

新潟県にはまだ7000人の福島県の方が避難されている。私の診療所でも何組かの親子さんと顔馴染みになった。ご主人たちの多くは単身福島県で仕事をされてると聞いた。

 

春を迎えて帰る鳥、翼がありながら帰れない福島県の人々。放射能汚染が家族を引き裂く。麗しい日本はこんな国ではなかったはず。

 

昼の温かな時間に妙高市から孫子が海を見に来た。大喜びでシーグラスを探して帰った。

 

海で昼の海日和(柿崎海岸で)

 

今日は今年一番お客様が来られた。

 

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明日は3/11 これから原発がはじめる第一歩。

2012年3月10日(土曜日)

昨年3月10日、どんな地震学者も先端の予知システムも翌日に起る未曾有の大地震を予想出来なかった。同じ地平に立てば、それが出来ない科学や国家や企業に防災都市や原発コントロールが果たして出来るのだろうか。

 

優れた科学者によれば、先端研究は進めば進むほど謎が広がるという。あるいはまた“経験を越える分野に入るほど悪魔の領域に近づく”とは、哲学者の深淵な言葉である。

 

これはまた我々の親たちが命がけの百万年をかけて得た真実ではないだろうか。

 

これらの哲理に照らせば、例えば原発事故に対する適切なベント?であれ元素中和?であれホルミシス?の楽観であれ、新たな緊急発電装置?であれ、水準としてはよくてもファンタジーレベルの危惧を否定できない。
原発のAtoZは科学(+魔界)の領域であり、そのうえ一旦事が起これば最大規模で風評被害を発生させる装置でもある。

 

意外かもしれないが科学の神髄は「慎み」を置いてほかにない。科学と称する尊大なオカルトや大金持ちのバイアスほど危険なものはない。怖れを知らぬ科学こそ大災害の最大の原因ではないかとさえ思われるほどだ。

 

「懲りに懲りる」こと。大災害から得られる唯一の教訓であろう。予防・防災・復興、みなその上に立たなければ、何一つ犠牲者に報いることにはならない。

 

今日言われる広域防災、情報の共有化なども、一体何が有り難いのかよく分からない。そもそも爆発事故で避難出来ても、もとへと帰れないものを防災と言うだろうか。犠牲者を集団化させただけ、事故の矮小化である。ご承知のように原発の防災とは爆発事故を起こさないこと一点しかない。

 

例えば繰りかえされる微細な地震や永年の金属疲労でいつ巨大な高速タービンが吹っ飛ぶか、だれも言わない。分かっていても会社は触れないだろう。今後の大事故は、津波と無関係に起こることが十分想定される。原発テラテクノを構成するナノピコテクノ。僅かの誤作動や精度の狂いが瞬時に大事故に繋がり得る。

 

唯一可能な現実の防災とは?例えば柏崎・刈羽の7基の原発を明日にでもまず一基を放棄する(廃炉を決定する)ことから始まろう。それで即周辺リスクの7分の1を文句なく減らせる。たった一基であっても、それは柏崎刈羽・国県、電力会社・経団連によって初めて示される良心として、何十万人、いや何百万人の緊張と精神を和らげ、孫子(まごこ)への代え難い福音となるはずである。その後も次々と減らし続ける。莫大な経費が掛かるが、すでに原発の防災とはそういうものだろう。

 

繰り返すが、無事に逃げる事しか考えないのは防災ではない。私たちは自分の土地でまっとうに暮らすべく人生を送ってきた。代替発電も節電も予防・防災もすべては危ない火元を亡くすことからしか始まらない。

 

作品展
光栄にも杉みき子先生のお隣で拙絵が売れていた。先生は何点も。
会場で沢山の絵に囲まれている拙絵は恥ずかしそう。

 

さて本日、第4回東日本大震災&長野県境地震復興支援チャリティ「アート&アーティストの底力」上越展に行って来た。県内外130人に迫る出品者によるアーティスト展は豊かで非常に楽しめた。

 

同展には一人でも多くの人にお出かけ頂き、一点でも多く買って頂きたい。芸術にはお金を出して初めて楽しめる側面がある。当展は良い小品でいっぱいだった。私もこんなに安くていいの、という気持ちのいい現代アートを一点買った。ぜひ皆様もお出かけ下さい。

あらためて福島県から避難されている方々のこと

2011年10月26日(水曜日)

 昨日午後、地元の保育園の健診に行きました。例年ならば秋の健診は年長さんたち(6才児)を診ません。来月に予定されている小学校入学前健診で別に診るからです。
 

しかし今日は10人の年長さんを診ました。福島県からの子どもさんたちでした。来年4月に迎える小学校の入学先がまだ決まらないため今回の受診ということでした。園全体ではまだ17人のお子たちがいらっしゃいます。

