2024年10月

来たる11月7日からラッセル・ジョケラさんの展示会 晩秋の花 近隣のコハクチョウ

2024年10月31日(木曜日)

今年最後の催事は「ラッセル・ジョケラ オリジナル オーダーメイド家具展」です。妙高市在住、当地で親しまれるジョケラ氏のオリジナルな家具と人気のクリスマス向き「アーサツリー」なども展示されます、どうかご覧下さい。
絵画ホールを中心に一部陶芸ホールにも置き、倉石隆、齋藤三郎作品はそのままにして温かな展示会を期待しています。

“ジョケラさんの自己紹介
1963年に、アメリカのカリフォルニア州、サリナス
という所で生まれました。
母は佐世保出身の日本人、父はフィンランド系ア
メリカ人です。
父は学校の教師をしていました。
フィンランドからアメリカに移住してきた祖父母は、
農業やクリスマスツリーのモミの木を育てたりして
いました。
私も十五年間この小さなクリスマスツリーを作って
います(笑)。
シアトルのカレッジで芸術学と英語学を専攻してい
ました。その後シアトルの日系会社で、インテリア
デザインと住宅施工の仕事をしていく中で、より木
工のことを深めたくて住宅内装や木製の船づくり、
オーダーメイド家具、美術館とオフィスのインテリア
を手がけました”

さて慌ただしくしているうちに11月3日は文化の日の講演会「良寛さんに学ぶ」が目前となりました。晩秋の日に聖僧とい呼ばれる良寛さんのお話を全国良寛会会長・小島正芳先生からお聴き出来るのは幸せです。お陰様で予定した80人ほどの参加になり、感謝しております。

夏の長い暑さで庭の花は乏しくなっていたのですが、ここへきてホトトギスとリンドウや西王母椿が咲きはじめました。

話変わり、近隣にコハクチョウが沢山来ていると聞いたいましたので、午後から夕刻に見に行きました。

白鳥は昼間は朝早くから田んぼで食餌しますが、暗くなり始めるとねぐらの湖沼に入ります。現在鵜の池と朝日池をねぐらにしているようですが、本日は鵜の池には数百羽が来ました。

先週末の種々。

2024年10月29日(火曜日)

10月は第4週になり空はめまぐるしく変わる。本日日中激しく降ったが午後次第に止んできた。
去る週末は髙田高校150周年記念美術展を観に大島画廊へ、帰路はお茶のみに大学前フカミ美術へ寄った。

以下は高校150周年記念美術展の様子です。

26日(土)の場内。

以下心に残った作品の一部です。額装のガラスやアクリル板の反射のため上手く撮影出来なかった作品もあり申し分けありませんが割愛致しました。

「指導将棋」三浦和子

「face」内山富佐子

「少女」津幡潔」

 「無題」山田春美

 「蒐集家の棚」岸田國昭
独創的な着想が光る。

最後に当館から
「黄昏のピエロ」倉石隆。
多くの方が足を止められたと聞いた。

大島画廊のあとお隣の髙田まちかど交流館にハローウインのカボチャが出ていて中へ入ってみた。

雁木のカボチャのお化け。

館内で、魔女の仮装をした人。

帰路の美しい夕空。
上越教育大学付近。

本日もまた開催中の高宮あけみ展の関係者方四人さんが埼玉と横浜から来館された。

お二人は新幹線でもうお二人はほくほく線で来られ、今夜は上下浜マリンホテルや湯沢で泊まられるとお聞きした。激しい雨のさなかのご来館、本当に有り難うございました。午後楽しいひとときをご一緒でき喜んでいます。

盛大だった髙田高校150周年記念展覧会は27日に終了しました。

高田高等学校創立150周年の秋 いたくら桜園 近隣の秋。

2024年10月24日(木曜日)

今年は県立高田高等学校創立150周年に当たり、10月26日に式典と祝賀会が行われる。
それに関連して25日(金曜日)~27日(日曜日)の三日間、上越市本町の大島画廊で同校出身者のが開かれる。主宰者から卒業生である倉石隆作品と不肖小生作品を出品してと告げられていた。
倉石隆(倉石孝壽たかひさ、中40・昭和8年卒業)。

