京都、滋賀の旅 3日目の大津。

2025年1月5日(日曜日)

申し分けありません、本日の分は量が多く全てが終わらないうちに出てしまいました。一度公開をお休みにして記入を続け再度公開致します。

ブログ再開です。
山科に宿泊して3日目、12月30日はいよいよ初めての滋賀県見物となる。以前から石山寺、三井寺、坂本、近江八幡、彦根、湖北などには興味があった。観光すべく地図をみると着目すべき名所旧跡のあまりの多さに戸惑いをおぼえた。

限られた日数に照らし30日は石山寺→三井寺→坂本を巡る予定にして出発した。ぽっと出の田舎者がまず利用したいのはJR.線だ。当日もそうして大津まで行き、タクシー利用で石山寺へ向かった。この日初めから京阪線を使えばタクシー代をかなり節約出来ることが後で分かった。

タクシーはお金が掛かるが、特にドライバーさんが年配なら土地の人の本音が聞けるので勉強になる。この日田舎者の私達を乗せたドライバーさんはご機嫌で、真面目で大人しい滋賀県人を盛んに誇り、あちこち指さしながら琵琶湖の景観を損ねた大手デベロッパーの悪口を連ねた。

交通の要所、瀬田の唐橋や琵琶湖大橋では車を止めて撮影させてもらった。

最初の目的、東寺真言宗の石山寺はかなり遠くに感じられたが、参拝者は多く今なお大河ドラマの影響が続いているのを実感した。

石山寺東門。

この時期を旅すると花や緑が乏しい。しかしどこの社寺も正月を前に清々しく掃除され、晴れやかに飾り付けられているのが唯一良い所。簡単なようだがあの降り続いた落ち葉の片付け一つとっても、ここまでのお掃除は大変だったのではないだろうか。

参道からチラリと見える牛車が大河ドラマの雰囲気を伝えている。

 

石山寺の名の通り境内には荒々しい岩石が随所に顕れている。居ながらにして幽山の赴きが味わえるこの場所はかって貴族に喜ばれたのも頷ける。紫式部が源氏物語を書いた小さな部屋を開いた花頭窓から覗けるようになったいた。
ここで文筆し、万一詰まったならば寺院の何処かを歩き、夜ならjば月を眺めればまた筆が進んだことだろう。

 

私に石山寺と言えば多宝塔。この優美な塔を中高の歴史教科書や切手で何度も見て、いつか本物を観たいと思っていた。
あちらこちらから眺めて撮った。伸びやかに翼を広げ、待っていましたという表情だった。白い部分は高貴な鳥のようで美しい。

どうしても地図だけでは分からないのが境内の山坂。当寺はかなりきつく少々疲れて参拝を終えた。

私は善哉、妻は石山餅。
叶匠壽庵(かのうしょうじゅあん)製で、
妻は喜んだ。

2021年夏、心筋梗塞を起こして以来1日2食の生活。妻もそれに習ったので二人とも旅先で昼食が頭に浮かぶことは全く無い。

次の三井寺駅までの帰路は先ずバス、そして便利な京阪電車に乗った。

見るも楽しい電車のイラスト。
車内からちゃんと外が見える。

三井寺についたは良いが寺までの長い坂道に驚き早々と参拝を断念した。

代わって美しい琵琶湖疎水の脇を
ゆっくり歩いた。
豊かな水の流れは春を思わせた。

大津市役所。
それでも三井寺を諦めきれず
ここで降りて再び目指してみることに。

たまたま降りた市役所前の通りはさながら公園だった。植え込みは良く手入れされ、植栽された並木の樹木は生長に配慮して根部は以下のように処理されていた。

こんなに手間の掛かることをしているのはここくらいではないだろうか、さすがである。樹木も植え込みも市民も幸せであろう。
通りがかった地元の人に聞いてみたところ、まだ遠いらしい三井寺を本当に諦めた。歌舞伎にもなっているあの梵鐘くらいは眺めたかった。

まあいい、再び電車で楽しみな日吉大社の比叡山坂本駅へと向かった。到着すると昨日夕食をご一緒したA氏ご夫妻が待っていて下さった。私達を寒さに晒さぬよう先々で待っておられとてもかたじけない。

 

坂本駅から南側一帯は山に向かって緩やかな坂道が続き、左右に多数の社がある。当地は山王神社、日吉大社、日枝神社の総本山格の神社ということ。各摂社なども多く祀られ一大聖地と見受けられた。

延暦寺の里坊が混じり、各所に神仏習合が現実のものとしてみられる。紆余曲折や諍いはあったことだろうが、日本独自の緩やかさが今日両者を上手く共存させている。果たしてそれを宗教と言うだろうかは後にして、緩やかさもはや妥協を越えた心の習慣の如く、私達にしみ込んでいるように実感される。