 

5月の健診ですでに福島の皆さんを診ていました。5ヶ月が経った年長さんは特に大人びた印象でした。明るく活発に振る舞っているのに、いまだ安定しない立場に胸が痛みました。

 

家であらためて調べてみてみました。例えば原発地元の大熊町の人口は2010年の国勢調査時で11511人。放射能汚染のため役場は早くから会津若松市に移動し住民も居ません。全町民は県内に約7300名、県外に約4000名の方が避難されているといいます(大熊町役場ホームページ臨時サイトから)。今更ながら驚くべき現実だと思いました。

 

県外の避難先として埼玉県、東京都に次いで新潟県は三番目に多い513人でした。当地、上越市大潟区には福島県内数カ所の自治体からまとまって来られていて、ここまで何度か移動を余儀なくされた方も大勢いらっしゃいます。

 

将来設計、被災や汚染など故郷の心配、健康のこと、学業、初めて迎える雪国の冬、、、。この方たちの不安を思うと、国は文字通り1人1人を包むように全力で助けなければならないと思いました。そして私たちもまたあらためて支援や原発のことを考えなければならないのではないでしょうか。

 

上越の水田と雲

真の政治へ

2011年8月26日(金曜日)

菅首相が辞表を出して新たな党首の選出に向けて足を踏み出しました。未熟なのに地位ばかり欲しい人たちは、党派を越えてもう用はない事でしょう。

 

政治はますます複雑さをきわめています。しかし私たちの生活にしっかり軸足を置き、利己的な諸外国と保身の官僚を相手に知恵と力の限りを尽くす人が選ばれる事を願っています。

 

また確固であってもある国一辺倒はだめではないでしょうか。足を捕られぐるぐる回りをするばかりで、どこへも進めません。次の人、あるいはリーダーは理念十分で豪胆かつ柔軟、戦略に長ける人であって欲しい所です。

 

地震以来、政治の無為に失望を禁じ得ませんでした。しかしその成熟にはたゆまぬ切磋琢磨しかないと希望を繋いでみたいと思いました。

 

多少心配ですが、長い将来のために、苦しくとも己を捨てる真の政治への転換を期待します。

 

 昔の潟町の海
高校時代に撮った潟町・現上越市大潟区の海(1950年代) 

 

頸北の 山と実りの田 上越市 頸北地域の昨年の山と実り

 

政治には健やかな文明と、海彦山彦が居る美しい地域の保全をお願いしたいのです。

だれがやるにしても 脱原発への道のりは

2011年7月13日(水曜日)

 少々長くて本当に申し分けありません。昨日の続きとなる会見がありました。首相のすじとして一定の方向が表明されましたので、以下個人的な拙いまとめをしてみました。

  単なる延命のネタであってもかまいません、腐っても首相です、会見によって脱原発が初めて国のマターとなったのですから。

  

 以下本旨です。
菅直人首相は13日夕、エネルギー政策に関して記者会見をした。これまで首相は退陣の目途として以下の三法案の成立を挙げている。

1・第2次補正予算
2・再生可能エネルギー法案
3・公債特例法

1,3番は実務的な案件に類するが、2番は国幹に関わるいわゆる政治的課題であり、菅氏が最も力点を置くものと捉えられている。政治家なら当然と考えられる。

 

以下は会見の要旨で、本日のYahoo!ニュースからロイター通信が伝えた記事をもとに首相の見解を概略してみた。

●福島原発事故によって原発に依存しない社会を目指すべき、との認識に至った。

●原子力発電は計画的、段階的に依存度を下げ、将来は原発がなくてもやっていける社会を実現する。
●当面のエネルギー需給見通しについては、15%の節電によって十分に、この夏、さらには今冬に必要な電力供給は可能。 

●原子力安全・保安院は経済産業省との分離が必要。

●原発再開をめぐる統一見解での混乱については、私からの指示が遅れることによって迷惑をかけたことは申し訳なかった。

●エネルギーや社会のあり方は国民が選択すべき大きな政策。脱原発への道筋について基本的なところから積み上げる必要がある。

●現在稼働中の原子炉について、今後、中長期の議論を行い、計画を固めたい。私の段階だけですべてできるとは思っていない。

●エネルギー政策の問題で解散するしないは一切考えていない。

 

以上、脱原発への見解としては極めてまっとうな内容となっている。

会見に前後して身内である民主党議員によって以下の動きがあった。

 

