社会・政治・環境

2024年大晦日の 渡岸寺十一面観音、八幡掘、ラコリーナ近江八幡 日本という国は。

2025年1月6日(月曜日)

さて12月31日大晦日は旅行4日目となり、滋賀県・湖北地方の 長浜市高月(たかつき)を目指した。
渡岸寺は高月駅から徒歩10分ばかりの所にある。一帯の寺には優れた観音像が安置されているというが、特に渡岸寺の十一面観音は日本屈指と称され明治30年に特別国宝指定となっている。

旅行前に、ここは是非という知人の言葉もありこの日は特に早く出かけた。懐かしい米原で東海道本線を北陸本線に乗り換え7駅目が高月。 風景は山が近い京都と違ってとても平坦だった。

高月、 渡岸寺の地図。

一帯に賤ヶ岳や姉川の古戦場があり往時の戦渦は過酷だった。

当日は爽やかな流れがお伴。

駅から続く道案内。

寺院は地域で良く見る中ぐらいの伽藍。

目的の十一面観音は他の仏様とともに収蔵庫に収められていた。

極めて繊細緻密な国宝十一面観音。
衆生を救わんと圧倒的な聖気。
( 渡岸寺発行の絵はがきから)

奈良時代に作られた本仏像は室町時代の度重なる戦乱の際、地域の人々によって土中に埋められたという。寺は向源寺だが、今も積極的に観音を護る土地の名が冠され「渡岸寺の十一面観音」と称されている。

先の両陛下と現陛下の
皇太子時代に行啓
された記念碑。

境内のコゲラ。

続いて彦根へ。是非ともお城を見たかったが大変な混雑。時間を区切って入場するようになっていて長時間待たなければならない。残念だが非常に立派なお堀を見て近江八幡へ向かった。彦根城は一大観光地化していた。


近江八幡は先ず遠い湖畔の曹洞宗長命寺へ参り、駅に戻りながら観光することにしてタクシーの客になった。
運転手さんには、いかつい外見とは裏腹にこまやかな対応をしてもらった。

寺院は湖畔から240ートルの高さにある。車は幾つも曲がりながら坂を上り駐車場に着いた。そこからは徒歩で三つの急な石段を上らなければならない。上ろうとすると運転手さんが事務所から専用の杖を2本持って来てくれた。
それを手に上り始めるなり妻は、私には無理と言い、写真を撮ってくるからと私一人が行くことになった。

途中の階段から見下ろす。

 170段ほど上り長命寺境内に着いた。赤く塗られた諸堂は丹精され、冬なのに杉とともに濃い緑に囲まれていた。照葉樹林文化という言葉を思い出した。

向こうに鐘楼が見える。
建物配置のリズムと
赤が印象的な境内。

当寺の建造は3,4世紀、開基は聖徳太子と言われる由緒があり、建物はじめ阿弥陀仏、勢至菩薩、釈迦三尊像、十一面観音などは重文指定されている。

鐘楼を回ると目の前に開ける琵琶湖。

そろりそろりと下り、待っていた妻にカメラのモニターを見てもらい、良かったよと伝えた。

因みに前回触れた1818年生まれの高祖父・杉田玄作じいさんが40ページにわたって綴った文久2年(1862年)の「上京日記」には近江八幡(八万)のページがあり、本日出かけた長命寺を記した図が見えた。
※この時代の上京は京都へ行くことですね。

遠くの山に長命寺、手前の集落は八万(八幡のことであろう)と記されている。小舟木という地名も見える。
やはり私達は文久時代に祖先が旅した同じ場所を移動していたようです。

身内のことで大変恐縮ですが、見聞する玄作さんは何かと立派で、恥ずかしい私は穴があったら本当に入りたい。あの世から何てヘマな奴だと腹立たしく見られていると思う。
実際どう生きれば良いのか、残りの人生を何とか頑張ったら勘弁してもらえるだろうか。