美術展のDM
旧職員の村山陽氏作品
「私の新学期」が用いられている。

マゴマゴしているうちに初日が明日に迫り、本日昼過ぎ画廊に2点を搬入した。一人一点ずつ物故者を入れておよそ50人の展覧会、会場は作品でいっぱいだった。

場内に展示でご苦労される上越美術協会 小関育也会長と髙田文化協会事務局長の宮崎俊英さんがいらっしゃって、あとは架けるまでに作業が進んでいた。
一渡り観て歩いたがジャンルの幅広さに大変驚いた。
当館からの倉石隆は「黄昏のピエロ」で、ひいき目もあるがあらためて氏の訴求力を感じた。
比べて私の「ほおずきと山芋の実」などは吹けば飛ぶようなもので、恥ずかしい限りだった。

会場の小関、宮崎両氏。
これから作品の壁掛け、
キャプション付けがある。

倉石隆「黄昏のピエロ」

明日から三日間、お暇を見てどうか大島画廊にお寄り下さい。

搬入の後、近隣のコスモスを観みに足を伸ばすうち、かって母がショートステイでお世話になった板倉区のいたくら桜園まで行った。

途中清里区の馬屋で見た
コスモス畑。

 

いたくら桜園付近の道。

懐かしい施設。

同施設は遠かったが母は窓外の風景が佐賀県の故郷に似ていると言ってここばかりお世話になった。送迎はもっぱら私の車で行った。当時上越地区の医師会長を仰せつかっていたが、不思議な事に母といる時間だけはそのストレスを忘れることができた。

桜園のそばのお宅の花。
ショートの間をみて施設に行き、
車椅子を押して近隣の花を見た。

もう遅いのか期待したほどコスモスを目にする事はなかった。帰路頸城区で今年初めて白鳥の群に出会った。

あちらこちらでモズの高鳴きが聞こえ、時節は晩秋となりいよいよ時雨れてくる。
そんな折、樹下美術館は11月3日に全国良寛会会長、小島正芳先生の講演会「良寛さんに学ぶ」があり、11月7日からラッセル・ジョケラさんの木工展が開かれる。外は荒れても樹下美術館だけは温かく居心地良くありたいと願っている次第です。

病気により高校を4年かけて卒業したこともあり、普段母校の行事などに疎い自分。この度ばかりは関係諸氏および我が倉石隆氏のためにも髙田高校150周年美術展、どうか宜しくお願い申し上げます。

「ラッセル・ジョケラ木工展」 可愛いお子さんとおじいちゃん。

2024年10月23日(水曜日)

このところ日によってお天気は色々。寒くて震えた朝もあり、むしむしして半袖を着たり、毎日ばらばらな日が続く。

昨日午後、11月7日(木)から今年最後の12月15日まで開催される「ラッセル・ジョケラ木工展」の打ち合わせのためにジョケラさんが来館された。

湾曲壁の絵画ホールと一部陶芸ホールを使って年末に相応しい温かな展示会が出来ればと思っています。自由にアレンジできるお馴染みの「アーサツリー」も出品されます。どうかお楽しみに。

午後田んぼが見える裏手のベンチにご家族4人が座られ、ランチを楽しんでいらっしゃいました。
私はベンチでお茶や食事をされる人達を見るのが好きで、よく挨拶に伺います。

その昔父は良い場所を知っていて、春秋に家族や親戚などと歩いて朝日池の小高い対岸まで行き、食事をした楽しい思い出が残っているからでしょう。

ややあってベンチのご家族がカフェの前を歩かれ、水盤に来られました。可愛いお子さんを抱くおじいちゃんにカフェのお客様から拍手が起きました。

小さいお子さんは
本当に水が好きなのですね。
ご家族の許しで掲載させて頂きました。


シューマンの子どもの情景から
オルゴールの「トロイメライ」

ラッセル・ジョケラ展については後にまたお知らせ致します。

本日今年最後の同業ゴルフ。

2024年10月20日(日曜日)

本日は同業者で行うゴルフの今年最終回でした。朝まで降った雨は上がり、調子はいまいちでしたがメンバーに恵まれ楽しいゴルフでした。

私達の組は三人で、一人はベスグロ優勝、もう一人は三位で私は14人中8番目でした。

以下は途中の一コマです。

 

 