いよいよ本日のハイライト、かってA氏がメールで知らせて下さった樹下神社へ来た。明らかに「樹下宮」と示され、この世に「樹下神社」は本当にあった。

随所に金をあしらった美しい樹下神社。
左右の勾欄にどんと構えた狛犬が頼もしい。


名は同じ「樹下」だが、こちらは「じゅげ」と読む。調べると驚いた事に大津~湖西一帯に十数もの「樹下神社」がある。他では先ず無い神社名を、何も知らないまま偶々私達も名乗り「樹下美術館」とした。
長い歴史を有し、晴れ晴れとして眼前に鎮座する神社と同じ名であることに何とも言えぬ有り難みと密かな誇りをおぼえた。

広大な日吉大社の参道の多くに重厚な石垣があしらわれている。当地坂本一帯は全国の城郭をはじめとした土木事業に於ける石垣造成で名を馳せた石工の集団「穴太集(あのうしゅう)」の本拠地だ。

広大な日吉神社境内と出入りする大小の通りには立派な石垣が連なっている。重厚だが白い石肌ということで、他では見られない明るさが印象的だった。

五角形の大きな石が積まれている。
不正形な周囲を小さな石がしっかり
囲み何とも楽しく仕上がっていた。

現在お城は修理程度、新たな垣の石積みも耐震の問題があり昔のように繁忙ではないようだが、海外で新たに評価され依頼があるという。
樹下美術館では地元柿崎は黒岩の石を使い駐車場や南側の土留めに石積みをした。作業を見ていたが滑車を組み立て、時には一人で器用に作業が進められていた(事故が起きないか心配だったが)。

清々しくも師走の日吉大社の神社を一回り、最後に延暦寺の本坊である滋賀院門跡を訪ねた。上掲2枚の写真はそこまでの通りの一角です。

「滋賀院」
重々しい黒瓦屋根。
対して今度は白壁が美しい。

院内には比叡山ゆかりの品々が
展示されている。

小堀遠州作の庭。
やはり石である。

閉門ぎりぎりの滋賀院は格式高い門跡だった。しかし何故か童心に返り、そっと忍び込み、わくわくしながら観て回った印象がある。

坂本を堪能したあとA氏夫妻の車で湖西は志賀にもあるという樹下神社へと案内して頂いた。

夕暮れ時に着いた「樹下神社」

鳥居の額の「樹下神社」。

日吉大社と異なり、ひっそりとして厳か。
目の前の琵琶湖と漁業の守り神
だったかもしれない。

このあたりまで来ると琵琶湖も奥まっていることが実感された。車を返して大津市内の逢坂にある食事処「佳山(かせん)」へ。長時間の運転をされたAさんには感謝を禁じ得ない。

さて「佳山」は小さな古民家で、雪国の者からするととても軽々した構造だ。しかし十分に使われた美しさと、オーナーの趣味の良さが現れている。
年末の難しい時期にA氏の奥様が探しに探し当てた店だった。

 

手作り風な机に古く簡素な椅子。それが皆ばらばらなのも「味」に感じられるのだから不思議だった。ガラス戸越しに懐かしげな坂の街道が見え、あの百人一首の蝉丸を祀った神社がすぐ裏を走る京阪線を挟んで背中側にある。意識するともなく遠い時代に包まれた。

立地といい建物造作といい、こんなに趣味が良ければ料理は美味しいに決まっている。
きれいな人が急で簡素な古い階段を音も無く上って料理を運んでくる。

マグロの赤身のひと皿から始まった。
深い藍の皿に赤身が映え濃厚な刺身だった。
以下お料理のなかから。

ダシが効いた鶏肉のミンチ。

美しい碗に甘鯛の汁物。
鮮やかな京野菜のあしらいも嬉しい。

室内の随所に生活骨董が見られた。これは簡素ながら呼び鈴のようだ。仏具かもしれない。京都は骨董の宝箱であろう、とても羨ましい。

マダラ白子の揚げ物。
いずれの料理のツマも見事に細く、
心入れが嬉しかった。

料理はまだあったが、心根の澄んだお二人との楽しさに多分撮り忘れている。
最後は甘味とお抹茶だった。

右下の可愛い落雁は
あるじのお手製。

実はこの場所は今から160年ばかり前、私の高祖父・杉田玄作が歩いた街道沿いかもしれないという話になった。車が行き交う店の前の暗い谷間のような場所を通過する長い坂道が、京都へ入る古い街道だと聞いたからだ。

1818年(文化15年)生まれの医師玄作は関西の薬問屋まで途中予約した病人を診ながら旅し、道中日記を付けている。文久2年(1862年)44才で明日訪れる予定の近江八幡を通過していることなども記されていた。

本日は大変に長くなりました。今後これ以上長いのは無いことでしょう。
蝉丸ゆかりの逢坂で食事したことから、古い先祖の足跡に近寄ってしまい、どこか村上春樹の小説のような時空を体験した食事でした。玄作の上京日記は古文書に詳しい方に読んで頂き、後日また触れたいと思いました。

最後に蝉丸の歌

これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関

当夜の会食に相応しい一首です。いずれにしてもまたここで逢いましょうと理解しました。

次回は高月渡岸寺と近江八幡です。飽きたと言わずにどうかお付き合いください。

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