さて現実に戻り、駅へ向かう車は途中八幡掘へ。

鬼平犯科帳のエンドロール
が聞こえてきそうな眺め。

運転手さんに撮ってもらう。

江戸の設定である鬼平犯科帳はよくここで撮影されたという。吉右衛門の犯科帳が好きだった弟に見せてやりたかった。

以下は当日最後の訪問地

ラ コリーナ近江八幡。

このような場所だと
子ども達は元気になる。

“土や水、自然とともにあるお菓子づくり”という「たねや」。裏手の広大な敷地に栄養たっぷりと見受けられる用土作りの一角が見られた。

人口的な社会構造が進む反対則で「自然」「健全」「健康」のコンセプトはいっそう一般化すると予感した。

日本は世界の何処よりも平和志向が強く健康な質と可能性を有する希な国だと信じられる。
よそ見をせず、そのことに価値と自信と希望をもって大晦日の振り返りとした。

ホテルで大晦日の夕食。

この度の京都・滋賀旅行は明日1月1日の比叡山延暦寺が最後の目的地。延暦寺では護摩炊きをしてもらう手はずになっている。

本日1月6日、実生活の仕事始め。長い正月休みだった。診療所スタッフに石山寺のおみやげと僅かなお年玉を配った。

本日の外来は平穏だったが、休み中本当に無事だったのか気がもめる。

米は美味しい 取り残される人々 国を愛するために。

2024年10月3日(木曜日)

早いもので新米は最後に刈り取られたコシヒカリとなった。私どもはまだ「月あかり」を食べている最中で終わればコシヒカリになる。新米は確かに美味しいのだが、今夏に食べていた新潟県産の古米は不作で品質は非常に悪かったにも拘わらず常に美味しかった。米の品質は格段に進歩しているのではないだろうか。

思い出すのは戦後の困難期で、小学校の昼食時間は切ない光景が見られていた。昭和20年代後半になっても貧しいお弁当を見られまいと左腕で囲むように隠し、顔を近づけて食べる子は少なくなかった(ある意味一般的だった)。まだ良い方だった私のは、かたくあんと目刺しが数本横たわっている「めざし弁当」が普通だった。
食べ物にうるさかった弟はそれが不満で、「目刺し弁当は臭い、早くのり弁を作れ」と盛んに母に催促した。

ところで数人の生徒は昼食時、教室からいなくなることがよくあった。家に帰って食べると聞き、さして不思議に思わなかった。だが後年になり果たして家で食べていたのか、何も食べずに戻って来たのでは?とふと思った。昭和50年に開業した際、そのような人の家に何度か往診をしたが、その時家財道具らしいものは殆ど無く、昼食のことは聞けなかった。

本日東京からの来館者さんと夕食を一緒した。妻より若い方だったが、昔話になると貧しい時代の食事が話題に上った。彼は「ととちゃぶ」と「水めし」を話した。
前者は食事時になると大口を開けて水道水をガブ飲みし、終わるやベルトでお腹をぎゅっと締め上げ空腹に耐える方法で、後者は古くなった飯を水で洗ってすえた匂いを消して食べるというものだった。
「水めし」は聞いて事があるやに思うが「ととちゃぶ」は初耳だった。
いずれも人づての話題らしかったのだが、都会の愛隣地区などに伝わっていたものかもしれない。

かってのブログに「残飯屋」のことを上げている。明治時代のある時期では布団まで借りて暮らす人々がいたという。今日そのような時代とは訣別しているはずであるが、「こども食堂」や「能登の困難」はいま同時進行の事実であり、明治の暗い影に匹敵しよう。飽食とともにあるこれら現実に対して、新たな政権には是非手応えある取り組みをお願いしたい。

トリクルダウンなどは無効なのでなんとしても直接当事者に光を当ててもらいたい。

他人(ひと)の不幸は自分の不幸、不幸で国を愛せるだろうか。


ドボルザーク作曲
「わが母の教えたまいし歌」

保育園の健診 児の成長と国の成長。

2024年5月21日(火曜日)

