齋藤三郎ゆかりの人々展 その8 小杉放菴、黒田辰秋(たつあき)。

2022年6月20日(月曜日)

小杉放菴:1881年(明治14年)12月30日栃木県生まれ 82才没。洋画家で出発し大正時代に日本画を描き始め東洋へ傾倒し東大安田講堂壁画「泉」を制作。歌人・随筆家としても高く評価され、大正時代末に未醒から放菴へ号を変える。
1932年(昭和7年)現妙高市赤倉に安明荘と名付けられた別荘を建て、昭和20年東京の家が空襲で焼失するとそこを家とし終生居住した。上越文化懇話会の発会に際し濱谷浩、堀口大学らと共に顧問となっている。
洋画日本画を問わず広く画壇や文化界に人望があり、また恵まれた体躯を活かしスポーツに優れ特にテニスは有名だった。

以下展示物の一部です。

短歌と随筆の「山居」。昭和17年3月30日 中央公論社発行。
花鳥風月、戦争、内外の旅行記、確かな眼差し。
しばしば妙高連峰が取り上げられ、特に妙高山を讃えている。

掛け軸「水閣」
悠久の自然と人間が触れあう場所の安寧。
どっしりと丸みをもって自然を描いている。

雪をかぶった「白椿」
以前取り上げた上品な短冊。

舟で笛を吹く色紙「風月」。
風も波も音色も、人の心も心地良く揺れる。
金の地色は月の光なのでしょう。

良寛禅師を敬愛し多く師を描いた。齋藤三郎は赤倉の放庵を訪ねて交流した。

続いて工芸の黒田辰秋です。
1904年(明治37年)9月21日京都市生まれ 77才没。漆芸および木工家。斬新なデザインと力強い作品は広く愛され、昭和45年に人間国宝に指定された。

「唐物写し替え茶器」

齋藤三郎は1932年(昭和7年)、22才から始めた富本憲吉への師事を終えると25才からサントリーの創業者鳥井信治郎が神戸市雲雀丘(ひばりがおか)で営む壽山窯(じゅざんがま)の同人となり制作。その後28才で藤沢市鵠沼の陶房に入り活動。この時近隣で仕事をする黒田辰秋と親交した。仕事場一帯は一種文化村の趣きがあり画家・麻生三郎のアトリエも近かったという。鵠沼で応召されるまで活動し、爽やかな呉須掻き落とし草文瓶が残っている。

次回は登山文学者・深田久弥と微生物学者・坂口謹一郎です。
本日展示をお休みとして開催準備をしました。狭い場所をがらりと変えてかなり大変でした。中2日さらに準備をして23日開催初日です。少しでも皆さまに楽しんで頂ければと願っています。

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