医療・保健・福祉・新型コロナウイルス

福島県からのお子さんたち  そして夏は来ぬ

2011年5月25日(水曜日)

あらいそ・絆   学校医をしている大潟小学校のPTA誌「あらいそ」。今年から始まったミニコラム絆のスタートに書いて、ということで駐在さんと一番バッターをしました。

福島県から上越市に避難されたお子さんの多くが、新学期から大潟区の小中学校に転校されました。それで福島の友達とのことを書きました。

 

わずかなスペースをなんとかうめて拙文とし、本日それが届きました。

新たな人との関係は、なにかとこちらの事ばかりを話したくなりますが、ぜひ相手(福島のみなさん)のことも聞いてほしい、一心を書きました。※文中の大潟町→大潟区でした(汗)。

 

そして本日は地元の保育園で春の健診。小中学校だけでなく、保育園にも10人ほど福島県からの園児が通っていることを知りました。

こうしてみますと、避難された方たちの中に如何に若いご夫婦が多いかが、あらためて分かります。職業のこと、教育、不慣れな生活、、、大変だろうなと思いました。まず何よりお子さんたちが当地でのびのび出来ることをお祈りしています。

 

どうかみな様頑張ってください。御地の回復、そして時には当地で楽しんでいただければと心から願っています。

 

卯の花 さて写真は、今日の保育園に咲いていた卯の花の植え込みです。

卯の花の匂う垣根に、、、♪の「夏は来ぬ」は大潟の人、小山作之助の作曲です。作曲は古く明治29年でした。曲は音階を上げていって高らかに終わります。

このことについて、團伊玖磨氏が随筆集「好きな歌・嫌いな歌」で曲の斬新さを賞賛されていました。確かに季節にふさわしい晴々としたエンディングだと思います。ちなみに以前にも書きましたが、作之助は小生の祖父の兄です(再汗)。

夏を迎える満開の白い花を見ますと、あらため花も曲もいいな-、と思いました。

がんばれ介護保険

2011年3月31日(木曜日)

 昨夜の要介護認定審査会を最後に審査委員を終了させてもらった。審査委員は止めたが、意見書はじめ患者さんがお世話になっている制度とはまだお付き合いが続く。同制度は医療と共にある重要な両輪の一つだ。

 介護保険には思い出が多い。、

 平成12年制度発足まで数年間を地域福祉計画策定委員会、それを引き継いだ介護保険計画策定も会議責任者としてしぶとく議論を重ねた。

 

 完成した計画案は平成12年の施行に向けて町の議会で承認された。承認に当たって陳述をもとめた。いまだ介護保険を忌む空気が一部にあったからだった。悲惨な現実に対応する制度概念とサービス項目の優先順位などを精一杯訴えて責務を果たした。

 

 前後してスタートする制度に対応すべく要介護認定作業が始まった。頻回な研修や模擬審査会が連続し、語りぐさになるほど疲労困憊した。医師審査委員の選任も重要であり、総動員に準ずるルール作りを急いだ。

  非公式な活動では、
 旧大潟町の医師達もまとまった。介護保険施行の数年前、訪問入浴車の重要性を訴えて皆で役所に補助の請願をして認めてもらった。また制度周知のため費用を出しあって専門家を招聘し、住民説明会を行った。個人的には自院の患者さん達にアンケートをお願いし、結果報告と説明会を催した。40ページの小冊にして臨んだ。

 

 夢中で書いた投書が新潟日報“窓”欄と朝日新聞“声”欄に載ったのも懐かしい。

 

説明会 
介護保険前年、平成11年6月、アンケートに基づく制度説明会。
患者さんはじめ大勢参加いただいた。男性も多く見えて頼もしかった。

始めにSPレコードで歌を聴き、終了に「誰か故郷を想わざる」をレコードとともに皆で歌った。

 

 町の計画策定会議では真摯な課員のお世話になった。ある制度見直しの年、保険料の財源不足が見込まれて大きな課題となった。
 保険料を一様に増やすと低所得者へしわ寄せが強くなる。この緩和のため高額所得者の負担増を目して5段階の負担区分を6段階に上げることを検討した。

 

 くだんの担当者は全国の状況を調べて6段階の自治体をいくつか見つけた。やりますか、やろう、と承認を得て計画に盛り込んだ。

 

 総じて介護保険は苦境の中で開かれた制度として頑張ってきた。考えられないことだが、遊び半分の人間達がメチャクチャにした年金などとは全く違う。この震災で当制度もさらに厳しい環境になろう。苦しいが、みなが110%働くことで正念場を乗り越えられると思う。

 

長くなってしまいました。

最後の介護保険審査会 シェルブール  網膜剥離

2011年3月24日(木曜日)