薄曇りでやや肌寒い本日火曜日、午後から区内の保育園で健診があった。春秋二回、昭和50年から携わっているので当初あどけない顔をしていた園児たちはもう50才を過ぎている。
早い遅いは別にして彼らの性格や境遇の変遷は如何ばかりだったのか、と思う。

本日はゼロ才児から5才児までを診た。0才児はみな保育士さんに抱っこされ、せいぜいつかまり立ちがやっとという幼さ、どこか鳥のヒナの面影を宿している。

二、三才児は顔の色つやよく目元くっきりとまことに美しく、一方個性は主に顔の造りだけに留まっている。それが5才児では急に大人びる。目に光りが表情に雰囲気が現れ、いわゆる個性が出てきて、どんな大人になるか何となく伝わるようで興味深い。

ある子に「楽しい?」と聞いてみた。すると「うん!」と答えた。傍らで記録を執っている園長さんが「担任冥利だね」と言い、付き添う保育士さんは「嬉しいです」と喜んだ。

わき水のように澄んで個性豊かな園児たち。大切に育てられるこの子らを、この先一色に染めたうえ戦争などで死なせるような事はあってはならない。
願わくばどの国も子らのように学習し成長し、トカゲの如き旧態から洗練へと変わる努力を続けなければならないのでは。

樹下美術館の芍薬。

楽しい初ゴルフ 紅麹、健康食品(機能性食品)、水原一平氏は。

2024年3月31日(日曜日)

日は射していたが気温が上がらなかった本日日曜日、米山水源CCで今年の初ゴルフ。親しくして頂いている同業ご夫婦とご一緒だった。


フェアウエーではトップばかり、ドライバーはあらぬ方へ飛び、時には真横に打ち出すなど散々で、短いアプローチは何度もシャンク。滅茶苦茶なゴルフを終始「真剣」に行った。
プレーは不味くとも、ゴルフを始めたばかりの20代のころに「若返った」ようで、そう悪い気がしなかった。昼食に美味しいチャンポンを食べると、後半には幾分調子が戻って来た。

地震の体験を話し紅麹のことも触れた。紅麹では私のところに当該の商品袋を持参され、三ヶ月飲みましたと仰られ、検査中の方がいる。ようやく大規模な健康食品の見直しが行われると言うことだが、様々な合成成分や薬剤成分が入ったものを「安心のお化粧」を施して「食品」と名乗らせるのは果たしてどうなのだろう。

その世界で「血圧高め」、「血糖値高め」とくくられる人々は曖昧な「健康食品(特定機能性食品)」の消費者ではなく、ちゃんとした責任関係で結ばれる「医療」で治療するほうjがよほど真っ当だと考えられる。

変わてもう一つ、違法賭博の問題で渦中にある水原一平氏の行方が、一部で泳いでいる如くいろいろ言われる。門外漢であるが、氏は韓国内で早々に出頭し厳重に保護され、正式な捜査ルートに従って帰米、米国当局に身を委ねているのではないだろうか。

氏にとって身を隠し潜伏するなどは何の意味もないだろうし、可能な訳が無い。

去る22日(木)および23日(金)の梅見物 その1都内と熱海 懐かしくも嬉しいTVの浅田彰氏。

2024年2月24日(土曜日)

この4,5年の間に京都・奈良および鎌倉へ旅行した。その都度訪れた方々の社寺で梅の木を見た。特に2019年12月の鎌倉でそれに気づき、翌2020年2月に鎌倉を再訪し梅を観ようと宿泊・交通の予約も済ませた。ところが運悪く予定を見計らったようにコロナ禍が始まり旅行は中止となり4年が過ぎた。

一方木曜を休診にして一年、このたび金曜日が天皇誕生日だったので2月22,23日は連休となり、熱海で1泊、東京、熱海、鎌倉で社寺、梅園など梅の名所とされる場所を巡り、ほかに二つの美術館を訪ねた。ただ両日とも各地で気温が下がり行った先々は大変寒かった。