毎年この場所の紅葉の落ち葉は楽しみなのですが、本日の色はいまいちでした。長く続いた暑さのせいと聞きました。

さて一体私のゴルフは何才まで出来るのでしょう。
二位だった人は私より少し若いのですがほぼ同じ年。本日のコースで毎年最終回が行われます。“今日は不満足だった、来年は1週間前にここで練習しましょう”と仰り、すかさず私は“是非とも”と返事をしました。

自分の年では一年先の約束など本当は出来ないのですが、私達はどれほどゴルフが好きなのでしょう。

今夜のコンサート カッチーニの「アヴェ・マリア」。

2024年10月18日(金曜日)

本日やや暑さが戻った日、夕刻に頸城区希望館で魂の響きと銘打った「プラハ オーボエトリオ」のコンサートがあった。

世界で活躍するチェコのオーボエ奏者ヤン・トゥーリ氏とヴァイオリニストヴィクトル・マザーチェク氏、そして我が上越市は吉川区出身の市村幸恵さんのピアノを加えたトリオの演奏会。

プログラムは前半からバッハ、シューベルト、モーツアルト、チャイコフスキー、そして休憩。後半はドヴォジャークが三曲、スメタナの「我が祖国」のモルダウがフィナーレだった。アンコールに「浜辺の歌」と「夏は来ぬ」が演奏され会場に熱い感動が残った。

幸恵さんは武蔵野音大卒業後、 第19回国際芸術連盟新人オーディションに合格。幸恵さんのえんそうを聴いたのはプラハ音楽院留学が決まった年、支援者の一人柿崎区S氏宅で壮行演奏会が行われたのが最初、以来市村さんを聴くのは7回目になると思う。

この度のオーボエトリオは昨年の今ごろ大潟区で聴いていたが、プログラムががらりと変わっていてまた新鮮だった。希望館はずっと大きかったのだが、遅めに着いた駐車場はいっぱいで最も遠くに止めた。

素晴らしいプログラムの中で市村さんのソロの重厚なシューベルトは心に響いた。さらにトリオによるカッチーニの「アヴェ・マリア」は市村さんのピアノが刻む和声が二人をリードし、名曲はいっそう大きく深くなった。

幸恵さんはそもそもスタイルと姿勢が良く、この日背中が大きく開いた濃紺のロングドレスがとても似合っていた。詳しくないことだが、手のフォームや運指も非常にエレガントで、動く一級の芸術の如く思われた。

明後日20日(日曜日)には14:30開演で、はーとぴあ中郷で演奏会があります。

さてカッチーニの「アヴェマリア」はMj7thコードが随所に現れる切ない曲。聴いていて亡くなったばかりのA氏を思わずにはいられなかった。
氏の生前樹下美術館のカフェで持参されたSPレコードをどれだけ聴かせてもらったことだろう。カッチーニのアヴェマリアの歌もみんなで聴いた。


カッチーニの「アヴェ・マリア」

今夜会場にA氏のレコードを一緒に聴いた方がおられ、休憩時間に同じ事を仰った。

この先折に触れA氏のことを思い出すことだろう。無理と分かっていても、願わくばまた現れてもらいたい、それだけしかない。

信州は須坂で江戸時代の料理を食べる 満月、私達の奇跡。

2024年10月17日(木曜日)

本日木曜日は休診日。10月にしてはやや暑さが戻った空だった。この日はかねて予定の長野県は須坂市の田中本家博物館で催される「江戸料理再現の食事会」に参加した。

今年6月2日に同博物館と普願寺で行われた茶会に伺っていたので須坂は二回目となった。前回、思ったより近いと感じたがこの度はさらに、短時間で着いた。

優しく熱心な同本家12代ご当主に迎えられ11時から待合の間でお話を聴いた。
地名の由来などから始まり魚の話題へと進んだ。日本海の魚を飛脚のごとく信州へ運び継ぎ、山中の氷室にヌカ保存して年中魚を欠かさなかったことに驚かされた。
さらに代々の塗り物の金銀盛り上げの見事さに感心し、江戸末期の文人、亀田鵬斎の書体について良寛との会合前後の顕著な変化を示す床の双幅も興味深かった。

漆器について説明を受ける。
手袋が配られ皆で触れてみた。

お話の後は食事の間へ。参加者さんは各組ごとにテーブルが用意されている。
盃、壺、吸い物、刺身、焼き物、太平、蓋茶碗、飯、漬け物、汁、番茶の順に振る舞われた。各膳の食材は丁寧に吟味され、器は江戸趣味満点でおのずと美味しと珍しさがつのる。