資料が送られてきて、今年最後の介護保険審査会が来週で終わる。次年度中に70才になるので規定に甘えて今回を最後に委員を下ろさせていただくことにした。介護保険にはよく付き合ってきたと思う。

介護保険が産声を上げたのは平成12年度。その5年ほど前に突然、新潟県庁から何人かの役人さんが尋ねて来た。在宅医療や介護についてのヒアリングだった。色々聞かれた中で、保健婦さんの福祉マインドと介護技術を尋ねられた。あまりの急所に正直びっくりした。

来られた人達はみな若くよく勉強していた。何かが始まる気配を感じたが、まさか介護保険という壮大なシステムが想定されているとは思ってもみなかった。

昭和50年から総合病院の無い町での開業。忙しい外来のほかに往診用件が多く、在宅の看取りは当たり前だった。寒い部屋で糞尿にまみれ息子さんを待っていたおかあさん。一日中おかゆの手ナベ一個が枕元に置かれているだけのおじいさん。窓を開けて、お嫁さんの悪口を毎日叫ぶおばあさん、、、、。これでいいとはとても思われなかった。

欲を言ったらきりがないが、介護保険は世界に誇れる制度だと思っている。まがりなりにも理想が論じられた結果ではなかっただろうか。

 

シェルブールの雨傘:ピアノ・山田紗耶加さん

映画シェルブールの雨傘は

雪のガソリンスタンドと子どもの名前が切ない物語だった。

 今シェルブール一帯は原子力関連の施設を多く抱えていて、

別の意味で悲しい。

 ところで介護保険の前夜、福祉の事になると、以下のような話をよく耳にした。

 「福祉、福祉というけど、その前にまず経済をよくしないと」
「昔から地域には必ず気の毒な人たちが居たもんです、今さら騒がなくても」
「体を鍛えて介護保険などの世話にならないようにすることが大事です」

地域の慈善団体の長と、町の要人の話だった。
一番目の人は景気が良くても同じ事を言う。
奇異かもしれないが原子力発電のマターと福祉はどこか似ている。

不景気のアゲインストの中、ケアマネを育て社会のマインドを上げて
介護保険は頑張った。

数日前から右眼に網膜剥離の症状が出ている。

本日午後の眼科を予約した。

100発前後のレザーは覚悟しているが、手術だけは勘弁してもらいたい。

丈夫でもないのに、35年間病気を理由に仕事を休んだことがなかったので。

アイソトープ  そして水 

2011年3月19日(土曜日)

 一週間が過ぎて仮設住宅が着工した。何よりの知らせだ。きっと被災地の見えない所に建設されるにちがいない。

 

 明るい知らせの一方で、今もって親族を探す方たちや避難所の人たちの辛さが浮き上がる。

 

 そして懸命に続く原発の冷却作業。一定の効果が伝えられているが、予断を許さないとも報じられる。その通りだと思う。私たちは台風や大雨、大雪に地震など自然をコントロール出来ない。人が作り出したもう一つの太陽、原子力もまた管理を越える本質を見せている。

 

 17日に、フランスがホウ酸100トン、放射能の防護服1万着、手袋2万組、防護マスク3000個を日本に送ったと報じられた。悪戦苦闘する現場で直ちに助けになる支援だと感じた。

 

 フランスは原子力大国と呼ばれている。しかし芸術と思想の国のこと、強いジレンマも内包しているのではないかと思うがどうだろう。

 放射能といえば、小生も大学病院時代の研究室で放射性物質を扱っていた。写真のノートは1968年のもの。フランスと聞いて、押し入れの奥を探すと出てきた。

 実験ノート

 人のホルモン濃度は血清1ミリリットル当たり10億分の何グラムというレベルのものが少くない(中には一兆分の数グラムも)。その超微量のホルモン測定また方法の開発が仕事(研究)だった()。

 

 当時の測定では、アイソトープで標識した抗原(ホルモン)と動物から得た抗体の相に人の血清を加え、競合的な免疫反応を利用して測定する方法(ラジオイムノアッセイ:RIA法)を用いていた。

 

 時にはアイソト-プ(放射性同位元素)をフランスの原子力機関から直接購入することもあり、この面の先進性をやや奇異に感じていた。

 

 私が使用したのは主にヨウ素125で、時には131を用いた。線量は許容範囲で、ガンマー線を測定したのは懐かしいウェル型シンチレーションカウンターだった。トリチウムなどの液体シンチレーションカウンターは半ば自動化されていたが、ヨウ素は一本一本試験管を小さなウエル(井戸型穴)に入れて測定した。
 当時の認識と管理はまだ甘かった。

 

 ある日の測定でスイッチを入れるといきなり異常に高い数値がカウントされた。普段私が測る10倍近い値だった。まさか誰かが汚染させた?それとも私?何もしていないのに?