22日午前上越妙高駅を発って10過ぎに上野へ、そこから湯島天神と亀戸天神社を訪ねた。今冬は温かく、花期の長い梅とはいえ盛りが過ぎ、花は遅咲き中心の観梅だった。それでも両神社の花は風情良く周囲と調和し、冷たい小雨のなか飽かず眺め歩いた。

上野駅の千葉県フェア。
特に房総は花の産地、
明るい春の花が一杯。

構内の花屋さんも春が香っている。

当日最初の湯島天神は4年前の年末以来。随所の合格祈願の絵馬の棚はぱんぱんに膨らむほど。

文京区の湯島天神から江東区の亀戸天神社へ。以下の亀戸天神は初めてだった。
遅咲きの梅が見頃。

赤い太鼓橋が印象的な神社。
藤も有名らしく是非観たいと思った。

カメラと傘で手がかじかむ。例によって昼食を端折り13時ころの東海道新幹線で東京駅から熱海へ向かった。1時間45分ほどで熱海に着く。熱海は一度だけ学生時代に海岸を歩いたことがあった。このたび駅周辺のあまりの混雑に驚いた。見た目若い世代が特に目立っていた。移動はタクシーで行ったが運転手さんは、若い人達はほとんど日帰りだと仰った。

皆さんに勧められたMAO美術館へ駅から直行した。もう何十年も前の開館なのに初めての訪問、しかし大勢の来館者を集めている。黄色や青の大きなトンネル内のエスカレーターを乗り継いで美術館エリアへ上った。これだけで他で味わえない巨大な空間と色彩が楽しめた。

大きな万華鏡ドームに到着。
ここから美術館の通路へ。

秀吉公の黄金茶室の
忠実な再現と茶道具の階具。
ここで茶を飲むとはどうしてもピンとこない。

野々村仁清の国宝「色絵藤花文茶壺」

尾形光琳の国宝「紅白梅図屏風」

 

 

聖観音(上)と如来(下)

多くの寺院で本尊や諸仏が秘されるが、当美術館のように明るく公開されかつ撮影が出来るのは夢のようだ。

佐藤玄々「猫」。
佐藤氏は日本橋三越の巨大な天女像の作者。

当作品の台に影が無く、極めてこまやかな照明が施されている。猫はエジプト彫刻のパステド神を思わせ、柔軟で敏捷な気配を漂わせていた。

前田正博作「色絵銀彩角鉢}
当館に同氏の抹茶茶碗が二碗ある。
氏の作品が展示されていて喜んだ。

朝方の当地より東京や熱海の方が寒かった。そんな日に梅を観てああ日本人だなあと思い、MAO美術館を観て創設者の凄さに驚いた。

この晩入浴後、妻がBSで浅田彰が出ている番組を観ていて驚いた。もう一人のゲストは先崎彰容(せんざきあきなか)氏で番組はBSフジの「プライムニュース」だった。
論題は現代の戦争、原理主義、グローバル資本主義、格差、分断などが論点だった。一応左右の論客である両氏の説諭は思慮深く、激しい論争や制止、中断も無く相互に十分な発言が保証された良い番組だった。
ネット時代の初め頃、方法としての二進法原理がより深く社会に浸透し、世論も単純かつ二分化を強めるのではないかと危惧した。案の定、社会は複雑な理解を要とする中間的立場や中庸を許さない傾向を強め、思考、思想の単純、幼弱化と分断に落ちていくのを自分なりに心配していた。

番組の最後に二人は今後日本の処方箋は?と問われた。
浅田氏は「処方なし」とボードに書き、“良いといわれる薬はニセ薬が多い。今後もみな苦しみながら生きる”と追加した。
先崎氏は「寛容」と一言ボードに書いた。

昭和50年代、辛さが続いたころ、浅田彰や柄谷行人などの本に拓けた頭脳と思考にまぶしさを覚え、繰り返し読んだ。当日のTVから浅田氏が随分分かり易くなっていることが伝わり嬉しく思い、一方で沈着なポジションが一貫されているのを知り立派な事と心打たれた。