途中厨房の前を通ったところ、廊下全体に濃厚なダシの香りが漂い、日本食の真髄を実感した。
以下はお品書きで初めて目にした献立の「壺」と「太平」の料理です。

「壺」で出された料理。
蛸にあずきが掛かり
菊と青菜が添えられる。

料理の順番と器の形状から「壺」とは、向こう付け、特に筒向(つつむこう)に相当するのではないかと思った。早速出された海の物があずきで甘みを含み、見た目も良くとても美味しくかった。

朱の大きな蓋付碗の「太平」。

「太平」は焼き物の次ぎに出された。慈姑(クワイ)、家鴨、婦久羅(ふくらげ)煮浸し、擬製豆腐、鱈切身霰柚子、巻卵、菊餡、焼き茄子、氷蒟蒻(ひごんにゃく)、青菜が賑やかに盛られている。
用いられた器の欄に皆朱太平とあった。朱で大きく平たい蓋付きの碗で出され、肉料理のメインディッシュと考えられた。

膳が進み茸ご飯と汁、それに須坂丸茄子の味噌漬けが運ばれ、最後はお番茶と塩落雁で締めくくられた。

お番茶と塩落雁。

少し堅めの塩落雁をかじるように味わいながら番茶を服し、盛大な食事が終了した。
この日の料理は嘉永元年(1848年)10月、上田藩奉行 大平多喜治様ご接待時の再現だった。客、献立、器の詳細は分厚い「萬賄帖(よろずまかないちょう)」などに記されているという。帳面はこの後巡った博物館に展示されていた。

相客された東京のご夫婦はこの食事会は8回目とお聞きし驚いた。多くの人が支える博物館。やはり継続は力なりなのだ。

食後、案内された館内は展示物がすっかり替わっていた。構造にも変化が見られ、当博物館の意欲と収蔵品の豊かさに圧倒される。

入ってすぐ大きな薩摩焼の壺一対。

染め付け大鉢と盛りつけ料理の写真。

京焼きの一つである、
交趾焼(こうちやき)の風炉。
鳳凰が大胆に描かれていた。

博物館から庭に出ると、秋の草花が優しかった。

ホトトギス。

手前にムラサキシキブ、
向こうはウメモドキ。

講、食事、博物館鑑賞、リンゴジュースの飲み物一式で19000円の会費だった。

充実の時間を過ごすと再びリンゴ畑を抜けて帰路高速道路に入った。

色づきはじめたリンゴ畑。

博物館周辺の景観は江戸時代の風趣があり旅情を感じる。そこの屋敷で昔の料理をその時の器で食べる。
秋好日の意義深い体験であり、御地と越後は密接であったことを改めて知った一日だった。

さて本日は満月。しかし日中空は曇り、夕刻の雲は厚く、月は無理だろうと思っていた。だが帰って寄った美術館が終了し表に出ると東の雲間が輝き月が上った。

巨大な月が上る。
夜明けのような光景だった。

間もなく隠れた満月。

数時間後には真円になるはずだった大きな月。こんな月をこの目で見られるとは、私達と地球の出来事はまったく貴い奇跡にちがいない。本当に勿体ないことで、そろそろ軽々しく戦争などをするのを止めたらどうだろう。

失った1枚 栗。

2024年10月16日(水曜日)

本日日中ほぼ雨に降られたが夕方から上がった。稲刈りが終わった周囲の田はひっそりと静まり10月は中ば、秋真っ盛りになった。

午後のお茶に頂いた栗を茹でていたので食べた。肥後の小刀で皮をむいた。そうすると食べるまでに時間が掛かるがきれいに剥けばより美味しくなろう。

 紅茶で食べました。

一番最初に剥いた栗はかなり弾けていて特別大きく、とても剥きやすかった。しかしながらカメラにフィルム(SDカード)が入っていなかったのだ。
失った写真は本当に大きい。あれほど見事な栗にまたお目に掛かれるだろうか。機会があれば今度は是非落ち着いて撮ってみたい。

