ほくほく線電車&乗り物

良い本良い雲 良いほくほく線普通電車。

2015年5月10日(日曜日)

最近の天気予報はよく当たる。
「雲間から陽が射すこともあるでしょう」というような予報が、昼にはその通りになった。

先日軽薄短笑さんのブログで紹介されていた短編集「アンブラッセ」を買い、手許にあった。
大人の渇きを潤す、というコピーと新潟県を舞台にした2篇があること、それに表紙も良かった。

本日午後美術館に行き、カフェが静かだったのでその本を読んだ。
遅い食事をしながら10篇のうち最初の2篇だけゆっくり読んだ。

夢のように素晴らしい家族の物語は、文字通り壁に染みこむほどのこまやかさだった。
古典を愛して止まない男女の抱擁(アンブラッセ)は今日の風光と重なった。

アンブラッセ「アンブラッセ」 阿刀田高著 文藝春秋社
優しく読ませてくれる本は有り難い、この先も楽しみ。

午後の雲はどんどんと東へ流れ、夕方にかけて気持ち良い空になった。
特急はくたかの廃止以来ほくほく線の写真を撮ってなかった。
夕刻迫る頃、雲に期待して田んぼへ行ってみた。

一帯はしろ掻きと田植えの真っ最中、沿線は湖面のようだった。
ほくほく線の高架線を行く2両の普通電車は、雲を背景に水田に影を映し西日の中を走った。

ほくほく線電車1くびき駅発17:28分直江津行き電車が犀潟駅へ向かう。

ほくほく線電車2くびき駅発18:18分直江津行きの電車がやってくる。
いずれも時間通りにくびき駅を出るのが遠くからでも見える。

特急とは迫力が違うが、普通電車は小さくて遅い分背景が広がり、詩情が感じられた。

本日新幹線で金沢か長野のデパートに行く予定だったが、都合で取りやめていた。
しかし本と電車とお天気のお陰で良い日曜日だった。

巣箱 クリスマスローズ モズの水浴び 〝smart〟 LNGタンカー 皆既月食。

2015年4月4日(土曜日)

本日は暖かく穏やかで、天気予報よりも良かったと感じられた。

午後、診療所の庭で傾いて落ちかけていた巣箱をかけ直した。
このところ毎年山桜が咲く頃にやって来るコムクドリ
今年も来てくれればと待っている。
例年営巣していた合歓の木のウロが朽ちて、昨年はこの巣箱に入りヒナを孵した。

 

1てっぺんではベルトを3本つないでハーネスとして腰に付け、巣を直した。

本日は色々なものを見た日だった。
以下はその写真です。

2連日のクリスマスローズ。新人に負けぬとばかり古株たちは花盛り。

3珍しくモズが水盤に来て水浴び。

4可愛いですね、間近で見たのは初めてです。オーナーさんも可愛い方でした。

5INPEXの直江津埠頭に停泊しているLNGタンカー。
大型小型に限らず夕刻の船舶は詩情が漂う。

6昨年よりも上手く撮れたような気がした。
胸は高鳴り撮影は結構難しい。

天然も人も物も魅力的な一日でした。本日のお客様、まことに有り難うございました。

鉄ちゃんではないけれどその4 修学旅行で蒸気機関車に乗ってはいけなかった。

2015年3月27日(金曜日)

一昨日は小生の中学時代、1956年(昭和31年)の修学旅行中に級友と起こした騒動を書かせて頂いた
当日私たちの列車を牽引していた蒸気機関車に乗った事をある種冒険のように書いた。

しかし二日経ってどこか違うのではないかと、気になってきてあらためて思いを巡らせた。
特に陸上競技に優れた明るいA君の「叱られてトラウマになった」という一言が重さを増した。

考えてみれば次のような疑問が浮かぶ。
疑問1.機関車の運転士は果たしてすんなり同乗させてくれたのだろうか。
疑問2・何故私はA君のことをすっかり忘れていたのだろう。
疑問3・何故A君だけ強いトラウマを生じたのだろう。

疑問1だが、二人で先頭の機関車を見に行ったのは良いとして、問題は乗車の経緯だ。
「乗せてほしい」と訊いた時点で、機関士は少なくとも「先生に聞いてきなさい」と言うのが普通ではないのか。
どうしても乗りたい私たちは(少なくとも私は)は、果たして先生にちゃんと相談したのだろうか。
これに関して、機関車から仲間たちが居る客車に向かって懸命に走るシーンがぼんやり浮かぶ。