また「右」と自ら述べられた先崎氏も広い足許に立たれ、談中この先大切なのは「理念」jと指摘されて共感した。最後の「寛容」は高校時代の恩師渡辺フミ先生が繰り返し説かれた二文字で、これを右寄りの人が言及されるのを聞き、日本はまだ希望を持てるかもしれないと思った。

番組を視聴していた妻に感謝だった。

次回は23日午前の熱海梅園と澤田政廣記念美術館を記す予定です。

正月のこと 地震と旅行。

2024年1月4日(木曜日)

拙ブログの読者の方々、ただいま帰りました。
実は正月1日午前、かねて計画していた3泊の旅行にでかけ、本日4日夜、先ほど11時に帰って来ました。

地震を初めて知ったのは京都でした。到着後に訪ねた寺院から出て間もなく、東京の長男から「地震大丈夫?」という電話でした。私達が上越にいるものと思って掛けてきて、私の反応は「地震て何?」でした。
電話の直前、寺院から表に出て、あらためて高札を読んでいると急に頭がふらふらとなり、2年前に心臓発作を起こした時に最初に襲われた症状に似た感覚がしていたのです。当日のことが脳裡をよぎり強い不安を覚えましたが、これが京都に波及した地震の揺れだったのです。

長男からの第一報を聞き、上越に戻ることも考えましたが、宿に帰ってテレビで観た被害と遮断された交通からとても帰れるものでは無いことを知りました。また家の近くの甥が見回ってくれた大潟区の仕事場と頸城区の美術館の状況が深刻ではないことが分かり旅を続けることにしました。

お陰様で京都、倉敷、高松と泊まり、本日備中玉島の円通寺を訪ねたのを最後に帰宅したという次第です。
夜遅く帰宅、散らばった本やCDを片付けるとお腹が空き、今ほど夜食を食べながらとりあえず本日分を記載しているところです。

1日と3日の記事は出かける前に予定投稿をしましたので、特に3日の「ノンアルに酔う」は地震と無関係なもので、ご不審をお掛けしてしまいました。

申し分けありませんが、本日は遅くなりましたのでこれでお終いにいたします。
後日旅の事などご報告出来ればと考えています。

中心被災地の皆さまには心からお見舞い申し上げます。
二次的な生命と健康被害は今後さらに深刻さを増す事が想像されます。支援として自分に何ができるかあらためて考えたいと思っています。

一日1万歩は歩いた旅でしたが、妻共々元気に帰った事を報告させてください。
今年もこれに懲りず、どうか宜しくお願い申し上げます。

ニュースから 介護士さんの報酬。

2023年11月10日(金曜日)

日頃特養やグループホームに関係していると、介護職の給与はとても低く設定されているという話を耳にする。

すると過日のテレビニュースで「政府・与党が来年2月に同職の報酬を追加的に月6000円上げる」と報じていた。ようやく政府も深刻な問題に気づいたのか、しっかり対応してもらいたいと思った。

近年の介護職員の給与平均は全産業平均より7~8万円も下回っているうえ、23年度の賃上げ率は1,42%で、春闘の平均賃上げ率3,58%とも大きな隔たりがある。
結果として低賃金のために離職者は年々増加の一途をたどり、他産業への移動の流れが止まないらしい。

来年春には6年ぶりとなる介護報酬の改定があり、介護士さんへの6000円補助はそれまでのつなぎと考えられている。

彼らは多くの手間が必要な高齢者や障害者を一手に引き受けることで社会、家庭、ご本人の三者を支える。
毎日の観察と記録、移動、入浴や着替えに整容、食事、排泄、服薬などの世話から夜間や重症者のウオッチまでストレスに満ちた仕事に追われている。