カードを入れずに取ることは以前からよくあり、妻には呆れられている。実はその時に備え、カメラの肩掛けバンドには予備のカードを入れた小さなケースを紐で付けている。本日はそれを使えたのだが、肝心な栗を食べてしまっていた。
上掲はその後剥いた三つの栗で、残念ながら最初のに比べるべくもない。

気を取り直して明日は満月、スーパームーンということ。晴の予報で大きな満月が観られそうだ。ちゃんとカードを入れなくては。

二泊二日の大旅行。

2024年10月15日(火曜日)

去る10日、「この先も頑張らなければ」と書いた後からブログを4日も空けては、また倒れたかと言われても仕方がありません。

実は12日土曜日から上京、二泊して昨日14日夕刻帰りました。先回大切な人たちに会うと書き、みんなの幸せをと願って出かけたのが、私の方が幸せになって帰ってくる、という東京行きでした。

現に“そうでもない”という人もいますが、“兎に角元気で長生きすれば良い事がある”と何度かここで書き、診療でも多くの方にそうお話してきました。このたびの旅行で自分自身がそれを確認した次第です。

二日間はに二組の人達と渾身の食事をし、それぞれの食事はことさら美味しく、身体に優しいもので大満足でした。
一緒した人々は食事と同じく、あるいはそれ以上に優しく、この先ますます元気に生きようと心洗われました。

13日の昼食後、通りへ出ると向こうに50年以上も前、駆け出しの頃バイトをした東京交通会館が見えました。止めてから50数年はゆうに経っていますがよくもまあ相手も自分も立っているものだと感慨を覚えました。

13日は昼食後ホテルに着くとあたりに太鼓の音までして、目の前は大変な賑やかさ。外食が続いたので夕食はホテルでコンビニ食にしようと出て見ると「第43回みなと区民まつり」というのをやっていました。初めて耳にするような国も入れた各国大使館ほか各県から食べ物などのブースが出ての大イベントでした。

ステージがありウクライナ大使館主催というコーラスとダンスの時間で大勢の人がみていました。

さすが東京の祭。

ファミリーマートで買った夕食。
出来るだけ加工の少ないものを。
ホテルの部屋で有り難く食べました。

最終日の昨日14日は予定通り東京都美術館で開催中の「田中一村 展」を観ました。入れたスマホの入場券も無事現れて入場。

上野公園

田中一村展の大看板

東京都美術館の田中一村展は二期にに分け以下の開催です。
・前期展示:9月19日(木)〜10月24日(木)
・後期展示:10月25日(金)〜12月1日(日)
予約が必要な曜日もありますので確かめてお出かけください。

一村は南画でしたが公募展をことごとく落選が続きました。亡くなってから人気がでる芸術家の一人ですが、今では一村美術館が出来、この度の展覧会は作品の前に何重にも列が出来るほどの人気でした。
花鳥と山水中心の日本画の世界で、晩年の奄美大島時代のビンロウジュやソテツを大胆にあしらった光りと影の作品には南国の空気と時間が流れていてエキゾチックな気持にさせられなした。

300余点、全館挙げての展覧会は年令のせいもありますが疲れました。無理して言えば疲れるほど堪能したといえるかもしれません。
それにしてもこれだけ膨大な品を、あしらい良く展示する作業はどんなに大変なことか。張り合いもあるでしょうが、本当に立派と思いました。

東京の混雑はやはり堪えます。帰路の切符を買い直し1時間半列車を早めると明るいうちに帰ってきました。
樹下美術館の開館中に着き、一段と赤くなった柿をもぐと雲が良さそうな上下浜の海へ行きました。

夕暮れの海。

以下は一日目の食事で話題になった上下浜のアンドリュ・ーワイエス風の景色。マリンホテル ハマナスの東側を歩きました。

2007年美術館が開館した年、東京から来られた方がここを見てワイエス風と仰り、その後10年ほどして別の東京の方を案内すると、またワイエスだと仰った。それは敢えて言えば“嬉し寂しい風景”なのです。