民主党の吉良州司、長島昭久両衆院議員らが13日夕、首相官邸に仙谷由人官房副長官を訪ね、菅直人首相の即時退陣を求める同党若手の衆参両院議員11人連名の文書を提出した。吉良氏らは今後、党所属の全議員に賛同を呼び掛ける方針だ。
 文書は、九州電力玄海原発(佐賀県玄海町)の再稼働をめぐる政府の混乱について「菅内閣の機能は完全に崩壊した」と厳しく批判。特に首相の対応を「内閣の一体的運営を自ら放棄した」と非難し、「菅首相の下での復興は実現不可能」と断じた。また、電力需給の逼迫(ひっぱく)に備え、定期検査が終了し、安全性が確認された原発の早期再稼働を要求した。
ー以上時事通信7月13日(水)17時36分配信から抜粋ー

 

この行動からこれら議員のエネルギー問題への見解として

●電力需給が逼迫している。
●定期点検が終了して安全性が確認された原発から再稼働。

が示され、菅氏の見解と対立している。

 

首相は課題を集約しましたが、無政府状態はいっそう明白となりました。どう推移するのでしょうか、以下二点を妄想してみました。

 

●会見で菅氏は“エネルギーや社会のあり方は国民が選択すべき大きな政策”と述べて、国民の選択を強調した。そのうえ今夕の民主党議員の動きなどからエネルギー論は党派を超えるマターであることが鮮明となった。

 ●首相は脱原発への道付けを是非とも我が手で行いたいと考えているふしがある。そのために以下が想定されていたのかもしれない。今夕の一部議員の行動は想定(解散)を動かすスイッチとなることも想定され、事態はいやがおうでも切実さを強めている。

 

本日の意見表明→議論高揚の必然→止めろ止めないのすったもんだで各党、各議員に踏み絵の必然→決着は解散・総選挙→脱原発的政党の形成→実現への長い道程の始まり。

 

そもそも民主党はブーム(現象)集団だったのでしょう。当選するのに都合がいい、という。そんな党の政治ならば参院選で負けるのも、大震災の対処でもたもたするのも、いつか崩壊するのも当然なのかもしれません。

 

選挙などしている場合か!はもちろんです。しかし残念ながらすでに無政府状態が現出しているのですから、党首を替える試みなどでは無為な騒動を続けるばかりです。前に踏み出すには解散しかないのではないでしょうか。
もしかしたら民主党の崩壊が国会の解散と同義語という皮肉な結果です。

 

大震災は地殻を揺さぶり多くの犠牲者と避難者を生みながら、一方で政治と私たちをも激しく揺さぶっているのではないでしょうか。しかし、これから日本復興の本格的な第二ラウンドが始まるのでしょう。
歯がゆいことに時間を必要としていますが、すべて日本の政治が辿った延長線から逃れられない現実だと思います。

 

長くなりました、果たしてどうなるのでしょうか。解散するにしてもしない場合も、静かで腹の据わった賢人(集団)への集約の始まりと、国の脱原発ベクトル確立を心から願っています。

 

発達する積乱雲 仕事の後、美術館の庭に水遣りをしました。
関田山脈にみるみる積乱雲が発達していました。

いつしか月が登り、庭のキキョウが恥ずかしそうな顔をしていました。 

 

誰がリーダーになるにしても

2011年7月12日(火曜日)

脱原発は多くの国民の意識となりつつある。しかし根深い相手サイドの克服なしに成立しない。

 

経済産業省、電力はじめ産業界のほぼ全体、地元経済、擁護政治家、擁護メディア、安全保障関連、、、衝突カテゴリは膨大である。
 

だが福島の事故の悲惨さと深刻さによって、推進サイドさえ一定の限定を受容せざるを得ない状況がにじむ。また擁護的であった原子力学会など専門団体にもようやく反省表明が出た。このタイミングを無為にすべきではないだろう。

 

いうまでもなく旧態の脱却には並々ならぬ信念に貫かれたリーダーが必要だ。はたして菅首相は大丈夫だろうか。残念ながら氏がこれほど切れ味の悪い揺らぎの人だとは思わなかった。直近においても3・11以来考えが変わったなどと述べ、意外であり信念の深度も問題だ。タフな脱原発は愚直なまでの理念と牽引力が不可欠なのに。

しかも菅氏のぶれは逐一推進サイドのメリットに転換されてきた。事故も検査もまず原発自身の問題なのに、何もかも菅氏の失敗のせいだと転嫁され大いなる空白と損失を生み続けた。民主党の甘さでもあり、不可解なことでもある。

 

今後、解散総選挙による政局で脱原発党が出来たとして、はたして誰がリードするのだろう。大方は攻撃専念の無為なお利口さんばかり。政争の具から離れた目の覚めるような人が生まれるようには見えない。
この残念は安全神話と金が如何に深く浸透していたかを物語り、政治の退行を本気で心配しなければならない水準にある。
 