いくらITやロボットが開発されても不安定な人々を相手に不意で深刻なリスクがつきまとう現場の助けにはならないだろう。

強いストレスと責任を負いながら社会と人生の急所を支える介護士さん。仕事は尊く、本改訂では立場と内容に見合った報酬体系が優先的に実現することを心から望みたい。

春分の日 絵筆とシューベルト スポーツ観戦の鳴り物 ノイズに夢中で良いのか。

2023年3月21日(火曜日)

温かだった春分の日の祝日。スマホの妙なる目覚まし音「我が母の教え給いし歌」が余りにも優雅に響き二度寝を繰り返したため、起きたのが昼近くだった。
だが慌てることもなし、長寝が必要だったと納得し身支度をして用意された朝昼兼用食をゆっくり食べた。

冬鳥が去った後、暇をみては絵筆を執る。小品中心とはいえ数が多いため時間が必要だ。本日西王母椿に手を入れると、ようやく15点が一定の段階まで揃ってきた。

2月28日時点の西王母の2枚。
当時殆どが下段どまりだった。

以来葉を濃くし枝とシベを描き、右の花に影を付けた。

この絵の15点が揃ってここまで来た。
細部と陰影、バックなどまだまだ。
ほかに風景と菊の静物等もある。
6月に間にあうだろうか。

本日はシューベルトのピアノ五重奏、いわゆる「鱒」をYouTubeで聴きながら描いた。「鱒」は歌も良いが五重奏はいっそう鮮やかで楽しく、ピアノが生き生きしている。鱒の季節が気になる所だが調子の印象から春として聴きながら描いた。

だが3時間近くなると疲れ美術館に顔を出した。
聞く所によると陶芸、絵画とも観やすい親しみやすい、と好評らしい。確かに焼き物と言えばまず「壺」のイメージがある。また「お嬢さん展」はデッサンと版画メインだが、一目で若さや愛くるしさに出会えるので良かったのか。

さて寝ている間にWBCは素晴らしい逆転で勝っていた。これもユーチューブ。勝っているのだからチームワークの良さは素人目にも分かるし、監督が優れていることも伝わる。
ただ一点、外野席に陣取る鳴り物は明らかに浮いていて見た目にも恥ずかしかった。

あくまで観客は客。それが主役とともに目立っているのはどうかと思う。バレーボールしかり、大声を揃えて客が試合に参加するのは日本独特の文化だろうか。
一方、観客の多くがサポーターとして旗振り揃って大声を出すサッカーは世界共通であり例外かもしれない。

ゴルフも観客が特定選手のプレーによく大声を出している。選手によって不興を表明したり、嬉しいと言うなど反応はまちまち。私個人は観客の大声は邪魔だと感じる。

総じて観戦マナーとしては拍手や驚きの歓声など自然な反応で十分ではないのか。お金を払って観ている者同士なのだから、基本個人が余計なノイズを生じさせるのは感心しない。
音というのは防ぎようが無く、厄介だ。それで言うと修行において食事を無音で行う禅の徳目が目を惹く。

文句のついでにもう一つ。
首相がウクライナを電撃訪問した。コメンテーターは目的と成果を論ずれば良いのに、NHKと日テレだけが知らされていたのではないかと、物識り顔でノイズに埋没している。
仕事の本質と哲学を忘れ、ただただ見た目や末梢で済まそうとする。それで言うと為政と学問文化の根幹であり、忘れっぽい人間のためにこそある資料、文書を「ねつ造」と言い出す風潮しかり、何が動機なのかあまりの軽さに悲しくなる。

こんなことで国は大丈夫なのだろうか。

何かと体を動かした午後 ヒメオドリコソウも早い あれから12年。

2023年3月11日(土曜日)

晴れてはいたが肌寒かった土曜日。午後から絵を描きゴルフの練習場へ行き、帰って庭の花に施肥をした。数年前のゴルフ練習では300球が普通だったが昨年から200でちょうど良くなった。練習する分、疲れて余計下手になるかもと気付き球を減らしたが、もっと減らしても良いかも知れない。