ワイエスの紹介動画。

さて柿です。美術館の甘柿は終盤にかかりました。

夕刻もいだ柿。
一段とサイズが大きくなり、
甘みを増しました。

現在柿は出来るだけ美術館のお客様にお出ししていますので、宜しければ「柿ありますか」とお尋ね下さい。

話を東京行きに戻して、
普段の旅行では密かに何かと妻を頼りにしていますが、この度は一人でした。
切符を失くさない、駅の階段で転ばない、ホテルのキーを失くさない、スマホで田村一村展の予約をする、帰路の切符を買い替える、あまりのろのろ歩かない、駐車場の車の場所を忘れない、二つの初めてのレストランへそれぞれちゃんと着く、トイレは早めにetc。

多くの関門が続いた二泊二日はもやは冒険的大旅行でした。

帰ってきた樹下美術館と夕暮れの海辺、美術館周辺の田んぼは、いずれも「我がふる里」の実感がして疲れが取れた次第です。それでも大切な人達に会える心から幸せな旅でした。

この先も頑張らなければ。

2024年10月10日(木曜日)

好評の「高宮あけみ 水彩画展」。お弟子さん方が横浜から次々来館されます。本日は4人様がお見えになりました。
午後お茶をご一緒しましたが、「鎌倉よりよほど素敵な場所です」と仰るではありませんか。横浜の皆さまから、あの鎌倉より素敵とは、何と嬉しい事でしょう。

新幹線、あるいはほくほく線でまだ何組か来られるということ、本当に有り難いことです。「だって日帰りができますから」という言葉も心強いことでした。

本日のベンチ。

 今日の樹下美術館産甘柿。
明日からお客様に尋ねて
宜しければお食べください。

本日の夕陽。

コロナのせいもありましたが、今になってしばらく会わなかった大切な人達に会えることになりました。こうなればいっそう身体をいたわり頑張らなければと心を新たにした次第です。

A氏を亡くして。

2024年10月7日(月曜日)

去る日ある方A氏が亡くなられた。親しくして頂き世話にもなった。昨日お通夜でお線香を上げた。お顔を拝見させてい頂いたが静かに瞑目しているだけの表情だったので、声を掛ければ返事をしそうだった。

海山と音楽を愛し、ある団体で社会奉仕をされ、長年日本と海外の高校生を交換留学させる事業に取り組まれた。
数十年前、交換留学のお手伝いをさせてもらった時、“世界はテーブルの上でそれらしく話し合いをするが、下では足の蹴飛ばしあいをしている。せめて私達だけでも地道に交流し合わないと”と仰った。

クラシック音楽に造詣深かったA氏。樹下美術館は貴重な蓄音機をお借りしていた。その蓄音機を回しよくカフェでレコードを聴き、何度もお客様を招いてSPレコード鑑賞会を行った。

お考えと構えに貴重な品格を隠し持たれ、先人を尊び地域を大切にされた。負っている責任に対する熱意と周到な実行力は忘れることは出来ない。

以下は1971年10月24日、94歳で国連でスピーチをし演奏した時のパブロカザルスの映像です。当館でレコードを聴く際、よくカザルスの「鳥の歌」が最後に掛かりました。

 

カザルスは演奏に先立ち、
“私は40年も人前で弾いていませんが、今日は演奏しなければなりません。曲は小曲で「鳥の歌」です。鳥たちは大空でピース、ピース、ピースと鳴きます。音楽とはバッハやベートーベンほかの全ての偉大な音楽家たちが愛し尊んだものであり、それはとても美しく、私の国の魂とも同じなのです、カタロニアの。」”とメッセージを述べています。

本日はA氏のお葬式でした。私は急な胃カメラのため参列できませんでした。お葬式は悲しくも非情であり、昨日まだ体温が残り返事をしそうだった人があの遠い次元へ去り、完全に訣別しなければならない日です。

病は本当に残酷です、、、まだ若い人ならなおさらです。

明日から誰と話し、誰に聞けば良いのでしょう。

潟町村村立小学校の同級生。

2024年10月5日(土曜日)

本日土曜日、少々肌寒く雨交じりの曇空の日。
午前の診療で5人の小学時代の同級生がほぼ同じ時間帯に見えた。お一人が「待合室は同級会になっていた」と仰った。
さもありなん、昭和16年と17年生まれのクラスが偶々5人も同じ場所に居るなど、普段あり得ないことです。何かしらそれぞれ医療用件があり、決して暇つぶしに集まっているわけではありません。
他の日に来られる方を入れれば今や10数人が拙院に通ってこられるようになりました。不思議とも自然にも思われますが、和やかだけでは無く慎重に対応を続けたいと考えています。