走りながら「先生に言わなければいけない、でもどうしても乗りたい」という葛藤があってもおかしくない。

担任、特にB先生は機関車に乗ることなど絶対に許さないはずだ。
皆の所へ行き生徒だけにt告げ、機関車士には「先生に言ってきた」と(私が)嘘をついたのではないのか。
となれば事の善悪は明らかであり、冒険は罪に変わり気まずい空気が生まれた可能性がある。

生徒は担任に話し、厳しいB先生は特に怒りに燃えただろう。
列車は走り出し、私たちが乗った機関車には誰も近づけない。
楽しかるべき修学旅行列車は、
逸脱した二人の少年とやや困った機関士と、先生の怒りと生徒たちの緊張を乗せて、長い垰を走ったと思う。

ようやく停車して席に戻ると説教が待っていた。
私たちは愉快犯でなく、確信犯として扱われたに違いない。
A君がくしくもトラウマになったと言ったのは、人格まで攻撃されたからだろう。

行ったり来たりの反すうの結果、次の答は以下のようになった。
疑問2、何故私はA君のことをすっかり忘れていたのだろう。
→彼に掛けた迷惑や、彼の受けたひどい叱責ショックを早く忘れたい、と願い続けた。

疑問3.何故A君だけ強いトラウマを生じたのだろう。
→二人の鋭敏さの違いもあろうが、どうしても私には激しく叱責された記憶がよみがえらない。
学年は2クラスで担任が二人、A君が言ったように彼は厳しいB先生に、もしかしたら私は幾分温情のC先生の説教を受けた可能性がある。

となるとこの件でA君と私では、受けて残ったものが少し違っていたのかもしれない。
私にトラウマらしきものがあったとしたら、
「彼を共犯者に引きずり込み傷つかせた事への恨悔」しかない。

半年後私たちは同じ高校へ進学し、クラスは別々になった。
それから2年経って私は結核に悩まされ、忘れたい事件は病に取って代わられた。
一年の留年と浪人の後、病が癒えて大学に進み、様々な時が過ぎ、願い通りに相手の名前を忘れていった。
これに対して正直なA君は健康的にトラウマと向き合い見事に克服したのではないのか。

人間は忘れたいことを忘れる、と聞いたことがある。
いずれにしても60年前のことなので風化はやむを得ない。
しかし芯ぐらいは残っているのではないか。
今夏の同級会で会ったらとにかくA君に謝ってみたい、彼はどんなことを述べるだろう。

 オリオン座昨日は暗くなるまで庭仕事をした。春のオリオン座を優しく感じた。

鉄ちゃんというわけではないけれどその3 60年前の修学旅行の逸脱。

2015年3月25日(水曜日)

1956年(昭和31年)10月、中学二年生の私たちは関西旅行に行った。
行き高田発5:45→19:37京都着、帰り大阪発20:12→翌日9:08高田着と「修学旅行のしおり」にある。
当時の北陸本線は蒸気機関車で、片道13~14時間かかっている。

ところで、私が通った中学校は新潟大学教育学部付属高田中学校という長い名前の学校だった。

学業と品行、それに戦後らしい自由さの側面も重んじられていた。
品行で言えば、学内に「風紀委員会」が、さらに「懲罰委員会」まであった。
ある新任教師は着任の挨拶で「この学校に来て大変驚いたことがある、
懲罰委員会という恐ろしいものがあることだ」、と嘆くように語った。

そうかと思えば、「二十四の瞳」だったか映画鑑賞の時は、
映画館までの道のりを男女手をつないで歩くように言われた。

二年生秋の修学旅行は、何事も一生懸命な学校の最も重要な行事だったにちがいない。
今見る旅行のしおりには、詳しい見学先の説明と厳格な行動規律が沢山並んでいる。
「班ごとに行動せよ」は今でもどこでも変わりないことだろう。

しおり41ページもある修学旅行のしおり。

その大事な旅行の車中で、私は早々にある級友と大目玉をくらう行動をした。
それなのに時が経ち、いつしか逸脱の相手が誰だったか、思い出せなくなっていた。

ところが2007年6月樹下美術館を開館して間もなく、高名な外科医になっていたA君が訪ねてきた。

「中学校の修学旅行の途中で機関車に乗ってしまい、物凄く怒られた。誰かと一緒だったと思うが君じゃなかった?」
と言った。
忘れもしない私も誰かと私たちの列車を牽引する蒸気機関車に乗った。
しかし誰とだったのか、すっかり忘れていたのだ。
まさかA君とだったとは。