庭の施肥は周囲を掘り広げてくべるため大変である。そこで今年は液肥(ハイポネックス)主体で試してみることにした。まず花期まで二週間に一回スタッフにも手伝ってもらって続けたい。

隣の草地のヒメオドリコソウ。

イチゲと同じ頃、野に咲くヒメオドリコソウ。この花も例年よりかなり早い。

この写真は樹下美術館開館の約二ヶ月前にあたる2007年4月4日のもの。ブログの前身のお知らせで第一回目を飾った。カメラはパナソニックのコンパクトデジカメだった。土手は年により異なる野草が場所を占め、現在ミゾソバが主体になっている。

久し振りの夕食写真。カレードリア、カブのスープ、白菜と鶏手羽の煮物。

 

12年前の本日夕刻、東北大地震が起きた。仙台と南三陸町に親族がいるため非常に心配して過ごした。地震後現地は雪が降り始め、様相にいっそうの悲惨さを覚えた。

全国に散った多くの被災者。わけても原発があった地域の方達の心境と身の振り方は今なお複雑で非常にお気の毒だ。ふる里への回帰は家族といえども世代間で厳しい相違がみられている。また汚染水の行くへとともに真に地域が再生、存続が可能なのか傍目にも安心とはほど遠く写る。

少なくとも原発は広く人生を蹂躙することがあること示したのは否定し難い事実。避難計画は良いとして全ての問題はその後の事。

館長の絵画と写真展から その2絵画展 カラスとコチドリ 人間の歴史とは。

2023年2月23日(木曜日)

一昨日2月21日の館長の写真展に続いて本日は「館長の絵画展」のお知らせです。

かって絵は透明水彩で花や実を描いていました。油で描き始めたのは2014年の上越市遊心堂さんの作品展のころからでした。
水彩は上手く行けば完成時の気分は大変良かったのですが、塗り重ねなどの過程で神経をすり減らしました。そこである時期から油絵に変わったという訳でした。

●7月13日(木)~8月15日(科)「館長の絵画と写真展」より「館長の絵画展」。

 

自分の絵が樹下美術館でどのように見えるのか、かなり心配です。観て頂ける作品になるよう制作途上の作品などを出来れば楽しみながら仕上げて行きたいと考えています。

本日午後少々庭仕事をし、妻は部屋の片付けだった。

ぶり返した寒さ。庭の地蔵さまに妻が赤い防寒具を着せた。

 

庭仕事のあと柿崎海岸へ行った。その途中でカラスのケンカを見た。高速道路のフェンスとコンクリート壁に挟まれた狭い所で噛みつきあいを続け、仲間たちも駆けつけていた。

狭い場所で飛び立つこともできずひたすら絡みあう。その後どうなったのでしょうか。

 

海でシーグラスを探したが見当たりません。近時多くの人が探すのでなかなか難しくなっている。

海の折り返しにコチドリを見た。

 

人間の足跡に隠れるようにして私が去るのを待っている。もしかしたら私の足跡かもしれない。

カラスやムクドリは仲間同士、時に執拗に諍う。コチドリなどにはそのイメージが全く湧かない。

ロシアが主導しウクライナで行われている残酷な戦争がある。諍う鳥でも殺すことは無いそうだが、人間は優れた道徳や哲学をかなぐり捨てて殺しに徹することを繰り返した。世界の存在の頂点を自負しつつ残忍このうえ無い。

悲しいことだが人間の歴史とは互いの殺戮の歴史であり、殺すゆえ人間と言われかねない。だがいつまで惨めな立場に留まるのだろうか。 存在頂点の大いなる価値が殺しなら、その上に絶対的頂点として殺さない価値世界があっても良いのではないか。

殺しを止めるために際限ない欲求と憎悪を伴うプライドを捨て、欺瞞や盗みの衝動を抑え善悪の二面性を緩和させる。
考えてみると、晩年になるに従いこれらが自然と身近なものになってくる気がするのである。

世界や社会の平和のために「心の老化」が取りざたされても良いかも知れない。

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