 

 ウエルの内壁も、試験管も手も、考えられるもの全てをペーパーで拭いた。しかし異常なカウントは続く。深夜の鉛の部屋に1人、パニック同然だった。

 

 突然ある先輩医師が入って来た。部屋は紙クズだらけ、カウンターに異常な数字、慌てる私。

 

「まだ時間かかる?じゃ僕は後で」と先生は言った。そして入り口の机から10数本の試験管を立てたケースを取り、部屋を出て行かれた。

 

 そこに試料があったの?初めて気がついた。異常なカウントはピタッと止んでいた。空のカウンタホールは数メートル先にあった先輩のサンプルを測っていたことになる。放射線の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。学内でコンプライアンスを高める作業を進めているころの話だった。

 

「スギちゃん、あのころは呑気だったなあ」、と毎年会うようになった研究室の同僚は言う。彼は私のヨウ素よりずっと半減期の長いトリチウムを扱っていた。笑っていはいるが長く不安だったにちがいない。

 

 今回、懸命な消防士や自衛隊員は私たちよりも浴びている可能性を否定できない。40数年経って防護や養生も進んでいる。それでも生々しい映像にあらためて心配を禁じ得ない。

 

 ついでの心配は水。発電所の容器や管に漏れはなかったのか、放水された水は海水は?現場の水について知らせる報道をまだ見ていない。

 

懐かしく辛い訛り  アマポーラ

2011年3月16日(水曜日)

今日の外来のAさんは全く元気がなく顔色は青冷めていた。長期出張のAさんは仙台からこられている。地震の話になった。

「仙台はもとより三陸一帯は営業で非常にお世話になった」「三陸はきれいで食べ物が美味しい、こんなことになるとは」「テレビで懐かしい訛りを沢山聞けたが、辛いです、、、」、一気に話されると言葉に詰まった。

 

「先生もお元気で」と帰り際に言われて、こちらがつまった。

 

 
ナナ・ムスクーリのアマポーラ

 羊飼い的なスペイン生活を経験している弟。乾いて花の少ないスペインではアマポーラ(ひなげし)がきれいだった、と聞いたことがある。

お天気に愚痴 雪と静寂

2011年3月4日(金曜日)

  在宅医療では、冬が終わるころから悪化される方がやや増える。本日の往診は特に先を急ぎたかったが、たびたび視界を遮る猛烈な降雪に見舞われた。

 

昨日情緒などと言いながら、「いやな雪だな」「ひどい降りですね」「今頃こんなに降らなくてもいいのに」などと、看護師さんやおうちの方たちと愚痴った。

 

 それが効いたか、一回りして帰路につく頃、雪がパタッと止んだ。しかし空は鉛色、まだ降るらしい。

 

 夕食中に急患の電話があった。意識混濁ということで再び降り始めた雪の中を伺った。容態は比較的軽く、なんとか病院さんのお世話にならずに済んだ。帰りに雪が途切れていた。

 

 雨風と違って雪は音もなく降る。そして夜、音が無かったはずの雪が止んだ時に訪れる静寂は深い。月や星が出るとさらに澄みわたる。静けさは聴覚だけでなく視覚も関係していることが分かる。風花がちらりほらりと見える時も静けさが増す。

世が世なら

2011年2月18日(金曜日)

 あめ風すさぶ1日。新潟市の個展の初日は静かなスタートだった模様。予報は明日からの好天を伝えていたので少々の安心。それにしてもお天気のことは美術館に携わっていっそう敏感になった。

 

 天候で思い出すのはその昔、悪天候の、しかも夜中に具合が悪いと言って電話してこられる方がいた。強風で枯れ枝が飛ぶような夜中や吹雪の晩にかぎって「コワイ(具合が悪い)から来て」と仰る。またか、と思いながら万一も考えて伺った。伺うと電話とちがってお声が元気になっている。帰り際「有り難うございました」と仰るのが救いだった。

 

 ところで昨秋に心臓を悪化させたおばあさんは一定の安定を維持されている。おじいさんは食事やおやつ作り、オムツ替えから移動の介助まで何でもなさる。ある日おばあさんが途切れ途切れに仰った。

「じいはね、じいは男なのに、、、よく面倒みてくれる、、、」。また先日は、
「じいはね、なんでもしてくれるので、有り難い」と。

 

 こんなことを口にされるおばあさんは珍しい。なんて簡潔な言葉だろうと思った。お元気な時は、口は悪いが賢い人だな、と感じていた。そんな老夫婦のもと、家の若い人達やお孫さんはみなよく働き、勉強される。

