2024年10月3日

路傍の花 木村茶道美術館のお茶 サブリーユの夕食。 

2024年10月3日(木曜日)

本日木曜日は休診日だが、午前に急患に相当する方が来られ、症状から病院に連絡、急遽紹介状を書いて向かっていただいた。どんな返事になるのか気になる。

終えて美術館へ。道中の花を見ながら向かった。

「ヤブマメ」という花らしい。

タムラソウ。

ツユクサ。

あるお宅のシュウカイドウ。
沢山咲いて羨ましい。

竹林とススキ。

いつも楽しみな「カンナ」。

美術館に毎年東京から見えるお客様の姿があり、お話の後柏崎市の木村茶道美術館へご一緒した。

雨上がりの坂道を歩き
最後の石段にさしかかる。

午後2時からの席に座り、15人ほどのお客様で賑わった。私達三人は七客からで私の茶碗は松井康成、客人は田村耕一、妻は藤原啓だった。いずれも人間国宝の一級品で創始者木村翁の眼力に驚かされる。

広やかな志野の菓子器(桃山時代)。
描かれている松島の文も達者。
上辺の織部風の文様の区切りは
芙蓉手が意識されているという。

拝見写真:いつも趣向ゆかしい
お道具で茶が飲める。

 皆さんの目を惹いていた志野
向こう付けの見立て茶器。
お正客に長次郎の楽茶碗が。
宗旦の繊細な茶杓が用いられた。

夕食は客人と大潟区は野菜フレンチ「サブリーユ」をご一緒した。

サラダ。

 マコモとエビの料理。
マコモの料理は初めてだった。

いずれも健康的でいっそう創意工夫された料理を美味しく食べ、長い一日が終わった。

米は美味しい 取り残される人々 国を愛するために。

2024年10月3日(木曜日)

早いもので新米は最後に刈り取られたコシヒカリとなった。私どもはまだ「月あかり」を食べている最中で終わればコシヒカリになる。新米は確かに美味しいのだが、今夏に食べていた新潟県産の古米は不作で品質は非常に悪かったにも拘わらず常に美味しかった。米の品質は格段に進歩しているのではないだろうか。

思い出すのは戦後の困難期で、小学校の昼食時間は切ない光景が見られていた。昭和20年代後半になっても貧しいお弁当を見られまいと左腕で囲むように隠し、顔を近づけて食べる子は少なくなかった(ある意味一般的だった)。まだ良い方だった私のは、かたくあんと目刺しが数本横たわっている「めざし弁当」が普通だった。
食べ物にうるさかった弟はそれが不満で、「目刺し弁当は臭い、早くのり弁を作れ」と盛んに母に催促した。

ところで数人の生徒は昼食時、教室からいなくなることがよくあった。家に帰って食べると聞き、さして不思議に思わなかった。だが後年になり果たして家で食べていたのか、何も食べずに戻って来たのでは?とふと思った。昭和50年に開業した際、そのような人の家に何度か往診をしたが、その時家財道具らしいものは殆ど無く、昼食のことは聞けなかった。

本日東京からの来館者さんと夕食を一緒した。妻より若い方だったが、昔話になると貧しい時代の食事が話題に上った。彼は「ととちゃぶ」と「水めし」を話した。
前者は食事時になると大口を開けて水道水をガブ飲みし、終わるやベルトでお腹をぎゅっと締め上げ空腹に耐える方法で、後者は古くなった飯を水で洗ってすえた匂いを消して食べるというものだった。
「水めし」は聞いて事があるやに思うが「ととちゃぶ」は初耳だった。
いずれも人づての話題らしかったのだが、都会の愛隣地区などに伝わっていたものかもしれない。

かってのブログに「残飯屋」のことを上げている。明治時代のある時期では布団まで借りて暮らす人々がいたという。今日そのような時代とは訣別しているはずであるが、「こども食堂」や「能登の困難」はいま同時進行の事実であり、明治の暗い影に匹敵しよう。飽食とともにあるこれら現実に対して、新たな政権には是非手応えある取り組みをお願いしたい。

トリクルダウンなどは無効なのでなんとしても直接当事者に光を当ててもらいたい。

他人(ひと)の不幸は自分の不幸、不幸で国を愛せるだろうか。


ドボルザーク作曲
「わが母の教えたまいし歌」

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