私は中学校から髙田へ通いましたので皆さんとは12才でお別れしたはずでした。その後私でも参加できるクラス会があり、そうこうするうちに五人、六人、80才前後から九人、十人と見えるようになったのです。

そんな日の午後美術館へもう一人小学時代の同級生が見えました。彼は「これを貰いました」と言って、現在展示中の高宮あけみ展の販売作品が入った紙袋を見せてくれました。

 

求められた樹下美術館を
描いた作品。

実は彼こそ樹下美術館を施工された久保田建築の社長さんA氏です。駐車場からレベルの高さで入館、湾曲壁の絵画ホールから40度屈曲して陶芸ホールへ、途中のカフェへは60㎝を下りる。美しい漆喰の壁、爽やかな採光、、、。小さくても同じく大潟出身の大橋秀三さん設計の鉄筋コンクリート一体構造の、冬をまたぐ施工は容易ではなかったはずです。
竣工から18年、氏は折に触れ来館され館内を眺めカフェに座られます。

ひととき一緒に庭を見ながらお茶を飲み、もいだばかりの柿を食べました。

本日収穫した柿。

さて昨年15個ばかり獲った柿は今年40個ほど実りました。まだ早いかなと思ったのですが、この甘柿はヘタ近くに少々青みが残る今ごろ食べても全く渋みが無いばかりか、爽やかな甘みがありくサクサク、パリパリ、美味しいのです。
赤味を増すと蜂などの昆虫や鳥たちが食べに来ますので、もう少し様子を見てから残りを獲ってみます。

今日は幼い時代の同級生のことを書かせて頂きました。

路傍の花 木村茶道美術館のお茶 サブリーユの夕食。 

2024年10月3日(木曜日)

本日木曜日は休診日だが、午前に急患に相当する方が来られ、症状から病院に連絡、急遽紹介状を書いて向かっていただいた。どんな返事になるのか気になる。

終えて美術館へ。道中の花を見ながら向かった。

「ヤブマメ」という花らしい。

タムラソウ。

ツユクサ。

あるお宅のシュウカイドウ。
沢山咲いて羨ましい。

竹林とススキ。

いつも楽しみな「カンナ」。

美術館に毎年東京から見えるお客様の姿があり、お話の後柏崎市の木村茶道美術館へご一緒した。

雨上がりの坂道を歩き
最後の石段にさしかかる。

午後2時からの席に座り、15人ほどのお客様で賑わった。私達三人は七客からで私の茶碗は松井康成、客人は田村耕一、妻は藤原啓だった。いずれも人間国宝の一級品で創始者木村翁の眼力に驚かされる。

広やかな志野の菓子器(桃山時代)。
描かれている松島の文も達者。
上辺の織部風の文様の区切りは
芙蓉手が意識されているという。

拝見写真:いつも趣向ゆかしい
お道具で茶が飲める。

 皆さんの目を惹いていた志野
向こう付けの見立て茶器。
お正客に長次郎の楽茶碗が。
宗旦の繊細な茶杓が用いられた。

夕食は客人と大潟区は近くの野菜フレンチ「サブリーユ」をご一緒した。

サラダ。

 マコモとエビの料理。
マコモの料理は初めてだった。

いずれも健康的でいっそう創意工夫された料理を美味しく食べ、長い一日が終わった。

米は美味しい 取り残される人々 国を愛するために。

2024年10月3日(木曜日)

早いもので新米は最後に刈り取られたコシヒカリとなった。私どもはまだ「月あかり」を食べている最中で終わればコシヒカリになる。新米は確かに美味しいのだが、今夏に食べていた新潟県産の古米は不作で品質は非常に悪かったにも拘わらず常に美味しかった。米の品質は格段に進歩しているのではないだろうか。

思い出すのは戦後の困難期で、小学校の昼食時間は切ない光景が見られていた。昭和20年代後半になっても貧しいお弁当を見られまいと左腕で囲むように隠し、顔を近づけて食べる子は少なくなかった(ある意味一般的だった)。まだ良い方だった私のは、かたくあんと目刺しが数本横たわっている「めざし弁当」が普通だった。
食べ物にうるさかった弟はそれが不満で、「目刺し弁当は臭い、早くのり弁を作れ」と盛んに母に催促した。