「戻って延々と怒られたよな、その時の説教は後々までトラウマになったほどだ」とA君は言った。

修学旅行の列車は敦賀かその先の駅で長時間停車した。
退屈していた私と誰かはホームに降りて先頭の機関車を見に行った。
そこで乗っみたいと、機関士に訊いたのだろう。
機関士は乗せてくれ、あまつさえ発車後も同乗させてくれたのだ。

区間は険しい山中、思ったより広い室内で機関士たちは忙しかった。
そんな所へ生徒二人が入ってきて迷惑ではなかったのか。
それでも大きなシャベルで何度か石炭をくべさせてもらった。
トンネルをくぐって大いに煙を浴び、石炭ガラが目に入った。

ようやく停車した駅で降り、ある種ほうほうの体で席へ戻った。
顔はススだらけ、石炭ガラに悩まされた目は真っ赤だったと思う。
どうしたんだ、みんなで探していたんだぞ、級友たちの声が聞こえるようだ。
無理も無い、班が異なる生徒が二人車内から消えてしまったのだから。

事故や駅への置き去りなど真剣に心配されたことだろう。
A君は特にB先生から激しく叱責されたという。
不思議なことだが、私はそれほど強い叱責の記憶がない。
鈍感だったのか、あるいは幾分優しいC先生の説教だったのか。

A君がトラウマになるほど叱られたと聞いて、非常に気の毒に思った。
もしかして全て私が言い出したのではと、自責の念まで交錯した。

不思議なのは、あれだけのことをしたのに相手のことを忘れてしまっていたことだ。

「君と一緒に機関車に乗ったような気がする」
懐かしい級友の突然の一言は、疑問を一瞬に晴らした。
60年前の共犯者がA君で良かった。しかも名医になったのは見事なトラウマ返しではないか。
「同級生が美術館をやるのを誇りに思う」と彼は言った。

今夏久し振りに開催される同級会の知らせが届いている。
今から楽しみだ。

二月堂下で東大寺二月堂下の記念写真。

ちなみに、「修学旅行のしおり」に、一升五合の米の持参、お小遣い800円などとあった。
〝出来るだけ標準語を使うように努力しよう〟
〝ニックネームは言わないこと〟などがしおりに書かれている。

新幹線は〝第三潮流〟 観光客と旅人 そして樹下美術館。

2015年3月21日(土曜日)

北陸新幹線が開業して一週間、一昨日は上越妙高駅とはくたか号を見た。

列車外観と駅はかつて見た新幹線のどれよりもはるかに洗練されていた。
そのため輸出用のモデルにもなっているのでは、とまで思った。
あまりに立派で自分が恥ずかしくなったほどだった。

これで好むと好まざるを問わず当地も文化、文明の最先端と関わることになった。
乗るのも、迎えるのも相応の理解と認識が求められよう。
間違いなく信越、北陸地方に〝第三潮流〟(最後ののうねりが)が来たのだ。
(※最終潮流→第三潮流 3月22日に変更。新幹線の延伸を、戦後復興→高度経済成長期に次ぐ第三の文化経済潮流としました)
それに付いて行けるか押し流されて終わるか、北陸新幹線の第2ラウンドが始まる。

新幹線金沢行きはくたか (1)超モダンな新幹線上越妙高駅駅とはくたか号(昨日)。

通勤のほかに新たな人の出入りも考えられる。
旅行者と言えば観光客と旅人の二つのニュアンスがあろう。
観光客は大小のツアーでメジャーなスポットを回る。
旅人はおもに一人旅、あるいは二人などで旅情に任せて気ままに歩く。

観光客は目立つが旅人も無視できないカテゴリーにちがいない。

当地においても場所によって訪ね方に違いを生じるような気がする。
妙高市の山並みの風光は旅人、巨大リゾートやスキーは観光。
上越市の町並みと里は旅人、花見・蓮・謙信公・佐渡は観光と言う風に。

