2024年9月6日

煙突女学校で労働組合の委員長に推された騒動 市長の学歴差別。

2024年9月6日(金曜日)

世の中には様々な学校がある。しかし「煙突女学校」という名は珍しい。かって在宅訪問先で60代半ばの女性Aさんが仰ったその名の実はいわゆる学校ではなく、富山県のある紡績工場のことで、社員がそう呼び一部に伝わったものだった。
名の由来はまず工場に印象的な高い煙突があったこと、入寮すると仕事のノウハウのほか一般教養から作法(茶道、華道など)の講座や楽しい催事、旅行などがあり、学校の雰囲気があったことが一番。そのため家庭の事情などで高校進学が出来なかった彼女達は、会社(寮)のことを「煙突女学校と呼ぶようになったらしい。

このことについて2011年のブログに二度書いた。
煙突女学校
煙突女学校アルバムから

Aさんから話を聴いたのは2011年だった。100才近いお母さんを在宅で診ておられ、訪問時の何気ない会話から、専門語も口にされたのに感心し、ちなみに、と言ってお仕事や出身校を尋ねたのが始まりだった。
その時Aさんは、自分は主婦で、卒業は「煙突女学校」です」と笑いながら応じられた。その後お母さんのことで時々彼女とお会いすることがあり、さらにお聴きしたり、アルバムをお借りして書いたのが上掲2つのブログになった。

お母様は亡くなられているが、本日たまたまお見えになったYさんに「煙突女学校」から随分経ちましたね、と私から切り出した。するとああ恥ずかしい、と仰り、促されると次のような話を追加された。

15才で入社し17になった時、労働組合の委員長になってという話が持ち上がり、ほぼ決まりかけた。たった17才の中学校出、政治も経済も何も勉強してない自分には出来ない、そもそも皆を代表するような人間ではない。絶対にイヤだと断り、ついに富山県から家に帰ってきてしまった。

すると会社と組合の人が訪ねて来た。もう帰らないと言うと、分かりました、委員長はいいから、あと10年は会社にいてもらいたい、と言って帰った。親と相談して戻ることになったが、自分の代わりに委員長になった人には済まない気持でいっぱいだった。

再び務め始めたが7年後、結婚を機に会社を止めた。その10年間、色々なことがあったが、沢山勉強させてもらい、自分は「煙突女学校」の卒業生として今でも会社には感謝していると明るく仰った。
ちなみに「煙突女学校」をググると国立国会図書館サーチというサイトに「哀歓・想い出の煙突女学校/[東洋紡績神崎会編]という一冊が一件だけ載っていた。彼女の会社はそこだったのだろうか。

当節上越市長は学歴について差別的な発言をして問題になっている。
人は学歴では無い。学歴はあっても無くても1個人として存在価値があるうえ、だれしも社会に出てからさらに成長する。

かって外洋帆走ヨットのクルーに入れてもらった。仲間はとび職、自衛隊員、販売員、エンジン工などでいずれも高校出だった。みな賢く、体力があり、世相に敏感で勇敢、何かと私は恥ずかしかった。
また10数年前、最後の小学校の同窓会があったとき、昭和30年代に集団就職した中学校出の級友の話が一番面白かった。

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