ところで数人の生徒は昼食時、教室からいなくなることがよくあった。家に帰って食べると聞き、さして不思議に思わなかった。だが後年になり果たして家で食べていたのか、何も食べずに戻って来たのでは?とふと思った。昭和50年に開業した際、そのような人の家に何度か往診をしたが、その時家財道具らしいものは殆ど無く、昼食のことは聞けなかった。

本日東京からの来館者さんと夕食を一緒した。妻より若い方だったが、昔話になると貧しい時代の食事が話題に上った。彼は「ととちゃぶ」と「水めし」を話した。
前者は食事時になると大口を開けて水道水をガブ飲みし、終わるやベルトでお腹をぎゅっと締め上げ空腹に耐える方法で、後者は古くなった飯を水で洗ってすえた匂いを消して食べるというものだった。
「水めし」は聞いて事があるやに思うが「ととちゃぶ」は初耳だった。
いずれも人づての話題らしかったのだが、都会の愛隣地区などに伝わっていたものかもしれない。

かってのブログに「残飯屋」のことを上げている。明治時代のある時期では布団まで借りて暮らす人々がいたという。今日そのような時代とは訣別しているはずであるが、「こども食堂」や「能登の困難」はいま同時進行の事実であり、明治の暗い影に匹敵しよう。飽食とともにあるこれら現実に対して、新たな政権には是非手応えある取り組みをお願いしたい。

トリクルダウンなどは無効なのでなんとしても直接当事者に光を当ててもらいたい。

他人(ひと)の不幸は自分の不幸、不幸で国を愛せるだろうか。


ドボルザーク作曲
「わが母の教えたまいし歌」

6日振りのブログ更新 高宮展、食べ物、ゴルフ、冬鳥など。

2024年10月1日(火曜日)

読者の皆さまお久しぶりです。
去る9月24日、ヤンさんの訪問の記事以来6日間、ブログを休んでしまい申し分けありませんでした。先週末28日土曜日朝から急にインターネットに繋がらなくなり、本日信越情報さんに来て頂きかなり短時間に復旧させて頂きました。

過日新潟市のNTT関連の接続業者がルーターの更新期限が来たということで機器を入れ換えたばかり。その方面の誤動作らしいということでした。
爽やかなネット環境が蘇り、数日間ちぐはぐしていた生活がルーチンに戻れましたので嬉しい限りです。

さてお休みした6日間ですが、朝晩すっかり涼しくなり寝具に迷うようになりました。まだ青かった美術館の柿の実は色づきはじめ、2個もぎました。
甘柿のため渋みは全く無くまだ甘みは薄いのですが、パリパリとした食感で来館中のお客様と一緒に美味しく食べました。今年は30個も実を付けましたのでこの先とても楽しみです。

 

9月29日日曜日には妙高カントリーで同業のゴルフコンペがあり、46.49でまわり19人中3位になりました。80才を越えるとゴールドティーといって一番前から打てますのでドラコン賞もひとつもらいました。勿論波はありますが皆さまとゴルフが出来るのも幸運なことだと思っています。

お陰様で現在開催中の「透明水彩 高宮あけみ展」は好評で、会場とカフェは常より多く来場して頂き喜んでいます。多様な生活場面や風景が描かれた水彩画が如何に親しいものであるか、あらためて知らされています。横浜方面からすでに何組も高宮さんのお弟子さんたちに来場頂き、とても感謝しています。来館によって美術館の佇まいも気に入って頂き、また来たいと仰るなど有り難い事と喜んでいます。

話変わって、数少ない中高時代の友人U君がご夫婦でこられ、信州の知り合いから届いたというマツタケを頂戴しました。中くらいで形の良いマツタケは土瓶蒸しとマツタケご飯になりました。

妻は何でも作る。

 

良く香ったご飯。
お米は妻の友人からの「月あかり」。

本日鳥好きの患者さんが、当地にヒシクイの第1団が飛来したらしいと話されました。かっての写真をみると10月上旬に雁行を撮っていましたので、既に冬鳥の季節が始まっているようです。
今年のマガン、ヒシクイ、コハクチョウ、タゲリ、タカ、なによりハクガンの飛来はどんなでしょう。良いシーンに巡り会えればと期待しています。

引き続きどうかブログも宜しくお願い申し上げます。

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