新幹線金沢行きはくたか (2)トンネルを抜けて水田地帯の高架線を走るほくほく線普通電車。

当然これらは一概に分けられるものではないし、ミックスもあろう。
それでも伝え方や迎え方に違いと工夫が必要ではないだろうか。

ちなみに樹下美術館は上越妙高駅から遠隔の田園に位置している。
越後トキメキ鉄道やほくほく線、あるいは在来の信越線の乗り継ぎは旅人向きだ。
いつかそれらを利用してやって来られる人を迎えることが出来れば、とても嬉しい。

北陸新幹線の上越妙高駅で「はくたか」を見た。

2015年3月19日(木曜日)

午後休診日の本日、夕刻近くに北陸新幹線の上越妙高駅を見に行った。
出来たての駅は汚れ一つ無い。
ホームは清潔なホワイト系、通路や広場、待合室や売店などはウッディにコントラストされている。

上下のはくたかを見たが、ピカピカスベスベで魅力的だった。

上りはくたか入線してきた上り(東京方面)はくたか.。
ほくほく線(北越急行)では越後湯沢方面の「はくたか」は下りと呼ばれていた。
運営会社の拠点が金沢市のため一般に考えられる上り下りが逆だった(途中で知りびっくりしました)。

車名表示あの「はくたか」が今ここに。

車両マークはくたかに付いていたシンボルマーク「JR EAST JAPAN RAILWAY COMPANY」はJR東でE7系。
「JR WEST JAPAN RAILWAY COMPANY」ならJR.西でE7系
形式のE7、W7両系は所有する東西JRの違いだけで、実際の様式は同じ。

 17:09発下りはくたか下り金沢行きはくたかの最後尾から(北越急行では上り)
あまり考えつかない配色だが、ブルーとカッパー(銅色)は意外な好印象を受けた。
雪国のさわやかな青空と銅色の和(なごみ)感が確かに伝わる。

ただ期待していた出発メロディ「夏は来ぬ」は、列車の動力音に消されてしっかりと聞こえなかった。
とても残念である。

さてふんだんに使われている駅舎のガラスは手入れを怠るとすぐに汚れる。
手抜きはすぐガラスに現れるので、大変だと思うがどうか根気よく磨き続けてほしい。
もう一つ、駐車場は拡張されるのだろうか、ぎりぎりだったので週末が心配される。
ほかに工事中の場所があればいいのだが。

本日来てみてまだ異国の錯覚を受ける。
速達でなくても構わないが、出来れば早く乗ってみたいと思った。
(旧はくたかと涙ながらにお別れしたばかりなのに)

これからが本番、もう3回目の出張という知り合いに出会った。

早春の庭 上越に新幹線が走るとは未だ信じられない。

2015年3月18日(水曜日)

うっかりストーブを消したままで急に寒さに気づく。
風邪に気を付けなくては。

そんな寒暖の季節、以下のような樹下美術館の花はみなけなげです。

クリスマスローズとトサミズキ クリスマスローズヒュウガミズキ。

 

ヤブツバキ端正なヤブツバキ。

先日は庭だけご覧になった方がいらっしゃいました。
歓迎です、是非可愛いクリスマスローズやトサミズキを見てやってください。

新幹線パッケージおせんべいが入っているらしい北陸新幹線のパッケージ。

さて、まったく追いつけない我が家の北陸新幹線ブーム。
先日電気屋さんから頂いた富山のお菓子屋さんのパッケージは良く出来ていました。

実は開業の日に、発車チャイムくらい聞こうと新駅に向かってみたのですが駐車場にも入れずに帰って来ました。
本来の目的と少々違うような気もしましたが、イベントというのは凄いものですね。

明日午後の休診を利用して駅と列車を見て、ぜひとも「夏は来ぬ」のチャイムを聴いてみたいと思っています。
その前に、ちゃんとホームまで行けるか心配です。

出来れば轟音と共に通過するであろう「かがやき」の迫力とスピード感も期待しています。
新幹線が、それもピカピカの最新型が上越を走るとはいまだに信じられない感じです。

鉄ちゃんというわけではないけれどその2 昭和34年9月8日の三等寝台券。

2015年3月16日(月曜日)

私の切手帳に二枚の寝台券が残っている。
昭和34年(1959年)9月、高校三年生の夏休みが終わったばかりという時期、父と上京した時のものだ。

上京の目的は、父の母校の大学病院へ行き、前年の春に見つかった私の肺結核を手術するか否かの判断を仰ぐためだった。
続けていた服薬と切り替えた注射薬カナマイシンの効果を問うことでもあった。