本日、原子力の所轄は経済産業省とは別に独立させると菅氏が述べた。遅きに失する見解であるが誰がやってもいい、諸課題の中で優先順位は非常に高い。

課題は次第に整理されつつある。誰が引っ張るにしても過ぎた4ヶ月を切実に学習し、人がまとまりリーダーが育つことを、それでも期待したい。またしても国民が悪いと言われるのは、やはりつらい。

 

今日の鵜の浜温泉の夕焼け 今日の鵜の浜温泉の夕焼け

三ヶ月経って 追悼 輸血と献血

2011年6月11日(土曜日)

白いバラ 

東日本大震災から3ヶ月が経った。宮城、岩手、福島の三県を中心に死者15000人を越え、8000人の方がいまなお行方不明だ。お元気なまま突然に遠くへと失われた方々とそのご家族の無念は察するにあまりある。

 

一方で、仮設住宅の整備は進みつつあり、宮城県は目標の約7割に当たる約1万5800戸が着工・完成済み。岩手は7月上旬までに全約1万4000戸の完成を見込み、福島は必要の約1万4000戸のうち約1万2000戸が着工したという。

 

但し仮設住宅の生活にも課題があることが浮かんでいる。さらに原発災害を被った福島県の避難生活者はいまだ約10万人におよぶという。簡単に故郷に戻れない実情は大災害の深刻な複合性を物語っている。

 

さて被災地復興は日本の復興と同義語となった。日本は重い傷を負い一気に血液を失ったまま倒れた状態と言える。
血液は資金そのものであろう。急性期の今、大量輸血が求められる。それによってまず立ち上がるに必要な意識回復が可能となろう。その後は中長期にわたる血液補給と増血剤投与、栄養など生活改善、並行してリハビリへと向かうのだろう。

 

今輸血は、あるところから全てをかき集め必要なら借りて、ドラスティックに行われなければならない。緊急輸血で死が避けられたら、慢性の血液不足の日本のこと、私たちにも根気のいる献血が求められるのではないだろうか。

 

なによりも今は瀕死を自覚し、一刻も早く血液を脳(被災地)に集めることだ。

 

敗戦復興は戦勝国の助けが大きかった。今度ばかりは自らの手で行わなければならない。負傷者自身が自らを助けるという構図だから長い困難になろう。価値観の転換を希望に、メリハリを効かせ、短気は禁物だ。

 

一方、現地への全力救済を横目に財界などが電力不足の不安を騒ぎ始めた。原発への未練を引きずったまま早々と負けいくさを宣言しているように見えて、情けない。

  

二輪のバラ 

 

被災と仮設住宅の進展状況はyahooニュースの河北新報のページなどを参照しました。

美しいネギ畑 最後の課題 第三の仕組み  

2011年6月2日(木曜日)

晴れたり降ったりの空模様、あすは晴天ということでまだ梅雨入りではなさそう。

 

ネギ畑
樹下美術館のすぐそば、大潟区渋柿浜のネギ畑

 

この畑を耕しているのは昔いっしょにヨットに乗った仲間だ。よく手入れされて見映えも良く、今日は終わりのアカシアが香っていた。

 

さて、復興を傍らにして休みなく続く政争。普段ヒマそうにしている政治家でも争いになると俄然生き生きとしてくる。つくづく争いが好きな人達なんだ、と考えさせられる。いや争いが好きだから政治家になるのか。
その昔、世の父母たちが精一杯慈しみ育て、苦労して学び懸命に働く人を、殺し合いの場へかり出す戦争を決めてしまうのも、彼らの悪しき闘争性分に因するのかもしれない。

 

そもそも政治の行き着くところは、粘り強い交渉による妥協である。つまり知性と理性の仕事だ。それが出来ないからだらだらと執行が滞り、最後はこどものように争いを始める。

 

いま身を切って行われるべきは「復興」以外にない。政治家が好きなことば「国難」は、皮肉にも与野党によって行われる貧しい政治そのものを指している。被災者ご本人、さらにボランティアや寄付さえも萎えさせる不幸だ。

 

薄い分別と品格および理性と知性、ののしりと心に響かない言葉。政治は国民の姿を写していると言われると本当につらい。

日本の民主主義はまだまだ若い、これだけ恥を掻けば少しましなものへと向かうのだろうか。それがダメなら、もはや政治はやりたい人にやらせてはいけない事になる。

 

その場合、国民の善良さと純粋な学問が反映される、全く新しい無駄のない第三の仕組みを、時間をかけて真剣に考える時になろう。
722人もの衆参議員が国会に群がって不毛なずヤジを飛ばし合う。こんなアナクロニズムはもう過去へと葬るべき時なのかもしれない。

 

Iさん、ネギ畑はよく手入れされて美しかったですよ。 

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