 

 帰郷して35年、色々な方たちにお会いした。時に、世が世なら学者や物書きになっていたのではないか、と感じる方がおられた。そんな方に限って普段、理屈っぽい、口べた、変わり者などの立場に甘んじているように見受けられた。世が世なら、、、特に昔はそうだったにちがいない。仕事でそんな方の話を聞くのは楽しかった。

学校保健委員会 メディアを取り巻く環境、そして健康

2011年2月10日(木曜日)

 いっとき粉雪がちらつく寒い一日、小学校で学校保健委員会があった。テーマはメディアを取り巻く環境、そして健康だった。長年かつ最大級の問題だ。

 

集中 
集中する5年生 

 集まった5年生に語られた上越教育大学教授・石野正彦先生のお話「テレビ・ゲームとのつきあい方を考えよう」は非常に有益だった。

 

 子どもたちと応答しながら進める石野先生のお話は道しるべとして明快。本当の問題は何か、努力の向こうにどんなすばらしいことがあるのか、具体的に触れられた。

 

 自らの改善は心に滲ませて初めて道がひらける。タバコも肥満も過剰なアルコールもみな同じだろう。本人が論理、感覚とも納得できる助言しか効果がない。

 

 先生の話に生徒達は集中を維持した。自分たちも何とかしたいと思っていることが伝わる。私は親御さん達に対して助言を求められた。豊かに人生を楽しむこと、テレビもゲームもない家で読書とラジオで育っている姪たちの話を少しさせてもらった。

 

 一昔前なら信じられないような今日のタバコの状況。いつの時代でも問題の背景は強力だ。何かと飼い慣らされていないだろうか?減りつつある喫煙は長い努力が無駄でなかったモデルの一つだと思いたい。 

楽しい保育園で健診

2011年2月9日(水曜日)

 2月に入ってずっと良いお天気が続いている。昨日午後、担当する保育園で今春入園予定のお子さん達の健診をした。多くの親御さんは少し心配顔、問診票にもそれが現れている。

 

 大丈夫です、心配なのはいいお母さんだからですよ、とお話した。

 

 保育園は時間外や未満児対応などある時期から飛躍した。よく頑張っていることがわかる。園内はカラフルで楽しかった。玄関のプランターにスイセンの芽が出ていた。

 

当園のインフルエンザは一段落しているかに見える。今後の雪ともほどほどにお願いしたい。

消毒を見ている
消毒を見守る 
長靴 
色とりどりの長靴
  ホールの透かし 
ホールの透かし
手洗い場 
シックな色調の手洗い場 私の膝より低くてオモチャのようだ

拙宅の夜間・時間外の電話対応 少々変かも

2011年1月18日(火曜日)

 気温が上がって雨交じりのミゾレが続き、雪は一時の半分以下になった。しかし山間の生活地では2メートルを越えているという。高齢化と重なっていっそう深刻な状況が報道されていた。

 

 ところで拙宅は数日前から妻が所用で遠方へ出掛けている。夜9時過ぎ、その妻から「○○さんが食後の痰で苦労している。連絡してみて」と携帯が入った。

 

 我が家では夜間・時間外の電話は妻の携帯に自動転送される方法を続けている。掛かる電話の公私を仕分けして、医療(主として在宅)用件のみ私に伝えるやり方だ。35年たっても夜間の電話音は緊張するし、携帯は音も静かで相手も分かる。妻は大変だが一定のストレスを緩和できて感謝している。

 

 昔こんなことがあった。

「Aさんが繰り返し吐いているそうです、どう返事しますか?」

「行くと伝えて、ところで今何処?」

「小樽です」

 少々変かもしれないが、長く零細な仕事を続けられたのもこのような方法のお陰かもしれない。今日の電話も400キロ先からだった。

 

 痰に困っているお宅に電話をした。吸引器はあるのですが、と遠慮の中に心細さが伝わる。日頃から農業を懸命に営むご一家を見ている。それで特に心動かされた(農業は政治に翻弄され続け、本当に大変だと思う。長い歴史も、手入れされた広大な風景も、文字通り日本の貴重な背景。良くて搾取のTPPなど何を考えているのだろう)。

 

 お宅へ伺った。「思い切って」、とお嫁さん協同でむせる痰を吸引、ご本人は楽になられた。

 

サンドイッチ  
  帰宅してパックの紅茶にミルクと砂糖を入れ、千葉のピーナッツを食べた。すると余計お腹が空いてきた。それでつい明朝のサンドイッチを半分食べてしまった。コンビニのサンドはとても美味しい。

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