寝台券昭和34年9月8日、21時42分直江津発の三等寝台105、106番下段の特殊補充券。
父とは向かい合っていたと思う。
よく眠れずに上野に到着したのではなかったか。

非常に苦手だった父と一緒の上京。しかしそれが苦痛だった記憶が無く、道中の父は優しかったのかもしれない。

早朝上野からの国電は空いていてパラパラと居る通勤客はとても疲れているように見えた。
目黒で目蒲線に乗り換え、大岡山で降りた。
姉が居る石川町の小さな家に向かったが、朝日の道を歩きながら「9月になっても暑い」というような会話をしたように思う。

翌日だったか、信濃町の病院で断層X線撮影などの検査をした。
仕事がある父は早く帰った。

検査の結果は手術の必要は無く、現行の治療続行で良いという結論だった。
日本が世界に誇ることになる新薬カナマイシンの効果が出ていたのだ。
この時私は一才年上の従兄弟と後楽園球場で王、長島の試合を見るなどして一週間も滞在した。

決定の経緯はよく分からないが、残りの2,3学期を休学して治療に専念、来春もう一度三年生をやり直すことになった。
このことで焦るばかりだった気持ちが落ち着くのを感じた。
一才年下の弟と同学年になることなどの我慢は仕方が無かった。

ただ美しい英語教師A先生の許へさらに一年通えることだけは嬉しかった。

はくたかは雨降る夜に立ち去りぬ 渡り鳥なら帰れるものを。

2015年3月13日(金曜日)

ラストランとなる22時7分着発金沢行きほくほく線(北越急行)特急「はくたか26号」を直江津駅で見送って来た。
昨日まで何をすればいいか決めてなかったがやはり行った。

大勢のファンが集まり、ありがとう、さよならの声の中、混乱もなく静かな別れだった。

現場では、任務を終了しJR西日本側と交替して降りた乗務員さんたちを撮ろうと決めた。
出発の時、皆さんは敬礼し、走り出した最後のはくたかに手を振った。
白い手袋が悲しく見えて目頭が熱くなった。
〝皆さん、何度も何度もお世話になりました〟

 

乗務員さん2にじむファインダーから(私の手はぶれぶれです)。

拙歌)  はくたかは雨降る夜に立ち去りぬ 渡り鳥なら帰れるものを

ああ、そして伝統と栄光のJR(旧国鉄)直江津駅は本日で終了してしまった。別れの知らせ構内のモニターに出ていた知らせ。子供の頃から思い出がありすぎて悲しい。
人との別れ以外こんな別れがあろうとは。

これからは元気を出して夕雲、夏雲、秋雲のほくほく線電車を撮ってみたり、
新しいえちごトキメキ鉄道や北陸新幹線に馴染めるようにしたい。

ほくほく線「はくたか」さよならの前日お弁当をもって見に行った。

2015年3月12日(木曜日)

明日で特急「はくたか」は、ほくほく線(北越急行)の運行を終える。

午後休診日の夕刻、ラストランを翌日に控え、お弁当を持って(本日は妻が積極的)沿線の田んぼへ出かけた。
三日続きの寒波で外は寒く、いずれも列車通過の度に窓を開けて撮った。

車内お店で買ったお弁当などを手作りの簡単な専用プレートに広げて列車を待つ。

①17:10過ぎに下りはくたか19号越後湯沢行きが通過する。

②およそ10分後、くびき駅方面がらはくたか18号金沢行きが現れる。

③みるみる近づいて通過するはくたか18号。
寒波の為積雪があり、極地のような写真になりました。

④高架橋の反対側へ出て18時半ころに下り21号を撮る。かろうじて車窓の灯が写った。
夕刻の1時間半、普通電車も見ながら3本のはくたかを楽しんだ。
遠くに列車の灯が見えた時、妻は涙が出そうになったと言った。

以下は過去のほくほく線を見ながらのお弁当。こんなことをしていたのは貧乏ヒマなしの私たちくらいなものでしょう。
しかしながら身近に味わえた楽しい旅行気分でした。
●一回目 2012年7月16日
●二回目 2013年6月4日
●三回目 2014年6月2日

いよいよ明日は、在来線日本最速特急「ほくほく線はくたか」さよならの日です。
どうすればいいのか、考えが浮かびません。

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